奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

長かった冬も終わり、2006年3月15日、おくのほそ道の歩き旅を再開した。今回は塩釜から船に乗って松島に渡り、松島に1泊した後、石巻、登米、一関とそれぞれ1泊し、5日間で平泉まで到達する予定である。
第1日目の今日は、まず前回省略した仙台市内の散策を行う。バス、電車なども利用して駆け足で芭蕉の散策の跡を巡った後、電車で塩釜に行く。塩釜からは船で松島湾の景色を楽しみながら松島に渡る。


芭蕉の辻から仙台城址を経て亀岡八幡宮へ

新幹線で仙台駅に着いた後、すぐに芭蕉の辻に向かう。今回もこの辻を基点として、そこからそのまままっすぐに進んでゆく。道はやがて青葉通りと合流し、仙台城址に向かう。少しゆくと広瀬川にかかる「大橋」という立派な橋を渡る。その少し先に「仙台城址」の石標があり城郭が建っている。ここからは城址をそれて亀岡八幡宮に向かう。

仙台城址
大橋の少し先に仙台城址の標石が立っていた

大橋から見た広瀬川
仙台城(青葉城)のすぐ下を流れる叙情的な広瀬川

亀岡八幡宮から大崎八幡宮へ

仙台城址近辺には青葉城公園、東北大学などがあって緑の多い静かな環境である。この辺は広い通りだが車はあまり通らない。東北大学の先のやや細い坂道を上ってゆくと亀岡八幡宮の鳥居前に出た。それほど大きな八幡宮ではないが伊達家の氏神だった。鳥居の少し先から急で長い石段が続いている。社殿は昭和20年の仙台空襲により焼失してしまったがその後再建された。
芭蕉はここからもと来た道を戻っているが、私はさらに大崎八幡宮まで歩くことにする。そこまで行けば仙台駅へのバスの便があるはずだ。

亀岡八幡宮社殿
八幡様は伊達家の氏神。昭和20年戦災で焼失してしまったが再建されている

亀岡八幡宮大鳥居
鳥居の先から長く急な石段が続いている。高台にあるので仙台市街地方面の眺めがよい

大崎八幡宮

亀岡八幡宮を出た後、もと来た道を少し戻り先ほどとは逆に広瀬川に沿った道を上流方向に進む。しばらくすると牛越橋という立派な橋があるのでこれを渡る。橋を渡って道なりに行けば広い国道48号線に出る。大崎神社はこの道沿いにある。亀岡八幡宮の比較的近くにあるのだが、芭蕉はなぜかここを訪れていない。

司馬遼太郎の「街道をゆく 仙台・石巻編」に仙台についての興味深い話がいろいろと記されている。その中に大崎神社の話がある。この神社は伊達政宗が建立し、江戸期を通じて伊達家の尊崇が厚かった。伊達政宗はもともと山形米沢の人で米沢を中心に領土を拡大してきたが、秀吉により山形、会津などを召し上げられ現在の宮城県に移封された。仙台は政宗にとってはなじみのない土地であり、土地の人々に対して権威を示す必要があった。仙台の地にはもともと奥州探題などを務めた名門大崎氏があり、この地方の地名ともなっていた。政宗は旧大崎領を自領としたとき、この大崎氏の氏神である大崎八幡宮を大切にすることによって旧権威を引き継いだ。自らも「大崎の少将」と呼ばれることを望んだという。
大崎八幡宮は交通量の多い国道に面しているが、大きな鳥居をくぐればうっそうとした樹木の立ち並ぶ参道が続いている。都会の真中としてはたいへん広大で、閑静である。本殿は安土桃山時代のわが国唯一の遺構として国宝に指定されている。

バス、電車を乗り継いで榴岡(つつじがおか)天満宮、陸奥国分寺跡へ

大崎八幡宮に参拝した後、バスで仙台駅に向かう。八幡宮のすぐ前にバス停があり、バスも結構頻繁に通っているようである。仙台駅には20分くらいで着く。仙台駅からは仙石線で次の榴岡(つつじがおか)駅まで行く。この駅は地下駅である。駅からの案内図は「奥の細道の旅ハンドブック」(久富哲雄著)(参考書参照)がわかりやすい。


