HOME > 過去の日記 > 2006年5月前半


2006年5月9日

近況

残業時間は、4月に100時間を超えました。

普通の店が開いている時間に帰れるようになったのは5月に入ってからです。

「戦闘妖精雪風 FAF航空戦史」(バンダイビジュアル DVD)

岡部いさく氏が語る『戦闘妖精・雪風』の主人公 (と岡部氏が『戦闘妖精・雪風 解析マニュアル』に書いている)、 シルフィードの映像を見るのには良いソフトだと思う。

収録されている、アニメ監督のインタビューを見て 「描きたいものがそれなら、別に雪風でなくてもいいだろうに」 と思った。

神林氏が、アニメーション化に際してスタッフに出した要望は興味深い。

戦闘機は殺人と破壊のための道具だが、 その高機動の乗り物を操る人間は、地上とはまったく違う世界を見ているだろう。

(『戦闘妖精・雪風 解析マニュアル』,p.71)

という一文を含むコラム「飛行機が好き」を思い出した。このコラムはこう結ばれている。

必死に、けなげに、飛ぶ。だからぼくは飛行機が好きだ。


2006年5月10日

ジム・ドワイヤー & ケヴィン・フリン/三川基好 訳 『9・11 生死を分けた102分』 (文藝春秋)

二〇〇一年九月十一日の朝、 百二分間にわたって一万四千人の男女がワールドトレードセンターで命がけの戦いをくり広げた。 本書はツインタワーの中にいた人々── オフィスで働いていた人、 訪問者、 そして現場に急行した救助隊員たち ──の視点に限定して、この時何が起きたのかを再現することを目的としている。

『9・11 生死を分けた102分』まえがき,p.14

松浦晋也さんの書評 を読んで、読みたいと思っていた本。今年1月に読んだ。

102分の間にどういう行動をとったから助かりました(あるいは助かりませんでした)、 という本ではない。
人々の混乱が混乱として再構成され、再現されているため、 それを読みとると「状況の分かりづらさ」がいっそう増すが、 けれど、その「分かりづらさ」を再現するのが本書の目的のひとつではないだろうか。
本書によれば、 あの時、ビルの中で、何がどうなっているかを把握している人は、 救助隊員を含めほとんどいなかったという。 そして、当時、ビルの外にいた人間もまた、そのことを知らなかった。

私は読みづらい文章だとは思わなかったが、 ノンフィクションの翻訳ものを読みなれていない人には、すこし辛いのかもしれない。 (感動的なエピソードだけを期待して読みはじめると、もっと辛いだろう)

Amazonのカスタマーレビュー を読んで、この本を読もうかどうか迷った場合は、 ためしに(訳者まえがきではなく)本書の「まえがき」を読んでみるといいと思う。 文章が自分になじむかどうかも確認できる。


2006年5月11日

坪内祐三『一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』(文春文庫)

1972年前後の風俗文化についての本。 なぜ1972年なのか、その理由は第一回(なぜ、この年なのか)に書かれている。

「三億円事件」は知っているが、いつ起ったかは知らない。 あさま山荘事件に至っては、どういう事件かも知らない。 いくつかの断片的な映像(たぶんフィクションも含まれている)が浮かぶだけだ。
だから、 固定化した組織内での窮屈さや、ある種の遠慮と、その遠慮の反転としての憎悪は、 いま(2006年)でも仕事場のなかにあるなと思いつつ、 この話の結末はどうなるのだろうと、小説を楽しむように読んでしまった。

重信房子についての記述は興味深かった。 (第十二回 二人の兵士の二十数年振りの「帰還」)

すこし距離をおいた文章だからこそ、楽しく読めたのだと思う。 『立喰師、かく語りき。』をぱらぱらとめくりながら、 そんなことを考えている。


2006年5月12日

恩田陸 『チョコレートコスモス』 (毎日新聞社)

「恋愛要素の無い『ガラスの仮面』」 (大森望さん の新着日記2006年4月5日 第三回本屋大賞) という紹介に惹かれて手にとった。
この続きを読みたい。不満があるとすればそれくらい。とても面白かった。

「ある新聞記者」という表現

『一九七二』(pp.224-233)で言及されている「ある新聞記者の書いた質の高い評論」。 評論が引用されるが、記者の名前がなかなか出てこない。 ここまで引っ張るのだから意外な人物なのかなと思っていたら、ほんとうに意外だった。
引用が本人に結びつかないと思ってしまうのは、私に先入観があるからだろう。


