更新2002/11/04 「ことば・言葉・コトバ」
● 訪問感謝、あなたは人目の方です(設置2002/10/19)

掲示板事件全記録(3)

【解説】 2002年1月はじめと2月から3月にかけて、わたしの「掲示板」に書き込まれたやりとりの全記録を公開します。最初は喧嘩腰の質問の書き込みでしたが、わたしは誠実に受け止めて辛抱づよく対話を続けました。しかし、最終的には、相手のことばによってわたしの心と精神がひどく傷つけられることになりました。精神的な被害は大きいものです。相手は最後まで自らの存在と本名を明らかにしませんでした。わたしは仕方なく掲示板の閉鎖をしました。その間、相手は、わたしのリンクからたどれる方たちの掲示板にまで書き込みをして、そちらにも精神的な被害を与え掲示板の一時的な閉鎖もさせました。
 最初から掲示板の記録はすべて保存してありましたが、わたしは精神的な打撃から立ち直るまでは正直いって見るのもイヤでした。その後、掲示板に残されたデータから相手を確定できたのでいくらか安心し、全記録を読み直してみると、冷静な読み手ならぱ、どちらの態度がまともであるか理解していただけると判断しました。また、このやりとりを読むことで、音声表現についてのさまざまな問題も探り出せるとも考えました。そこで、半年を経た現在、全記録を公開することにいたしました。
 掲載許可という問題がありました。しかし、もともと相手が公開を望んだ書き込みです。わたしの書き込みをのぞいて、相手はすべてメールアドレス不明の匿名ですから許可の得ようがありません。わたしの受けた精神的な被害を理解していただくためには全記録の公開がふさわしいと思います。インターネットによって同様の被害に遭われた方がたにとっても参考になるかとも思っています。もしも、この公開に差し支えのある方は、わたし宛のメールで本名と存在を示して申し出るようお願いします。
 書き込まれた文章には、書きまちがいも含めて手を入れていません。ただし、読みやすくするために改行をしたところがあります。また、書き込み時刻のあとに Remote Host を記入しました。掲示板の書込みをブラウザの「ソース」を見たときに、記録されているホストコンピュータのアドレスが Remote Host です。書きこみ時刻によって数字は変化しますが、発信地には変わりありません。それを見れば、同一のコンピュータから送られたものであることがわかります。(2002.10.18)
 《更新記録》各書きこみに下線をつけてコメントを書きはじめる(2002.10.30)。No.63からNo.75までにコメント(2002.10.31)。番号の項目へジャンプできるようにした(2002.11.1)。No.76からNo.83までにコメント(2002.11.4)。
54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83
(1)2002.1.4-11 (2)2002.2.5-27 (3)2002.3.1-10 (4)2002.3.14-20 (5)2002.3.20-23

54.「死神どんぶら」 聞きました。 美原夕子 3月 1日(金)15時09分11秒 < zz2001090028007.userreverse.dion.ne.jp>
 みはらゆうこ と申します。松涛ギムナヂウムで声優の勉強しています。秋にデビューします。
 アナウンス部の友人からこのホームページを教わりました。今取り組んでいる「死神どんぶら」が聞けるというので、聞かせていただきました。簡単に感想と意見を述べさせてください。

 失礼ながら、声のにごりが気になりました。それにより、作品全体が品のない印象を与えています。作中人物のかやがかわいそうに思えました。また、どうしてあんなつっかえた読みで平気なのかがわたしにはわかりません。
 決定的なことですが、読み取りのぞんざいさが、あちこちで気になりました。一つだけあげると、ラストで、
 「歩キナガラ呑ムノカ?」という台詞がありますが、<女の子>の台詞なのに、渡辺さんは、<死神>にして表現よみされています。あきらかに誤読で、びっくりさせられました。
 渡辺さんの表現よみは、人に聞かせられる質のものではないと思います。人に聞かせることの責任の重さを、私たちは日々たたきこまれています。どこかできちんと勉強なさってください

 ※「人に聞かせられる質のものではない」とか「どこかできちんと勉強なさってください」とはきついいい方である。太宰治「カチカチ山」のウサギのような人物を連想した。「松涛ギムナヂウム」とは正確には「松涛アクターズギムナジウム」である。そこに実在する人物なのか。一度きりの発言なので確かめようはない。批評のポイントは「声のにごり」と「品がない」「つっかえた読み」「読み取りのぞんざいさ」ということである。いわゆるナレーションのようなよみ方を理想としている人なのかと思った。また、作品の「語り手」についての考えがないことが、「かやがかわいそう」という表現から感じられた。そして、「歩キナガラノムノカ?」については、わたしはハッとした。作品を読み直してなるほどという思いがした。しかし、わたしにそう誤って読ませる作品の表現の問題もあった。それについては事項にコメントする。また、このやりとりを経てから録音した「死神どんぶら」は、今でも次の頁で聴ける。

55.「死神どんぶら」批評感謝! 渡辺知明 3月 1日(金)21時43分32秒 < g032153.ppp.asahi-net.or.jp>
美原夕子さん、わたしのよみをお聞きくださり、ありがとうございます。また、松涛ギムナジウム所属とお知らせくださったので、無責任なお方ではないと思いますので、わたしも誠実に答えます。ですから、わたしの質問にも誠実にお答えください。わたしも勉強中の身ですので、ぜひ、的確なご助言をくださるようお願いします。また、できましたら、わたしの書いた『表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界』(1995明治図書)もお読みくださるよう期待しています。

1、人に聞かせるよみではない――「渡辺さんの表現よみは人に聞かせられる質ではない」といういい方は、論理的にはわたしのよみ全体を全面否定するいい方です。そう思っていますか。あるいは、今回の「死神どんぶら」に限ってのことでしょうか。わたしの表現よみページは聞か「せる」という強制をともなうものではありません。聞きたい人が聞けばいいというページです。また、あなたの発言の論は、わたしの発表を禁止する意味がありますが、論理的にはそう命令をしていることになりますが、そうですか。
 2、声の濁りの意味――あなたは朗読をするときに語り手ということを考えますか。わたしはこの作品の語り手をかなり年の男と設定しました。中心人物とあやとは距離があるものと考えます。あやがかたるのではなくて、語り手が語っています。
 3、つっかえることについて――つっかえるところについて、具体的にご指摘ください。ご指摘に応じて、その部分がつっかえるように聞こえることの意味をお知らせします。基本的には、語り手の思いが、言い淀んだ表現になっていることと思います。
 4、「歩キナガラ呑ムノカ?」――ご指摘ありがとうございます。率直に、わたしのよみ間違いを認めます。もう一度、全体を見直して、録音のし直しをしますが、もう少しお教えください。また、「読みとりのぞんざいさ」についても、すべてご指摘くださると、それを検討し直して、録音しますので、ぜひお知らせください。

以上、いろいろ書きましたが、ぜひ、誠実にお答えくださるようお願いします。また、同じ作品を読む立場として、美原さんのよみも聞かせていただきたいと思っていますので、発表の日程なども決まりましたらお知らせください。

 ※美原夕子さんの話が本当であったなら、今ごろはどこかで「死神どんぶら」の発表をしてるのだろう。「死神どんぶら」論―わたしはこのとき「よみ間違い」を認めた。しかし、作品「死神どんぶら」には、「死神」の扱いについて、わたしの誤読を誘う問題がある。その理由をあげておこう。1.「歩キナガラ呑ムノカ?」の会話の前後に「かや」の会話であると明示する地の文がない。2.「死神」は3のラストで「死神が近づいて来た」と書かれてから、まったく書かれていない。その疑問をもってよむ読者には「そろそろこの辺で出てきたら」という期待を誘う。3.最後に「死神」は「徳利と一緒に」とあるが、3のラストの死神がどこに行ったかという関連付けがない。だから、「徳利」と「三郎治」との関係を意識すると、「歩キナガラ呑ムノカ?」の前の地の文「三郎治は徳利を両手にさげて……」とでは、「死神」が徳利の中から声をかけたという解釈も成り立つ。そうすると、ラストの「死神は徳利と一緒に」が徳利の中に入り込んだ「死神」としてイメージできる。ただし、この論に対する反証としては、「死神」の会話が、カギカッコではなく――で表現されていること、「かや」の不安が安心に転換するためには、やはり「かや」のセリフである必要があげられる。
56.びっくりしました。困りました。 丹綾和代 3月 2日(土)00時41分13秒 < 1Cust46.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
墓参から帰ったら渡辺さんのホームページを見てみようと思っていましたが、独演会へのエールを送ろうと開いてみて、びっくりしました。もう「死神どんぶら」が入っていたからです。美原さんという方が書かれた文章を読んで、それにも驚かされました。さっそく聞いてみて、またびっくりしました。なににびっくりしたかを、なんとかことばにしたいと思います。

