更新2002/11/01 「ことば・言葉・コトバ」
● 訪問感謝、あなたは人目の方です(設置2002/10/19)

掲示板事件全記録(1)

【解説】 2002年1月はじめと2月から3月にかけて、わたしの「掲示板」に書き込まれたやりとりの全記録を公開します。最初は喧嘩腰の質問の書き込みでしたが、わたしは誠実に受け止めて辛抱づよく対話を続けました。しかし、最終的には、相手のことばによってわたしの心と精神がひどく傷つけられることになりました。精神的な被害は大きいものです。相手は最後まで自らの存在と本名を明らかにしませんでした。わたしは仕方なく掲示板の閉鎖をしました。その間、相手は、わたしのリンクからたどれる方たちの掲示板にまで書き込みをして、そちらにも精神的な被害を与え掲示板の一時的な閉鎖もさせました。
 最初から掲示板の記録はすべて保存してありましたが、わたしは精神的な打撃から立ち直るまでは正直いって見るのもイヤでした。その後、掲示板に残されたデータから相手を確定できたのでいくらか安心し、全記録を読み直してみると、冷静な読み手ならぱ、どちらの態度がまともであるか理解していただけると判断しました。また、このやりとりを読むことで、音声表現についてのさまざまな問題も探り出せるとも考えました。そこで、半年を経た現在、全記録を公開することにいたしました。
 掲載許可という問題がありました。しかし、もともと相手が公開を望んだ書き込みです。わたしの書き込みをのぞいて、相手はすべてメールアドレス不明の匿名ですから許可の得ようがありません。わたしの受けた精神的な被害を理解していただくためには全記録の公開がふさわしいと思います。インターネットによって同様の被害に遭われた方がたにとっても参考になるかとも思っています。もしも、この公開に差し支えのある方は、わたし宛のメールで本名と存在を示して申し出るようお願いします。
 書き込まれた文章には、書きまちがいも含めて手を入れていません。ただし、読みやすくするために改行をしたところがあります。また、書き込み時刻のあとに Remote Host を記入しました。掲示板の書込みをブラウザの「ソース」を見たときに、記録されているホストコンピュータのアドレスが Remote Host です。書きこみ時刻によって数字は変化しますが、発信地には変わりありません。それを見れば、同一のコンピュータから送られたものであることがわかります(2002.10.18)。
 《更新情報》小さな茶色の文字で、コメントを加えた(2002.10.20)。各メールに番号を付けてNo.15のコメントを書きなおした(2002.10.24)。K.R.ポパー『よりよい世界を求めて』(1995/未来社)で書かれていた「職業倫理」を読んで、この事件についての思いを新たにした(2002.10.29)。本文に注意のための下線を追加した(2002.10.31)。書込み番号をリンクした(2002.11.1)。
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(1)2002.1.4-11 (2)2002.2.5-27 (3)2002.3.1-10 (4)2002.3.14-20 (5)2002.3.20-23

1.新年おめでとう! 渡辺知明 1月 4日(金)22時50分27秒
〈 h202138.ppp.asahi-net.or.jp 〉

みなさん、新しい年です。なにはともあれ、うれしいことです。
正月を越えて、新しい年を生きることができます。
竜美さん、ごあいさつありがとうございました。

※ 事件の前には、こんなのどかな状況だった。「竜美さん」とは「音劇団・竜丼」の方である。事件の最中にも心理的な支援をしてくださった。
2.批評できるほどの読みか 大道寺陽  1月 6日(日)23時32分25秒
< mcda013n042.ppp.infoweb.ne.jp>

「地獄変」などの音声表現をきいて、渡辺氏ご自身はどうあれらを「自評」されるのか、ひどく気になった。基本からしてまるでなってないからである。あんなよみで他人のをよく批評できるものだ、というのが素直な感想。夏目漱石に「素人と黒人」(コクジンではなく、クロウトとよむ)というエッセーがあるが、あれを読んで反省してもらいたい。かなりの玄人と錯覚しておるようだが、救いがたいド素人だと思う。これは消さずに多くの人に読んでもらいたい。では。

