HOME > 過去の日記 > 2006年5月後半


2006年5月16日

沼野充義『屋根の上のバイリンガル』(白水Uブックス 1034)

言語にまつわるエッセイ。 旅行記ふうの前半(実践篇)と、もう少し言語よりの後半(理論篇)とで構成されている。

前半の旅行記は、まだベルリンの壁があった頃、ロシアがソビエトだった頃、 anchormanじゃなくてanchorpersonだといいはじめた頃(たぶん)の話。 (今ではanchorでも通じますが)。 なんだか懐かしい。

後半は、理論とはいっても特に堅苦しいわけではなく (無理にやわらかくしすぎているような章もある。 たとえば「とてもセクシーなことばたち」(本書 pp.207-213)の文体模写)、 バイリンガルについて、言語による人称の「違い」については、とくに面白く読んだ。

あれはこう訳せ、 そうすれば「抵抗のない」自然な日本語になります、 というような公式を信じきって日々の実践をこととするのは、 たしかに職業上の必要悪かもしれないが、そのとき、 原文と訳文の間にあったはずのあのなんとも居心地の悪い齟齬の感覚はどこに行ってしまうのか。 これは本当に、英語ではそう言うところを、日本語ならこう言う、 といった次元の説明でわかったような気になっていいことなのだろうか。

もちろん、そうではあるまい。

(本書 pp.133-134)

2006年5月17日

PS2「エースコンバット・ゼロ ザ・ベルカン・ウォー」(ナムコ)

どんなインタビューを行ったんだろう?
それが不思議でしかたがなかった。

エースコンバット・ゼロ(以下、ACZ)の物語は、 語り手である「私」と、「私」がインタビューした「彼ら」の語りで成り立っているが、 このインタビューには「質問」がかけている。

欠けているといえば、「私」が誰かの情報もまた極端に少ない。
ゲーム内の情報から推測すると、ゲーム内での「現在」時点で30才前後のジャーナリストらしい。 そして、エースコンバット5(以下、AC5)の語り手である報道カメラマンでは無いことも分かる。

それにしても「私」は「彼ら」に何を聞いたのだろう?
ジャーナリストである「私」が
「あの傭兵、つまり「彼」について語ってください。どう思いましたか」
などといった輪郭のぼやけた質問をするとは思えない。
「彼ら」はそれぞれそこそこ忙しい現在をおくっているようだし、 取材時間もそう長くは取れなかっただろうから、 もう少し突っ込んだ質問を、 あるいは「彼」の名前を出さずに「彼」の話を聞きだす為の質問をしたのではないだろうか。

そう思えてくるのは、 「彼ら」が「彼」のことを語っているようでいて、 実際は何か別のものを「彼」に投影しているように思えるからだ。 自分の理想や、乗り越えられなかった目標、到達点、思想の体現者、というようなものを。
彼らが「彼」を語れば語るほど、 私(プレイヤー)は「彼」が自分から離れていくような奇妙な気持ちになる。 彼らがそうやって語るのは、プレイヤーである私がそうプレイしたからで、 けれど、だんだん、彼らが見たいものを私がプレイさせられているような気になってくる。 (それはそれで楽しいのですが)

ただ一人を除いて、 インタビューされた「彼ら」は「彼」を自分の側から離そうとはしない。
だからこそ、ただ一人の例外が必要な存在だったのだろう。 最後の場面を見た時、 語り手の呪縛から解かれた「彼」がプレイヤーである私に戻ってくるような気がした。

語り手である「私」は、自分にとっての答えを得て物語の幕を引き、 「彼」である私(プレイヤー)は、受け取った物語を読み終える。
そして気づく、この物語の主人公は私(プレイヤー)でもなく「彼」でもなく「彼ら」だと。
彼らの語りが「彼」の周辺に限定されてしまっていることが、 遊んでいて感じる物足りなさの原因のひとつかもしれない。

