更新2002/12/23 「ことば・言葉・コトバ」
● 訪問感謝、あなたは人目の方です(2002/10/19)

掲示板事件全記録(5)

【解説】 2002年1月はじめと2月から3月にかけて、わたしの「掲示板」に書き込まれたやりとりの全記録を公開します。最初は喧嘩腰の質問の書き込みでしたが、わたしは誠実に受け止めて辛抱づよく対話を続けました。しかし、最終的には、相手のことばによってわたしの心と精神がひどく傷つけられることになりました。精神的な被害は大きいものです。相手は最後まで自らの存在と本名を明らかにしませんでした。わたしは仕方なく掲示板の閉鎖をしました。その間、相手は、わたしのリンクからたどれる方たちの掲示板にまで書き込みをして、そちらにも精神的な被害を与え掲示板の一時的な閉鎖もさせました。
 最初から掲示板の記録はすべて保存してありましたが、わたしは精神的な打撃から立ち直るまでは正直いって見るのもイヤでした。その後、掲示板に残されたデータから相手を確定できたのでいくらか安心し、全記録を読み直してみると、冷静な読み手ならぱ、どちらの態度がまともであるか理解していただけると判断しました。また、このやりとりを読むことで、音声表現についてのさまざまな問題も探り出せるとも考えました。そこで、半年を経た現在、全記録を公開することにいたしました。
 掲載許可という問題がありました。しかし、もともと相手が公開を望んだ書き込みです。わたしの書き込みをのぞいて、相手はすべてメールアドレス不明の匿名ですから許可の得ようがありません。わたしの受けた精神的な被害を理解していただくためには全記録の公開がふさわしいと思います。インターネットによって同様の被害に遭われた方がたにとっても参考になるかとも思っています。もしも、この公開に差し支えのある方は、わたし宛のメールで本名と存在を示して申し出るようお願いします。
 書き込まれた文章には、書きまちがいも含めて手を入れていません。ただし、読みやすくするために改行をしたところがあります。また、書き込み時刻のあとに Remote Host を記入しました。掲示板の書込みをブラウザの「ソース」を見たときに、記録されているホストコンピュータのアドレスが Remote Host です。書きこみ時刻によって数字は変化しますが、発信地には変わりありません。それを見れば、同一のコンピュータから送られたものであることがわかります。(2002.10.18)
 《更新記録》102-117の書き込みにコメントを加えた。ひとつ抜けていた115の書き込みを追加してコメントを加えた(2002.12.23)
102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 
(1)2002.1.4-11 (2)2002.2.5-27 (3)2002.3.1-10 (4)2002.3.14-20 (5)2002.3.20-23

102.みんなで三渓園に行きました。 丹綾和代(代表執筆) 3月21日(木)01時15分27秒 < 1Cust207.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
過去にさかのぼって掲示板をプリントアウトして持って、声の「朗読論」もいくつかカセットにとって、朝から横浜の三渓園に皆さんと出かけてきました。夜桜(観桜)の会まで全部楽しんできました。5年の学年委員長が「水田まり」さんといって(本名ですよ、女性は結婚すると変わった名前になってしまうことがあるんです。)、俳人なんです。俳句結社の主宰で、「真珠」という俳誌を出されています。俳号は「まり女」さんです。まり女さんのご指導をあおぎ、句会のまねごとをやりました。句材には事欠きませんでした。山桜、里桜、連翹、木蓮、辛夷、木瓜、雪柳、土佐ミズキ、木五倍子、菫、蒲公英、筆竜胆、等々、花だらけだったのです。4日後、桜はどうなっているかしら?と加賀美さんが言って、また日曜日のお昼ごろに行ってみる事に決めました。へたな句をつくりながら、茶店でおでんと桜餅とお団子を食べ、まあ、あれこれよくしゃべりまくりました。句会は鶴翔閣(横浜市指定文化財、明治35年の建築)を借り切ってやりました。
私は指示された5句が作れず、2句やっとつくれたのですが、なんと、そのうちの1句が、全員の選に入って、一位の「天賞」、もう1句も高得点をとり、「地賞」になりました。もう1句つくって「人賞」もとりたかったです。でも、賞の独占なんて、欲深ですね。

天賞  つくしんぼ無一物なり天地に帰依     和代
地賞  母子草そのすぐそばに父子草      和代

次は私がいいと思った句です。

    泉水のここより出でて草若葉      新子
    桜餅その淡き香の女の手        美津
    三椏の花開きそめ巣立つ子よ      月子(井上月子、6学年副委員長)
    蕨折れば渓は渓にと戻りけり      まり女

一日楽しんで、7時51分ごろからの土星蝕も観察して、山田さんの9人乗りの大型車で先ほど帰ってきました。

ところで、本題ですが、誰がかは明記せずに、雑談中の発言のいくつかを記しておきます。
・「しなかった」のアクセントは平板ではないわよね。「しナかった」(ナが高い)が正しいのよ。
・ひとつながりの「げんぶんさんねん」か、切って「げんぶん さんねん」かでアクセントが違うけど、どちらにしても「サんねん」は間違いよ。惨念って字が心に見えちゃうもの。
アクセントの勝手な移動は邪道よね。決まりはことばの美学だもの。(ことのはの言葉を「コトバ」と外来語みたいに書くのっていやね。やまとことばなんですもの。)
・渡辺さんは「表現よみ」の人なんだから、違いを聞かれても「朗読」してみせなくていいと思うんだけど。私は違いを聞かれたって「表現よみ」しないわよ。ま、出来ないんだけど。
・渡辺さんがここで示している「朗読」って、これまでどこにもなかったものなんじゃない? なにかカン違いしてるんだと思う。これ、ただのへたな音読じゃん。
・「いい朗読こそ表現よみだ」っていうなら、いい朗読を聞かせてほしいな。いい朗読は、渡辺さんの「表現よみ」(1回目2回目の「死神どんぶら」など)の対極にあるんじゃないのかなあ。いい朗読なら「表現よみ」から遠いと思う。渡辺さんのを聞いてそう思った。

