御手洗池(鏡池)
「神霊を宿す池」とされ、羽黒山のご神体となっている。鏡が奉納されてきたことに由来して「鏡池」とも呼ばれる

羽黒山・三神合祭殿(本殿)
通年参詣が可能な羽黒山に三神を合祀。延長5年(927)平将門の創建と伝えられ、現在の社殿は文政元年(1818)に再建された本社(寂光寺金堂)を昭和44年に大修復したもの

爺杉
五重塔を囲む老杉の中でも目立つ、注連縄を張った樹高42mの巨木。近くに婆杉もあったが、台風で失われたという

一の坂風景
五重塔付近からはじまる石段の登り坂。三の坂まであり、参道の総延長は約1.7Km。参道両側の杉並木は、300年以上を経た巨木で、国の特別天然記念物に指定

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石~槻木

羽黒山頂上・神合祭殿など

羽黒山頂に着いたのは14:30頃だった。随神門から五重塔の見学時間を含めて1時間近くかかっている。頂上の本殿などは雨霧の中に霞んで見え、昨年見たときとはだいぶ感じが違う。バスやマイカーですぐ近くまで来ることができるので、こんな天候でもさすがに人が多くなる。
羽黒山は、標高414mの丘みたいな山である。月山、湯殿山が雪に閉ざされて登れないときにもここまでは登れるので、ここには羽黒、月山、湯殿の神を一堂に祀る三神合祭殿がある。平安時代初期の大同2年(807)に創建されて以来、たびたび焼失などによる再建が行われ、現在の社殿は文政元年(1818)に築かれている。本殿の前の御手洗池(鏡池)は、羽黒山のご神体となっている。本殿の前にある大鐘は鎌倉幕府が奉納した由緒あるもの。本殿の少し離れた隣には、蜂子神社がある。これは、出羽三山の開祖・蜂子皇子を祀る神社である。

最後に羽黒山・斎館の前を通った。建物は少し奥のほうにあるのでよく見えなかったが、元は華厳院という寺院で、現在は羽黒山の斎館になっている。斎館とは参籠所のことで、修験者や参詣者が潔斎できるように食事の世話をし、予約していれば誰でも宿泊できるという。
私は、「奥の細道」の旅がすべて終わった後、少し時間をおいて印象に残ったところを再訪問することを考えている。もちろん交通機関をフルに活用した旅だが、その候補地の一つにこの地をあげておきたい。もちろん泊まるのはこの斎館にしたい。
山を見学しているうちに体が冷えてきた。帰りは元来た道を戻る。石段の道を走るがごとく下った。本日の宿舎・宮田坊に戻ったのは16時頃だった。汗と雨にびっしょりぬれていたので、すぐに風呂に入り、ようやく人心地がついた。この宿は昨年夏の月山ツアーのときに泊まった。あの時は、庭に何台か観光バスがとまり、羽黒山参詣の団体の人々で大広間は熱気に包まれていたものだ。本日の宿泊客は、私一人のようで、昨年皆で布団を並べた大部屋の近くの小部屋に案内された。これだけ大きな宿坊でも、フルに使われるのは夏のほんの一時期なのだろう。 

五重塔、杉並木の参道を経て羽黒山へ

宿坊街を抜けると、出羽三山神社の大きな石の鳥居が建っている。その少し先に、随神門という大きな山門がある。ここから羽黒山頂の出羽三山神社まで、約1.7Kmの参道が続いている。門を入ると、いきなり下りの長い石段がある。継子(ままこ)坂といい、一気に谷底まで降りてしまう。下りきったところに赤い神橋があり、右手に須賀の滝がある。橋下を流れるのは祓川で、行者はここで身を清めた後、霊域の山上と俗世の山麓を分ける神橋を渡った。

須賀の滝と祓川
行者は祓川で身を清めた後、神橋を渡って霊域に入っていった

神橋
随神門から坂を下りきったところにある橋。霊域と俗界を分ける橋である

随神門
元禄年間に仁王門として建立されたが、明治の神仏分離令で、随神像を祀り、髄神門と名づけられた

五重塔のある辺りから登りの石段が続く。一の坂、二の坂、三の坂まであり、参道総延長1.7Km、石段の数は全部で2400段にもなるという。参道両側の杉の並木は、樹齢300年以上の巨木が並び、国の特別天然記念物となっている。中でも爺杉と呼ばれる古木は、樹高42mという巨木だ。このほか直径1mを越えるものは184本に及び、総数は445本という。これらの杉並木の植林や参道の整備は、江戸時代初期の羽黒山別当・天宥(てんゆう)が行ったもので、芭蕉が通った頃の参道の杉はまだ若く、山の周囲の風景が見通せる明るい景色だったのだろう。

