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   森ノ宮医療学園附属診療所 院長 田中邦雄
老化の予防について

 フランスの作家、アンドレ・モーロア(1885〜1967)は著書「人生をよりよく生きる技術」(中山眞彦訳、講談社学術文庫)の中で、「年をとる技術に」について、

 「長い間われわれは年なんかとらない気でいる。心はいぜんとして軽やかだし、力も昔のままだと思っている。それをなんとか試してみたりする。
 青年から老年への移行は、とてもゆるやかなものである。変わってゆく当人がほとんど変化に気づかない。秋が夏につづき、そして冬が秋につづくのも、やはりごくゆっくりと移り変わるので、一つ一つの変わり目は、日常目にとまらない。

人間にとってこの秋の季節はいつから始まるのか。老いとは髪が白くなったり、しわがふえたりする以上に、もうおそすぎる、勝負は終わってしまった、舞台はすっかり次の時代に移ったという気持ちになることである。老化にともなう一番悪いことは肉体が衰えることではなく、精神が無関心になることだ。細長い陰の線のあとに消えてゆくもの、それは行動の能力ではなく行動の意思である。」 

モーロアの言う”年をとる技術”というのは、何らかの希望、意欲を持ち続ける技術のことです。
無気力、無感動、無意欲にならないようにする技術を身につけることのようです。
また彼は、
 
 「老年とは、煩悩を絶った心静かな年代、したがって幸福な年代にもなり得る。彼らは愛欲の嵐のみならず、未来への責任からも解放される。若者たちをうらやむどころか、若者たちがこれからの人生の荒波を乗り越えてこなければならぬことをむしろ気の毒がっているくらいだ。あるいくつかの快楽は失ったが、しかしそれを悔やむどころか、残された楽しみを存分に味わっている。」 

とも言っています。

  ここでの晩年のイメージは、嵐の後の静けさとでもいうような安らぎに満ちたものです。
モーロアのいう上手に年をとる方法とは、老いを否定的に見るのではなく、「煩悩を絶った、心静かな年代」である老年をそのまま受け止めることとなります。

 もっとも、「煩悩を絶った、心静かな年代」である老年をそのまま受け止めるようなおとなしい老年ではなく、最後まで華々しく活躍したスーパー老人もいます。 フランスの政治家、クレマンソーは、内相をはじめ、80才を超えてから首相とつとめ、ベエルサイユ平和会議では議長をつとめた熱心な共和主義者で88才まで生きました。

イギリスの政治家、グラッグストーンは、自由党の党首として典型的な政党政治を展開し、83才で第四次内閣を組織しました。
 
日本でも江戸時代に日本全土を測量した伊能忠敬は、50才で隠居して、51才より地理、天文の学問のおもしろさにのめりこみ、その後1800年から1816年にかけて大がかりな全国の測量の旅をつづけ、56才から72才までの16年間にわたって3万5千キロメートルを歩き、その歩数は4千万歩に達したとされれています。

 人間というものは、あれをやろうこれをやろうと思いつくことはあっても、いざそれを実行に移すのは至難のわざです。

はたして自分にできるだろうかなどと弱きになり、ためらってしまう場合が多いと思います。
そんなときに引き金になって奮発をうながしてくれるのは、先人の示してくれたお手本です。

伊能忠敬で注目すべきは、学問の道を志しつつも諸般の事情で引き延ばされていた数年間、ただ手をこまねいて待っていたわけではなく、着々としかるべき準備を整えていたことです。
平凡な頭脳の人でも、執念ともいえるくらいの熱意と根気とをもってすれば、年齢を超越した大事業をもなしとげられることです。

 貝原益軒は「養生訓」で有名ですが、本来は儒学者で、医学、本草学、名物学、地理学、天文学と、思想家にして医者にして博物学者という何でもこいのマルチ学者です。
1630年に生まれ1714年に85歳で死亡しました。彼が有名な「養生訓」を書いたのは死ぬ一年前の84才のときでした。

貝原益軒もよく歩きました。生涯の内、福岡から江戸へ12度、京都へ24度、長崎に5度、さらに筑前国内の800の村を訪ねて歩いています。

 医学的には、歩くことで体内の血行が促進され、脳に大量の酸素が供給され、脳の活性化が起こり、集中力、思考力、記憶力などが高まり、脳内に生じたある種の物質が高揚感や陶酔感を生じ、これが伊能忠敬、貝原益軒に老年になってもなお事業を続けさせえたと考えられられます。    

      文責 大阪鍼灸学校附属診療所院長 田中邦雄






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