私なりの印象でまとめると、みなさんの最小公倍数的な意見は、使われた用語を織り交ぜて書くと、以下のようになります。厳しいまとめになりますが、ご容赦ください。

渡辺さんという「表現よみ」の樹は、根元で切って切り株にして、渡辺さんのいう「朗読」でない、ほんとうの「朗読」の若枝を接ぎ木しなくちゃだめなんじゃないのかなあ。
こうして聞く「表現よみ」を、わたしたちだれも求めてないのね。
渡辺さんがまねしてみせる「朗読」って、だれがどこでやっているものなの? 故意に歪めた「朗読」を聞かせて、だから「表現よみ」はいいでしょ?って言いたいんでしょうけど、だけどだれも「表現よみ」がいいなんて感じないのよ。
やっぱり「表現よみ」は自分のために読む方法だから、人に聞かそうとする瞬間から矛盾をきたすのね。自分用なら、方法も理論も何も無くて、ただひとりでやればいいのよね。教えることも学ぶこともいらないと思う。学ぶ必要があるとすれば、正しい朗読のしかたよ。渡辺さんは、学ぶつもりないみたいだけど、いざっていうと理論でよろっちゃうんだけど、ちゃんと学ぶといいのにね。正しい音声化のありかたを知れば、朗読があんなものだとする誤解も解けると思うんだけどな。でも、そしたら、渡辺さんのアイデンティティが消滅しちゃうんじゃない?

皆さん理解がすすんで、こんな風にまとまってきました。こえの「朗読論」やぶへびだったようです。

※ 前半はまったくの無駄話である。アクセントについて、わたしがあえて質問したことの意図は、書き手がよみを技術的な作業と考えるか、それとも表現と考えるかの選択を迫ったものであった。書き手はまったく機械的な音声化のレベルでしか考えてない。「正しい朗読のしかた」や「正しい音声化」などというものは機械的な基準による型にはまった規則どおりの技術である。もう何度も繰り返した議論であるが、「自分のためか、他人のためか」の二者択一しかできない頭の持ち主である。わたしの考える「聞き手ゼロ」というものは、「聞手はあってしかも無いのだ」という二つの側面の統一である。わたしがあえていわゆる「朗読」の典型を示した「声による朗読の批評」は聞く耳の無いものにとっては無意味であった。また、批判としての「接ぎ木」の比喩もまずい。わたしならば「根こそぎにして苗木から育てろ!」と批判するだろう。たとえ接ぎ木をしても元の木が支えるのである。依然としてこの書き手は自らのページで 1Cust***.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net のリモートホストで書き込んでいる。
103.また、お教えください 渡辺知明   3月21日(木)06時35分43秒 < h201149.ppp.asahi-net.or.jp>
西脇新子さん、またお聞きしたいことを思いつきました。(丹綾和代さんほかのみなさんのご意見ありがとうございます)

前にも書きましたように、わたしの場合、音声理論は、よみのあとから学んだもので苦手です。それで、最近気になっていることをぜひお聞きしたいと思いつきましたので、お答えいただければと思います。わたしがとくに苦手なアクセントについての質問です。(アクセントの位置は例によってカタカナで示します)

○形容詞の活用とアクセントの移動のことです――NHKのアクセント辞典の解説によると、形容詞の終止形・連体形で、アクセントの上がるもの、たとえば「うつくしい」では、アクセントは、「うつくシい」となりますが、連用形では2通りのアクセントがあります。つまり、
「うつくシく」と「うつクしく」です。三省堂の新明解国語辞典の解説ではアクセントの移動という法則が書かれていて、マイナスの形で接続のコトバからもどって法則化されています。それで、わたしは形容詞の連用形では、マイナス1として、「うつクしく」とするのがいいと思うのですが、西脇さんの場合、形容詞の連用形で平板でない語句の場合、どちらでおよみになっているのでしょうか。

○「小さき者へ」のアクセント――今回の録音でどちらか迷ったのですが、「ちいサきものへ」と「チいさきものへ」とアクセントはどちらがいいのでしょうか。アクセント辞典には文語の活用の場合が出ていないので困っています。

○アクセントによる表現のちがい――これも困った例です。
「ひとりだけ」(平板)と「ひトりだけ」のアクセントは、どちらも許されるかとおもうのですが、「ひとりだけ」「ひとりだけ」とそれぞれの表現に意味のちがいが出てくるのでしょうか。

以上、よろしくお願いします。

※ この質問については、わたし自身が日ごろ思っていること率直に書いたことだ。特別な意図があるわけではない。ただし、まったく揚げ足とりのような議論については、もう反論をする気力もなくしているので、具体的な話題で単純な質疑応答にもどしたいという気がある。

104.興味深く拝見しました。 武藤次郎 3月21日(木)18時07分46秒 < pl238.nas531.k-tokyo.nttpc.ne.jp>
「さがの朗読サロン」、メディアプロデュサーの武藤次郎と申します。当サロンで は、入門まもない者(受講開始3ヶ月以内)が、勉強になると言って貴HPをよく聞い ております。講師の私も指導がてら付き合って聴いております。
 最近の掲示板の意見の交換も、大変興味深く拝見しております。