※ これが事件の発端である。 Remoto Host:mcda*******.ppp.infoweb.ne.jp に注目してほしい。これからあとの書き込みで、別の人物が登場しても同じアドレスが使われている。威張った調子で教えられなくても、漱石「素人と黒人」は当然読んでいた。「コクジン」なんて読みはしない。
3.大道寺さんへの反批評 渡辺知明 1月 7日(月)08時43分42秒 < f078153.ppp.asahi-net.or.jp>
貴重なご意見ありがとうございます。ひきつづき書きこみくださることを願います。とても、日本的なご意見ですね。批評するものの実践がなければ、批評をするなということですね。また、ご意見に責任を持つためにも、ご自分のメールアドレスを記入して返信できるようにしていただきたかったと思います。もう一つ、「基本」とお書きになっていますが、その内容についても、批評的にさらにご指摘ください。今のままで、たんなる誹謗になってしまいますよ。いわゆる、文字を声にするよみと表現よみとでは、目指すものがちがいます。夏目漱石ついでに、落語で言うなら、志ん生と桂文楽のちがいというものがあるのです。いわゆる「朗読」とはちがいます。

※ いったいどんな人物なのか、インターネットではまったくわからない。名前だけの記入だったので、まず「メールアドレス」の記入を求めた。しかし、これはまったく最後まで実現されず、すべての人物の「メールアドレス」不明だった。「日本的なご意見」は、わたしが常づね感じていることである。上の立場にあると思うものが批判を圧殺するためによく使う論理だ。相手が漱石を出してきたので、一と口に「朗読」とはいってもさまざまあることを指摘しようとした。
4.大道寺さんへもう一言 渡辺知明 1月 7日(月)08時51分37秒 < f078153.ppp.asahi-net.or.jp>
あなたの論理を使うなら「そんなら、あんたはよめるのか」ということになります。しかし、そんな大人げないいい方ではケンカになります。とりあえずは二つのことをお願いします。わたしのよみをできるだけたくさん聞いてください。目的はよみのヴァリエーションにあります。そして、個々のよみについて、「基本」のないところをご指摘ください。また、できれば、深入りするなら、拙著『表現よみとは何か』(1995明治図書)をお読みください。そして、よろしかったらご招待しますから、3月2日(土)の独演会にお出かけください。そのためには、メールアドレスを示してください。

※ この人は勘ちがいをしている善意の人なのかもしれないと思った。「朗読」というものを一色に考えているのではないか。わたしが願ったのは、(1)作品によるよみのちがいを聞いてほしいこと、(2)この人が何を「基本」としているか知りたい、ということだった。ちょうど第1回の「表現よみ独演会」を控えていたので、実際に会場に来て聞いてもらいたいと思ったのである。
5.批評好きの「自評」が知りたい 大道寺陽 1月 7日(月)20時01分28秒 < mcda026n071.ppp.infoweb.ne.jp>
 闇にほうむられるかと思っとったら、そうでなかったので、その雄雄しさに感激した。さて、小生の趣旨の中心は、渡辺氏があれほど批評に熱をいれておられるのだから、ご自分のをどう評されるのか知りたいということだった。それを不問に付したのは、雄雄しくない。まず、自分を批評して、そのことなどから自己を高めて、その高さに応じて批評してくれないと、書かれたほうはたまったものではないよ。
 コンピュータから聞こえてくる渡辺氏の音読は、悲しいかな、作品が読めておらんし、情感はひと色だし、読みつっかかっている箇所はあるし、ひどいものだ。あんな音読しかできん人にほめられても嬉しくないし、けなされた日にゃ、はらもたつってもんだ。自分の批評をまず書けよ、その書けぐあいで、あの批評の真偽や確実性も分かるんだから、ってのが小生の偽らざる本心だ。日本的だなどといらぬことを書く暇に、自評を発表してくれたまえ。
 ところで、1回目の反批評とやらの、憤懣やるかたないといった文面や文体が、実におもしろかった。2回目で少し冷静になっているのも面白かった。渡辺氏に批評された人たちの怒りもかくや、と感じられた。その腹立ちを「初心」のようなものとしてもちつづけていただきたい。
 正体を現せ、というが、貴君が立派になったとき、そう認められる音読が聞けたとき、本名を明かすつもりじゃ。ところで、聞き手意識ゼロの貴君なのに、音読をなぜ人を集めて独演するのか。そこが小生にはわからん。発表するなら、表現よみとかいう造語をお棄てになってはいかがかな。さて、全国の、これを読まれた皆様、渡辺氏の音読をお聞きになって、批評をお寄せくだされ。