リクエストにこたえておよみくださるとお書きくださったのが2月24日(日)の夜でした。アップされたのが27日(水)の夕方でしたから、3日足らずの準備で収録されたのですね。私は40回は読みました。その私が渡辺さんの音声表現を聞いて感じたのは、美原さんの言い方を借りれば、まさに「読み取りのぞんざいさ」です。けなげなはずの「かや」ちゃんが、語り手(渡辺さん)によってイメージをひどく落とされて、わたしも美原さんと同じく、それじゃああんまり「かや」ちゃんがかわいそう、と思いました。
 もっといい子なのに。あんなふうに夜中にやって来て怖かったろうに。怖くたって一心にやってきたのに。それなのに、まるでもの好きな子、ばかみたいな子、のような印象を与える読みになっていて、ああ、違うな違うな違うな、と思い続けて聞きました。
 そうそう、「かや」ちゃんの心の声は老人のようでした。せりふで声色を使った箇所は、なんというか、「かや」ちゃんのこころがまるでありませんでした。単に声色だけでした。声色より、こころを聞きたかったと思いました。作品の本来の語り手は「かや」ちゃんを慈しんで語っているはずです。「子どもが少し落語風」の意味はよく分かりませんが、聞いて私の中に渡辺さんの声で生じた女の子は、名はかやでも、別人でした。本来の「かや」ではありませんでした。愛らしい健気なすてきな「かや」が聞けると思ったのに、ただただ残念です。
 ご指摘のあった「歩キナガラ〜」のせりふは、「かや」のこころにきざした子どもらしい不安が言わせたせりふです。私はこの言葉があるから「死神どんぶら」はすごい作品だと受け取っていました。少しあとの「ウウン、流レテク」は、不安を完全に払拭する、なんという喜びにあふれた「かや」ちゃんのことばでしょう。このセットのせりふは、まねしたくともできないくらい見事なものです。それなのに、最高の「かや」のせりふを死神のせりふにしてしまうなんて。

夫の帰りを待ちながらこれをしたためていますが、心配なことがあります。これでは娘たちに聞かせられません。へたでも、40回読み込んだ私が聞かせるほうが良いからです。自分たちのために渡辺さんが読んでくれると思っている娘たちになんて説明したらよいのでしょう。

 ※ 二人の感想で共通するのは「語り手」の問題である。「けなげなはずの「かや」ちゃんが、語り手(渡辺さん)によってイメージをひどく落とされて」とあるが、まず「語り手」と「よみ手」の混同がある。渡辺は「よみ手」であって、わたしが問題にしているのは、この作品がだれによって語られているのかということである。いい耳をしている。「かや」が声色に聞こえたとあるのは鋭い。落語の与太郎をイメージして、人間の素朴なよさという観念にとらわれてよんでいた。また、「死神どんぶら」の感動のポイントをつかんだ解説にも感心する。ただし「かや」の内言(心の声)について「老人のよう」といういい方から、よみ声そのものを重視する考えがうかがわれる。表現とは、現物のそのものを示すのではなく、そのものの向こうを想像をさせるものだ。
57.おそまつな読み 丹綾芳春 3月 2日(土)02時44分02秒 < 1Cust243.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
世間は寝てしまって、私は三郎治よろしくガボリとやっております。
渡辺さんは先般の新聞報道をお読みになったかもしれませんが、私は3月25日付で宮城県の「浜道」の、いや、「浜通り」と言ったかもしれません、うろおぼえです、つまり海沿いの町のことを言うそうですが、リアス式海岸の小さな市の警察署長に「栄転」いたすことになりました。息子や娘たちの小学校の卒業式の祝辞は間に合うのですが、入学式は副会長さんに任せるよりありません。PTAのしごとをまっとうできないのが少々心のこりです。

さて、やや興奮ぎみの妻がカセットコーダーをテーブルに置き、ついさっき私は、渡辺さんの「死神どんぶら」を聞かせられました。そして今、妻の投書を読み、声優さんのと、渡辺さんの文章も拝読いたしました。

私の感想です。
1 「わたしの発表を禁止する」のか、 は、カッとなっての物言いでしょう。どうか、冷静に冷静に。人みな冷静ならば犯罪は半減するでしょう。私らおまわりさんも半分ですみます。
 「聞きたい人が聞けばいい」のだからよみの質はどうでもいい、と取れそうですね。本意ではありますまい。その意味で、明日の独演会に行けないのが返す返すも残念です。きっとそちらは深く高く豊かで美事な表現がなされることでしょう。聞きたい人で満席なのですから。
2 声の濁りの意味  私にはその「意味」がどこに書かれてあるのか分かりません。どうやら、酔っ払ったようです。それよりも、 「あや」が語る? 「あや」って、登場してましたっけ? うっかりしておりました。女の子はうちと同じで2人だったのですね。錯覚して「死神どんぶら」の女の子は一人だと思っておりました。いや、恥ずかしい。おそまつな読みでした。妻みたいに40回読まなきゃだめなんでしょうね。
 作品の進行役は「語り手」。かやたちは語られている「登場人物」。当然べつです。渡辺さんは語られている「かや」や「あや」で語れるのですか。すごいですね。そのヴァージョンも収録してください。きっと皆さんの参考になることでしょう。
 「声の濁り」ですが、人間は40歳以上は顔だけでなく声にも責任を持つべき、というのが私の信条です。品性がいやしい人は声が濁ります。静香氏や宗男氏など、その典型です。犯罪者にいい声の持ち主はいません。渡辺さんも、設定が年配の語り手だとしても、わざわざ濁った声にしなくて良いと私は感じました。老人でも若々しい声の人って、いますよね。こんどは清らかな澄んだ声の語り手にしてください。あの、慈しむ、っていう感じの声で。
3 つっかえる、って「とちり」のことでしょう? わけありで言い淀んだのでなくて、ただのトチリですよ。独演会ではなさらないやつですよ。
4 なんだか酔いが回りすぎて、分からなくなってきました。へんなことをかいていたら、ごめんなさい。だいたい全部ぞんざいな感じでした。指摘をうけずに、新しい録音で、「どうだ、まだミスあるか? まだぞんざいか?」とやらなきゃウソですよ、渡辺さん。
私は最後の死神、落語みたいで良かったと思いました。ま、初めはかやだと思っていましたが、渡辺さんのを聞いて、宗旨替えしました。「歩きながら呑むのか」は、死神がただ聞いたんじゃなくて、期待したんでしょう。歩いてさえ呑むなら、じゃあ殺せるチャンスがある。さっきは失敗しちまった。今度こそは、ウヒヒ、と笑いながら死神が言ったに決まってますよ。初志貫徹。自信をぐらつかせてはだめですよ。自信の無いやつが犯罪おかすんです。

 ※ ここでなだめ役「芳春」の登場である。前の書きこみから二時間後の書きこみである。ずいぶん時間をかけて書いたことだろう。警察官という設定から、取調べでの二人の刑事のやりとりなどを連想した。怒った同輩に代わって「おい、おふくろさんも心配してやるぞ。カツ丼でもとってやれ」という刑事だ。しかし、こちらには皮肉がある。知りながら「「あや」って、登場してましたっけ?」と問いかける。また、「こんどは清らかな澄んだ声の語り手」とは、作品の設定にかかわらず、一貫してもっている朗読観なのだ。「死神」の思いの想像についてはいま読んであらためて感心した。
58.「かや」と「あや」 渡辺知明 3月 2日(土)08時17分03秒 < f078154.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾さん、「おそまつな読み」は、わたしのことです。好意的なご指摘は、すべて、わたしのよみの批評になります。中心人物は「カヤ」です。「あや」は、明らかに、わたしのよみまちがいです。「あや」は、「花咲山」の登場人物です。わたしの意識にすっかり、「花咲山」が染みついていました。言い分けめきますが、独演会を前に、あわてて録音したミスが現れていました。耳で聞いても、テキストとつきあわせてないので、「あや」と「カヤ」のちがいに気づきませんでした。

今日は「独演会」なので、聞き直している時間がありません。ほかのところは美原夕子さんからのご指摘を待ちたいと思います。

※ この書きこみで、わたしはあせっている。「あや」という指摘について、わたしの録音そのものがよみまちがっていると理解したのだ。しかし、「あや」とは前の書きこみで「かや」と書くべきところを書いた。だから、結果として相手の皮肉に効き目がなかったことになる。
59.ご指摘感謝! 渡辺知明 3月 2日(土)08時22分28秒
丹綾和代さん、ご批評ありがとうございます。
こりゃどうも、録音のし直しをしないといけないようですね。
わたしの恥をさらす意味で、しばらく聞けるようにしておきます。
注文に応じて、即席でやってしまった欠点がでているようです。
ほんとうに、がっかりさせてしまって申しわけありません。

 ※ ここでも、わたしは動揺している。しかし、間違いを指摘されたことについて感謝の気持ちは本物である。
60.<万人レベル>の表現よみを 丹綾和代 3月 2日(土)10時36分23秒 < 1Cust131.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
子どもたちが学校から帰ってきたら故郷の都城に向かいます。
夫はコンピュータの前で酔いつぶれておりました。単身赴任するかどうかでひどく悩んでいます。
もうろうとした頭で支離滅裂なことを書きつらね、失礼いたしました。身内なので甘いといわれましょうけれど、まあ、それなりに当たっているかなとは思います。でも、あのせりふについての夫の意見は、いただけません。朝になって、私も少し「冷静に」なりました。