 渡辺氏は、丹綾さんや西脇さんに、アクセントについて必死に質問されていますが、 みなさんの指摘されている問題は、そんなせまいアクセントのことなどではないはずです。
もっと、根本的な大変なことを、突きつけていらっしゃいます。そのことは、渡辺氏も 当然お気づきのはず。なぜ、肝心なことに目をつぶろうとされているのかわかりません。

 失礼ながら申し上げると、渡辺氏は、たとえば、
   「ハックショーイ」と歩きながら、  三郎治はとてつもなく大きなクシャミをした。
と音声化されていますが、ここは、
   「ハックショーイ」と  歩きながら三郎治はとてつもなく大きなクシャミをした。
です。  ハックショーイと歩く?  変ですね。  歩きながらクシャミをした。
 これが正解。係り受けは基本中の基本です。生きた文法力が必要なのですが、渡辺 氏にはほとんどそれが無いようです。
さて、「句読点」の「理論」を渡辺氏は述べておられますが(実は「読点」です が)、たとえ「理論」を持っても実際は音声表現に実現しておられません。
そこが、丹綾一家の、理論はいいから、との素朴な感想につながっているのでしょ う。丹綾芳春氏らを当サロン長でもある向山晴美は失礼ながら「素人」扱いしているよう ですが、なかなかどうして、生半可のプロよりもポイントを突いています。

 表現よみをしていると、なにやら内面が高潮してきて、すごいことをやっている気に なるようですね。それを他人が聞いても、実のところ白けるばかりです。
 聴き手の内面を高潮させなくてなにが表現なのかと非常に疑問です。
本来ひとに聞かせないはずの表現よみを人に聞かせようとしたところから、混乱が増 しているのでしょう。さきの「ハックショーイ」のような、基本を逸脱しすぎた読み を正すには、当サロンでなくとも、3ヶ月、いや、3年、石の上で我慢して学習する ことです。

※ 「さがの朗読サロン」などというものがホントにあるのか。この書き手は一回切りの書き手である。中心人物とはちがう者らしい。正体を現わしてまっとうな議論をするつもりなら、わたしも話し合うつもりはある。「ハックショーイ」の指摘について、字づらによる文法的な区切りならもっともであるが、音声化の場合には、それだけで「正解」とはいえない。わたしはどんなところでも自由に区切れるし、プロミネンスのつけ方によって意味のつなげ方が変えられるという考えをしている。問題はよみ手が文の諸要素をどのような意識してつなげるか、それが聞き手にどう聞こえるかということである。この点についても、前の書き込みと同様、「正しい音声化」という「正解」があるわけではない。芸術の表現は原則を破る新しさから生まれる。
105.アクセントのことなど 丹綾和代(代表執筆) 3月21日(木)18時54分24秒 < 1Cust117.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
今日は春二番か三番。三渓園は昨日で本当によかったと思いました。ほとんど風がありませんでしたから。この風で、池のほとりの五分咲きの桜、少しは散ったかしら。500本も桜があって、神奈川県有数の観桜の名所です。渡辺さんもどうぞ足をお運びください。「内苑」の建造物、それはそれは見事です。重要文化財がずらりとそろっています。内苑を包む裏山の芽吹きは、まさに光の春で、まばゆいばかりでしたよ。外苑も、横笛庵(高山樗牛の名作ゆかりの草庵です)、民家(合掌造り)など、一日いても飽きることがありません。この園へは、JRの電車でいらしたなら、桜木町で降りられてタクシーが便利です。
そうそう、渡辺さん、ぺチュート水仙ってご存じですか。水仙は咲き終わっていましたが、ぽよぽよっとしたこの愛らしいミニミニ水仙がたくさん咲いていました。
    小揺れ止まぬぺチュート水仙かぜなきに    まり女
    ラッパのくちで微笑むぺチュート水仙かな    新子

風がきついので、出かけずにお電話で新子さんに聞いてみました。以下、新子さんのお答えです。SONYのICレコーダー(機種は、ICD-BP450)で録音して、それを聴きなおしていますので、聞き間違いはありません。

・「うツクシい」(12221。2のところが高い)は、形容詞に多い「なかだか型(中高型)」です。平板式形容詞(122、1222)はきわめて少なく(あカイ、つメタイ、かナシイ、など)、ほとんどが起伏式形容詞(21、121、1211、1221、など)です。起伏式のうち、頭高(21)は2拍語のみですから、「チいさき」はありえません。また、「ちいさき」の「ち」は母音が無声音化(無声化)していますから、そういう音で頭高になることは、ごくごく限られた例外を除いて、ありません。「チいさき」なんてやったら、基本を知らないと思われてしまいます。形容詞は、「みジかく」が「みジカく」のように、若い層を中心に平板化しています。渡辺サンは、この揺れのなかで、混乱されているのでしょう。
・「だけ」は、「花」を例にすると、「はナダケ」「はナだけ」と2通りのアクセントがあります。名詞プラス助詞には型のようなものがあって、名詞に「が、と、も、か、に、や、さ、は、よ、で、へ、を」が付いたとき、「から、ほど、きり、しか、<だけ>」が付いたとき、「の」が付いたとき、「ね」がとき、「かな、かね、ゆえ」のとき、より、さえ、でも、のみ、かい、しも、とて、まで、かしら、すら、とも、やら、かな(感動)、だの、なり、こそ、では、ねえ」が付いたとき、「<だけ>」が付いたときで、それぞれ、平板式名詞か起伏式名詞かで変わってきます。「だけ」は、働きに2種ありますから2回出てきますが、この助詞は、起伏式名詞を高く平らに変えて、すべてに助詞の第1拍まで高く、2拍から下がってつく傾向があります。それが、「ひトりだけ」「ひトリダケ」の違いを生んでいるのですが、渡辺さんが言われる「意味の違い」は、ありません。アクセントの生きた法則上のことにすぎません。ただ、声に出せば、微妙なニュアンスがつきます。それはアクセントによるものではないのです。
・ちゃんとしたセミナーや朗読レッスン場や朗読サロンでちょっと学べば、こんなことはすぎ分かるようになります。