※ 威張っている調子に変わりがない。それがさらに喧嘩腰の口調に変わっている。それが虚勢なのか、虚構の態度なのか、わたしはまだつかめなかった。前の二つのメールで具体的なことを書いたので、冷やかし気分の人ならそれで沈黙してしまう。これにはそれなりの熱意が感じられた。前のメールから、わたしのよみをどう呼ぼうか躊躇しているのが「ご自分のを」と「の」の表現にあらわれている。
6.自己批評のむずかしさ 渡辺知明  1月 7日(月)21時10分51秒 < f077033.ppp.asahi-net.or.jp>
 もう書きこみはないだろうと思っているところによく書き込まれました。それに敬意を表します。わたしは、まともな話し合いであるなら、議論は好きなほうです。とちゅうでめげないで、書き続けることに期待します。さて、だれでも、どんな分野でも、自己批評というものはむずかしいものです。それで、わたしは、これまであなたのような他人からの批評をおまちしていたしだいです。しかし、まだ、あなたの批評には具体性がありません。下記の指摘については、どの作品についてのご意見なのか、まず明らかにしてください。
(1)「作品がよめておらん」とは、どういうことでしょうか。作品の音声化とは、作品の何をよむものと、あなたは理解しているのでしょうか。
(2)「情感はひと色」とは、――わたしは情感ではよんでいません。第一に、文章の意味が声によって浮き立つかどうかです。音声の響きではありません。
(3)「読みつっかかっている箇所」――表現にとって大きなキズではありません。この点、音訳とはちがいます。「聞き手ゼロ」とは、単純に聞き手がいないというものでありません。実在の聞き手を意識して、「読み聞かせる」というような態度とのちがいを述べているものです。クラシックの演奏家でも俳優でも聞き手の受けをねらうようなものはいないはずです。
 最後におすすめです。このような議論をわたしは毎日、朗読メーリングリストで行っています。まじめな議論をなさる気があるのなら、ぜひ申し込みください。ただし、第一に本名をうち明けること、自分の朗読経験を表明することは義務です。

