更新2002/10/24 「ことば・言葉・コトバ」
● 訪問感謝、あなたは人目の方です(設置2002/10/19)

掲示板事件全記録(2)

【解説】 2002年1月はじめと2月から3月にかけて、わたしの「掲示板」に書き込まれたやりとりの全記録を公開します。最初は喧嘩腰の質問の書き込みでしたが、わたしは誠実に受け止めて辛抱づよく対話を続けました。しかし、最終的には、相手のことばによってわたしの心と精神がひどく傷つけられることになりました。精神的な被害は大きいものです。相手は最後まで自らの存在と本名を明らかにしませんでした。わたしは仕方なく掲示板の閉鎖をしました。その間、相手は、わたしのリンクからたどれる方たちの掲示板にまで書き込みをして、そちらにも精神的な被害を与え掲示板の一時的な閉鎖もさせました。
 最初から掲示板の記録はすべて保存してありましたが、わたしは精神的な打撃から立ち直るまでは正直いって見るのもイヤでした。その後、掲示板に残されたデータから相手を確定できたのでいくらか安心し、全記録を読み直してみると、冷静な読み手ならぱ、どちらの態度がまともであるか理解していただけると判断しました。また、このやりとりを読むことで、音声表現についてのさまざまな問題も探り出せるとも考えました。そこで、半年を経た現在、全記録を公開することにいたしました。
 掲載許可という問題がありました。しかし、もともと相手が公開を望んだ書き込みです。わたしの書き込みをのぞいて、相手はすべてメールアドレス不明の匿名ですから許可の得ようがありません。わたしの受けた精神的な被害を理解していただくためには全記録の公開がふさわしいと思います。インターネットによって同様の被害に遭われた方がたにとっても参考になるかとも思っています。もしも、この公開に差し支えのある方は、わたし宛のメールで本名と存在を示して申し出るようお願いします。
 書き込まれた文章には、書きまちがいも含めて手を入れていません。ただし、読みやすくするために改行をしたところがあります。また、書き込み時刻のあとに Remote Host を記入しました。掲示板の書込みをブラウザの「ソース」を見たときに、記録されているホストコンピュータのアドレスが Remote Host です。書きこみ時刻によって数字は変化しますが、発信地には変わりありません。それを見れば、同一のコンピュータから送られたものであることがわかります(2002.10.18)。
 《更新情報》ここにも少しずつコメントを追加する(2002.10.22)。各メールに番号を付けた。メールの並びマチガイを修正してコメントを仕上げた(2002.10.24)。書込み番号をリンクした(2002.11.2)。

28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53

(1)2002.1.4-11 (2)2002.2.5-27 (3)2002.3.1-10 (4)2002.3.14-20 (5)2002.3.20-23

28.再開しました 渡辺知明  2月 5日(火)19時50分42秒 < h201211.ppp.asahi-net.or.jp >
中島義道『〈対話〉のない社会』(PHP新書)にある「〈対話〉の基本原理」(132ページ)の生かされるような〈対話〉ができたらと思います。
(1)あくまで一対一の関係であること。
(2)人間関係が完全に対等であること。〈対話〉が言葉以外の事柄(例えば脅迫や 身分の差など)によって縛られないこと。
(3)「右翼」だからとか「犯罪人」だからとか、相手に一定のレッテルを貼る態度をやめること。相手をただの個人としてみること。
(4)相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉そのものを問題にすること。
(5)自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、判断すること。
(6)いかなる相手の質問も疑問も禁じてはならないこと。
(7)いかなる相手の質問に対しても答えようと努力すること。
(8)相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけてゆこうとすること。
(9)相手と見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。
(10)社会通念や常識に納まることを避けて、つねに新しい了解へと向かってゆくこと。
(11)自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること。
(12)それぞれの〈対話〉は独立であり、以前の〈対話〉でコンナことを言っていたから私とは同じ意見のはずだ、あるいは違う意見のはずだというような先入観を棄てること。

※ 前回の事件の終了が、1月11日だったので、それから一カ月近くたっている。もう、それほど「掲示板」には執着しないだろうと思っての再開であった。また、もしも書き込みにきても、それなりに反省があるだろうと思って、中島義道氏の著書から「〈対話〉の原理」の引用から開始したのであった。しかし、それは甘かった。
29.斎藤メッソドを、渡辺先生、どう思われますか丹綾芳春 2月 7日(木)22時59分02秒< mcda028n007.ppp.infoweb.ne.jp >
再開、よかったです。渡辺先生のお考えをお聴きしたかったからです。
斎藤孝氏の「斎藤メッソド」を、表現よみの視点で論評してください。
「文藝春秋」2月特別号の「声に出して読む理想の国語教科書」や、日本放送出版協会刊行の「子どもに伝えたい<三つの力>」などの著書をどう批判されますか。