とのことでした。

 渡辺さんは、音声化に関して、かなり不勉強なのではありませんか。
 同じ意味で、「朗読」についても不勉強で、渡辺さんの先生やお仲間の方の言われるままに、「朗読」に憎悪を抱いているのではないでしょうか。こりかたまったその「朗読」のイメージを、あの<声の「朗読論>になさったのでしょう。
 何か、違うんです。それをさして、あるかたが、「接ぎ木」せねば、といったんです。
 渡辺さんは、今のままでは、せっかく「挿し木」しようとしても、みんな枯れてしまうのではないでしょうか。
 ばっさりとご自分の20余年の幹を切って、正しく豊かな「朗読」の若々しい枝をその切り株に接ぎ木されることをこころより希望いたします。

※ わたしがアクセントの質問で求めていたのは、「小さき」を例外的によむことによってそれが表現になる可能性だ。また、「○○だけ」のよみについても、「○○」をプロミネンスしてよむべき場合と、「だけ」をプロミネンスする場合と、双方が成り立つのである。音声法則が絶対のものではなく、それが意味を表現するためのものであるという理解が重要である。ただ単に法則にのっとった音声化ならば、あと数年もしたらパソコンの音声読みあげソフトによって実現されるだろう。そこからはみ出るところに音声表現の可能性がある。「正しく豊かな「朗読」」というものを、一連の議論のなかで、わたしは問い続けてきた。ところが、手本とされる「西脇新子」のよみというものも示されなかった。一度として「こういうよみがいい朗読なのだ」というものがないのである。そして、わたしのよみについて「そうではない」と繰り返されたのである。肯定的なものが示されない議論はひとつの真実に到達するには長い道のりを必要とする。
106.もっと書いてください! (訂正3つ付き) 丹綾和代 3月21日(木)19時13分57秒 < 1Cust77.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
いま送って読み返していて、小さなミスがあったことに気づきました。

(誤)渡辺サンは   (正)渡辺さんは
   「ね」がとき     「ね」が付いたとき
   すぎ分かる       すぐ分かる

以上、訂正いたします。

読み返していたら、私がキーボードにむかっている間に武藤次郎さまとおっしゃる方がお書きになっていました。あとでゆっくり読ませていただいて、「死神どんぶら」を聞き返してみようと思います。「生半可のプロよりも」とは、ほめすぎです。西脇新子さんの薫陶をほんのちょっと受けただけですもの。
でも、また反応があってうれしいですね。
もっと書いて欲しいです。
しかし、新子さんがいろいろ詳しいのに驚いています。私、新子さんに師事しようかしら。

107.新しい酒を新しい皮袋に 丹綾和代 3月21日(木)20時22分23秒 < 1Cust63.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
 書き落としたことがあります。文語のアクセントのことです。口語からの応用でよいそうですが、小学館の「日本国語大辞典」には、時代別のアクセントや京都などの方言のアクセントも記載されていて、とっても役に立つと西脇さんが話していました。新子さんは、第1版の縮刷版全10巻のそれを愛用しているそうです。最近、第2版の大改訂版がでましたので、古書店で古いのが安く買えるのではないでしょうか、と新子さんが言っていました。お求めくだされば、アクセントの心配は一切なくなります。

 「さがの」の武藤さまが「せまいアクセントのことなどではないはず」とがお書きになっていますが、実は、私には、まさに本当にそうなのです。
 私、嫌われて、掲示板を渡辺さんがお止めになってしまうかもしれないな、と思うくらいのことをこのところ書いています。私の中の批判の双葉が伸び出して、朝顔の蔓のように渡辺さんにからみついているのが自分でも分かっているからです。
 「朗読」って、渡辺さんが示そうとしているそんなものではない、と今は思い定めています。もっといいもの、もっと美しいもの、もっとすばらしいもの、ではないでしょうか。一方で、「表現よみ」は、方法・理論が悪いのか、渡辺さん個人がよくないのか、ご指摘のあった「ハックショーイ」のかかりうけとあわせて、あの象徴的な、「歩きながら呑むのか?」の死神化表現などから判断しても、もう、こけている、というか、破産しているというか、今やきっぱりと切り捨ててよいものになっているのではないでしょうか。
 私が生まれる前、昭和31年でしたか、大久保先生が考案された当初は新システムは意義が大いにあったことでしょう。でも、時代の流れの中で、その考え方・方法は淘汰されてしまったのではないでしょうか。大久保先生がなさったのは、あたらしい接ぎ木でした。半世紀近くたって老大樹になったその木を、今度は渡辺さんがあらたに接ぎ木して、あたらしい花を咲かせなければ、真の伝統にはならないのではないでしょうか。「朗読」に辞書的な意味と違う新しい意味内容を盛り込み創りだしている人たちが、あたらしい「朗読」を生み出しています。聖書にも「新しい酒を新しい皮袋に」という名言があります。古い皮袋に新しい酒を入れようとして、酒を古く呑めなくさせたのが渡辺さんの今のありようなのではないでしょうか。
 私たちの語る真意と、武藤さま、向山さまたちのご批判を、どうかお受けとめください。
 「さがの朗読サロン」の皆様、私たちより専門的にたくさんたくさんお書きくださいますようお願いいたします。

