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2008年1月20日

最近、寒さで目が覚める。

加藤陽子『戦争を読む』(勁草書房)

歴史を「教訓」として使う際には、 史料と虚心に対話することが大切だと切に思う。

(本書、p.179)

戦争について書かれた本を主にあつかった書評集。 書店で手にとってざっと見て、 『美しい国へ』(安倍晋三)の書評と、 閉店三〇分前の(書店名)は……で始まる「愛書日記──本よみうり堂」に興味を惹かれて読んだ。

専門誌に載った(と思われる)書評は、読みこなすにはある程度の知識を要求するようで (たとえば、特定の政治家や軍人が、歴史上どう位置付けられてきたか、等)、 私はそういったことに全く疎い為、読み終えるのにはいつも以上に時間がかかったけれど、 とても面白かった。

日中両国において依然として日中戦争への関心が高いという基本的な構造が、 まずは著者(引用者註:安井三吉)を再び動かした第一の要因として挙げられる。 著者によれば、こうした関心の高さは日本の歴史研究に二つの影響を及ぼしたという。 そのひとつは、 「南京大虐殺、従軍慰安婦、強制連行、七三一部隊、三光政策などといった問題」が、 戦争の原因やその推移といった全体的な流れとは切り離されて、 あったかなかったという二元論で論じられがちになったことである。 二つめの影響は、歴史研究の方法そのものを問うという形をとってあらわれ、 文献では確認できない個人の記憶や感情を歴史的に どう位置づけるのかという問題への学問的関心を高めた。

(p.79)

裁判(引用者註:東京裁判)から生還した人は、 いくらでも自分の言葉で「歴史」を作為できる。 だが松岡(引用者註:松岡洋右)や広田(引用者註:広田弘毅)など、 死んでしまった人の再評価を可能とする史料が、 検察局(引用者註:国際検察局)の遺した史料だったという事実は、 人を厳粛な気持ちにさせる。

尋問中、日本側は平和を希求する「意志」はあったのだと盛んに抗弁した。 対する検察側は、 問題は意志にあるのではなく、それに伴う「行動」だったと論駁した。 政治責任の確信は意志ではなく行動にあり、 とは深い真理だと思う。

(pp.157-158)

他に、 日本の外交政策が国内を向いているという指摘(pp.58-63)、 第二次大戦より前は、戦没者が地域の報道と密接に結びついていたという話(pp.210-212) が面白かった。


2008年1月28日

岩波書店編集部編『翻訳家の仕事』(岩波新書 1057)

雑誌「図書」に連載された「だから翻訳は面白い」をまとめたもの。 37名の翻訳家の文章が収められている。(以下、全て敬称略)

三浦佑之(国文学者)の「遠呂知は大蛇ではない」(pp.67-72)が特に面白かった。 最初に「翻訳」というテーマで、国文学者の自分に原稿依頼があった驚きについて書かれている。

考えてみれば、古事記の場合は、 原典そのものが和化漢字で書かれており (歌謡については音仮名)、 本居宣長によってなされた漢字仮名まじり文による訓読からして 「翻訳」だともいえる。 これはおそらく成立の時点にまでさかのぼる問題であり、 少なくとも一般読者のレベルでいえば、 古事記は翻訳でしか読まれたことのないテキストなのである。

(p.67)

萬葉集と字書とをにらみながら、 「何故そう読むか」という宿題に取り組んでいた頃を懐かしく思い出した。 外国語も古文も、頭の中では同じような捉え方をしていたと思う。

藤井省三(中国文学)の引く、武田泰淳のエッセー「しびれた触手」の話、 松永美穂(ドイツ文学)の、著者とのやりとり(「そ、それはミスプリよ!」には笑った)、 野崎歓(フランス文学)の、『白鯨』を例に引いた翻訳文学を読む面白さの話など、 読みはじめの目当てではない文章も含めて、楽しく読んだ。