奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

雄島(御島)は、もともと「瑞巌寺の奥の院」と称され、僧たちの修行の地で神聖な場所であった。点在する岩窟には修行僧らが刻んだ卒塔婆や仏像などが多く見られ、霊場としての面影が今も色濃く残っている。
渡月橋を渡ると、道は左右に分かれる。どちらを行っても島を一周する道なので同じである。左に進むと少し先に小さなトンネルがあり、これを過ぎると岩窟が現れる。中には卒塔婆、仏像、法名などが刻まれ、ひときわ霊気の漂う場所だ。島の中央部の高い場所に雲居禅師(うんごぜんじ)の座禅堂がある。この辺りからの松島湾の眺めは大変よい。島の南端には頼賢の碑(国の重要文化財)、また、途中には芭蕉、曾良をはじめとする多数の句碑、歌碑などが立てられている。、

2006年3月15日、仙台市内の散策を終わった私は塩釜の桟橋に向かった。芭蕉の時代には塩竈神社のすぐ近くに船着場があったらしいが、現在では広範囲に埋め立てられ、桟橋まではかなりの距離がある。


塩釜〜松島(海上遊覧)

仙石線本塩釜駅から徒歩約15分くらいでマリンゲート塩釜に着く。ここから「島めぐり芭蕉コース」という観光船が出ている。塩釜から松島まで約50分である。船は定刻14時に出港した。私は後ろのデッキに立って景色を眺めた。出港してしばらくの間、たくさんのかもめが船の後ろについてくる。

船内ではうるさくない程度に景色のガイドアナウンスが流れる。芭蕉の当時も今も、松島湾内には八百八島と称される約260の島々が、それぞれに変化に富んだ姿を見せてくれる。今日は天気もよく、海は穏やかだ。

芭蕉は塩竈神社近くの船着場から小さな舟に乗り、のんびりと湾内を巡った。「おくのほそ道」ではこのときの様子を次のように記している。
『そもそもことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭、西湖を恥じず。・・・・島々の数を尽くして、そばだつものは天を指さし、ふすものは波にはらばう。あるは二重にかさなり、三重にたたみて、左にわかれ右につらなる。負えるあり、抱けるあり、児孫愛すがごとし・・・・』

松島、五大堂

約50分間のクルーズの後、船は松島の観光桟橋に着いた。近くに五大堂があるので、まずこちらの見学からはじめる。五大堂は小さな島の上に建っている。「すかし橋」という下が透けて見える橋を渡るとお堂が建っている。この建物は1604年に改修されたもので、国の重要文化財に指定されている。

松島、雄島(おしま)

五大堂を拝観した後、雄島に向かう。海岸沿いに遊歩道が設けられており、湾内の様子を眺めながらのんびりと歩く。松島湾めぐりの遊覧船のアナウンス、船乗り場に向かう人たちなども多く、松島は今も昔も大観光地だ。雄島への案内表示にしたがってしばらく歩くと、観光客の姿はめっきり減ってくる。島は浜から海に突き出た形になっており、渡月橋という小さな橋で結ばれている。芭蕉たちの乗った舟はこの雄島近くの浜に着いた。

瑞巌寺

瑞巌寺は、交通量の多い国道45号線を渡った少し先にある。国道のすぐ脇に「国宝瑞巌寺」の大きな石柱が立ち、その少し先に総門が見える。総門をくぐれば鬱蒼とした杉並木の参道が続き、やがて拝観受付所が見えてくる。拝観料を払い中に入ると、正面奥に大きな本堂が建っている。

松島といえば瑞巌寺。芭蕉も雄島近くの浜に上陸した後、早速、瑞巌寺に参詣している。「おくのほそ道」の中では次の日に瑞巌寺を詣でたことになっているが、曾良の旅日記によれば、松島上陸後すぐに瑞巌寺を詣でている。その後、雄島に戻って島をゆっくりと見物しているようだ。このような順序の入れ替えは、文学作品としての「おくのほそ道」にはよく見られることである。