※ 正直また書くとは思っていなかったので、ここまで食らい付いてくる人なら議論ができるとうれしくも思った。メーリングリストへの誘いもまともな誘いである。自己批評がむずかしいというのは、逃げではなく、わたしの正直な感想である。わたしは小説も書いているが、自分の作品については他人からの批評を受けるまでは、なかなか見えてこないものである。(3)の発言は舌足らずだ。音声訳のように文字がそのまま正確に音声化されることが目的であるが、表現の目的はそうではないということだ。わたしの頭にあったのは、土門拳が撮ったピンぼけやズレのある肖像写真である。キズはあっても芸術の表現として価値がある。
7.全国の皆様、真の批評を、この欄へ。 大道寺陽 1月 7日(月)22時31分48秒 < mcda026n020.ppp.infoweb.ne.jp>
 ううん、そうですか、ならば、他者への批評を金輪際やめることでしょうな。どうやら錯覚して自負しておられるようですが、真に相手のための批評だというなら、その相手だけにそっと語ればいいこと。愚生の見るところ、渡辺氏は自己の優越感のために批評を公開しているのでしょう。
 ところで、当方の注文にこたえず、はぐらかしの論法で3つの質問をしておられますが、簡単に答えておきましょう。
(1)理解の浅さがニュアンスにでておるということ。解釈が頼りないということ。その作品をより理解している者には、ああ、なさけないほどに浅いなと分かるもんです。そこでじゃが、20年、いや、まあ、10年経ったら、今のご自分の音読を聞いてみてくだされ。そのときに、胸にすとんと落ちて、きっとわかるでしょうから。なるほど、読めてない、と。
(2)言い換えます。声がひと色なのです。情感といえる情感は確かに見当たりませぬ。
(3)聞き手にとっては大きな大きなキズです。イメージが途絶えるし、もしかすると下読みもしていないのかなと心配になって、聞いているどころの沙汰ではなくなりますので。しかし、それよりなにより、渡辺氏よ、「自己批評のむずかしさ」などと逃げてないで、ひとのを酷評するように、ご自身のを正しく批評してみてくだされ。そこからすべてが始まるとおもうのじゃがね。そうそう、漱石の「素人と黒人」、読んでみてくだされ。批評を志向する人の必読文献じゃから。
 いま、思い当たった。小生のこの戯文は、批評なんてもんではない。議論でもないじゃろう。批判というか、全否定というか、「自分を棚に上げた批評のまねごとはやめなされ」という忠告にすぎん。全国の皆様、真の批評をこのページによせてくだされ。末尾に、愚生の投げた小石が大きな波紋を呼び、また、かきまわした濁り水が澄んでくることをねがいつつ、筆を擱く(あっ、「キーボードを脇に置く」と書かなきゃいかんのか)。失礼。