ACZはAC5の「続編」だが、 「過去の秘密が明らかになる!」「あの英雄と主人公の一瞬の接触」 などという期待を抱いていると思いきり裏切られることになる。
私はそういうのが好きではなく、 (何故、創作物の登場人物を何もかもくっつけたがるのか) 続編と聞いたときは少々不安だったので、このつくりは嬉しかったけれど、 不満に思う人ももちろんいるだろう。

ACZは「続編」という縛りを逆手にとって、 「変われない世界」(この言葉はトレーラーにも出てくるが)の理由に使ったのではないかと思う。 つまり、プレイヤーの選択が未来を変えるような話にはしなかった、 その理由が「確定した未来」なのでは、ということ。
エースコンバット・ゼロ公式サイト の「"ベルカン・エアパワー" 第二部」(World News 22)を読むと、 この考えも、それほど的外れではないように思うのだが……

ああ、肝心なことを書いていませんでした。
面白かったです。
このゲームは、AC5やエースコンバット04(以下、AC04)と比べて、 スコアアタックしづらい仕様「らしい」のですが、 私はそういう遊び方をあまりしないので気にはなりませんでした。
AC5よりも好きだな。繰り返し遊ぶ気になれます。
それでもAC04がいちばん好きですが。どうしてこんなに好きなのかは良くわかりません。

(初回プレイ時間:03:09:00、難易度:EASY、エーススタイルゲージ:MERCENARY)


2006年5月18日

坪内祐三 『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』 (新潮社)

小学校時代(1965-1971)から大学時代(1978-1983)のあいだに、 著者が出会い愛読してきた雑誌についてのエッセイ。

その雑誌を買い始めたきっかけ、どこで買ったか、表紙の印象、 どうしてその号を処分せずに残しておいたのか、など、 手でふれられるような印象の文を読むのは楽しかった。

「これまでのデータマン→アンカーという記事制作は出来るだけ少なくして」(本書 p.166) という文に、あれ、と思った。 「アンカー」って1970年代後半から既に使われていたのだろうか。


2006年5月19日

次に何を読もうか迷って

『デスマーチ 第2版』を読みはじめたその日に、 デスマーチほぼ確定と思われる仕事の話を聞く。

私の定義は、 「デスマーチ・プロジェクトとは、 『プロジェクトのパラメータ』が正常値を50%以上超過したもの」 である。

(エドワード・ヨードン/松原友夫,山浦恒央 訳 『デスマーチ 第2版』(日経BP社)p.2)

以下、パラメータが何か、50%以上超過が何を指すかが説明されている。
(1)スケジュールの圧縮、 (2)必要人員を下回る人員割り当て、 (3)予算・必要資源の削減、 (4)開発するソフトウェアの機能・性能・その他技術的要求の倍増、 以上がこれにあたる。

そして、次の仕事は、上記4つのうち3つまでが当てはまるという見事さ。 避けられないなら、生き残る方法を探すほか無いようだ。

交流戦での鴎ファンと鷹ファン

鴎フ「今日はパリーグ全勝ですよ」
鷹フ「いいですねー」
鴎フ「こういう時は同じパリーグ(ファン)同士として嬉しいですね」
鷹フ「いやまったく」

( ロッテ2−1中日、 ソフトバンク6−3ヤクルト、 日本ハム6−0広島、 西武10−7横浜、 他の試合は雨で中止)


2006年5月20日

SFファン度調査(06年オールタイムベスト版)

4月16日にやってみた。

一ヶ月の書籍代

たぶん読書日記経由で、 マンガ・雑誌を含めた本類に、月どれくらいお金かけてますか?