黄金堂

鶴岡へ

清川

狩川

(羽黒立川線)

手向

羽黒山南谷

出羽三山神社
羽黒山五重塔

県道46号線

国道47号線

陸羽西線

最上川

狩川駅

芭蕉上陸の地碑

清河八郎記念館

清川駅

6月3日(陽暦7月19日)朝、新庄を発った芭蕉が、清川で舟を降り、狩川から羽黒山に向かったのは昼過ぎであった。狩川から羽黒の宿坊街である手向(とうげ)までは、なだらかな登り道。民衆の出羽三山詣では室町時代にはじまり、江戸時代には多いときで年間10万人を超えたという。芭蕉が歩いた羽黒への道は、熱心な参詣者でにぎわっていたことだろう。

蜂子神社
出羽三山の開祖である崇峻天皇の皇子、蜂子皇子を祀る神社。境内には皇子の墓所も残されている

大鐘
建治元年(1275)の蒙古襲来の際、羽黒山の竜神の働きにより「神風」が吹き蒙古軍が壊滅したという。その霊力を讃え鎌倉幕府がその翌年に奉納したもの。東大寺、高野山のものに次ぎ日本で三番目に古いといわれる梵鐘
国重要文化財..

神橋の少し先から、一の坂といわれる長い石段の道がはじまる。その左手の木立の向こうに大きな五重塔が建っている。鬱蒼とした杉木立の中に聳えたつ五重塔は、近づくと圧倒されるほど大きい。素木(しらき)造りの素朴だが優美な、杮葺(こけらぶき)、三間五層の塔は、国宝に指定されている。承平年間(935-938)に平将門が創建したといわれ、東北地方では最古の五重塔として知られている。現在の建物は文中元年(1372)に大修復されたものである。それにしても風雪に耐えて、よくここまで保存されてきたものだ。歴史の重みを感じる。

清河八郎記念館

清川小学校に隣接して、清河八郎記念館がある。雨宿りもかねて館内を見学した。清河八郎は、ここ清川村出身の幕末の志士である。館内はほかにお客もなく、館長が熱心にいろいろと説明してくれた。日記、書簡、書などの遺品のほか明治維新資料等百数十点が保管展示されている。

清川・芭蕉上陸の地

9月7日朝9時頃、私は草薙温泉の旅館を出発した。今日は朝から本格的な雨が降っている。旅館から清川駅までは、車で送ってくれるというので、少し遅い出発となった。国道を10分くらい走り、清川の「芭蕉上陸の地」碑の辺りで降ろしてもらった。
清川河岸は庄内藩の船運の中心地であり、庄内平野の要の地点でもあったので、船番所を設けて警備していた。船番所は現在の清川小学校の敷地内にあり、芭蕉はこの付近に上陸して船番所を通過した。





「芭蕉上陸の地」碑と芭蕉像
清川小学校の敷地の一角に建っている。かつて、この場所に庄内藩の船番所があった

狩川から羽黒手向(とうげ)へ

記念館の見学を終わって外に出ると、雨は少し小降りになっていた。国道47号線に出て、国道をしばらく歩く。やがて、道は国道から分かれ左にゆるく曲がってゆく。これをしばらく行くと、狩川駅がある。その少し先で左に曲がってゆくのが県道46号線で、あとはこの道をまっすぐに進めば手向(とうげ)に出ることができる。
狩川駅を過ぎた頃には雨も上がり、遠くに羽黒、月山方面の山並みも見えてきた。狩川から添津、山崎、添川などの集落を通って登る道は、羽黒山登拝の重要な道であった。今は舗装された直線道路となり、昔の面影は失われたが、途中の添川付近に昔の道が「歴史の道」として180mほど残されている。その古道の入口に説明板が立っている。雨にぬれた夏草が生い茂り、歩きにくそうだったので、私は探索を省略して先に進んだ。