※ この書きこみのアドレスを見ればmcda infoweb である。前回の相手と同じだと判断できただろう。しかし、わたしは、この親しみのある語りかけについ乗ってしまったのである。
30.齋藤孝さんのメソッドについて 渡辺知明   2月 8日(金)08時49分48秒 < e140214.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾芳春さん、こんにちは。
ご質問ありがとうございます。『声に出して読みたい日本語』の売れ行きはうらやましいほどです。関心はあるので、文藝春秋の記事も、『子どもに伝えたい「三つの力」』も書店で、ぱらぱらと立ち読みくらいはしました。感想としては、買って読むほどではなかったのですが、もう一度、現物を見てから、ここになにか書こうと思います。しばらくお待ちください。(お互いに「先生」という呼称はやめましょう。「さん」でお願いします)

ちなみに表現よみの原理としては、わたしのページの「指導法入門」のページをご参照ください。

※ わたしの人のよいところが出ている。書いたことは事実である。斎藤氏の本の売れ行きのうらやましさ、立ち読みのこともそうだ。人からの刺激で考えることが多いのでありがたい問いかけであった。また、わたしはものを教えもしない相手から「先生」と呼ばれるのは気持ちわるく感じる。
31.わが子にして欲しくない「斎藤メソッド」 丹綾芳春   2月 8日(金)12時42分30秒 < mcda026n027.ppp.infoweb.ne.jp>
 さっそくのご返事、ありがとうございます。   
 齋藤氏の著書は、騒がれる前に書店で見て、安易な本だなと思い、買いませんでした。まさかベストセラーになるとは考えませんでした。3月には「泥鰌本」つまり続編がでるそうです。軽くて安易な本がこの国では売れるようですね。
 さて、「文藝春秋」は、別な記事が読みたくて買いました。そこに、あまりにひどい論考があり、書き手があのベストセラーの著者だと分かり、あきれながら、齋藤氏の何冊かの著書を読んでみました。「斎藤メソッド」(前回messodoと打ち込んでしまい、メッソドとなってしまっていました。お恥ずかしい。)のことがそれなりに詳しく書かれていた「子どもに伝えたい<三つの力>」を、とりわけ熟読してみました(この本、タイトルは、子どもに身につけさせたい、でなく、伝えたい、なのですね。これまた安易だと感じました)。
 「斎藤メソッド」を、全国の迷える<安易な>教師たちが取り込んだら、また、親たちがそれに巻き込まれたら、とんでもないことになると思います。本欄の読者の皆さんにも、ベストセラーで浮き足だっている齋藤氏のありようを、ぜひ、見つめてみてください。 
 私は、小学3年生の双子の娘たちに、漱石の「夢十夜」や、マルケスの「百年の孤独」、あるいは、「マクベス」や「聊斎志異」などを、3色ボールペンで線を引き引き、読ませる授業を受けさせたくはありません。授業の初めにされるという先生方の「表現よみ」がどういう質のものかで、子どもたちの文学の読みがいかようにでも変わっていくことでしょう。授業者が、黙読をみっちりやって、限りなく深い読み取りの後に朗読してくれればよいのですが、それは期待薄です。文字づらにつられた安易な音声化の「表現よみ」をやられてしまいそうです。それではたまったものではありません。それに第一、小学生にあんな作品を選ぶ齋藤氏の感覚が、私には理解できません。名作だとしても、その作品と出会うにふさわしい時期はあるはずです。
 また、私は、5年生の長男に、「産業革命と帝国主義はどのような関係にあり、現代の日本にそれがどのような影響をあたえているのか」、「ヨーロッパ的世界とはおよそどのような世界か」などといったことを復唱練習させられる授業を絶対に受けさせたくありません。先生方がどういう視点で各項目の「説明」の講話をし、また、どういう話し言葉でそれをするのか、気になります。ちゃんとした話し言葉になっていないおそれがあります。こんな暗誦に意味があるとも思えません。 私は、「斎藤メソッド」をとうてい容認できません。

 ということで、まずは、渡辺さんのご意見を楽しみにしております。文学教育や、音声教育、ひいては教育そのものをゆるがしかねない、とんでもないものが出現してきました。皆様がたも、この欄に、どうぞ建設的なご意見をおよせください。渡辺さんのご著書にふれて発言してくださればありがたいです。(注=下線は引用者)

※ 斎藤氏の本についての感想は正直なものだろう。繰り返し「本欄の読者の皆さん……」と、わたしの掲示板の読み手に呼びかけているのは、掲示板の利用の態度の表現でもある。わたしがひっかかるのは、「授業者が、黙読をみっちりやって、限りなく深い読み取りの後に朗読してくれればよいのですが」という部分である。黙読から朗読へ入るというとき、その黙読は音声を伴わないものなので、音声表現によるフィードバックを経ない観念的な解釈が生じる。わたしは最初のよみからの音読をすすめる立場である。つまり、「朗読」を体裁よく仕上げていくようなよみとは考えていない。ところが、そのあとにはもう、「文字づらにつられた安易な音声化の「表現よみ」をやられてしまいそうです」と表現よみへの攻撃も仕込まれている。
32.初読からの表現よみ 渡辺知明 2月 9日(土)10時23分28秒 < f077119.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾芳春さん、こんにちは。