※ 何度か大久保忠利氏の表現よみ理論について話題にされているが、書き手がそれをどのように理解しているのかの発言はない。また、「掲示板を止めるかも……」というようなことを書いているが、それは批評によって「朗読」についての生産的な考えかたを生み出そうとしないところにある。どんなに丁寧な言い方をしたとしても、その基本的な態度に表われている。また、「あたらしい朗読」というものがあるのならその実例も聞きたい。そのためにわたしは「朗読批評」を続けているのだ。


108.本田路津子さんは裏声ではありませんが。 丹綾和代   3月21日(木)22時58分43秒 < 1Cust135.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
アクセントについて書いた項目の中に、まだ誤記がありました。

(誤)ゆえ」のとき、より、   (正)ゆえ」の付いたとき、「より、

ごめんなさい。ICレコーダーを聞いて書き写すときにやや不注意になってしまったようです。

 本田路津子さんのお名前の漢字が分かりましたので、CD屋さんで探しました。3枚もみつかったので、曲数の多いものを1枚買いました。賛美歌のカセットも見つかりました。これには嬉しくてたまりません。路津子さんは、北欧には「荒城の月」のメロディの賛美歌もあるんですよ、いい曲ならなんでも賛美歌にしちゃうんです、キリスト教っていい意味で貪欲なんですね、とおっしゃっていました。私はこういう素敵なかたの生のお歌を聞かせていただいていたんですね。
 CDを聴いていて、でも、これは裏声ではないな、と感じました。高く澄んだお声です。にごりの一つも無い、きよらかなお声です。あの裏声指導のことを思い出し、裏声がなんなのか、渡辺さん、わかっているのかしら? と、疑問に思いました。
 CD屋さんに、キム・ヨンジャさんの「イムジン河」のミニCDがありました。紅白歌合戦で1番印象に残っていた曲なので、興奮してこれも買いました。ヨンジャさんて、ほれぼれするほど美しい人です。売り場のひとに、こちらもいかがですかとすすめられたのですが、フォークルとかいう人の「イムジン河」は買いませんでした。

 渡辺さん、批評するつもりでなく、こころすなおに朗読に耳をかたむけたこと、ありますか。
渡辺さんの朗読批評のページを初めて読ませていただきました。あのような心ででなく、ほんとうにこころすなおに、ご自分の音声表現を他人のそれと思って聞いてみてください。心にしみじみと入ってくるかどうか、聴いてみてください。心の中への入り方や、心の中でのいきづき方で、そこから批評をはじめられたらいいのではないかと感じました。新子さんは、心に入ってくる朗読を好み、大切にしています。それで、いっさい批評はなさいません。私、そういうのっていいなと思います。渡辺さんは「表現よみ」の人。「朗読」の批評は、畑ちがいのこと。お相撲さんがアメフットの批評はなさらないでしょう? あれはシコの練習量が少ないだなんて。

※ 「本田路津子」は裏声かどうかにずいぶんこだわっている。これと似た発声をする人は音声表現の世界にもいる。例をあげるなら、NHKアナウンサーの久保純子、松丸春生著『朗読/声の贈りもの』(平凡社新書72)のCDを録音した西川小百合、どちらも基本的には裏声の発声である。この書き手は一貫して人の批評をするべきでないと語りながら、その語ること自体はすべて批評、いや非難となっている。

109.おわかれのことばにかえて 丹綾芳春 3月22日(金)00時51分45秒 < 1Cust82.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
 何時の間にか沢山書いてあって、面白く読ませていただきました。

 荒木茂さんの「表現よみ入門」を読みました。「あとがき」に連絡先の一つとして「目黒区ひもんや4−15−9 渡辺方」とありましたが、渡辺知明さんのことでしょうか。
 荒木さんの本は、主述のミスの多い、敬語もおかしい、内容も実に独善的な本で、あきれました。ただ、236ページに、「わざとらしいオーバーな音声表現」をする子に、その録音を聴かせ、「感情が入りすぎてぎこちなく聞こえるね、へんに聞こえるね、いや味に聞こえるね、もっと素直に音声表現しようね、と指示します。」とあったところは、奇妙に共感してしまいました。私らが渡辺さんに言おうとしていることと一致していたからです。