平均して3万円くらい。
読み終えた本は、実家に送る(床が抜けると言われて止めた)、 仕事場に置く、知り合いに押し付ける、最後の手段として捨てる、のいずれか。


2006年5月21日

特捜班CI5傑作選DVD-BOX PART2

PART2の発売が決定したそうです。
特捜班CI5傑作選DVD-BOX で、収録して欲しいエピソードの投票を行っています。投票の締め切りは5月末日までとのこと。


2006年5月23日

マイケル・ルイス/中山宥 訳 『マネー・ボール』 (ランダムハウス講談社)

Moleskin Diaryの書評 に惹かれて読んだ。

貧乏球団オークランド・アスレチックスは、何故他の金持ち球団より強いのだろう。 それは、目のつけどころが他の球団とは違うから。では、何処が違うのか。
この本は、その違いについて書かれた本だ。ビジネス書としても読めると思う。

「ペーパーバック版のためのあとがき」(以下、あとがき)に出てくる、 読んでもいないのに感想を述べてしまった人々の言うような内容は、 ここには書かれていない。(彼らはいったい何を読んだのだろう?)

著者は、この本で取り上げた対象に「陶酔しきっ」(本書 p.453)てなどいないのだが、 あとがきでは、ある特定の対象(上記の対象とは違う)に対し、 燃え上がっている(ように私には読めた)。
この落差は、とても面白い。何が著者に火をつけ油を注いだかは、あとがきを読めば分かる。

2003年の野球シーズンの終わりまでに、 わたしは『マネー・ボール』を出版することによって学んだことがあった。 それは、理性に対する屁理屈は、長く探していれば見つかるものだということだ。

(本書 p.448)

2006年5月25日

的を持っていってしまう人、汚名を取り返そうとする人

「的を得る」と「汚名挽回」を見かけたことはあるが、 「当を射る」と「名誉返上」を見かけたことは無い。何故だろう。 どちらも同じような間違いなのに。
間違い難さ(あるいは間違い易さ)というものがあるのだろうか。

村上春樹 『意味がなければスイングはない』 (文藝春秋)

音楽についてのエッセイ。
とりあげられているのは、 シダー・ウォルトン、 ブライアン・ウィルソン、 シューベルト、 スタン・ゲッツ、 ブルース・スプリングスティーン、 ゼルキン、 ルービンシュタイン、 ウィントン・マルサリス、 スガシカオ、 フランシス・プーランク、 ウディー・ガスリー。

この本は去年の年末に読み終えた。

いちばん印象に残っているのは、スプリングスティーンをとりあげた章だ。
「マックス・ワインバーグのパワフルなドラミングと、 ロイ・ビタンの呪術的なまでに単純なシンセサイザー・リフ」(本書、pp.115-116) を読んで、すぐに音が思い浮かぶ程度には聞きこんだ曲をとりあげているから (印象に残った)というのもあるけれど、 ただそれだけ、ってわけでもない。

観光客は途絶え、数百軒を数えたホテルはあらかた廃業し、 犯罪とドラッグがその後に居座っていた。 その町は1990年代に僕が訪れたときにもやはり零落していたし、 たぶん今でも──もし取り壊されていなければ──同じように零落しているはずだ。 それはずっと昔に死んでしまった人々の記憶をかき集めて作り上げられた、 架空の街みたいに見える。 はかない真昼のゴーストタウン。

(本書「ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ」pp.129-130)

その町とはアズベリー・パークのことだ。
この本のあとに『廃墟ホテル』を読んだのは偶然だったが、 こういうふうに読書が"続く"偶然も面白いなと思った。


2006年5月28日

マグニチュードと震度

地震・津波気象庁)より、 マグニチュード6.4は震度に換算すると震度6強になる。

近況

読む暇もないのに本を買っている。 『補給戦』『文学部をめぐる病い』『移民たち』『プラハ幻想』など。
この物欲は、残業100時間の所為……ということにしておこう。 いつもならそろそろ収まる頃なのだが、今回ばかりは歯止めが効かないようで恐ろしい。


2006年5月30日

いしいひさいち,峯正澄『大問題'06』(創元ライブラリ)

何故、竹下元首相が、と思ったらブッシュジュニアだった。
何故、目つきの悪いののちゃんが、と思ったらライスだった。(以上敬称略)
本物の顔を思い出せなくなった。

p.58とp.64が面白かった。それから「モリ憎とキッ殺」も。