奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

神社から山小屋方面を望む
月山頂上は広く、高原状になっている。神社から少し下ったところにレストハウスや山小屋が建っている

月山神社本宮
一段高くなった場所に石垣に囲まれて「御室(おむろ)」と呼ばれていた月山神社本宮がある
現在は近くに関連の建物がいろいろ建っている

私は既に記したように、昨年8月に月山に登っている(月山ツアー)。そのときの状況を思い出しながら、もういちど芭蕉の月山、湯殿山登山の跡をたどってみたい。

6月3日に羽黒山の南谷別院に着いた芭蕉は、そこで3日間過ごした後、6月6日にいよいよ月山登山にかかる。「おくのほそ道」本文で、芭蕉は登山の様子を次のように記している。
『八日(
曾良の旅日記によると実際には六日)、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠に頭(かしら)を包み、強力(ごうりき)と云うものに道びかれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に、氷雪を踏みてのぼること八里、更に日月行道(にちがつぎょうどう)の雲関(うんかん)に入るかとあやしまれ、息絶え身こごえて頂上に至れば、日没して月顕(あらわ)る。笹を敷き、篠(しの)を枕として、臥(ふし)て明(あく)るを待つ。日出でて雲消(きゆ)れば、湯殿に下る。』

羽黒橋から先は、しだいに鶴岡の市街地になる。鶴岡駅までは要所に道路標識が立っているので道に迷う心配はない。市内見物は次回のこととして、まっすぐ駅に向かう。今日は、青春18切符の最後の1回分を利用する。駅に着いたのは10:50頃である。駅の時刻表を見ると10:57発の特急がある。その次は4時間後の特急になってしまうので、あわてて乗車券・特急券を買った。急いで歩いてきてよかった。
鶴岡駅から新宿駅までの、青春18切符を利用した列車の旅は次のとおりである。
  @鶴岡〜新潟(特急)
  A新潟〜長岡(各駅停車)
  B長岡〜越後湯沢(各駅停車)
  C越後湯沢〜高崎(新幹線)
  D高崎〜新宿(通勤快速)
鶴岡発10:57、新宿着19:06。約8時間の列車旅だった。

なお次回は、「青春18切符」全5回分の利用実績と、そのご利益についてまとめてみたいと思っている。


  


月山頂上からの眺め
月山からは湯殿山方面に緩やかな稜線がのびている。残雪もところどころに見える

月山頂上への道
ごつごつした岩の道となり、すぐ近くまで雪が残っている。前方に月山神社が見える

弥陀ヶ原風景
八合目から先はゆるい高原状の斜面となる。小さい池塘が点在し、高山植物の群落も見られる

八合目(駐車場)からの眺め
標高1440mの八合目からは、北に鳥海山を望み、南には朝日連峰が望める

羽黒山南谷から月山八合目・弥陀ヶ原まで

芭蕉が月山登拝した6月6日は晴天だった。芭蕉は白装束にあらため、白木綿の布で頭を巻き、、紙縒(こより)で作った木綿注連(ゆうしめ)を首にかけ、手に金剛杖という道者の身支度だった。南谷を朝暗いうちに出発し、羽黒山の奥の院である荒沢(こうたく)寺を経て登山道に出た。現在、ここからの登山道は、月山高原ライン(県道211号線)として整備され、車で八合目まで登ることができる。昔は、夏の間は一合目ごとに掛茶屋が設けられていたという。現在の道からもその跡が見えるので、道筋としては、昔の道がそのまま残っているのだろう。
六合目から先は急な登り坂になる。ここまでは芭蕉は馬に乗ってきたようだが、ここから先は徒歩となる。現在の県道もここから先はジグザグ道になり、旧道からは離れる。七合目は合清水といわれ、ここの標高は1060m、ここからの登りはさらに厳しくなり、八合目の標高は1440mと一気に400m近くを登ってしまう。芭蕉にとってはきつい登りだっただろう。八合目からの眺めはすばらしい。北に鳥海山を望み、南には朝日連峰が連なっている。眼下には羽黒山方面が小さく見える。我々はここまでバスで楽に登ってしまったが、つらい登りのあとの芭蕉たちにとって、この風景は格別のものだっただろう。
八合目から先は、弥陀ヶ原と呼ばれる高原状のゆるい斜面となる。小さい池塘が点在し、高山植物の群落も見られる。芭蕉たちは、ここにあった小屋で昼食をとっている。