 このところ、渡辺さんが小さく思えてなりません。指の先に乗ってしまいそうな小ささを感じます。その渡辺さんの指先に乗ってしまうのが斎藤孝なのですね。なんて極小の学者なのだろうと思うばかりです。
 渡辺さんの反応の仕方、話題の出し方、質問の仕方に、なんと言うか、小ささを覚えます。たくさんの「表現よみ」も、<声の「朗読論」>も、なにか、耳掻きに掬われたような幽かさ小ささを覚えます。
 だれが言ったか、接ぎ木や挿し木のたとえ、的を射ていると思いました。荒木さんの本の扉に大久保忠利氏のコトバが引用されています。「節つけ読み」「押しつけ読み」に「われわれは反パツする。」「それらの読みとわれわれの読みとを区別するために、われわれの読みの本質をそのまま表わして<表現よみ>と名づけたのであった。それは昭和31年にさかのぼる。」と、書かれています。渡辺さんの読みが、「雨の、秋の、夜が、ふけて」と「節」になっています。カヤの台詞が死神の台詞に「押し付けられて」いたのは忘れもしません。大久保忠利氏の批判したまさにそのダメな<朗読>を渡辺さんはしているのです。破産とかと、だれかが言っていましたが、これが会社なら倒産しているはずです。
昭和30年代なら、「表現よみ」は意義があったでしょう。でも、もう、過去の遺物です。それを乗り越え、さらにそれを乗り越え、今、もっと新しいものを生み出していなければならないのに、平成14年になってさえ、大久保氏が大昔に批判したなかみから自由にさえなれないでいる。それなのに、それを「表現よみ」と標榜している。大久保氏が泉下で泣いているのではないでしょうか。
過去の遺物でも、その初心に渡辺さんは還るべきでしょう。大久保氏の初心にです。それが、大久保氏の枝を渡辺さんのこころの土に挿し木することの意味です。しかし渡辺さんという木は、根元から一気に切って、そこに大久保氏が否定した朗読とは正反対のまっとうな「朗読」の若枝を接ぎ木すべきでしょう。そういう「朗読」はもう生まれているからです。では、どこに? 書けば渡辺さんは直ちにそれを批判し否定し去るでしょうから、書きません。渡辺さんは、朗読批評のコーナーにあるような、まだダメな朗読ばかりお聞きになっています。たしかにあれらはダメでしょう。でも、時代は新しいほんものの朗読を生み出しているのです。なんとしてでも、探し出して見てください。あちこちで呱々の声を上げているのですから。こころで探せば見つかるのですから。

どうやら、私たちはそろそろ渡辺さんにさよならを言うときが来たようです。
もう一度書きます。あなたは指先に乗ってしまうほど小さくなってしまいました。小さいあなたは、あなたより小さい斎藤孝のような対象を相手にしてください。あなたより大きいものを批評しようとなさるひまに、あなた自身を大きくしてください。

私は4月から新しく歩みはじめます。妻たちも、「あしがら文化サロン」(正式名称)で新しいことを始めようとしています。俳句も朗読も、創作も、絵画も音楽も、いろいろやろうとしています。いくつになっても新しいことを始めるのはやがてくる老いをいきいきと生きるために良いことだと思います。
われらがサロンは、本田路津子さんをお招きし、聖書と賛美歌と「駆け込み訴え」研究を企画しているようです。童話創作は、神奈川在住の童話作家、今西佑行さんをお呼びするようですし、しかるべき講師が見つかるまでは朗読は西脇新子さんが指導されるようです。私の出番はなさそうですが、得意の算盤とハーモニカが教えられたらいいなと思っています。ご婦人がたに柔道というわけにはいきませんから。

さて、長い間、ありがとうございました。
お元気でご活躍ください。

※ 一見、小さな問題の中にも、じつは「朗読」についての大きなテーマが隠れていることを理解できないのだ。というより、理解しようとする意図はもともとなかったのかもしれない。また、「大久保忠利氏が否定した朗読とは正反対のまっとうな「朗読」」が生まれているという。ではどこにあるのか。「書きません」というのは、おそらくこの書き手の自己主張であろう。ならば正々堂々と「わたしのよみを聞いて見ろ」と挑むべきである。わたしの「朗読批評」は「非難」ではない。すべての批評を読んでもらえばわかるように、多くの試みの中からわたし自身の表現の糧となる良い表現を拾い出そうという努力である。残念ながら良い表現はわずかであるが、わたしは示している。「あしがら文化サロン」というものがホントにあるなら、わたしを招待してほしいものだ。必ず「朗読批評」に取り上げよう。

110.わたしもお別れを 渡辺知明 3月22日(金)09時22分07秒 < e142158.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾芳春さん、丹綾和代さん
これまで、いろいろとおつき合いありがとうございました。
いろいろとご助言ありがとうございました。

西脇新子さん
アクセントや音声理論についての質問にお答えくださいまして
ありがとうございました。勉強になりました。

おわかれとのことですので、わたしからも今後のみなさまの
ご活躍をお祈りします。

111.武藤次郎さんにお願い 渡辺知明 3月22日(金)09時24分48秒 < e142158.ppp.asahi-net.or.jp>
武藤次郎さん、書きこみありがとうございます。

わたしの掲示板での約束事ですので、メールアドレスを記入されるか、
あるいは、「さがの朗読サロン」の住所、電話番号、など、所在を
証明できるようなことをご記入くださいますか。よろしくお願いします。

※ 「さがの朗読サロン」が実在するなら、今からでも、わたしは知らせが届くことを期待している。

112.バリアーが除かれるまで/泣かで別れな 西脇新子/丹綾和代 3月22日(金)20時02分41秒 < 1Cust72.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
 芳春氏が、私たちの総意とはいえ、唐突に「さよなら」を言ってしまわれました。今、渡辺さんの武藤次郎氏への「お願い」を読み、その判断で正しかったのだなと、二重に寂しく思いました。
「所在を証明できるようなことを」私たちはずっと書かずにきました。それでも渡辺さんは、批判論文を雑誌に投稿され、このHPに収められました。小さなお子さんがたのために「死神どんぶら」を2回も録音されました。声の「朗読論」も、リクエストにこたえての発展的なものとしてアップされました。向山さまよりも武藤様よりも、もしかしたら厳しいことを、私たちは書いてきたのかもしれないのに。しかもお二方同様に所在の証明もしてこなかったのに。
 なのに、不公平にも、向山さまのときには楯をかざし、今回の武藤様のときは関所を急ごしらえした、そんな気がして、悲しくなりました。私たちには何もなさらなくても、私たちへも厚いバリアーが張られたような感じです。芳春氏はあのときから構えてしまっていました。なにか違う、なにか違うと言っておられました。
 渡辺さんは、鋭く批評をなさるかたです。なのに、ご自分が批評されることに内心ほんの少しおびえておられるように見受けられます。批評をなさらない方なら、「批評がましいことはやめてくれ、私もしていないのだから」と、楯でも防弾チョッキでも用意されていいと思います。でも、批評をなさる方なのだから、素手でしっかりと構えていてほしかったと思いました。矢でも鉄砲でも持ってこい、とスマートにかっこよく。
 武藤様が存在証明をなさらなければ、きっと全部消してしまわれるのでしょうね。証明しなければ聞く耳も持たないよ、とおっしゃっているようで、渡辺さんらしくないと感じました。
 バリアーが除かれるまでの「さよなら」、それが私の思いです。
 渡辺さん、「さよなら」した人へだからですか? 私たちの長いお便りに、ずいぶん短いご返事でしたね。いっぱいいっぱい寂しくなりました。
バリアーのなくなる日を望みつつ。
                                   西脇新子