手向(とうげ)・羽黒山参詣者の宿坊街

一本道でだらだらと登ってきた道は、やがてT字路にぶつかる。これを右に曲がると鶴岡、左に曲がると手向の宿坊街を経て羽黒山に通じる。宿坊街は静かな雰囲気である。通りに沿って大小さまざまな宿坊が建ち並んでいる。現在の宿坊は33軒、江戸時代には300軒をこえていたという。宿坊街に入って少し行ったところに黄金堂(こがねどう)がある。源頼朝が建久4年(1193)に建立したもので、各地に逃げた藤原氏残党や平家の落武者が羽黒山に逃げ込むのを防ぎ、鎌倉幕府の威信をしめすために築いたと伝えられる。
私は、黄金堂の少し先の宮田坊に今日の宿を取ってある。昨年月山登山のときに宿泊した宿である。到着したのは13:30頃だった。とりあえず、ザックをおかせてもらい、すぐに羽黒山に向けて出発する。山頂までの往復には、2時間半はかかるだろうという。今にも降り出しそうな雲行きなので、少々ハイペースで歩く。

永鷺寺

光星寺

湯の沢温泉

歴史の道説明板

添川

羽黒山正善院黄金堂
宿坊街の途中にある。三十三体のご本尊が黄金色に映えることから名づけられたという。国指定重要文化財

手向(とうげ)宿坊街の様子
江戸時代には、この付近一帯には大小さまざま300軒近くの宿坊が立ち並んでいたという。現在は33軒ほど

一の坂を登りはじめると、また雨が降ってきた。石段は1段の高さはそれほど高くないので歩きやすいが、距離が長いので結構大変である。一の坂が終わり、二の坂が終わったところに茶屋がある。道の脇をちょっと入ったところにあり、休んでいる人も多かったようだ。たしかにこの辺りまで来ると、一休みしたい気持ちになる。私は汗と雨でびっしょりで、休むと冷えてしまいそうだったのでそのまま通り過ぎた。三の坂に入る手前に、右に分かれる細い道がある。こちらを500mほど行くと南谷がある。ここにはかつて別院があり、芭蕉はここで六夜を過ごした。当時の別当代会覚は芭蕉を歓待し、二度も本坊に芭蕉を呼んでご馳走したほか、自ら名酒を持参して別院を訪れている。芭蕉は、この間の様子を次のように記している。

『 六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿舎利(えがくあじゃり)に謁(えつ)す。南谷の別院に舎(やどり)して、憐憫(れんびん)の情こまやかにあるじせらる。

           有難や雪をかおらす南谷 』

南谷別院跡は今は建物も失われ、視界は鬱蒼とした杉の巨木にはばまれているが、芭蕉の頃はまだ木々の向こうに月山が望めたはずという。

先を急ぎ、私は南谷別院跡に立ち寄らなかったが、やはり寄ってみればよかったと今は後悔している。そのまま三の坂に進むと、やがて前方に赤い大きな鳥居がぼんやりと見えてきた。この鳥居は前回来たときに見覚えがある。下から石段を登ってくると、最終のゴールのように見える。ここが羽黒山本殿のある頂上だ。

手向・宮田坊
手向に33軒あるという宿坊の一つ。宿坊の中にはここのように大きな鳥居を立てているところも多い。それだけ歴史が古いのだろう。昨年の夏の月山ツアーのときにも泊まったが、あのときの賑わいがうそのようにひっそりとしていた

羽黒山・斎館
三の坂を登りきった付近にある羽黒山直営の参籠所である。かつては高僧の住居であったが、戦後、宿泊所、食事処としての営業を開始した。出羽三山の山麓で取れる旬の山菜やきのこを素材にした精進料理が楽しめる

三の坂を登りきったところに建つ大鳥居
石段コースのゴールのように大鳥居が建っている。ようやく羽黒山頂上だ

二の坂の様子
一の坂、二の坂と続けて歩いてくると、さすがに汗びっしょりになる。二の坂を登りきったところに茶屋があり、そこで一休みする人も多い

清河八郎座像
1830年清川村に生まれる。18歳で江戸に出て、学問と剣術を学び、25歳で神田三河町に清川塾を開いた。その後、全国に雄飛し尊皇攘夷倒幕の同士と結び、明治維新の風雲を起こした。34歳で幕府刺客のために暗殺される

清河八郎記念館
鬱蒼とした林の中に建つこぢじんまりした記念館。日記、書簡などの遺品のほか明治維新資料などが展示されている
周囲の林は史跡・御殿林といい、戊辰戦争の戦場となった

「歴史の道」入口付近(添川)
この付近から180mくらい昔の道が残されている。
入口に説明板が立っている

県道46号線風景
かつて羽黒山参詣の人々が通った道も、直線舗装道になり昔の面影はない

狩川駅付近の様子
狩川駅周辺の街道沿いは古い町の面影も感じられる

国宝羽黒山五重塔
杉木立の中に、高さを競うように大きな五重塔が建っている。大修復されてからでも630年以上経つという。東北地方最古の五重塔として知られている