湯殿山神社の登拝を終えた芭蕉は月山に向かい、昼ごろには頂上に着いた。月山頂上で昼食をとり、すぐに下山した。四合目の強清水(こわしみず)まで来たところで、南谷から役僧が「坂迎え」をしてくれた。ここから南谷まで約11Km、日が暮れてから南谷に帰り着いた。曾良は、この日の日記の最後に、「甚(はなはだ)労(つか)ル」と書いている。
翌日は南谷で休養した。阿舎利がおいでになり、求めに応じて三山巡礼の句を短冊にしたためた。

         『 涼しさやほの三か月の羽黒山
           雲の峰幾つ崩(くずれ)て月の山
           語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな 』

三山を詠みこんだ味わいのある句である。

九合目・仏生池小屋を経て月山山頂へ

弥陀ヶ原のゆるい斜面を高山植物に目をやりながら進んでゆくと、しだいに岩の道となり北側の斜面には残雪が見られるようになる。もう少し時期が早ければ、残雪を踏みながらの歩行になるはずだ。芭蕉のいう、『氷雪をふみしめてのぼること八里・・・』は誇張ではないことが分かる。やがて小屋が見えてくる。ここは九合目の仏生池小屋である。小屋の前には仏生池という小さな池があり、池の周りにはさまざまな高山植物が咲いている。池の先に見える山が月山頂上のように見えるので「オモワシ山」と呼ばれている。本当の月山頂上はこの山に隠れてここからは見えない。
月山頂上

オモワシ山の中腹を巻いてゆくと、前方に月山の丸くて広い頂上が見えてくる。ごつごつした岩の道で、すぐ近くに残雪もある。芭蕉たちが頂上に達したのは日没寸前のようだ。『息絶え身こごえて頂上に至れば、日没して月顕(あらわ)る。』という状況だった。南谷から月山山頂まで約24Kmの道のりである。
私たちが頂上に到達したのは昼前で、空は青く明るい山頂風景だった。山頂は広く、どこが頂上か分からないほどだ。三角点の立っている場所を探し、そこから周囲の風景の写真を撮った。周りの山々はみな穏やかな山容で、ところどころに残雪が見られる。

三角点のある場所からは少し離れた高い場所に月山神社が建っている。本宮は石垣に囲まれ、御室(おむろ)と呼ばれていた。芭蕉はこの神社に参詣したあと、頂上より少し下った角兵衛小屋に1泊した。現在は立派な山小屋とレストハウスが建っている。我々はこのレストハウスで、おにぎりの昼食をとった。頂上の標高は1979.5m、夏の昼とはいえ少し風が出ると寒いほどである。