たんあや・よしはるさんとお読みするのでしょうか。男性のかたですね。もしかして学校の先生でしょうか。――そんな知識で書き方が変わります。

今度の書きこみから、『子どもに伝えたい〈三つの力〉』を読んでみようと思いました。感想、意見などはそれからです。ところで、表現よみについていわゆる「模範読み」のような授業をお考えですね。わたしはそのようなやりかたには反対なのです。また、仕上げとしての表現よみというように限定していません。よみはいつでも不完全なものですから、第一読からも内容理解に集中して、さぐるようによむことをすすめています。そして、必ず「記号づけ」(わたしのWebページ「表現よみ指導入門」参照)もしてもらっています。要するに個々の読み手にとっての読み深めを基礎にして、音声の表現へと発展するものが表現よみであると考えています。

※ 前のメールにあった表現よみへの批判を、わたしは善意の批評と解釈した。「第一読からも内容理解に集中して、さぐるようによむ」という考えは、音声化によるフィードバックにこそ「よみ」の本質があるということだ。黙読による解釈は否定しているわけではない。最初から音読による理解と表現が始まらねばならない。それをフィードバックして聞くことで、よみの理解の深まりがある。そこに表現よみの本質がある。「記号づけ」は、解釈によるものでなく、音声表現からのフィードバックの記録なのである。相手の「朗読論」は読み手が一方的に聞かせるもののようだ。読み手の理解の一方的な「伝達」だ。「朗読」を表現と考えるか、伝達と考えるかの根本的な対立点である。
33.ご意見、楽しみに待っています。 丹綾芳春   2月12日(火)00時09分55秒 < 1Cust174.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
渡辺知明さん、こんばんは。

わたしの名は、にあや・よしはる、です。丹塗りの宮大工が祖先のようです。私は学校の先生ではありません。小学校の「教師と親の会」会長をしていますが、本職は神奈川県警の警部です。評判が悪くて困っていますが。

齋藤氏の著書を読まれていることと思います。ご意見を楽しみにいたしております。

※ これまでの書きこみの mcda *** infoweb から、ここでアドレスが変わった。(1)のメールNo.10「内藤節子」1Cust40.tnt4.tko2.jp.fj.da.uu.net と似たアドレスからのメールである。ただし、tko2 と sagamihara とがちがっている。このメールは、No.32のいちばん重要な内容を受け止めていない。それが意識的に無視しているのか、あるいは、もう表現よみの本質などについて考える柔軟な頭がないのだろうか。それよりも、「丹綾家」というフィクションの世界を作り上げるほうに考えが行っているようだ。
34.斎藤氏の文藝春秋論文批判 渡辺知明   2月14日(木)08時34分51秒 < h201211.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾芳春さん、こんにちは。

お名前と自己紹介など了解しました。斎藤孝氏の文藝春秋論文「声に出して読む理想の国語教科書」をじっくり読み直すうちに、わたし自身の表現よみの理論との関係で三十枚ほどの批評論文を書く気になりました。書き上がりましたら、何らかのかたちでお読みになれるようにするつもりです。

今回は批評の基本点だけをここに箇条書きで発表しておきます。
1 国語教科書の「目次」というより個人的な好みの作品リストだ。子どもたちの成長段階との関連で選択されていない。文学文と説明文という文章の基本的な区分もない。
2「国語は体育」と自ら発言するとおり「朗読」が表面的な肉体訓練のようにとらえられている。国語教育でどのような能力をつけるのかという本質論がない。
3 作品を読むということが、「筋がわかればいい」「テーマがとらえられればいい」という浅いものになっている。翻訳の作品を日本語訳を問題にせずに教科書にとりいれている。
4 作品の読みの授業に「朗読」を応用しているが、子どもたちの自身の読みを育てるものではない。三色ボールペンによる線引きは示された情報を拾い出すだけのものだ。
5 結論として、斎藤氏には、文章の「読み」についても、「朗読」についても、「国語教育」についても理論的な基礎となるものが貧しい。

※ 問いかけがいい機会となって、『文藝春秋』2002年2月号掲載の斎藤氏の論文を読み直した。それはありがたいことだが、そんなことは、この事件全体の問題から見れば、ごく小さな利点に過ぎない。
35.追加・斎藤メソッドの意義 渡辺知明   2月14日(木)08時41分19秒 < h201211.ppp.asahi-net.or.jp>
わたしも『子どもに伝えたい〈三つの力〉』を買ってきました。まだ、ざっとながめただけですが、いわゆる「斎藤メソッド」についても、「国語は体育」という肉体訓練の次元までの実践については、それなりの意義があるのではないかと思っています。

問題はその次元を越えて、国語教育の分野に入ってきたときに生じるのではないかという感想を持っています。前の書きこみで忘れましたので追加しておきます。

※ 立ち読みをしただけの『子どもに伝えたい〈三つの力〉』(2001.11.20/NHK出版)まで買ってきてしまった。
36.主人が「渡辺さんにエールを」と 丹綾和代 2月14日(木)12時30分30秒 < 1Cust136.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>