榴岡天満宮

榴岡天満宮は榴ヶ岡駅から近い。周りは住宅地で、すぐ近くにはこの前訪れた榴岡公園がある。石段を上り鳥居をくぐれば、そこはもう天神様の世界である。社前には合格祈願などの絵馬がたくさん掛けられ、撫で牛がいた。説明板によると、社殿は寛政7年(1795)に焼失し、その頃再建されたとあるから、現在の社殿は芭蕉の参拝後、100年位してから建てかえられたものだ。
天満宮参拝後、陸奥国分寺跡に向かう。先ほどの参考書の案内図が役に立った。天満宮から陸奥国分寺跡までは徒歩約20分である。

榴岡天満宮社殿
社殿は寛政7年(1795)に焼失したが、その後すぐに再建された

榴岡天満宮
駅に近く周りにはマンションなどが建ち並び、閑静な住宅街の真中にある

陸奥国分寺跡(薬師堂、鐘楼)

芭蕉が仙台歌枕の地として最後に訪れたのは、木ノ下薬師堂である。薬師堂が建っているこの地は奈良時代に聖武天皇の勅願によって建てられた陸奥国分寺の跡で、付近一帯は古今集東歌にある
         みさぶらひ御笠(みかさ)と申せ宮城野の
          木の下露(したつゆ)は雨にまされり

に由来して木ノ下と呼ばれており、古くから歌枕になっていた。かつて、鬱蒼と茂った木立の中に七重の塔がそびえ、七堂伽藍が天平の甍をいただいていたのだろう。その壮大な規模は近年の考古学的な発掘研究によってはっきり確認された。
落雷や兵火によって焼失した伽藍の跡に、慶長9年(1604)伊達政宗が薬師堂を建てた。現在、ここにはこの薬師堂のほかに鐘楼、仁王門などが残っている。広い国分寺跡の一角では、発掘調査が今も続けられていた。
写真を撮ったあと、もと来た道を榴ヶ岡駅まで戻り、ここから電車で本塩釜駅に向かう。

同 鐘楼
薬師堂の近くに建っている鐘楼。薬師堂と同じ時期に建てられた

陸奥国分寺跡に建つ薬師堂
慶長9年(1604)伊達政宗が造営した
この地域一帯は現在でも木ノ下という地名になっている

塩釜、御釜神社

前回塩釜を訪れたときには御釜神社のことはすっかり忘れていた。芭蕉は塩竈の宿に1泊した次の日、塩竈神社とともにこの御釜神社も参拝している。
御釜神社は仙石線本釜石駅から5分くらいだが、少々わかりにくいところにある。これも前出の参考書の案内図によりたずね当てた。小さな神社で、塩竈神社の末社になる。ここには神釜が四口奉置されている。この釜は塩土老翁神(しおづちのおじのかみ)が塩を煮るのに用いたと伝えられている。
御釜神社では毎年7月4日から6日にかけ製塩の故事を伝える「藻塩焼神事」が行われ、出来上がった荒塩は7月10日の塩竈神社の例祭にお供えされるという。このときには、この古いお釜が用いられるのだろう。

以上で、駆け足の仙台散策は終了である。ここから松島行きの船が出る「塩釜マリンゲート」に向かう。

御釜神社社殿
この近くに古くから伝わる鋳物製の御釜四口が奉置されている小さな建物がある

御釜神社鳥居
御釜神社は塩竈神社の末社である。通りのすぐ脇に鳥居が建ち、境内もさほど広くはない

仙台市内散策は、神社仏閣の見物が続いた。塩釜からの船旅と松島見物の様子は、項を改めて次回としよう。


  


国宝の大崎八幡宮社殿
司馬遼太郎によれば、この建物は秀吉の桃山風を残しながら次の時代の権現造りに近いという。
昭和27年、国宝指定

大崎八幡宮大鳥居と参道
この大鳥居からは鬱蒼たる樹木が茂り、国道のすぐ近くとは思えないほど静かな空間である