 なぜ「さよなら」かも思いめぐらさず、ずいぶん簡単に「さよなら」を言ってしまわれましたね。私だって西脇さん以上に寂しいんです。いろいろ勉強したのに。打てば響く楽しさ面白さがふんだんにあったのに。
 また「こんにちは」「お元気ですか」が言えるように、あたらしい「さ・よ・な・ら」を考えてみました。渡辺さんにささげます。和歌です。

さ  咲き誇る桜の
よ  ようにほほえめよ
な  泣かで別れな
ら  楽天的に
                                   丹綾和代

※ わたしはまともな批評ならば相手にする。ここに書かれているようなものは批評でも何でもない。「ほんの少し」しか脅えてないように見えたならそれは結構なことだ。しかし、わたしは一時期、この書き手の実在が確認できないうちは、人格異常か精神的に病んでいるのではないかとさえ疑うことがあった。いつか手紙にカミソリの刃でも入れて送ってくるのではないかという恐怖すら感じたこともある。そうして掲示板閉鎖ののちに一通の手紙となって実現した。幸いカミソリの刃は入ってなかった。その内容は、117のコメントからリンクされている。

113.誠意のある対応を期待しています。 岸里徹 3月22日(金)22時17分53秒 < pl239.nas531.k-tokyo.nttpc.ne.jp>
 「さがの朗読サロン」の講師兼フリーアナウンサーで京都UHF局キャスターをつとめております岸里徹と申します。

 渡辺氏は、当サロンの所在を明らかにしなければ、私どもの心ある提言を無視しつづけるおつもりのようだが、貴君が、盛んに意見のやりとりをしておられる丹綾氏等も、メールアドレスをかいておられません。その点、私どもと同じはずなのに、対応の仕方にこれほどの差があるのはおかしいことと思われます。批判を受けたそれぞれの内容に対し、きちんと反論なり、同意なり、意思表示をすべきものと思います。貴君が、<表現読み>の指導者であるかぎり、その責任があると思いますが、いかがでしょうか?

 端的に申し上げます。貴君は井の中の蛙でまだお気づきになっておられないようだが、ないしは気づきながらもしらをきっているようだが、当サロンの朗読入門者でさえ貴君の「よみ」2分間だけで、10箇所以上の読みミス(アクセント、鼻濁音、母音の無声化、イントネーション、滑舌の悪さ、連濁、スト レス、アーティキュレーション、読点、間、文法的係り受け、等々)を発見できます。作品理解・解釈とその表現まで含めれば、5,6秒に1回、誤りを指摘することが出来ます。貴君の「よみ」がその程度の低い質だということを、つらいでしょうが、ご納得ください。丹綾氏ご一家はじめ皆さん寛大な方たちがなんとか気づかせようとなさってきたその恩を感じつつ、反省をしていただきたい。自己批評は至難の業でしょうが。ここは耐えに耐えて。

 私の見るところ、丹綾氏ご一家やそのご友人の皆々様方は、貴君の蒙を開かんと長く付き合ってきたと思われます。手をかえ品をかえ、よくご努力されたと思わずにいられません。とうとう匙を投げられたかと、感無量です。皆様方はほんとうに偉い方々だと心底思います。もし幸いにこの拙文をお読みくださったなら、「あしがら文化サロン」の皆様、いつかどうぞわたくしどものサロンに見学にいらしてください。歓迎いたします。心よりお待ち申しております。

※「読みミス」についてあげられたことは、わたし自身の検討課題として受けとめた。ただし、あくまで音声レベルの問題としてである。わたしが問題にしたい本質的なことは単なるアクセントや音声がどうであるかということではなかった。

114.不誠実で、ごめんなさい。どうぞお許しください。 丹綾和代 3月22日(金)22時52分3秒 < 1Cust108.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
渡辺さんのご返事はと思って開いてみましたら、「さがの」のかたのご発言ひとつでした。
一読、(ああ、私たちは良いほうで差別されていたんだな)と改めて実感されて、なんとも恥ずかしくなりました。私たちがまず岸里さまのような観点で発言すべきだったと分からせられたからです。プラスで差別されると、差別そのものが分からなくなるものなのですね。マイナスの差別には敏感なのに。

岸里さま、こちらこそ蒙を開いていただけて、幸せでした。
ありがとうございました。御礼申し上げます。

上の「コトバの掲示板」のタイトルのすぐ下に、「ご感想、ご意見、お知らせなど、ご自由にどうぞ!」とあるのに初めて気が付きました。

※ 「差別」ではない。わたしが誠実を尽くして、できるかぎり相手をしていたということである。

115.録音図書 投稿者:むらやまてつろう  投稿日: 3月23日(土)08時44分26秒 h136-154.tokyu-net.catv.ne.jp
友達が入院したのでお見舞いにあげようと思って探したんだけど、
こんなに入手が面倒臭いもんだとは思わなかった。
普通に本屋に並んでる物だと思ってた。
図書館では良く見かける物だったから。
吃驚しちゃいました。
結構利用範囲は広いと思うんだけどなぁ。
まだ認知の範囲が狭いからなんでしょうかね?