 夜勤から戻った夫が渡辺知明先生の書かれた「文藝春秋斎藤論文」批判を読んでニコニコしながら寝てしまいました。「昼過ぎのテレビに斎藤孝って人出るんだな、見ておいてくれよ。渡辺さんにはエールを送っといてくれよな。」と言いながら。
 教師の夢も抱いていた夫です。免許状も持っている夫ですが、父親のあとを継ぐようにして、お巡りさんになりました。中学や高校を回る仕事が多く、それを生きがいのようにしていますし、署の柔道場で小中学生を教えるのが楽しみだといつも申しております。さばけた県警で、父母の会に出席するときは職免にしてくださいますし、内容によっては出張扱いにしてもらえます。
 最近、よく、お風呂の中でぶつぶつ言っていますので、覗いて「なにやってるの?」と聞きましたら、「会長として今度の卒業式に祝辞を述べなくちゃいけないんだ。なにも見ないで語り掛けたいから練習してるんだ。子どもたちも見てるしさ、かっこよくやりたいじゃんか。30秒くらいでビシッと決めたいんだ。」などと笑いながら言っておりました。「渡辺さんの表現よみは参考になるよ。間とか、さ。強弱なんかも。」無骨な主人が照れながら付け加えました。
 ところで、私は公文で教えていたことがあるのですが、2足す5は?の問いに、7、と答えられる2歳の子が、5足す2は?に答えられなかったとき、目からウロコが7,8枚はらはらっと落ちて、公文のメソッドのまやかしに気がつき、公文の仕事から足をあらいました。斎藤孝さんは、訓練とか練習がお好きのようで、公文を著書のなかで持ち上げていますが、私は、正直なところ、その一点だけで斎藤孝さんを信じる気になれません。「分かる」と「できる」の本質的な違いが分からない人だと思うのです。分からないのに非常に「出来た」学生さんだったのでしょう。そして、そのまま助教授になったのでしょう。教育学を講じる先生としては致命的ですね。教わっている明治の学生さんが気の毒です。いえ、その学生さんにいずれ教わる子どもたちがかわいそうです。
 渡辺先生は、批評の基本点を5つお書きくださいました。1は、なるほど、と思いました。遊びごころであれを「理想の国語教科書」と斎藤さんが言っているのならともかく、本気だとしたら、キチガイ沙汰です。あっ、これ、差別用語ですね。でも、差別といえば、斎藤さん自身が差別を内に秘めた人だと思うのです。救いがたい選良意識がある、ということです。差別された経験者は、差別のこころを隠し持つ人に過敏になるものです。私の素朴な実感ですが、当たっているはずです。渡辺先生にも、選良意識があるのではないでしょうか。もちろん、よい意味での選良意識です。斎藤さんのとは違います。自信はそれに由来しているのではありませんか。斎藤さんは、いつか足元がふらつき、自信がぐらつき、くずおれるでしょう。渡辺先生の真の選良意識が、それをもたらすのではないかとひそかに期待しております。ニセモノは批判されねばなりません。主人が渡辺先生に期待しているのはその点です。
 2は、はるか昔の義務教育の国語のことを思うとき、納得できます。どのような能力をつけるのか、という本質論、確かにそうですね。「川とノリオ」の授業を28時間かけて習ったことを忘れもしませんが、たった3行で1時間だったこともありました。史上最長の授業だ、ギネスもんだ、って、先生が言っていました。「飼い葉桶って何だと思う?」この問いだけでぐだぐだ議論して40分。あれで何の国語力がつくというのでしょう。3ともからみますが、テーマのために作品なんて無いと思います。私はほそぼそとカルチャー教室で童話創作を勉強しているのですが、書き手にテーマはあっても、それは種であって、それが芽生えて育って実をつけて、その実を食べてもらうために書いているのです。斎藤さんは、種がはっきりしているか、オチがあるかが大切なようですね。文藝春秋のあの論文では並み居る作品群の中に新美南吉の「疣」が選ばれていますが、主題が教えやすいからだと感じました。南吉の作品として佳作だとは思いますが、世界文学史に残りうるたぐいまれな名作の「狐」とか「うた時計」とかでないのが、斎藤さんの底の浅さだと思います。
 あと、4と5も同感です。
 渡辺先生、「斎藤メソッド」についても鋭いメスを入れてくださいね。高鼾の主人の芳春の代わりに書かせていただきました。ありがとうございました。

