私の今日(2005.11.26)の予定は仙台から塩釜まで歩き、塩釜から帰京する予定である。芭蕉は塩釜で1泊し、翌日塩釜神社などを見物した後、舟で松島に渡っている。

塩竈神社門前の街道の様子
塩竈街道の終点。現在でも古いつくりの家が残り昔の面影をとどめている

塩竈神社表参道
街道のすぐ脇に鳥居が建ち、その少し先から長い急な階段が続いている。これが表参道である。階段の数は数えてみたら202段あった

多賀城遺跡

多賀城碑を見ていると、黄色いジャンパーのボランティアの方が声を掛けてくれた。碑について丁寧に説明された後、多賀城遺跡のほうに案内された。
多賀城の政庁跡は多賀城碑の北方、塩竈街道の左手を少し入った小高いところにある。坂を上ってゆくと政庁跡の大きな復元模型がある。付近には場所を示す標識や建物跡の礎石などが点在している。芭蕉がこの地を訪れたときには茫々たる荒地だったのではないだろうか。芭蕉の時代からもすでに300年以上経ち、発掘調査も行われて様変わりしている。ボランティアの方の話によれば、以前から南門などの復元計画があるがなかなか実現しないと残念がっていた。

芭蕉の辻

7:30頃ホテルを出発し、まず芭蕉の辻に向かう。
芭蕉が歩いた旧道は青葉通りと並行した一本北側の道で、現在は名掛丁などのにぎやかなアーケード街が続いている道である。アーケード街を過ぎ、日銀仙台支店の先に芭蕉の辻碑と道標が立っている。
説明板によれば、かつて近くに制札場があったので「札の辻」が正式な名前で、なぜ「芭蕉の辻」と呼ばれるようになったかは、はっきりとはわからないという。いずれにしろ俳聖芭蕉とは関係がないらしい。また、この場所は町割りの基点となり、地方への里程の基準ともなっている。新しく建てられた道標には、「南 江戸日本橋迄六十九次 九十三里 奥州街道」と書いてあった。

芭蕉は、仙台では国分町の宿に泊まり、三日間滞在している。この間「画工加右衛門」に案内されて仙台近郊の名所を見て回っている。私の今回の旅では仙台市内の名所散策は別の機会とし、今日はこの後、一路塩釜を目指す予定である。

芭蕉の辻から榴岡(つつじがおか)、宮城野へ

芭蕉の辻の写真をとったあと元きた道を戻る。まっすぐに歩いてゆくとJRの線路にぶつかり、これを地下道で越える。これから先、下町風の狭い道を進んでゆくとやがて右側に広い榴岡(つつじがおか)公園が見えてくる。この近くに榴岡天満宮、陸奥国分寺などがあり、芭蕉も見物している。現在の榴岡公園やそれに隣接する宮城野総合運動場のあたりは、古来萩の名所として名高い宮城野の中心部だった。かつての都人にとって憧れの歌枕の地は、現在「宮城野」という地名を残すのみでかつての面影はまったくない。
この日、私は足首の捻挫の後遺症でまだ足が痛く、榴岡公園の中を少し巡ったのみで先に進んだ。仙台市内の散策は、また別の機会に行うつもりである。

芭蕉の辻碑と道標
ここは仙台城大手からの道と奥州街道が交差する場所で、古くから「芭蕉の辻と呼ばれてきた。俳聖芭蕉とは関係ないらしい

榴岡から東光寺、菅の里、おくの細道へ

榴岡公園から国道45号線に出て、少しでも古い道を探そうと脇道に入った。大雑把な地図と勘だけの気ままな歩きである。何とか東北本線の線路を越えて県道8号線の広い通りに出た。この県道は芭蕉の歩いた道にほぼ沿っているようである。新興住宅地を貫く新しい広い通りでまったく面白みはないが、途中特に見るべきものもないので、この県道をひたすら歩く。国道4号線のバイパスを越え、さらに進むとようやく七北田(ななきた)川に架かる岩切大橋に着いた。
岩北大橋の少し上流側に今市橋が架かっている。芭蕉はここで七北田川を渡った。私も県道をはずれ今市橋まで歩き、橋を渡って東光寺を訪れた。

この寺近くの谷間に菅(すが)の里があった。菅とは笠や蓑の材料に使われた草で、ここの菅は見事で『十符(とふ)の菅』として歌枕にもとりあげられていた。また、東光寺付近の道は芭蕉の時代には風情のある道で、仙台の俳人大淀三千風はこの道を「おくの細道」と名づけていた。芭蕉はこの名前が心に残っていたのだろう。後に彼が著した東北、北陸方面の紀行文に「おくのほそ道」と、この道の名をつけた。
現在、この地にかつて面影を求めるのは無理である。川沿いの「おくの細道」は交通量の多い自動車道路だし、川原に草は茂っているが景観も大いに変わっているだろう。ただ、東光寺の山門前には、「ここが元祖・おくの細道ですよ」というように大きな立派な石碑が建てられていた。

奥の細道歩き旅 槻木〜仙台
多賀城碑(壷の碑)