2006年5月13日

アーキテクチャ宇宙飛行士、PLAYSTATION3とWiiを語る

と言いたくなる今日この頃。

典型的なアーキテクチャ宇宙飛行士は、 「Napsterは音楽ダウンロードのためのピアツーピアサービスだ」 だという事実を取り上げ、アーキテクチャ以外のすべてを無視してしまう。 Napsterが興味深いのは「ピアツーピアだかだら」と考え、 「歌の名前をタイプすると即座にその曲を聴けるからだ」 という肝心な点を見落としてしまうのだ。(引用者註:強調は原文のまま)

(Joel Spolsky/青木靖 訳『Joel on Software』(オーム社)p.128)

(家庭用ゲーム機にしては)値段が高いから売れない、 というだけでは記事にならないのか?
そもそも、急に出てきた「ゲームで遊ぶ子供」って何処にいるのだろう? Playstation2は子供のものだったのだろうか。

YAMDAS現更新履歴 経由で まさに「ブロガーの病」とでも言うべき (砂上のバラック) を読んで、Wiiのプロモーション映像に対する自分の違和感はこれだろうかと思った。 相手を必要とするゲームは私には苦痛だ。

それにしても、 自爆した(と判断した)相手に対する、容赦ないはしゃぎ方はすさまじい。 こういう態度がもし他で見られるとしたら、携帯電話業界だろうか。
現在日本で第一位の会社が業界的に自爆する可能性は、 今のところほとんど無いだろうが。

Joel Spolsky/青木靖 訳『Joel on Software』(オーム社)

ソフトウェア開発者、設計者、マネージャ、 それに幸か不幸か何らかの形で彼らと働く羽目になった人々が関心を抱くであろう、 ソフトウェア、並びに往々にしてソフトウェアに関連する諸々の問題について

(本書、表紙より)

イントロダクション、第1章(言語の選択)、第2章(基本に帰れ) と読みすすめて面白かったので購入。 仕事では「言語なんてプロジェクトの大勢には影響がない」と言われることがほとんどだったので、 ここで書かれている内容が嬉しかったというのもある。

第三章(ジョエルテスト:いいプログラムへの12ステップ)をやってみたら、 悲しい結果になった。たとえば 「プログラマは静かな環境で作業している?」 ひとつだけそういうところがあったが、他は全滅。 (10個以上の仕事場を経験しているのだが)

私は下っ端なので第31章は心に染みた。AS/400の書かれ方は悲しかったが。 (いま読みなおしてみた。 才能を云々は「子供向け」のほうに掛かっているのかな?)

第42章は、体質的なMicrosoft嫌いの私にも楽しく読めた。


2006年5月14日

トマス・ホーヴィング/東野雅子 訳 『ミイラにダンスを踊らせて ──メトロポリタン美術館の内幕』 (白水社)

「本書は、著者トマス・ホーヴィングが一九六七年から一九七七年までニューヨークのメトロポリタン美術館(通称メット)の館長を務めていた当時をふり返った回想録である。」

(『ミイラにダンスを踊らせて』訳者あと書きより)

「古臭いメット」を活気溢れる場所に変えたのが著者だという。
ただし、本書では、自分が何をしたかについての記述が主で、 その結果(主に賞賛)については印象に残らないほど少ない。
つまり、いわゆる自慢話になっていない。
人に対する好き嫌いにしても、自分が正しくて相手が間違っているから、 という書き方をしないのがいい。とはいっても、その内容は容赦の無いものなのだが。

第十五章(これは芸術ではなく、真実だ)の、 『ファン・デ・パレーハ』を手に入れようとする話は、 政治的にも美術的にも面白かった。
この章は、結びの文章からすると、回想録としても折り返し地点になっている。

著者が、エルミタージュの館長ボリス・ピエトローフスキーに、 彼のことが書かれている本を贈るくだりは、『華氏451度』みたいだなと思った。

私はソ連で発禁になっているハリソン・ソールズベリーの本 (引用者註:『九〇〇日──レニングラード包囲』)を進呈した。 彼 (引用者註:ボリス・ピエトローフスキー) は微笑んで目を閉じた。 そしてたどたどしい英語で本文を暗唱してみせたのである。 「西側の本の中には非常に手に入りにくいものがある」ので ──実に微妙な言い回しだ──できる人間は一冊まるごと暗記して 他の者に読んで聞かせてやるのだ、と言う。 記憶の「天才」にまでは国の検閲も手を出せないのだ、と。

(本書 p.255)