※ ここでいきなり「丹綾和代」が登場する。「芳春」と同じアドレスで「芳春」を「主人」と呼ぶ。この後で、書きこみの中心になる「和代」を、わたしは実在の人物であることを疑いはしなかった。ところで、相手は女ことばの方が得意なのだろうか。わたしが最終的に「掲示板」を閉鎖したあとで、送られてきた毛筆書きの封書の文字も、いかにも女のような書体であった。そして、斎藤氏を批評しながら、わたしをおだてるような言いまわしをしています。キーワードは「選良意識」である。斎藤氏をそのコトバで批評してから、わたしを同列において、また、但し書きをつけて否定している。しかし、わたしを斎藤氏と同列に選良意識という点で批判することに変わりはない。以後、この考えかたが書き込みに一貫して付きまとってくるのである。あとの下線部分から書き手は新美南吉について詳しいことがわかる。
37.批評、楽しみです。 丹綾芳春 2月15日(金)01時23分57秒 < 1Cust153.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
妻がながながと書いて申し訳ありません。
妻によれば、斎藤という人の朗読はただの音読で、渡辺さんの「表現よみ」とは比べ物にならなかったそうです。ビデオがないので録画できなくて、聞けなくて残念でした。渡辺さんはテレビに出られないのですか。

※ 「和代」が書いた後で「芳春」の登場である。「和代」が批判して「芳春」がおだてるという役割分担がありそうだ。警察の取調べで、脅し役となだめ役がいるようなものだろう。そのあたりの表現は巧妙である。
38.「独演会」いかがですか? 渡辺知明 2月15日(金)09時13分19秒 < g033231.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾和代さん、丹綾芳春さん、書きこみありがとうございます。

和代さんの長い書きこみはうれしいものでした。じつは、斎藤氏の批判を書いているうちに、ベストセラーで、ちょっとした「朗読」ブームになっているので、朗読の文化のレベルがあがるような方向に積極的な発言をしようと思ったからです。斎藤氏の考えはいくらでも批判のできるものですが、それよりも、わたし自身の表現よみの理論を打ち出すような論文にしたいと思ったのです。わたしは、昨年秋には、チェーホフ演劇祭(シアターX(カイ))の講演でチェーホフ「すぐり」をよみましたが、まだまだTVに出るような知名度はありません。「表現よみ」の名称も同じです。

ところで、3月2日(土)3時から、JR山手線大崎駅前のニューオオタニイン東京で、わたしの独演会があります。50席のところ、まだ10席ほど空いています。出し物は、チェーホフ「たわむれ」、中島敦「山月記」、太宰治「瘤取り」です。お出かけになりませんか。チケットは2000円です。

※ わたしには、まずはわたしのよみを聞いてもらいたいという気持ちがある。「朗読」とはこういうものだという固定観念がなければ、聞いたものがいいかわるいかは感じられるだろうと思う。それが独演会への誘いとなった。
39.「ベロだしチョンマ」を聞きました 丹綾和代・蘭・すみれ 2月17日(日)14時30分37秒 < 1Cust100.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
きのうがっこうで モチもちの木 のがくしゅうがおわって、月永せんせいが これをきいてね といって、カセットをかけてくれました。なんなのかな、ってたのしみにしてたら、さいとうりゅうすけさんの べろだしチョンマ というお話でした。うちに帰ってお母さんにいったら、ここにもたしかあったよ といって渡辺さんのホームページをきかせてくれました。がっこうできいたのと同じお話でした。おやくにんさんがずるそうで、わたしはきらいです。やしろが何回もできて、おもちゃもできてうれしかったです。わたしは小さい梅からころすのはひどいと思いました。 蘭

すみれのクラスでもおととい ベロだしチョンマ をききました。今の渡辺さんのこえとおんなじでした。秋田谷先生たちは渡辺さんのをろくおんしてきかせてくれたのだと思います。チョンマのおかあさんがちょっと女の人じゃないみたいでした。やさしくないおかあさんでした。おとうさんがじきそにいくのだから、きっとチョンマとうめが知らない間に、ふたりでいっぱい話し合ったのだと思います。はじめはいやだっていったと思います。でも、おとうさんのこころをおかあさんが分かってあげたから安心してチョンマとうめのね顔をずうっと見てからそっと夜中に家をぬけだして、村の人たちのためにじきそにおとうさんが行けたんだと思います。そんなおとうさんのおくさんなのだから、おかあさんはだれよりも強くてとってもやさしい人だと思いました。 すみれ

今日、朝日新聞に斎藤孝さんと谷川俊太郎さんの対談が大きく載っていました。特集記事かと思ったら、新聞の上の片隅に「前面広告」と書いてありました。読んで夫は、なんかちがうんだよな、と言っておりました。なにがどう違うかはうまく言葉にならないようでした。そろそろ売れ行きが落ちてきて在庫が大量に残りそうだから派手な広告打ったんだろう、ともつぶやいておりました。夫はP連の会合にいま行っております。できたら話題にしたいと言っていました。P連には校長先生がたも出席されますので、あんまり期待できないけど反応は楽しみだと言っておりました。
「独演会」のご案内ありがとうございました。3月3日(日曜)に私の父の三回忌の法要があって、前夜から故郷の都城市に子どもたちを連れていくことになっており、残念ながら出席できません。申し訳ございません。第2回には必ず参加させていただきます。お許しください。 和代