私は創作の手がかりを求めて40回くらい「死神どんぶら」を黙読いたしました。いつのまにか心のなかに朗読が出来ていたみたいになっていて、もちろん、素養がありませんから声にだしたらメロメロですが、でも、それで渡辺さんの表現よみのありようが、聴いていて、よくわかったのかもしれません。私よりぐっと深く読める人が、つまり私の40回ぶんを1、2回の黙読でクリヤーできるほどの黙読者が、もしも徹底的に50回も60回も読み込み、その上で聴いた、としても大丈夫な音声表現を美原さまは求めておいでなのでしょう。素養を身に付けた美原さまは本格デビューを控え、大変なレッスンをお受けになっていらっしゃるのかもしれません。そういう方からすると、表現技術も含めて、いろいろ気になるのでしょうね。少し読み込んだだけで私だって見えてくるものが大きいのですから。まして、「死神どんぶら」をギムナヂウムで教材になさっているのでしたら、なおのこと。
芸名でしょうか、美原夕子さまってお名前。前途あるお方が、若さのエネルギーで誠実に発言されたのだと思います。ぬるい創作指導を受けているだけの私には、うらやましいほどの青さ若さです。とにかく視点が声優的で、おもしろいと思いました。ここは冷静に読み解いて、いわゆる他山の石になさるとよいと思います。

わたしの創作童話を渡辺さんが表現よみされたら、と、ふと、考えました。「死神どんぶら」の例から見て思うのですが、きっと、作者の私は、へえ、そういう世界になるんですねえ、とでも感じるのでしょう。ただし、今回のようないきさつなら。
読みって個人的ないとなみですから、誤読も自由、自分に引き付けて曲解するのも自由、深く読もうと浅く読もうと勝手、という、そんなところがありますよね。そんな<個人レベル>の読みを、声で他人に聞かせるのは、それが、聞いて「いただく」のであれ、聞かせて「やる」のであれ、同じこと、でしょうね。聞かせるにせよ聴いていただくにせよ、読みのレベルは、<万人レベル>でなくてはいけないのでしょう
もし、私の創作童話を渡辺さんが表現よみされて、作者の私が、まさにそのとおりです、いやいや、ずっと上質で豊かです、と言えたら、音声表現として大成功なのだと思います。作者以外の人は、作品を知らなければ、また、その作品を深く読み込んでいなければ、はあ、そういう作品ですか、で終わってしまいます。今日の独演会は、著名な作品のようですから、どこにどんな深い黙読者や研究者がいるかわかりません。ご準備、さぞ、たいへんだったことでしょう。
さて、帰ってきてから、新しい「死神どんぶら」や「モチモチの木」や「寒い母」を順々に聴けますことが楽しみです。どうか、娘たちに安心して聞かせられるものをお願いいたします。

 ※ 前半は遊びである。わたしが頭を下げていったので余裕が出たようだ。中心の主張である〈万人レベル〉ということばの意味がわからない。万人に理解されるよみ、万人からいいと評価されるよみということだろうか。残念ながら、今の日本では、万人がいいというのは、マスコミを通じて耳にしているように声ではないか。文化や芸術の評価の基準は多数決ではない。終わりの「ご準備……」も「聴けますことが楽しみです」も皮肉にしか読めない。
61.考えたこといくつか 渡辺知明 3月 2日(土)20時51分00秒
丹綾和代さん、ご丁寧であたたかい書きこみをありがとうございます。独演会場で、別の方から、「死神どんぶら」はよくなかったといわれました。反省すべきは、軽く引き受けて深い読みをしないまま録音したことです。みなさんがご指摘する声の問題も、独演会の練習で2時間も声を出したあとで録音した物理的な問題です。よく聞けば、カヤのセリフも安易ですね。わたしが日ごろ批判しているアニメ調です。そして軽すぎます。感情がはいっていません。

ご指名の3作品について、時間をおいて勉強して、あらためて録音することにします。ご期待に応えられるように努力しますのでしばらくお待ちください。ただし、〈万人レベル〉というのが、平均化されたものでなく、〈個性レベル〉の表現が普遍化されたものというように考えたいです。

※ 独演会の反省会で、ある人から「よくない」といわれた。それは正直なものの言い方をするので信頼できる人だ。それもあって、この書きこみに弁解めいたものも含まれているが、わたしの反省も事実である。〈万人レベル〉に対して〈個性レベル〉と反論したは、声の表現で「万人向け」というとナレーションのようなものを連想したからだ。
62.齋藤孝批判論文第一稿 渡辺知明 3月 3日(日)09時10分59秒
丹綾芳春さん、齋藤孝「理想教科書」批判論文第一稿28枚できてます。お見せしたいのですが、一度、ある雑誌に送って掲載を断られたので、もう一度、書き直したいのです。ですから、まだ公開のかたちにしたくありません。もしも今の段階でお読みくださるなら、個人的にメールでお送りすることも考えています。

ご希望でしたらメールアドレスを、わたし宛にお知らせください。第一稿をお送りいたします。

※ ここでメールアドレスを尋ねたのは、相手を探ることでもなんでもない。ほんとに書きあげた原稿をいち早く読んでもらいたかったのだ。ほとんど、この夫婦の実在をわたしは信じていた。ところが、相手は実在を知られることは絶対に明らかにしない。
63.「死神どんぶら」の構造 渡辺知明   3月 3日(日)09時11分26秒
自分がなぜああいうよみをしたか、いろいろ考えつづけています。丹綾和代さんの四〇回の読みこみには及びませんが、わたしもあれから自分のよみを五回聞き、作品も五回読み直しました。よみの細かい問題はいろいろあるのですが、わたしが直観的につかんだ作品の構造の基本的解釈には今でもまちがいはないと思っています。

結論を言うなら「死神どんぶら」は三郎治を主人公としたドラマです。語り手も基本的には三郎治によりそっています。いわゆる児童文学というと、どうしても子どもを主人公としてよみたくなります。美原夕子さんも、丹綾和代さんも「カヤ」に思い入れをして、カヤを中心に作品を解釈して読んでいるようですが、カヤは三郎治のドラマにおける触媒としての役割を果たしています。(わたしのセリフの表現のまずさは外します)ただし、児童文学の限界というか、二人の人物の関わりの書きこみは十分でありません。そのために、丹綾和代さんの書かれたような作品のよみとりのちがいが生じることになるわけです。すぐれたおとなの作品では、そのあたりの書きこみは、より十分になされているので解釈の幅がせばまるわけです。

わたしは作品集『ベロ出しチョンマ』の諸作品の多くは、作者のまえがきに書かれたとおり、子どもは登場するものの、じつはおとなのためのものだと理解しています。これらの作品をいわゆる子ども向けのアニメ風に表現してはいけないでしょう。また、きれいに・美しくという観念的なよみも警戒です。わたしがカヤのセリフについては、ついそれをやってしまったのですから困ったものです。 
「死神どんぶら」は、明らかに落語「子別れ」をモチーフにした作品です。とくに1では、それが明らかです。わたしのよみのまずかったのは、それを観念的にあてはめて、作品を安易に表現したことです。わたしのよみは、1での落語風の三郎治の物言いにつられて、語り口を一色にしてしまったようです。

以上のようなわけで、録音のし直しでも基本には変化はないでしょう。しかし、もちろん、三郎治が変化するためのきっかけとなるカヤの魅力は表現されねばなりません。三郎治の意識を変えるために、カヤの魅力がどう発揮されるかそれが、よみの表現どころになるでしょう。

 ※ 批判を受けたために、わたしも真摯に作品の読み返しや、作品の構造について検討して、自分のよみの自己批評をしている。落語「子別れ」のモチーフをうっかり観念的にとらえると、まずいよみになることは、いい教訓だ。
64.期待しています 丹綾和代 3月 4日(月)00時49分42秒
宮崎空港から、あわただしく帰ってまいりました。
郷里の友人に渡辺さんのHPのことを電話で話しておいたら、昼に会いに来てくれて、2枚のダビングCDを手渡されました。1枚は小三治さんの「死神」(1992年5月録音)、もう1枚は亡くなられた志ん朝さんの「お化長屋・子別れ(下)」(1978年6月録音)でした。「子別れ」だけ今聞き終えました。なるほど「死神どんぶら」のヒントになりそうな落語ですね。幼なじみの彼女の旦那さんは、そういえば大の落語好きでした。渡辺さんの文章を読んで用意してくださったのですが、感激しました。
旦那といえば、うちの旦那さんは、「警察官をやめるつもりだけど、いいかな?」とお墓の前で私にささやきました。時期的に中年クライシスの一種なのでしょうが、一回限りの人生ですし、ほんとうにやりたいことを精一杯やってみたくなったようです。知り合いの大きな柔道場から来ないかと言われていますし、単身赴任よりも、私たち家族と自分らしい生き方のほうを優先したみたいです。経済的にもなんとかなるでしょう。私も私塾を始めたいなと実は考えていました。斎藤メソッドの正反対の私塾です。自宅を増改築するまでは、はす向かいの小さなお寺に頼んで、長らく使われていない食堂(じきどう)を借りるつもりです。
その斎藤氏のことで論文を書かれたそうですが、HPに1項目増やして、皆様にもお読みいただけるようにしていただけますでしょうか。夫はここしばらく斎藤批判でも「死神どんぶら」でもなく、退職に関わる忙しさにかまけることでしょうから。