※ 「ならば」が何を受けて言われたことなのかわからない。「自分の批評ができないものは、他人に批評もできない」という論理のようだ。これまた、わたしには「日本的な」論理に感じられる。(1)「理解の浅さがニュアンスに」という表現がわからない。(2)「声がひと色」というのも意外だ。むしろ、わたしのよみは声が変わりすぎるといわれていた。(3)には「なるほど」とうなずかされた。ただし、わたしのいう「キズ」作品全体の評価においてのことだが、相手は作品を聞く過程における心理を問題にしている。その点でのわたしの納得である。このあとも相手から学ぶことがいくつも出てくる。しかし、わたしの善意が踏みにじられ誠実な思いが翻弄されたことの悔しさは残る。
8.点線・破線の文章のことなど(遺言) 大道寺住職 1月 8日(火)03時19分59秒 < mcda013n017.ppp.infoweb.ne.jp>
 瑣末なことですが、書きそびれたので、一点。渡辺氏の文章が悪文だということについて。少しだけ例をあげておきましょうか。全国の皆様も、お確かめください。
 1月7日の「反批評」の項、6行目から8行目が意味不明です。同日の「自己批評のむずかしさ」の項の中の、(2)とされた箇所の、「第一に」以下が支離滅裂です。また、4段落目というか、第4連というか、そこの第2文から第3文へのつながり具合が尋常ではありません。おそらく、書き手の渡辺氏ご本人には、ゆがみのない「直線」のような自然な文章なのでしょう。
 しかし、あたかも「水切り」という遊びに似て、(これは、池とか川とか海などに、薄めの小石を出来るだけ水平に投げ込んで、ピッピッピッと、水面をとびとびに走らせる遊びです。小生、幼かりし日によくやりました。余談ですが、忘れもしない1922年の「しし座流星群」のとき、流れ星でこれを見ました。大気圏を1ミリか2ミリのちっこいちりがピョンピョコ撥ねたんですなあ。感動しました。生涯にただ一度の天体ショー。いやあ、なつかしい。あの時あれを見たかた、この欄にお便りくだされ。閑話休題)、他者には水面上の「点線」しか見えない文章なのです。点線というより、破線ですがね。で、それで意味不鮮明ないしは支離滅裂になってしまうのです。途切れた部分には、渡辺氏の感情が凝縮されていますから、飛躍の際立つ箇所をよく読むと、ニュアンスがわかります。
 例にあげた「第一に」のところは、理路整然としたおだやかな「だいいちに」ではなく、「ようようよう、てめえみてえなやつになんかにゃなあ、でぇいち(第一)によう、なんだこのやろ、ざけんじゃねえんだよ」のような心情が隠されています。それが読めなくて文章の音声化ができるものですか。だれかが、ここの渡辺氏の文章を、いかにも心穏かな紳士のイメージで声にだしたら、ウソになりますな。ここには若干下卑たニュアンスがあります。それを声に染み込ませて、それでもって、作者ないし筆者のかわりに読めるという訳です。
5年10年経つと、筆者の渡辺氏もご自分の現在の心情を忘れ果ててしまい、なにせ「歳月は慈悲を生ず」といいますからね、これは畏友亀井勝一郎の名言です、それで、破線の空白が読めなくなり、「あれあれ、ひどい悪文だ」と分かるようになるでしょう。今は無理でしょうな。われわれには点線か破線でしかないものが、しかもヨレヨレのその線が、いま渡辺氏にはまっつぐの実線に感じられているのですから。
 余計なお世話かもしれないが、井上ひさし氏の「井上ひさひと141人の仲間たちの作文教室」(今月刊行の新潮文庫)を読んで、書くということを勉強してほしい。ゆめゆめ、文章の書き方などを教えようとしないでもらいたい。「作文の秘訣を一言で言えば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね。」と井上氏はお書きになっている。小生も、そのつもりで書いている。貴君もそう努めてほしい。
文は人なり、という。激しい感情に息もたえだえになったような点線のような悪文を、以後、書かないようにしてほしい。これは老いさらばえた小生の遺言じゃと思うてくれ。小生の実感じゃが、ああいう批評を書きつづけていると、人格がゆがみ、それが悪文を書かせるのだ。おやめなされ、他人の批評などは。
 それよりも、渡辺氏よ、もっともっと厳しい目でご自分を見つめることじゃ。ご自身のあの奇天烈な「表現よみ」を反省のこころで見つめかえすことじゃ。悪いことは言わぬ。心は声にでるものじゃ。貴君の声は澄んでおらない。表現読みであれ音読であれ何であれ、どこぞに濁りのある声でやるべきではなかろう。小生は僧侶じゃが、理趣経をいつも唱えておるが、きよらな心でないときの読経は自分で自分の心がいやになる。分かるからじゃ。己がこころの混濁が分かってしまってしまうからじゃ。声とは正直なものよのう。もう一度言う。ひとの批評や誹謗はやめることじゃ。ご自分を愛することじゃ。ご自分の声を澄ませるような生きかたを今からでもすることじゃ。お達者で。合掌。
妙浄山大道寺住職 朝日奈陽源

※ これまで「大道寺陽」を名乗ったものが「朝比奈陽源」となった。「大道寺」は寺の名のようだ。だが、ここで人物を僧侶に固定したのだろう。ここで分析されたような心理がわたしの心にあったことは確かである。しかし攻撃のみを目的としたその口調は下品である。これまでの書き込みを読んでまったく腹を立てないような人がいるだろうか。文章の心理を読みとる能力に感心する。ただし、それは文章のウラよみとでもいうものである。この相手こそ他人の批評はすぐれているが自らへの批評がない。それは一連の書き込みの文章からも言える。
9.おもしろかったです あゆ美 1月 8日(火)10時18分42秒 < mcda013n055.ppp.infoweb.ne.jp>
よくわかんないけど、超おもしろかったです。うそっぽいおぼうさんの、声を澄ませる生き方っていいですね。あゆ、24人くらいの男とつきあってきたけど、ほんと、声でいい人かいくない人かわかるもんね。メールとかって声じゃないから、あゆのことわかれれないからああよかった。でもあのおじぞうさんならわかっちゃうのかな。ああこわ。わたなべさんもがんばってください。あゆでした。