※ この掲示板の事情を知らない人の飛び込みの書き込みだろうか。

116.吃驚しちゃいました!! 丹綾和代と西脇新子 3月23日(土)16時20分02秒< 1Cust177.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
なにか渡辺さん、書かれているかな、と思って開いたら、なんと録音図書の事を書かれていました。そう、たしかに本屋さんでは手に入りにくいんです。でも、渡辺さん、唐突に変わったこと書くなあ、と思って、よくよく見たら、むらやま様という方のご文章でした。文体がそっくりで、本当にそっくりで、すぐには気づきませんでした。吃驚しちゃいました!

むらやま様、私「にあや」と申します。 
録音図書にいいものはあんまりありません。本当の「朗読」が広く伝わっていなくて、つまり、日本での認知の範囲がせまいから、しかたないんです。プロを自認する人さえ、けっこういい加減なんですよ。私たちのサロンから、ほんものの「朗読」を発信するつもりです。
で、いっそ、むらやま様が、入院なさっているお友達のために朗読されてはいかがでしょうか。「じかに」がいちばんいいのですが、カセットに録音しても、長く残りますから、プレゼントに最高です。
西脇新子さんという私のお友達が、「こころを込めればそれだけでいいの」と言っています。ちょっと、西脇さんに代わりますね。

にしわきです。
お友達の方が早くよくなられるようお祈りしつつ、書かせていただきます。
どうぞ、あなたの朗読を最良のお薬として、届けてあげてくださいね。

そのためのワンポイント・レッスンです。
朗読するときは、優しいお顔をなさってくださいね。渡辺知明さんのように表情を固くしたままはダメなんです。できるだけ優しいお顔をするの。それだけでいい声が出るんです。たとえ花粉症だとしても。のどに力いれちゃダメ。聞く人が苦しいから。
てつろう様はお幾つかしら。録音されるときは、オレはいい男なんだぞ、という雰囲気を全身にただよわせてくださいね。渡辺さんて、HPのお写真では苦みばしったいい男なのに、録音では、なにかダサイんです。ドロ臭いという感じ。
上手でなくていいんです、心があれば。心がこもっていれば、それで十分なんです。
病気のお友達のために、という聴き手意識。心を癒してあげたいという目的意識。純粋なその心が生み出す朗読以上のものを、いったい世界の誰がほかにできるでしょうか。この人に、という聴き手意識、これがどんなに大切か、お分かりいただけましたなら嬉しゅう存じます。

※ ここまでくると、もうわたしの神経を逆なでするためのカラカイでしかない。文体の丁寧さをはずしたらケンカの売りことばだ。ところで、自分の書き込みに対して、こんなコメントをもらった当人はいったいどんな思いだったろうか。

117.聴いて豊かであってこそ、朗読 丹綾和代と西脇新子   3月23日(土)19時37分44秒< 1Cust45.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
あれからずっと、声の「朗読」論の中の<朗読>と、同作品の<表現よみ>を聞き比べました。「鼻」「花さき山」「ベロだしチョンマ」等です。いろいろ見えてきました。

西脇新子
いずれも<朗読>は自閉的で、聞き手意識がなく、ただの濁った音読といった感じです。ふつう誰もが思う「朗読」はそこにはありませんでした。こういうのこそを「表現よみ」と呼んだらよいのではないでしょうか。内容を確認しながら読まれているからです。作品をとらえようとせいいっぱいないちずさで読まれているのは、何か、<表現よみ!!!>という感じでした。
一方、<表現よみ>として収録されているものは、聴いていて、豊かさがまるで感じられません。なんら豊かなものが届いて来ませんし生まれても来ません。ひたすら、聞かせるぞ聞かせるぞという自意識ばかりが先に立っている、という印象です。作品がちっともこちらに入って来ません。黙読したほうがどんなに豊かかしれないと思いました。
なぜこんなことをなさっているのですか。と、これは私の素朴な疑問です。
きっと、お若い頃、初めに出会ったものが本当にまずかったのですね。今更コース変更も出来ないでしょうし、このままいかれるのでしょうか? 惜しいですね。

丹綾和代
同じ作品を西脇さんが(部分的ですが)朗読してくださいました。私のこころの中に生まれてきたあふれるような豊かさ! 渡辺さんとの、そのとてつもない違いで、西脇さんの言われることの正しさが実感できました。
そういうものを知らず、まったく知らず、それゆえ、「朗読はこんなに煤けている、表現よみはこんなに素晴らしい」と自己宣伝される渡辺さんの、なんと言うか、空しさみたいなものを感じました。
まだ何もおっしゃっていただけないので。

明日、三渓園を再訪します。10時、西蓮寺前集合、もしくは、11時半、園内の三重塔の下で合流集合、です。よろしかったら、おいでください。

※ここまで来たら、もうつきあってはいられないという内容である。これを読んで、わたしは「掲示板」の閉鎖をした。その数日後に、追い打ちをかけるように一枚のハガキが届き、それから、一通の手紙が届いた。そこには、これまでの書き込みについての「種明かし」のようなことが書かれていた。その封筒の宛名の筆文字から、ある実在の人物を特定できたのである。
終わり

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