独演会でも「死神どんぶら」のことが話題になったとのこと。どなたがおっしゃったのでしょうか。なんだか、すごいな、と感じました。
「自分がなぜああいうよみをしたか、いろいろ考えつづけています。」と渡辺さんは書かれています。20年あまりのご研鑚の、その頂点の、とっておきの自信作でしたのでしょう? あのときの文章は、そういう気負いがありましたよね。その「よみ」が、批判というか、批評というか、されてしまった。それを渡辺さんはしっかりと受け止めていらっしゃるのですね。
「日ごろ批判している」調子を取ってしまわれたとは、それにしても、ふしぎですね。でも、ちょっとした思考と行動のズレなのでしょう。他の収録作品は、その点、いかがですか。
そうそう、そういえば、「ベロ出しチョンマ」も、飛行機の中で数回読み返しました。耳に残っているいくつかの表現が、気になりだしましたので、もう少し深く読んでから、聴きなおしてみたいと思っています。太宰治とかのほかの作家のも、久しぶりに読み返して、順次、聴かせていただきたいと思っています。
そうしているうちに、「死神どんぶら」も新しく聴けることでしょう。
期待して、楽しみにお待ちいたしております。

あっ、もうこんな時間。寝不足はお肌に良くないので、もうやすみます。
では、おやすみなさい。

 ※ 虚構の家族情報は無視する。気になるのは、実在の書き手が、柳家小三治「死神」を聞いたのかどうかだ。わたしの自己批評を評価しながら、「他の収録作品」に触れるのは、このあとの全面否定のための伏線のようになる。このようにして、チクチクと突いてくるのが巧妙である。このあとの批判はもっぱら「死神どんぶら」なのであるが、果たして太宰治などのほかの作品の録音は聴いたのだろうか。
65.表現の奥は深い 渡辺知明 3月 4日(月)08時36分51秒
丹綾和代さん、考え見ると「死神どんぶら」のほかには、わたしのよみについての批評をしてくださったことはありませんね。わたしの録音は、それぞれ、そのときどきには、一生懸命に練習して録音したものがほとんどですが、作品や作者への好みや熱中の程度には差があります。そんなわけで表現のむらがありますが、自分の作品でもしばらくして聞けばどうしても不満が出てきます。発表会などの録音はたいてい30回以上は聞き直します。そのうちに、表現の奥の深さというものを考えさせられます。とんでもないことに頭をつっこんだものだと思うこともあります。しかし、少しずつは表現も前進しているとは思います。そして、表現することののおもしろさも感じているわけです。ほんとに、コトバの表現能力を育てるということは一生ものです。「死神どんぶら」はしばらくお待ちください。

わたしの発言した落語まで聞いてくださってありがとうございます。真剣なおつき合いに感動を覚えます。落語「死神」は死神に、「子別れ」はカヨと三郎治の関係の表現に影響してる気がします。

齋藤孝批判の論文については、書き直したものが雑誌などに掲載されない場合には、わたしのページで公開することにします。

 ※ 批判者が思っているほど、わたしは自信の固まりなのではない。批評をされれば動揺する。しかし、その批評に刺激されて、自分のよみを聴きなおして、作品をとらえなおして、よりよいものにすることができる。だから、まともな批評ならばありがたい。相手をやっつけて黙らそうという悪意があるものは困る。わたし自信が人を批評するときには、ぜひ、このようによんでほしい。表現よみの理論を実践してほしいという願いが必ずある。
66.奥の深い表現のために 丹綾和代 3月 4日(月)11時20分49秒 < 1Cust242.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
 ささやかながら書くこと(創作童話)をしている私ですが、あらためて考えてしまいました。
 書くって、なんなんだろう? どういういとなみなんだろう? と。そして、声にださない読みと、声に出す読み、って、どこがどうちがうんだろう? と。さらには、声に出す読みで大切なことって、どんなことなんだろう? と。

 落語って、はじめから音声言語なんだそうですね。友人の話(だんなさんの受け売り)では、書かれた台本がないんだそうです。ホンになっているのは、速記録で、あれをもとに語るのではないんだそうです。あれは、語られた結果だということでした。志ん朝さんは、大名人の志ん生さんの息子さんだそうですね。初めて知りました。ダビングCDをもらえなかったので比較できませんが、親子の両名人の同じ演目を聞き比べるとおもしろいと言っていました。志ん生さんはどはずれたユーモアの中にペーソスがあるけれど、78年の志ん朝さんにはそれがない、のだそうです。小三治さんの「死神」も今朝聞きましたが、別な演目ですけれど、志ん朝さんと比べて声のニュアンスが乏しく感じられました。その小三治さんのほかの時期の「死神」を聞いて同一演目を比較すると、それまた面白いといっていました。聞き比べたいからダビングして送って頂戴ね、と言っておきました。いつかまじめに聞き比べしてみたいです。
 この落語のことで思ったのですが、同じ文学作品の朗読がいくつもありますよね。渡辺さんは今回「山月記」を読まれたのでしたでしょうか、聴けなくて残念でしたが、たしか南足柄市立図書館に新潮カセットだったかCDだったか、その作品の朗読がありました。こんど、別に「山月記」でなくても、作品はなんでもいいから複数の録音が見つかったら、聞き比べてみようと思います。ああ、そうそう、高橋俊三さんのをカセットに録音してあるので、新潮のと比較できますね。その違いがなにに由来するのかで、私の疑問の一つが氷解するかもしれません。渡辺さんの「死神どんぶら」も、こんど新旧で聞き比べられるので、なにかがつかめそうな気がします。書く、とか、読む、とかの秘訣のようななにかが。これは、とっても楽しみです。

 余計なことかもしれませんが、「ベロ出しチョンマ」は、私は作中の「母親」にひかれつつ読みました。母親はちょっとしか出てこない完全に脇役なのですけれども。一方、娘たちは、長松やウメになりきって読んでいたようです。夫は当然のように「父親」の側に立って読んでいました。この作品の主人公がいったい誰かは、童話を書く私でも、迷います。
 同様に、「死神どんぶら」も、読む人(黙読者)が誰かで、作中の人物の主従がかわるのでしょう。作品は作中の<語り手>が文字言語で語っていて、そして、語られている複数の登場人物は、読み手の内面で主従が決まっていく、のでしょう。生身の人間(たとえば渡辺さん)が<語り手>を代行して声に出して読むとき、作者が設定した<語り手>を逸脱することは、たぶん、許されない、のだと思います。もちろん、ひとりで孤独に声に出して読むときは自由ですが。でも、ひとに聞かせる(聞いてもらう)場合は、そんな自由は許されないのだという気がします。
 作品の「構造」の分析で渡辺さんは「三郎治を主人公としたドラマ」、「語り手も基本的には三郎治によりそっています」と書かれていますが、うまく言えないのですが、「三郎治」を主人公に据えるのは、構造分析でなくて、渡辺さんの「よみ」がさせている、のではないでしょうか。作者がご存命なら、

  ・書きようが悪くてそう受け取られたか。
  ・書きようは悪くないのにそう受け取ったか。
  ・書きようが良いからそう受け取られたのだな。
  ・書きようが良いはずなのに、そう受け取ったのか。

いったいどれで答えるのでしょうか。
 構造分析で「作品を」でなく「自分自身を」読み込んでしまうことは、児童文学創作講座で日常茶飯に出現しています。こうした「書くこと」と「読むこと」との問題は私をひどく悩ませるのですが、それはさておき、今回の「死神どんぶら」の構造分析とその表現化は、ひとつのもの、という気がします。「自分がなぜああいう読みをしたか」の答えの一つがこれではないかという気がしています。

 ※ 小三治と志ん朝の比較で「声のニュアンス」という語句で、批判者が声の表現を聴くときにどこに注目して聴くかが想像できる。作品の内容というよりも、その表現媒体である声に重点があるようだ。作品の聴き比べをしようということも書いているが、声に重点をおいた聴きかたが変わりない限り、音声表現の芸術性には目覚めることがないだろう。「死神どんぶら」の「語り手」について、このあたりはまじめに疑問を投げかけている。問題点は、まず主人公をよみ手の主観にゆだねている点がある。作品の構造を分析すれば、作品の「語り手」も、主人公も客観的に決定される。作品の解釈を作者にたずねるのはまちがいだ。作者は作品については書いたもの以外の提示はできないものである。わたしの構造分析に異論があるなら、別の構造分析を立てることで反論するべきである。
67.構造分析の客観性 渡辺知明 3月 4日(月)11時45分33秒
丹綾和代さん、いま原稿執筆の間に、また掲示板を見て、次の部分を気にとめてしまいました。ああ、困った。というのは、作品の語り手の構造についての分析を示すには、ずいぶん長い手順を取らねばならないからです。掲示板は落ち着かず、そんな議論をするには不向きなのです。でも、とにかく結論だけ言っておくと、語り手の構造というのは、客観的に証明できるものです。また、どこまでが書かれていて、どこからが読み手の解釈なのかも証明できます。
わたしは、三郎治を語りの中心におきますが、それで100%ではありません。2はカヤ寄りの語りですし、部分的にはまだ三郎治でないところもあります。あくまで基本的にということです。ほんとにお願いですが、できることなら、わたしの『表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界』(1995明治図書)を読んでいただきたい。また、わたしのページの「表現よみ指導法入門」の小論文を読んでいただきたいと思うのです。また、できるなら「朗読表現をかたる」メーリングリストに参加していただくと、もっとじっくり話せると思うのです。