※ 今度は、子どもの登場である。わたしが録音を公開している「ベロ出しチョンマ」のことだが、小学生の子どもの感想のようであるが、そこには、わたしのよみへの批評がでている。とくに、「すみれ」の解説する「おかあさん」の状況は、こういう理解がないから下線のようになると説得しようとしている。独演会の断り、また、この後の住所など実在につながるようなことはすべて拒否をしつづけることになる。そもそも、すべての書きこみが返信アドレス無記入なのである。
40.「ベロだしチョンマ」の感想 渡辺知明 2月17日(日)16時20分11秒 < f078157.ppp.asahi-net.or.jp>
お知らせありがとうございます。わたしのよみを利用してくださる先生がいるのですね。蘭さんもすみれさんの感想はとても率直で、作品の内容をよく受けとめてくれていますね。

でも、すみれさんのいうとおり、まちがいなく、わたしの録音なのでしょうか。できるなら、その先生から、一言「使いますよ」とお知らせがあるとうれしいかったですね。その先生たちと連絡が取れないでしょうかね。ご希望があれば、出かけていってナマで読んでもいいなあと思っています。

また、独演会のことも了解です。第2回は半年後にしようかと思っています。もうチケットは売り切り直前です。

※ 今度は、子どもの登場である。わたしが録音を公開している「ベロ出しチョンマ」のことだが、小学生の子どもの感想のようであるが、そこには、わたしのよみへの批評がでている。とくに、「すみれ」の解説する「おかあさん」の状況は、こういう理解がないから下線のようになると説得しようとしている。だが、わたしの解釈する「おかあさん」はそうではない。この場面では、長松に口止めをするための口調である。よみの場面は、ここに解説されたような全体状況のような抽象的なものが表現されるのではない。独演会の断りもそうだが、この後、住所など実在とつながることの通知はすべて拒否をしつづける。そもそも、すべての書きこみが返信アドレス無記入なのである。
41.やっぱり録音は渡辺さんのでした。 丹綾和代 2月19日(火)12時07分09秒 < 1Cust159.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
娘に手紙をもたせて先生にお聞きしたところ、やはり渡辺さんの表現よみでした。3年1組担任で学年主任の柾谷明先生から先ほどお電話があり、「あの録音は主任の私が見つけました、ホームページで無料公開されているので問題ないと考え、たまたま著作権継承者(斎藤隆介氏のなんと4番目の奥様で、千葉県四街道市在住のかただそうです)を存じ上げているので、その方にご挨拶かたがたお伝えして故人の名作を使用する許可はじかに得ました、奥様はこの表現よみのことをご存じありませんでした、学校でこの次また使わせていただくときは、礼儀として渡辺氏にも事前にご連絡させていただきます。ところで、校長が、天声人語の林ヨウコさんとか森本レオさんとか田口イエスタさんとか、あのなんとかという奇妙奇天烈な格好の作家の人などを周年行事に呼びたいね、呼ぶなら目立つ人がいいね、と言っていましたから、冗談はやめてください、呼ぶんならそんなんじゃなくもっとちゃんとした人たちにしてくださいと要求しました、学年主任としても足柄地区国語部長としても、うちの学校だけでなく足柄の全部の学校の子どもたちのために素晴らしい朗読者を呼びたいと常々思っているんですが渡辺氏にどなたかを推薦していただけないでしょうか、ともあれ今回は、そのことも合わせて渡辺氏になにぶんどうぞよろしくお伝えください」とのことでした。とりいそぎご連絡いたします。

※ 「柾谷明」という人がいて、「著作権継承者(斎藤隆介氏のなんと4番目の奥様で、千葉県四街道市在住のかただそうです)を存じ上げている」ということがあるなら、わたしもよみについての許可を得ようと思って、インターネットで調べたこともある。しかし、見つからなかった。
42.お知らせ感謝! 渡辺知明 2月19日(火)14時43分10秒 < f076160.ppp.asahi-net.or.jp>
お知らせありがとうございました。まずは、柾谷(まきや?)明先生によろしくお伝えください。わたしは責めているわけではないので、「子どもに聞かせます」とお知らせしてくださるとうれしいということです。でも、縁というものはおもしろいものですね。まさか、斎藤隆介さんの奥さんとのつながりがわかるとは……。わたしは斎藤隆介作品については、一度どこかで、子どもたちの前でよんでみたいと思ってますので、学校で呼んでくださるなら、よろこんで出かけていくつもりです。でも、学校というところは、むずかしいところですから、なかなかむずかしいでしょうね。そうそう、わたし自身、どこかで有料で斎藤隆介さんをとりあげるときには、お知らせしなければなりませんね。