街道の右手の斜面を少し登ったところに小さなお堂のようなものが建っており、この中に大きな石碑が収められている。これが有名な多賀城碑である。かつては「壷の碑(いしぶみ)」として歌枕にもなっていたが、その後所在不明となり、江戸時代に土の中から発見されたものである。芭蕉の時代にはこの碑が歌枕の「壷の碑」と信じられていた。この碑には、その後も真贋論争があったが、現在では多賀城の由来を伝える奈良時代に建てられた碑として国の重要文化財に指定されている。
芭蕉はこの碑の前で涙を落とさんばかりに感激した。これまでの「おくの細道」の旅で、多くの歌枕を通過してきた芭蕉だったが、その年月を経た変容ぶりには落胆していた。しかし、千年を経ても変わることのない文字を刻んだこの碑に出会い、おおいに感激したのだ。

『むかしよりよみ置ける歌枕おおく語り伝ふといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡のたしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千載の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅(きりょ)の労を忘れて、泪落るばかり也。』(「おくのほそ道」本文より)

塩竈街道を通って多賀城跡へ

東光寺前の「おくの細道」は塩竈街道に続いていた。現在も東光寺の少し先から塩竈街道旧道が残っている。この旧道はどことなく昔の面影が残る道である。この道を進んでゆくと、やがて道の脇に「多賀城跡」の標識が見えてきた。この辺り一帯が多賀城の遺跡になっているのだ。前方右手の緩やかな斜面の一隅に多賀城碑がある。

塩竈街道一帯に広がる多賀城遺跡
街道のすぐ右手脇に多賀城碑がある。多賀城跡は街道から少し左手に入ったところにある

塩竈街道旧道
県道35号線。昔の塩竈街道で、別に古い建物などが残っているわけではないが、こういう道が続いていだけでホッとする

多賀城碑
碑文には、多賀城の位置、創建・改修時期、碑の建立年月日などが記されている。碑の建立は天平宝字6年(762)12月1日

多賀城碑覆堂
芭蕉が見た当時にはこの覆堂はなかったが、その後、伊達綱村により覆堂が作られた。

政庁内正殿跡より南側を望む
政庁は小高い場所に建っている。南側はゆるい斜面になっており、政庁からは城内全体が見渡せたはずだ

多賀城正殿跡
政庁内の中心的な建物跡。政庁跡は古代多賀城の中枢部分で、創建以降3回建て替えられたことが発掘調査でわかっている

多賀城から野田の玉川を経て塩竈へ

多賀城碑を見物した後、芭蕉は途中で末の松山、沖の石に寄り道しているが、私は時間の関係でこれは省略した。野田の玉川は塩竈街道を横切って流れていた。ただし、コンクリート護岸に囲まれた細流でかつて歌枕になっていたという面影はまったくない。(右写真)
野田の玉川というのは、歌枕として著名な六つの玉川のうちのひとつである。ほかには近江の野路の玉川、山城の井手の玉川、武蔵の調布(たづくり)の玉川などがある。
野田の玉川を過ぎるといよいよ塩釜市に入る。東北線塩釜駅前を通って塩竈神社に向かう。

塩竈神社

塩竈街道の終点は塩竈神社である。塩竈は塩竈神社の門前町として発展した。現在でも神社門前の街道筋には古いつくりの家などが残っている。
芭蕉は塩竈には5月8日(陽暦6月24日)夕刻に到着し、その日は神社の近くに宿泊した。次の日早朝に神社を参拝している。
塩竈神社は陸奥国一の宮で、古くから朝野の崇敬が厚かった。その後、伊達政宗によって社殿造営が行われ、代々引き継がれ宝永元年(1704)に現在の本殿が竣工した。
神社の鳥居は街道のすぐ脇にあり、そこから社殿までは急な長い階段が続いている。これが表参道である。階段を上りきると、楼門、唐門と続き、その奥に本殿がある。

東光寺山門前の「おくの細道」碑
この辺りが元祖「おくの細道」ですよというように立派な碑が立っている

菅の里
この付近の七北田川べりに茂る菅は「十符の菅」として珍重された。

今市橋と東光寺
芭蕉はここで七北田川を渡り東光寺を訪れた

本塩釜駅から帰京の途へ

私の今日の予定では、途中少し省略してでも今日のうちに舟で松島に渡りたかったのだが、冬の最終便は15時ということでこれは無理だった。JR仙石線の本塩釜駅に着いたのは15:45。今回の旅はここまで、次は塩釜港から船で松島に渡るところからはじめよう。






政庁南門跡
多賀城は全体としては900m四方の広さがあったが、その中央に約100m四方の築地に囲まれた政庁があった。その政庁の南側の門跡

    多賀城政庁(第U期)跡推定復元模型
多賀城一口解説
年代:724年から10世紀中ごろ(奈良、平安時代)
外周:築地で囲まれ、900m四方
構成:中央に政庁、城内各所に役所、工房、兵舎
性格:@陸奥国府 A陸奥、出羽両国を統括 B蝦夷対策の拠点

奥の細道歩き旅 第2回

塩竈神社本殿
宝永元年(1704)、伊達吉村のときに竣工し、昭和になってから補修したものである

楼門から本殿方向を望む
階段を上るとすぐに楼門があり、その先に唐門、本殿と続いている