《作品の「構造」の分析で渡辺さんは「三郎治を主人公としたドラマ」、「語り手も基本的には三郎治によりそっています」と書かれていますが、うまく言えないのですが、「三郎治」を主人公に据えるのは、構造分析でなくて、渡辺さんの「よみ」がさせている、のではないでしょうか。》

 ※ 作品の構造分析と一と口に言っても、ほんとうに、その原理から話をしなければならないので、たいへんに時間のかかるものである。掲示板ではなかなか書けないというのは事実である。わたしの『表現よみとは何か』を読んでほしいしとも思ったのは、ここまで考える人なら読んで理解できると思ったからである。メーリングリストへの誘いも、まじめに議論する場としてふさわしいと考えたらである。しかし、これは当然のように無視される。「表現よみ指導法入門(改題・表現よみ理論入門)」は現在も日々更新中である。わたしの構造分析に対してどのような客観的な構造分析を示すだろうかと期待もした。
68.メートル原器が欲しい 丹綾和代 3月 4日(月)13時27分24秒 < 1Cust112.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
書くと自分の考えがはっきりしてくるのがわかります。さっきあれを書いて、ああ、よかった、と今になって思いました。

渡辺さんは作品を読み込むとき、対象を読み取ったつもりでご自分のなにかを対象に付与して、それで読みきったと考えるタイプのかたではないでしょうか。いや、わたしを筆頭に、人はたいていみんなそうだと思います。文学研究だって、文学評論だって、たいがいみんなそうです。「それは作品のことでなくて、あなたのことでしょ? 作品の本質でなくて、あなたの本質でしょ?」 そういいたくなることがよくあります。宮沢賢治なら、「ほんとうにオレがみえるのか」などと書くことでしょうね。渡辺さんが書かれた「個人レベルの普遍化」、これ、とっても大切なことです。ただ、ほんとうに普遍化したかしないかの見極めが、きわめてむずかしいことは確かです。他人のしたことなら、「普遍化なんてやれてない」、自分がしたことなら、「みごとにやれている」、そう判断しがちなのが人間の弱いところですし。
それにしても、朗読とか表現よみって、目に見えない黙読の質を見せてしまうので、こわいものですね。

メートル原器みたいなゆるぎない読み。「自分を読み込んでしまう」のでない真の「よみ」。対象そのものを過不足なく読み取る(場合によっては、聴き取る)確かな「読み」。それは、表現のみならず、批評のときも絶対に必要ななことだと思います。
この欄の下をさぐっていってももう読めなくなっていますので、美原さんとかおっしゃるかたが書かれていたかどうか失念してしまいましたが、渡辺さんは、ご自分の作品(表現よみは、いわば、もう一つの作品、ですよね。)を、今こそご自分で点検なさると良いのではないでしょうか。収録されてからそれなりに時間がたっているでしょうし、もう他人のそれのようにご批評できると思うのです。その上で美原さんに、「死神どんぶら」以外がどうなっていたかを、ご自身で語ればいいのだと思います。美原さんは、しかし、どのくらい対象(渡辺さんと、表現よみ)に迫って聴き取っていらしたのでしょうか。その批評の「批評」をしようとしたら、たいへんでしょうね。測る自分に誤差のないメートル原器があって、まっとうに対象を過不足なく捉えなければならないのですから。対象を遥かに遼かに超えるほどの大きさがあって初めて、(あたかも地球を手玉に取るほどの大きな人であってこそ掌に転がる地球の小ささを云々できるように、)批評は可能になるのでしょう。

私も専門と思う自分の分野で大きく大きく大きくなりたいと思います。ナメクジは西瓜を平らだと思うでしょう。提灯アンコウは空の広さや青さを知りえないでしょう。そんな低レベルの創作や批評をしたくありません。これからは、甘えでなく、自己満足でなく、真に対象を捉えきったと思えたときでなければ、安易に相手のことを語ったり論評したりするのは止めようと思いました。

いい作品を書きたい。大きくなりたい。これがわたしです。これが私のすべてです。

 ※ 冒頭のわたしの性格規定は、自らも認めるように、まったく批判者のものである。朗読や表現よみが「黙読」の質を見せるのではない。ここにも、「黙読」が、なんらの表現的な工夫や技術なく、そのまま音声表現になるという安易な表現論がある。「メートル原器」とはまたまた文学的なアイマイ表現である。比喩としてもまずい。批判者は、なにか絶対的な基準を設定して、そこに合わせると考えている。どこか宗教めいた発想だ。このきびしさがじつは他人を責めるときの根拠になる。それは「朗読」という概念のとらえ方にも感じられる。この書きこみの後半から、そろそろ、わたしのよみへの攻撃の準備がはじまる。批評をまとめに考えようとせずに、前回の掲示板事件のように「攻撃」に転ずるのはここからのようだ。
69.居心地のわるさ 渡辺知明 3月 4日(月)19時41分34秒
丹綾和代さん、今、仕事からもどりました。書きこみ読みました。

ずいぶんご自分にきびしいのですね。その態度は、わたしには恐ろしくさえ感じられます。自分へのきびしさを他人にも同様に向けてしまうと、相手に居心地のわるさを感じさせると思います。

常に人間は中途半端だとわたしは思っています。それでも、できる限りの努力をして作品にして発表し、他人の批評の協力を得ることで、よりよい作品に発展させようとするのではないでしょうか。

批評でも作品でも完璧な作品というものは永遠にあり得ないと思います。また、どんなにすぐれた作品でもキズのないものは絶対にありません。完璧なものではなくても、ぜひ、人の目にさらすようにしてください。

 ※ わたしはまじめだ。今になってみれば、批判者のこのきびしさは決して自分自身に向けたものではなく、わたしを攻撃するための根拠をたしかめていたようだ。うすうす、わたしは自分が責められつつあるのを感じたが、相手の善意を信じて、あえて「居心地のわるさ」という書き方をしている。
70.妻のレトリック 丹綾芳春 3月 5日(火)01時00分17秒< 1Cust191.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
妻が余計なことを書いてしまい、また、先日は酔ってもうろうとなったまま書いてしまい、どちらも申し訳ありませんでした。妻は自分に厳しいように言って、その実、私や子どもたちに厳しく当たります。どうもあれは、妻が自分に厳しいのではなく、渡辺さんに厳しく言っているように私には思えます。そういうレトリックを使う女性です、和代は。そう思って読み替えてみてください。妻はけっこう辛辣な女です。そんなわけで、失礼があったら、どうかお許しください。ナメクジだの提灯アンコウだのフンコロガシだのと言い出したら要注意です。
さて、娘たちが「死神どんぶら」をひどく楽しみにしています。妻も新しいのを今か今かと待ち焦がれています。どうぞよろしくお願いいたします。

「表現よみ」が行き着いたのが「芸術よみ」だと渡辺さんが書いてらっしゃるわよ、と妻が言っておりました。本を読んだのかなと思っていましたら、台所に「表現よみ」の入門の赤い表紙の本が置いてありました。「表現よみ」のCDの付いた本も、その下に重なっていました。パッと見ただけですが、渡辺さんのご本ではなかったようです。別な著者のだとすると、そんなのを読んだら、渡辺さんはいやがるのではないかと思いました。なんというか、近親憎悪みたいな気分があるのではないかと、ふと、思いました。
そういえば、妻は先日、「小田原に出たとき八小堂書店で探したし、新宿に行ったときには紀伊国屋書店でも探したけど、渡辺知明さんの本、なかったわ。」と言っていました。図書館にもなかったそうです。飛行機の中で読むつもりだったようです。注文するしかないかなあ、とつぶやいておりました。斎藤孝氏のどうでもいい本は積みあがっているのに、困ったもんです。

「表現よみ」には流派のようなものとか、家元とか、あるのでしょうか。小学校の校長先生が「朝の読書」を導入しようとしていますが、あれには本家とか分家とか、主流とか亜流とか、本物とかニセモノとか、けっこういろいろあるとのことです。林さんので行きたい、と言っておられましたが、林さんて、ご存じですか。
で、もとに戻って、渡辺さんのと他の人のと、用語(表現よみ)は同じでも、概念はちがうのでしょうか。妻が知りたそうにしていました。