※ No.41に書いたコメントについての、わたしの考えを述べている。
43.「山月記」のことなど 丹綾和代 2月19日(火)19時50分47秒 < 1Cust80.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
こちらこそありがとうございました。柾谷(まさや)先生にお電話を差し上げて、渡辺さんの掲示板のことをお伝えいたしました。見てみます、とおっしゃっておいででした。前に保護者会のおり、担任ではありませんけれど、万年文学青年ふうの柾谷先生に児童文学のことや朗読のことであれこれお話しいたしましたら、「学生時代に、なにかいい朗読を先生方から聴かれたのですか」と言われましたので、高校のとき、板井正義という漢文の先生が「山月記」を朗読してくださったこと、それがなんとも心にしみる語りだったことが忘れられない、ということをお話しいたしました。それを覚えておいでの柾谷明先生が、今日のお電話の最後に、「恒多くん(5年生の長男)にある本を持たせますから、読んで、というか、聴いてみてください」とおっしゃったので、サッカー少年の息子の帰りを待っておりましたら、ハイと息子が差し出したそれは、なんと明日2月20日発行の新しい本でびっくりしたのですが、
 「山月記」をよむ
 というタイトルの、CD付きの本でした(1600円、三省堂のです)。すぐにCDを聴きました。私が昔聞いたのはドラマチックな語りでしたから、このCDはあまりにたんたんとしていて、物足りなく感じました。そういえば独演会で渡辺さんも「山月記」を表現よみなさるのでしたね。お借りしたこの本は高橋俊三というかたの編集で、CDもその高橋さんがしています。渡辺さんはこの高橋俊三さんをご存じでしょうか。もし聴かれたら渡辺さんはどんなご批評をされるのかなと思いました。渡辺さんも、ぜひライブのCDを出してくださいね。期待しております。
蘭が、渡辺さんの表現よみを聴きたいといってわたしの腕を引っ張りますので、ここまででごめんなさい。
44.「山月記」のよみ方など 渡辺知明 2月19日(火)21時29分15秒 < f079110.ppp.asahi-net.or.jp>
お話ありがとうございます。ちようど今、喫茶店で「山月記」のテキストの下調べをしてもどったところでした。高橋俊三という人は、群馬大学教育学部の先生で、明治図書からいろいろな朗読の本を出している人です。ついでに言うと、わたしも一冊、明治図書から『表現よみとは何か』(1995)という本を出しています。

今、作品集にアップしている「山月記」はもう数年前のもので、音訳風のおとなしいよみです。要するに、一人で聞くカセットテープ用として表現を押さえてます。今度の独演会では、50人の前でよむので、もっとずっとテンションがあがります。ナマの会場で聞くことにはそんな実況としての表現がありますね。柾谷先生にも、またよろしくお伝えください。

新しく出る本の内容は、どんなものなのでしょうか。近ごろ、このようにしてCD付きで朗読の本が出るようになってきていますね。

※ 一と口に「朗読」というが、録音して一人で聞くためのよみ方と、会場でナマで聞いてもらうよみとでは、別ジャンルかと思うくらいの差があるものだ。その両方を音声表現とするための基礎となるものが必要である。作品のそのものをどう表現するかということと、それを聞き手に伝えるためにどのような工夫をするかということは別の問題として取り扱う必要がある。
45.交換日記みたいですね。 丹綾芳春 2月19日(火)22時35分09秒 < 1Cust114.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
なんだか家族が渡辺さんと仲良く交換日記をしているようでほほえましい感じですが、一人取り残された気もします。で、ちょっとだけ。
私も「ベロだし」とか「山月記」を休みの日に聞かせていただこうと思っています。録音がたくさんあって、「山月記」を妻は見落としていたようです。全部聴くとどれくらいかかるのでしょうか。
独演会に行かれなくて残念ですが、一人で聴くおとなしい「音訳風」と50人を前にしてのライブのテンションとは、おもしろい違いですね。
斎藤孝メソッドの件もどうぞよろしく。では。
46.齋藤隆介作品リクエスト 渡辺知明 2月22日(金)09時01分13秒 < h200246.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾和代さん、すみれさん、蘭さん、こんにちは。齋藤隆介作品は、わたし大好きです。よんでほしい作品はありますか。
「表現よみ作品集」では、リクエストにお答えしています。あったらここに書き込んでください。

※ わたしの「表現よみ作品集」のページでは、もともと表現よみ作品についてのリクエストを募集していた。ここであえて書いたのは、実際の作品のよみを聞いてもらって、直接、その反応を聞きたかったからである。
47.リクエストです。 丹綾和代 2月23日(土)20時28分55秒 < 1Cust13.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
独演会は完売とのこと、おめでとうございます。柾谷先生にその旨お伝えいたしました。
 
蘭は、「モチモチの木」、すみれは、「ゆき」と「しにがみどんぶらこ」、私は、「ちょうちん屋のママッ子」「寒い母」「日本のおばあさん」です。斎藤隆介作品、どれか一つでもお願いいたします。

私の創作童話も表現よみしてくださいますか。

※ あとになって分かったのだが、この相手も朗読の活動をしていて、読み慣れているのが斎藤隆介作品や童話のようなものであったのだ。
48.できたら「死神どんぶら」を。 丹綾芳春 2月24日(日)00時21分21秒 < 1Cust22.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
娘たちの机の上の「花さき山ものがたり」という本を読みました。なんとも心にしみるいい作品が多いですね。職業がらか、私は「死神どんぶら」が気に入りました。「ゆき」というのは入ってなくて、ちょっと読んでみたいと思いました。私は渡辺さんの「死神」の声を聞いてみたいです。落語に「死神」という演目、なかったでしたっけ? あれと関係あるのでしょうか。