瑞巌寺は平安時代の天長5年(828)、慈覚大師円仁により開かれ、天台宗延福寺と称した。鎌倉時代の中期には、執権北条時頼が円福寺と改称、建長寺派の禅寺に改めた。その後、南北朝、戦国時代と長い戦乱の時代で円福寺は荒廃したが、慶長9年(1604)伊達政宗が伊達家の菩提寺として再建に着手、5年後の慶長14年に完成した。このときに「瑞巌寺」と名称も改められた。寛永13年(1636)には名僧雲居禅師が招かれ、名実ともに奥羽に冠する大禅刹となった。

本堂は国宝となっており、内部の撮影は禁止である。芭蕉によって「金壁荘厳光を輝し」と謳われた障壁画も360年の歳月を経て劣化が著しかったが、昭和60年から10年継続で211面の障壁画の保存修理と、創業当初への復元模写事業が行われ、平成7年に完成した。現在見ることのできるこれらの画群は、芭蕉が見たときと同じように絢爛豪華なものとなっている。

渡月橋
雄島はこの橋で陸と結ばれている

雄島の全景
芭蕉たちの乗った舟は、雄島の近くの浜に着いた

雄島からの湾内の眺め
島から福浦島、福浦橋方面を望む

雲居禅師の座禅堂
寛永14年(1637)、雲居禅師の隠棲所として建てられた。この辺りからの見晴らしがよい

霊気漂う岩窟群
この辺りに平安時代の高僧見仏上人の「見仏堂」があったという

地蔵島
この島はちょうど塩釜湾の出入り口にあたり、灯台が設けられている

仁王島
湾内でもっとも特徴のある島。今にも首が転げ落ちてしまいそうだ
後ろの島は有人の桂島

鐘島
まるで出入り口のように整然と四つの穴が開いている

長命島
細長く、比較的大きな島だ

湾内の夕景など

松島での観光が終わった芭蕉は宿を求めた。宿は二階作りで、海側に大きく窓が開いていた。
『江上(こうしょう)に帰りて宿を求めれば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。予は口をとじて眠らんとしていねられず』(「おくのほそ道」より)

芭蕉は松島で句を作らなかった。作ったのかもしれないが、「おくのほそ道」に載せられるような句はできなかった。芭蕉は口をとじてしまったのだ。後世、俗説として「松島やああ松島や松島や」の句が詠まれたかのように伝えられたが、一般庶民がいかに芭蕉に「松島」の句を期待したかの表れだろう。もちろんこの句は誤伝であり、相模国の俳人田原坊という人の「松島やさて松島や松島や」という句が混同されてしまったもののようだ。

私は、湾内の夕景の写真をとった後、今日の宿に向かった。仙石線の松島海岸駅に程近い小高い場所にある旅館である。海側に小さなベランダがあり、民家の屋根の先に海が見える。部屋でくつろぎ、お酒を飲んでいると東の海に月が昇りはじめた。まさに芭蕉が江戸で心にかかっていた松島の月だ。私は感激しながらシャッターを切った。

松島の月
部屋でくつろいでいると、東の海に月が昇りはじめた。芭蕉が江戸で心にかかっていた松島の月だ

夕暮れの松島湾風景
客を呼び込む遊覧船のアナウンスも聞こえなくなり、海辺には静寂が訪れた

塩釜湾の様子
出港してしばらくの間は、たくさんのかもめが船の後ろについてくる

芭蕉コース巡りの観光船
塩釜⇔松島を約50分で結ぶ。冬季(11〜3月)は10時から15時まで、夏季(4〜11月)は9時半から15時半までの就航である

五大堂
慈覚大師が瑞巌寺開基のときに、このお堂に五大明王像を安置してから五大堂と言われてきた。現在の建物は1604年に伊達政宗により改修されたもの

すかし橋
下が透けて見える橋。足元をよく見て気を引き締めて参詣するようにとの配慮とか

五大堂の建っている島
五大堂は瑞巌寺守護のため五大明王が祀られている堂宇であり、島全体が聖域とされている

瑞巌寺庫裏
禅宗寺院の台所である。内部は広い土間と板敷になっている。白壁と木組みのコントラストが美しい。(国宝)

瑞巌寺本堂(国宝)
慶長9年から5年をかけ、同14年(1609)に完成。材料は熊野から運ばれ、京都根来の大工衆が技を競った(国宝)