ところで、常に「人間は」中途半端、まあ、わたしは渡辺さんのこの意見に共感できますが(後述の<呪文>参照)、うちの妻は、
  常に「自分は」中途半端、なのでしょう? それを、「人間は」にひろげちゃずるいわよ。
とでも言うでしょう。「完璧は永遠にあり得ない」も、
  完璧を本気で目指さないなら、やめちゃいなさいよ。
というはずです。まさかそうは書かないでしょうが。
そんなひとですから、私の転進も、それがしんそこ本気であれば、ぜったいに中途半端でないなら、まったく気にならないようです。いい妻です。
で、呪文ですが、いつの頃からか、私は、
  <あすから見れば今日は不完全、中途半端。でも今日は、今日の完全、精一杯。>
という呪文めいたものを口にするようになっていました。
こういう中途半端さがわたしの好みです。渡辺さんのはほんとうの中途半端ですか。

お寺は辛気臭いのですが、食堂(じきどう)を借りるめどがたちました。西蓮寺という寺です。
春4月、私ら夫婦は新しい出発をします。

 ※ 取り調べは一息入れて、ここでカツ丼を取ってくれるナダメ役の刑事の登場である。絶妙のタイミングというか、それよりも、これからの攻撃態勢を整えるためのインターバルだろう。わたしが思ったとおり、前の書き込みは、わたしに向けられたものだと念を押している。そんなことは分かっていた。だが、わたしはまだ、この夫婦の存在を疑っていない。だから後に、「和代」という人間はもしかして狂人なのではないかという恐れさえ抱くようになる。ここで問題になった本は荒木茂氏の本だ。「近親憎悪」などという発想は批判者自身の思想だ。そんな思いは荒木氏には感じない。わたしが氏と日本コトバの会で親しい交流があることを批判者は知らない。表現よみと一と口にいっても、理論を語る人、実践者によってさまざまであるのは当然のことだ。「朗読」といえば決まりきったものとしか思えない批判者にとっては大きな疑問なのだろう。伝えられる妻のことばはすべて主張である。批判者は論理に弱い。「完璧がない」というは「完璧を目ざさない」ことではない。「完璧がないことを知りつつも完璧を目ざす」という考えも成り立つ。
71.表現よみの本のことなど 渡辺知明 3月 5日(火)09時31分12秒
丹綾芳春さん、書きこみありがとうございます。こまめに書いてくださるので読むのが楽しみです。しかし、ここは公開されているのに、私的なことまで書いてしまって大丈夫ですか。奥さんだって、読んでますよね……。

おそらくどんな理論でもそうでしょうが、理論や実践は個人的なものです。わたしの表現よみは大久保忠利という人から学んだものですが、そこにわたしは文学作品の文章の構造分析と対話の理論というものを基礎にして表現する考えをくわえました。基礎となるのは、ミハイル・バフチンというロシアの文学理論家の考えです。それによって、これまでの朗読が音声一辺倒だったのを作品と表現との関連づけができたと思っています。それが、わたしの『表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界』(1995明治図書)です。

ですから、表現よみについて本を書いている人もいろいろいます。まず、児童言語研究会という国語科教育の研究会の雑誌『国語の授業』には、さまざまな実践が発表されていますが、作品分析を基礎にしたものはほとんどないでしょう。その中心は、田村操編『表現読み その理論と教育実践』(1996あゆみ出版/会社倒産)です。特徴は「表現読み」という名称を使うことです。日本コトバの会の関係では、荒木茂さんがいます。わたしもいっしょに勉強した仲です。奥さんの本は荒木茂さんのものでしょう。代表作は『表現よみ入門 その理論と実際』(1976一光社)です。

ほかに表現よみとつくものはほとんどありません。明治図書から、実践シリーズとして、学校教育のための実践の本があります。しかし、わたし以前のものは、作品と音声表現の関連づけはほとんど考えられていません。ただ、基本となることは、理解・解釈を声に表現するという考えです。黙読してわかったことを、声に表現するというのではなく、一読から文章の部分部分についての理解・解釈を声にしながら、作品全体の理解に進んでいくという「探りよみ」としての表現よみが基本です。ですから、
「初読からの表現よみ」ということも、以前からいわれています。いわゆる黙読的な解釈をせずに、いきなりよみはじめて、その繰り返しで、身体的に、感覚的に作品の表現内容に入りきるという方法も表現よみの本質にあります。ただし、人に聞かせるということになると、聞き手のためにいわゆる「演出」的な準備や作業が必要になります。わたしの表現よみで問題にされるのは、この二段階目の「演出」部分にあると思います。表現よみの読み深めは本質的には、毎回必ず表現よみによる音読なのです。これで数十回よむことはきついことです。

おやおや、短く書こうとしたのに、またまた長くなってしまいました。じつは、
「死神どんぶら」、表現よみで十回、黙読で十回となりました。批評された部分の読み深めと、基本的な読みとりの固まったところとがはっきりしてきました。今のわたしの精一杯はこのあたりかなというところが見えてきました。一週間以内に録音ということになるでしょう。「モチモチの木」もよんでます。ただ、初読で表現よみしてみた「寒い母」は、わたしにとっては、興味をひく作品でありませんでした。

 ※ 「黙読的な解釈をせずに」という表現には注釈が必要だ。まったく解釈がないというわけではない。「目で読んで→体で感じて→声に出す」というスローガンがあるが、人は一見して文字を見たとき、それなりの理解と解釈をしている。ここでいう「黙読的な解釈」とは、まったく発声に頼らずに徹底的に黙読で考えて解釈して、それから最後の仕上げとして見事に音読するということへの批判である。むしろ、部分部分を声に出して表現しつつ理解を深め、解釈を重ねるということが表現よみの本質である。声のない理解/解釈ではなく、常に声の表現とともに理解/解釈をするのである。
72.内につぼみや花があってこその理論と実践 丹綾和代 3月 5日(火)09時32分35秒 < 1Cust48.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
子どもたちを学校に送り出してHPを開いてみたら、とんでもないことを夫が書いていました。行間を読む、という言葉がありますが、行間を書いちゃまずいですよね。3割くらい割り引いて読んでくださいね。
わたしの見つけた本は荒木茂というかたのものです。入門書と、「表現よみ指導のアイデア集」です。リレー音読「森に生きる」から、通し音読「かもつれっしゃ」までのCDの録音を聞いてみました。荒木さんは「へんな読み癖をつけないということをお話したい」としゃべりながら、「子どものよみごえ<を>」と、異常に高く素っ頓狂に<を>を強調されていましたから、?????と思って聞いたのですが、案の定、子どもたちの音読は、聞いていられないほど奇妙奇天烈な読み癖にとりつかれたような、どうしようもないものでした。渡辺さんが批判されそうな、旧来のイメージの朗誦というか朗詠というか朗読でした。これも本当に「表現よみ」なのでしょうか。これが表現よみなら、私は入門したくないなと思いました。これは、夫のいう亜流とかニセモノなのかもしれませんね。
ひどい本を借りてしまったものです。これが買った本なら、お金を返してよ、と言いたいところです。
渡辺さんのご理論はHPでひととおり読ませていただきました。ご本は手に入らないのですが、市の図書館に注文しておきましたので、いずれ読めるでしょう。自分で買うよりは図書館で買っていただくほうが多くの方の目にふれるのでいいと考えました。そんなわけで、買わなくてごめんなさい。

西蓮寺では庫裏の修理工事が行われています。職人さんとこないだ話をしました。職人さんは看板を出さずに仕事をなさるのだそうです。した仕事が看板になるのだと、棟梁のような立場のかたが言っておられたのが印象的でした。常に毎日が、昨日までの積み重なりを受けた一番のテッペンにある、もし昨日のほうがよかったなら、それは仕事をやめるときだ、と考えている、と、私より厳しい見方をされていました。ああ、職人さんって、そういうものなんだな、ほんとに厳しいものなんだな、と感じました。考えてみれば、どんな分野の表現者も「職人」といえますよね。職人なら、こういう厳しさは必要でしょうね。だって、あるときは「魂の職人」なのですから。
どうした弾みか、職人さんの話をうかがっていて、渡辺さんの第1次の「死神どんぶら」を思い浮かべました。あれだけの理論や実践をお持ちなのに、ご著書を何冊もおもちの方なのに、渡辺さん、いったい「どうして?」と、あらためて思いました。
荒木さんという高齢の方(お声ではそう思えます)も、理論や実践を数々お持ちでしょう。でも、ああです。愚劣といっては失礼かもしれませんが、愚劣な音声表現しか指導できていません。なんなんでしょう? なんでなんでしょう?
上の子の一番の友達のお母さんは、西脇新子(にしわきしんこ)さんというかたですが、小学校の朝のお話し会でとってもいい朗読をされます。ひどい読みのお母さんばかりの中で、まさに掃き溜めに鶴です。どこかのカルチャーで勉強なさったのですか、と聞きましたら、なにも、とおっしゃいました。演劇部の娘さん(高2)に薦められて小さな本を一冊読んだくらいだと言っておられました。なんの理論も方法も全く無いかたが、一つの瑕も無く、こころにすうっと入ってくる朗読をされるのです。朗読台本を見せていただいたのですが、本の拡大コピーを綴じただけのもので、どこを開いても記号一つありませんでした。微妙なニュアンスは記号にならないの、記号化できるのは豊かさから遠いものだけ、と新子さんは話しておられました。なるほど、と思いました。文は人なり、と言いますが、朗読も人なり、なのでしょうか。桜のつぼみが今かすかにふくらんでいます。半年前、木の幹に花は入っていませんでした。でも、今、つぼみをつけています。目には見えない花が莟があったからでしょう。人も同じ。彼女の中の豊かな豊かな莟が花となって咲き出しているのだと思います。彼女がなにか理論を生み出せば、それは本物として、人の「読み」さえ変えることでしょう。彼女という木の中に花がちゃんと入っているからです。荒木茂さんは、内に莟も花もないのに理論をつくったからダメなのでしょうね。