※ 「職業がらか、「死神どんぶら」が気に入りました」というのはどういう意味だろうか。結果から見れば、相手の性格にはふさわしい職業を設定したものだと思う。人を責めて責めて何かを強いるところに共通点があるかもしれない。さて、ここで「死神どんぶら」が選ばれたことで、いろいろな問題が起こるのである。落語の話題をもちかけてきたのは、この人物がほんとに落語に関心があるのか、それとも、わたしのページにある落語のよみを見たのだろうか。
49.リクエスト感謝! 渡辺知明 2月24日(日)19時36分31秒 < g033250.ppp.asahi-net.or.jp>
ありがとうございます。課題がいろいろ出ました。
斎藤隆介は、まず「死神どんぶら」そして、「モチモチの木」ということに
なるでしょう。『ベロ出しチョンマ』(角川文庫)に収録されたもの優先で
録音しようと思います。ただし、3月2日(土)の独演会の終了後ということに
したいと思っています。「寒い母」はまだ黙読もしてない作品です。

50.「死神どんぶら」待ち焦がれています 丹綾和代 2月24日(日)20時33分52秒 < 1Cust117.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
こちらこそありがとうございます。リクエストが出来るなんて、ステキですね。
娘から聞いてうろ覚えのまま「しにがみどんぶらこ」などと書いてしまい、お恥ずかしい次第です。「死神どんぶら」は、一読、よく分からなかったのですが、再読して(まあまあいい話だな)と思いました。三読して、これは大変な名作かも? と感じました。少し時間をおいて四度五度と読み返してみて、細部の書き込みの凄さに驚かされました。十回くらい読み返してみて、これは創作する上でのバイブルにしてよい作品のひとつではないかと考えるようにさえなりました。余談ですけれど、わたしは創作童話をいくつかの文学賞(小川未明賞その他)に応募したことがあるのですが(みな落選です)、僭越ながら、選者の先生方はわたしの作品を
   <読めていなかったのではないか>
と思っております。偉い先生方がちゃんと読むことができていれば、いえいえ、単に再読をしていただけただけで、一次選考で落ちることはなかったと思うのですが。(もちろん、そうした先生方に「表現よみ」の素養があれば、よみの質は違っていたことでしょう。)
それはさておき、娘や夫がポンと「死神どんぶら」の作品世界に入れたのは、考えてみれば、たいへんなことです。わたしは読み返してやっと入れたのですから。
行きがかり上、「死神どんぶら」を20回でも30回でも読み返そうと思っております。まねをするつもりではないのですが、創作に非常に役立ちそうだからです。
渡辺さんの「死神どんぶら」、それゆえとっても楽しみです。独演会前なのに申し訳ありません。
51.「死神どんぶら」と落語「死神」 渡辺知明 2月24日(日)23時56分54秒 < e143210.ppp.asahi-net.or.jp>
「死神どんぶら」の参考になったのは、たしかに落語「死神」だと思います。
『小三治名席』(講談社αブック)にも、収録されています。死神が死にそうな 人の枕元に座るか、足元に座るかによって、その人の運命が変わるのだそうです。
そこで、仕掛けをして、布団をひっくり返してしまうというお笑いになります。

52.元は落語、本当にそうですね。 丹綾和代   2月25日(月)11時20分02秒 < 1Cust239.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
ご解説くださり、ありがとうございました。駅前の書店(文教堂)で小三治さんのそのご本を見つけました。「まくら」という文庫も一緒に買いました。たしかに落語が元になっているのですね。「死神どんぶら」のユーモアの由来が分かった気がします。
独演会のあと、なるべく早くお聞かせいただければ幸せです。お風邪を召しませぬようご自愛ください。

※ 落語の話題がすすんで、柳家小三治『まくら』(講談社文庫)の話にまでなった。しかし、あとになれば、相手はまるで笑いやユーモアというものの感じられない人間であったことがよく分かる。人を責めて責めて責めるばかりで、人間としての欠点を許すような寛容さに欠けていた。
53.「死神どんぶら」アップ 渡辺知明 2月27日(水)16時49分04秒 < g033038.ppp.asahi-net.or.jp>
本日、「死神どんぶら」アップしました。子どもが少し落語風になりました。お聞きになってください。いくつか、気になるセリフもありますが、三回録音した中で、いちばんいいものです。あとは、ナマのよみで仕上げです。

※ 終わりの「あとは、ナマのよみで仕上げ」という言い方に、わたしの録音についての考えがよく出ている。わたしは、よみは常に未完成であると考えている。そのなかで誠意をつくして、作品に集中してよむこと、そのための練習に意義があると思う。だから録音は目的ではない。自分のよみのフィードバックのひとつの手段である。ページには「表現よみ作品集」としているのは、その方が世間でとおりがいいからだ。
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