月山頂上から湯殿山方面に下る

角兵衛小屋で、『笹を敷き、篠(しの)を枕として、臥(ふし)て明(あく)るを待つ。』という一夜を過ごした芭蕉たちは、『日出でて雲消(きゆ)れば、湯殿に下る。』とあるように、日の出とともに出発した。この日はこれから湯殿山に向かい、湯殿山参拝をすませてから同じ道を引き返し、南谷に戻る予定である。ゆっくりとはしていられないのだ。
我々は11:30に月山頂上を出発した。頂上から少し下ると、鍛冶小屋跡がある。むかし刀鍛冶がここにこもり、刀を打ったところと伝えられているが、今は何も残っていない。さらに進むと急なガレ場になり、下りきると牛首という場所に着く。頂上からここまでは登山者が大変多い。先達さんの話では、シーズン最盛期には登山者の列がここから頂上までつながってしまうこともあるそうだ。牛首でしばらく休憩した後、我々は湯殿山への道と別れ、山道を下って月山リフト方面に向かった。
芭蕉たちは牛首から湯殿山を目指した。山の中腹につけられた緩やかな道を下ってゆくと、途中には大きな雪渓も残っている。やがて、装束場(しょうぞくば)といわれる場所に出る。ここで草鞋を履き替え、衣服を改め、清浄な湯殿山の神域に入る準備をする。ここからは急な下り坂になり、途中には鉄ハシゴも設けられている。
湯殿山神社は、もともと鉄分を含む温泉が湧き出ている大きな岩をご神体とし、鳥居も本殿もない。芭蕉は、『惣(そうじ)て、この山中の微細(みさい)、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめて記さず。』としている。
湯殿山には、反対側からも簡単に登ることができる。今回、私は湯殿山までは行かなかったが、いずれ別の機会に登拝してみたいと思っている。

牛首から湯殿山方面を臨望む
我々は牛首から山を下りたが、芭蕉たちは牛首から湯殿山を目指した。山の北斜面を通るので大きな雪渓も越える

月山頂上から湯殿山方面への下り道
この道は羽黒山方面からの道よりも登山者が多い。坂を下りきったところは牛首といわれる

爽やかな朝の道をタンタンと進むと、2時間ほどで赤川にかかる羽黒橋に着いた。ここでしばらく休憩する。振り返ると月山が、頂上の一部は雲に隠れていたが、ほぼ全体の姿を見せていた。森敦の小説「月山」には、この方角から見た月山の様子を次のように表現している。

『右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連亙させて、臥した牛の背のように悠揚として空に曳く長い稜線から、雪崩れるごとくその山腹を強く平野へと落としている。・・月山はこのような眺めからまたの名を臥牛山(がぎゅざん)と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の隠所と見られるあたりを湯殿山といい、これを出羽三山と称するのです。』

赤川は月山の山中に源を発し、最上川に合流する川である。上流部は名川、梵字川などと名前を変え、湯殿の渓谷へと連なってゆく。「月山」の作者はこの渓谷に近い七五三掛(しめかけ)という部落の注連寺に滞在した経験からこの作品を書いた。今回読み直してみたが、なんとも不思議な雰囲気の小説である。「奥の細道」と直接関係はないが、湯殿山再訪問のときに、この小説の舞台となった辺りもできれば巡って見たいと思う。

県道を跨ぐ大きな鳥居
羽黒山の一の鳥居である。県道の両側は庄内平野の米どころが広がる

羽黒・手向から鶴岡まで

私は、月山には昨年登っているので、今回の旅では羽黒手向に1泊した後、すぐに鶴岡に向かった。今日は鶴岡から帰京する予定である。手向から鶴岡駅までは約13Kmと比較的短いので、宿坊を8時頃出発した。今日は朝からよい天気である。昨日通った同じ道を戻り、T字路をまっすぐに進む。この県道47号線(鶴岡羽黒線)は、鶴岡まで一直線の道で、昔の羽黒街道とほぼ重なっているという。やがて、前方に大きな赤い鳥居が見えてきた。羽黒山の大鳥居である。県道を跨いで建てられている。道の両側は庄内平野の米どころである。黄色い稲穂がどこまでも続いている。

羽黒橋より赤川上流方面を望む
赤川は月山山中に源を発し、最上川に注ぐ大きな川である

赤川の岸辺から月山を望む
月山の頂上付近は雲がかかっているが、臥牛山といわれる山のほぼ全体の様子が分かる

仏生池とオモワシ山
九合目にある小さな池。池の向こうに見えるのは「オモワシ山」。池の手前には仏生池小屋がある

残雪の残る北側斜面
弥陀ヶ原を登ってゆくと、しだいに残雪が見られるようになる
九合目付近にて