以上、思ったことを書かせていただきました。
レトリックなんて、少ししかありません。ご安心ください。私を知る夫の深読みです。

 ※ 今になれば、夫の書き込みに対するこの妻の反応はあまりに淡白である。荒木茂氏の本についても、なんのために読んだのか、実になるものをまるで得なかったのだろうか。攻撃のための手段にされている。わたしのページを読んだともあるが、まったく内容にはふれていない。また、『表現よみとは何か』を図書館に注文したそうだが、このあとの書き込みで読んだは書かれてないと記憶している。人の理論から刺激を受けることがまったくないのだろうか。それが不思議だ。それとも、それこそまったく完璧な「朗読」があると思うのか。そこで、新たな援軍が到着する。「西脇新子(わたしはN.S.と呼ぶ)」だ。「丹綾夫婦」は朗読の実践者ではないという設定だが、N.S.は朗読の実践者である。冒頭の職人の話から、わたしの批判へと話が変わる。ここでの批判のテーマは「理論」はいらない、作品を分析するような「記号づけ」もいらないということだ。しかし、一般的に理論を持たない人がいいよみをしたからといって、それが別の人にとっての理論の不要を意味するわけではない。いいよみをする人は、それにふさわしい修行をしてきた。それは他の人には伝わらない技である。しかし、理論ならば別の人がいいよみをするためにも役立つのである。
73.同時でした。一緒に書いていたのですね。 丹綾和代 3月 5日(火)10時18分32秒 < 1Cust59.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>

すぐ下の私の文章は、実は「投稿」のマークをクリックしたとき、ストップしてしまいました。「待ってください」というので、1分くらい待ってから投稿したら、今度はすんなり入っていきました。見たら、なんと渡辺さんとほぼ同時の書き込みでした。渡辺さんが9時31分12秒。私が32分35秒。1分待っていますし、初めての戸惑いで20秒くらいアタフタしてましたから、全く同時だったのでしょう。なんだかうれしくなりました。

さすがですね。荒木さんの本、はい、大当たりです。
いろいろ参考になることをお書きくださり、ありがとうございました。
ご心配くださって恐縮いたしましたが、夫婦のことなら大丈夫です。互いに尊敬してますし、似たもの夫婦で、一心同体みたいなものですから。

「死神どんぶら」と「モチモチの木」、ご準備ありがとうございます。これで娘たちに予告編が出せます。帰ってきたら大喜びすることでしょう。
斎藤隆介さんの「寒い母」ですが、この作品で「初読からの表現よみ」をされますと、初めから肉声ですから、変に生々しくなって、へたすると卑猥になりかねませんから、その意味では、たしかにこの作品は引っかかるでしょう。いやな作品に見えるかもしれません。でも、限りなく美しいお話です。おとなのための児童文学の名作だと思います。子どもにも読ませうる、という意味で、児童文学です。おとなだけの文学より、おとなの文学なのに子どもにまで降りてくる、その意味で児童文学といえる文学が、私は一番値打ちがあると思っています。お嫌いなら、絶対に表現よみなさらないでくださいね。
では、新しい録音、楽しみにしております。

 ※ 「すぐ下の私の文章」というのは、No.72のことである。「掲示板」では、先の書き込みが下へ下へと送られる。これはNo.72を書いてから、わたしのNo.71を見てNo.72の続きとして書かれた。「いろいろ参考になることをお書き……」といいながら、その内容についてはまったく触れてこない。もう、書き込みの目的が攻撃へと変わったからだろう。「寒い母」についても、まるでわたしの作品の評価とちがう。わたしは、斎藤隆介作品集『ベロ出しチョンマ』28作品のなかでよくない方に入れる。だからよまなかった。
74.齋藤孝批判論文アップ 渡辺知明 3月 6日(水)13時00分14秒 < f079071.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾芳春、和代さん、お約束の齋藤孝批判論文を
わたしのページにアップしました。感想など
いただけたら幸いです。

 ※ これは次のページで今でもよめる。
75.感謝とお願い 丹綾和代 3月 6日(水)21時42分01秒 < 1Cust28.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
今書いた力作がどうにも送れなくて、機械がそっくり全文消してしまいました。ああ、がっくり。

論文のアップ、おめでとうございます。そして、ありがとうございました。
今度は「死神どんぶら」ですね。最初の録音を消さないで大切にとっておいて、1作品2表現よみにしてください。ぜひ、お願いいたします。新しく入門される方たちのためにきっと役立つと思うのです。私も小三治師匠の古い「死神」と、おとうさんの志ん生さんの「子別れ」を聴いて面白く思いました。斎藤孝氏も渡辺さんに習いたいと思うのではないかしら。

批判論文は夫と一緒に丁寧に読ませていただきたいと思います。
わたし、21番目の「お客さん」でした。もう20人、すごいですね。

 ※ 「21場面」とは、斎藤孝批判論文のページのアクセスカウンターの数である。「和代」は落語を聞いて「面白」いというが、カゲにいる批判者は何を感じたのだろうか。
76.しらふのとき読みます。 丹綾芳春(和代 口述筆記) 3月 6日(水)23時59分46秒 < 1Cust87.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
仕事で栢山(かやま、尊徳二宮金次郎の生誕地)に行き、その帰りに檀家から戻る途中の西蓮寺さんとバッタリ出遭って、ついついシコタマ呑んでしまいました。妻からの留守電で、渡辺さんの力作論文ご執筆のことを知り、ケータイで今妻に伝言させております。西蓮寺さんはウチに戻ってから、ちゃんと読んでから書け、とおっしゃるのですが、帰ってもべろんべろんですから、酔いが醒めてからちゃんと読ませていただいて、感想など書かせていただきます。まずは、御礼まで。とりいそぎ。ありがとうございました。
77.斎藤孝批判論文感想(その1) 丹綾和代(代表執筆) 3月 7日(木)10時46分04秒 < 1Cust220.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
お住職さんと一緒に遅く帰ってきた夫が私を叩き起こし、3人で渡辺さんの批判論文を読み、けんけんごうごう、かんかんがくがく、話し合いました。酔っ払った夫はお住職さんを「さっちゃん坊主」と呼びます。ひやひやものです。

井藤祉夫(住職)談 (井藤さんは、高校の書道の先生でした。二足のわらじを一足脱いで高校を辞め、この10年、ひたすら瀬戸内寂聴さんに私淑してこられました。というより、ほとんど「追っかけ」です。宗派は天台宗です。井藤さんは、脱いだはずのわらじを又ちょっとつっかけて、2年前からD大の非常勤講師を兼務されています。サチオの本名で、書道と教科教育法を指導しておられます。本業よりも、寂聴研究会というサークルの顧問を生きがいのようにしています。以下、井藤さんのお話の要旨です。)
・渡辺さんが「単に文章から情報を拾い出すだけのこと」と喝破したのは慧眼ですね。
・渡辺さんは本質を見抜いていらっしゃる。私は、「筋を読みとるような文章ばかりではいけません。」の発言に全面賛成です。ただ、「ばかり」は不要でしょう。「筋を読めば足りる程度の文章を読んでいては本当の学力や生きる力は育たない。」と思う。
・国語の教師ひとりひとりが「国語教育とは何か、その目的は何なのかという根本から考え」ねばならぬ、というのは、まさにその通りで、このかんじんなことを人間は忘れている。渡辺さんは警鐘を高らかに鳴らされた。思いつきで場当たり的な発言をする遠山文部科学大臣にも、教育の根本や真の目的を再考してもらいたい。この大臣は、金のかからぬ、それでいて受けのいいことを言うから困る。なにが「朝の10分間読書」だ。読書を10分で切らされる体験を毎日してみろ。読書人がそれで育つはずがないのだ。渡辺さんが文部大臣になるほうがずっとよい。あちこちで教育長の公募があるが、逗子市がそうだったが、渡辺さんは、教育長になって発言力を増すといいのではないか。しかし、遠山大臣は、皆知らないようだが、かつて昭和50年代に学校に警察を導入させたとんでもない役人(官僚?)だった。大臣になれたのも自民党に媚を売っているからだ。(和代註 夫はまさにその警察官でした。夫はずっとそのことを恥じて生活してきました。人生最大の汚点だといつも言っています。)
・「クイズの答えを求めるような(国語)教育」とは、いい惹句です。コピーライターになれそうな才能が渡辺さんにはあると思う。
・一ついただけないのは、「この単純な基準の立て方には賛成」の文言。「この」は余計です。シンプルであることは非常によいことだ。ただし、「この基準」そのものは認めるわけにいかない。

丹綾芳春談
・「読む」ことの本質の手抜き、とあったが、自分が言いたかったことはこのことだった。よくぞ言ってくれた。

ここからは私(和代)の感想です。
・しらふでないのに2人とも頭脳は鮮明でした。むしろ斎藤論文のほうが靄がかかったような不鮮明さがあって、もやかし、もとい、まやかしではないかと思えました。
・渡辺さんは、学校の先生? ではありませんか。国語教育のことに詳しすぎるのですもの。プロフィールに書かれてありませんが、元先生か、大学の先生ではないのでしょうか。そんな気がします。もし大学の先生でなければ、ぜひどこかの大学で教鞭をとられてみてください。インターネットで教授・助教授・講師公募の情報はすぐ収集できます。井藤さんも、その手で女子大の先生になられました。西蓮寺は、市川市だか松戸市にある本寺は裕福なのですが、こちらは「ビンボウ寺」なのだそうです。併設していた「よいこ幼稚園」はとうに閉園してますし、檀家もかなり減ってきて年収が異常に少なくなったので、税金はゼロとはいえ、お住職さんの井藤さんはかなり暮らしに困っておいででした。お寺をコミュニティセンターにして、カルチャー教室も企画するなどの内部努力をしても追いつかないので、大学に職を得たそうです。助教授のアキがなく、将来を確約されての、とりあえずの講師でしたが、(寺は相変わらず「ビンボウ」でも)井藤さんは経済的に楽になったそうです。4月からは「常勤講師」になれるとかで、また、来年度の退職者から考えて、大学が他から誰かを引き抜かない限り、井藤さんは04年度には助教授になれるだろうということです。大学って、けっこう甘いところなのですね。
・まだ細かく読めてませんが、お説と「表現よみ」の実際とをつきあわせてあれこれ考えております。「死神どんぶら」が早く2つ並ぶことを楽しみにしています。
・渡辺さんのHPのこと、齋藤氏にHPがあれば、なにかの方法で存在を知らせられないのでしょうか。激しくアクセスされていますが、齋藤氏がまだ読んでいない気がしますので。

とりあえず、「その1」をしたためました。

※ わたしは権威のある立場には立ちたくない。大学という教育の場も今では魅力を感じない。わたしの齋藤孝批判論文について書かれた肯定的な評価は書き手の本心なのだろうか。中心目的は再度アップされる「死神どんぶら」を叩くことにあるのだ。いい点をとらえるという評価が、音声表現の分野になると、どうしてできないのか。それだけ音声表現にかたくなに固執しているのか。この書き手は齋藤孝氏の考えについて自分には批評をする能力がないので、わたしに文章を書かようとしたのか。ならば、わたしはそそのかされたことになる。しかし、わたしは人からの刺激をきっかけにして自らの仕事ができた。それはありがたいことだ。影響を受けやすいということはいいことなのだ。
78.齋藤孝批判論文感想感謝! 渡辺知明 3月 7日(木)11時15分42秒 < g032025.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾和代さん、ほかのみなさん、お読みくださりありがとうございます。今から千葉へ出発なので、細かい点についてのお答えはあとで書きます。

ただし、下記、齋藤孝氏のページでアドレスを知って、掲載のお知らせはしておきました。ご本人から、何か反応があれば〈対話〉になるでしょう。

http://www.kisc.meiji.ac.jp/~saito/index.html

※ 期待したわけではなかったが、当然のように齋藤孝氏からの連絡などは、2002年11月4日現在ない。
79.20余年のご研鑚、齋藤氏に分かるのかしら? 丹綾和代   3月 7日(木)15時22分12秒 < 1Cust63.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
こちらこそありがとうございました。

斎藤孝さんがこの掲示板を含めて渡辺さんのHPをお読みになるといいですね。(となると、私たちの文章も読まれるのかしら?) きっと斎藤さん、「表現よみ」もいくつか聴くことでしょうね。聴けば、ああ、自分は人が言うような「朗読の人」ではなかったんだなあ、と思うことでしょう。なぜって、あのかた、音声で表現する方法をもっていないし、音声表現のこと何も学んでいないはずですから。ハッキヨイノコッタノコッタ程度の、単なる「暗誦」でとどまっていてほしいです。ただの音読で、あっちで足踏みしていてもらいたいものです。高い高いハードルをひょこっとくぐって安易にこちらの世界(朗読)に来てほしくないです。あの人にこっちへ来て勉強はしてほしいのはやまやまだけど、でも絶対に仲間にはなりたくないです。それにしても、クイズ的高学歴高学力の人に渡辺さんの20余年のご研鑚の奥深さが分かるとはとうてい思えません。
そうそう、あの先生、真似る盗む力のことを言ってたので、気をつけてくださいね。渡辺さんの知的財産を盗まれないように。なんと言っても、デキル人は真似てオリジナルと見せかけるのが得意ですから。

ちくまとか、関係した出版社の人にも、渡辺さんの批判論文を読ませてあげてください。

※ 「高い高いハードル」も書き手の「朗読観」をとらえるキーワードである。おそらく、書き手は「朗読」というものについて一つの権威ともいえる観念を作り上げているのだ。「こっちへ来て勉強はしてほしいのはやまやまだけど」という発言からもそれはうかがえる。しかし、この事件の最後の最後まで、書き手のいう朗読というものの目ざすものはわからなかった。
80.ますます期待が膨らみます 丹綾芳春   3月 8日(金)01時51分05秒 < 1Cust228.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
お忙しくしておられるご様子、こちらの励みになります。どうぞお元気でご活躍ください。
齋藤氏へご連絡なされたとのこと、非常に良いことと思いました。
新聞社など、マスコミにもお知らせされてはいかがでしょうか。

今帰ったばかりで、あれこれ書く元気がありません。すみません。
批判論文の反響、手紙やメールなどで入っていることでしょう。
早く齋藤氏ご本人のを読みたいものです。お二人で議論し、音声表現し合うところを、NHKのクローズアップ現代あたりで見たいものです。
81.全国の皆様へ 丹綾芳春・和代   3月 9日(土)08時23分54秒 < 1Cust60.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
齋藤氏のHPを教わったので、開いてみました。「斎藤メソッド」って、要するに「塾」なんですね。4月に「理想の国語教科書」という本を文藝春秋社から出すようです。雑誌論文(雑文?)は前宣伝だったとわかりました。渡辺さんの批判論文は時宜にかなった秀逸なものと改めて思いました。
全国のみなさん、どうぞこの欄にご意見をお寄せください。

斎藤メソッドって、小澤征爾さんや前橋汀子さんたち音楽家の先生・斎藤秀雄氏のメソッドの名称ですよね。斎藤孝サンって、ここでもパクリやってるんですね。

※ この指摘どおり『理想の国語教科書』は文藝春秋から刊行された。わたしの齋藤孝批判論文は、いったんは『文藝春秋』に投稿したが、そういう意見もあるでしょうが説得力がないという理由で没になった。
82.もう一度、全国の皆様へ 丹綾芳春・和代 3月 9日(土)08時38分05秒 < 1Cust60.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
渡辺さんの論文が雑誌(おそらく「文藝春秋」か、それに近いもの)掲載を拒否されたのは、いわゆる「権威」による、言ってみれば横暴だと思います。関連図書の出版が予定されていれば、批判は載せたくないでしょう。
世の中の「権威」、とりわけ、出版や報道にからむそれは、まさに権威主義になっています。岩波やNHKなどがその代表でしょう。
実質こそ権威を持つべきです。中身が本物であってこそ、真の権威を持つべきです。カラッポの権威が力を持つ、もう、それは権力というものです。

真の議論がこの掲示板を舞台に湧き上がることを強く望んでいます。
みなさん、どうぞよろしくお願いいたします。

※ 書き手は「権威」について批判的な考えをもっている。だが、批判者自身が権威を持ち得ないがための批判ではこまる。自分も権威を持つことを拒否できるかどうかそれが批判者に問われるのだ。書き手は、最後に、わたしを批判するために、「大久保忠利氏を尊敬するなら……しろ」という論理を使ってきた。これこそ、自らが権威を尊重する価値観を持つことの証明である。先達を人間として尊敬することと、その理論を批判していくことは次元のちがうことである。
83.「死神どんぶら」再録音アップ 渡辺知明 3月10日(日)18時21分49秒 < f078203.ppp.asahi-net.or.jp>
まあこんなところが、わたしの今の実力ということでしょう。

前のようなカンちがいはないと思いますが、カヤの表現などについて、また一年位しないと表現が向上しないでしょう。美原夕子さんにまた聞いていただけるとありがたいですね。

これで丹綾和代さんから合格をいただけたら「モチモチの木」の練習にかかりますが、どんなものでしょうね。心配です。

※「一年位しないと表現が向上しない」というのはあきらめではない。「年季が入っている」ということばがあるが、芸ごとの世界では、時間というものが大きな要素である。人の年齢はダテではない。その年齢にならないとよめないものが確かにあるのだ。
次ページ

(1)2002.1.4-10 (2)2002.2.5-27 (3)2002.3.1-10 (4)2002.3.14-20 (5)2002.3.20-23