※ ここから軽薄なカラカイがますますエスカレートする。最初の書き込みで示した Remoto Host:mcda*******.ppp.infoweb.ne.jp から、これまでのすべてのメールが送られてきた。「あゆ美」と書いているがアドレスは同一である。現代の若い女性を装った文体で書いているが、文学の実験のつもりででもあろうか。ならば創作者の人物のとらえ方の通俗性も表現している。
10.大道寺様のご意見に大賛成 内藤節子 1月 8日(火)22時01分19秒 < 1Cust206.tnt4.tko2.jp.fj.da.uu.net>
 初めまして。私、”声”のお仕事に携わっている59才の女性です。以前から、渡辺知明さんのよみや<表現よみ>というものに対するお考えに、異議を唱えたいと思っていましたが、なかなかその勇気がなく月日が過ぎてしまいました。久しぶりに、貴ホームページにアクセスしましたところ、大道寺様という方が、勇気ある提言をされているのを拝見し、私も長いこと思い続けてきたことをお伝えしようと決意いたした次第です。(とは言うものの、言いたかった大部分を、大道寺さまに言われてしまいましたが。)
 先ず第一に(大変驚いたことですが)この度の、大道寺さまとのやりとりの中での、渡辺さんの文章が不可解なところが多く、何を言わんとされているのかよくわからないのです。いちいち例を挙げていたらきりがありませんが、このような文章を書かれる方が、よく<ことば>の活動をされているなと、正直、暗澹たる思いでいっぱいです。
 第二に、渡辺さんのよみですが、納得のいく作品は、一つもありません・・・・・・というより、作品に対して、なぜ、あのように安易なアプローチをされるのかと、腹立たしい思いがこみあげてきます。趣味でやっているのならまだしも、多くの方々の上に立つ身で、実に残念に思います。
 3月2日の会へは、申し訳ありませんが、招待されたとしても伺おうとは思いません。(遠方に住んでおりますので無理でもありますが)かなり大変な作品をおよみになるようですが、どのようによまれるか、十分察することができますし、また、そのようなよみをわざわざ伺って聞きたいとは思わないからです。そのうち、また、ホームページに載るでしょうから、それを少し聞かせていただこうとは思います。
 いろいろ失礼なことを書きましたが、長い間、鬱積していたものがどれだけ大きかったかを、お察し下さいませ。まだまだ、書きたいことはあるのですが、私も忙しい身ですのでこの辺で終えたいと思います。くれぐれも、人の批評などなさいませんように。その暇がありましたら、ご自分のよみを是非高めてくださるようお願いいたします。

※ ここで新しいアドレスからの書きこみがある。1Cust206.tnt4.tko2.jp.fj.da.uu.net である。冒頭から提灯持ちのような発言である。示し合わせて書き込んだのではないかという疑問も湧いたが否定はできなかった。ただし、後の調査で中心人物に近い位置にいるらしいとはわかった。この書き込みになると、わたしの日本コトバの会における活動についても非難している。人格攻撃である。このあたりから、「自分のことに関われ、人の指導をするな」ということが繰り返されるようになる。
11.何のための発言? いのうえ 1月 9日(水)00時42分57秒 < 210.238.52.65>
一体、何のための発言なのでしょうか。「表現よみ」について反発があるようですが。あちこちの掲示板で、ケチをつけるためだけの発言を目にすることがありますが、その類でしょうか?不愉快な気分になりますね。適当な場に参加されて直接話をされたらどうですか?

※ 「いのうえ」さんは、わたしのメーリングリストのメンバーである。アドレスからもわかるように、決してわたしの書きこみではない。わたしがメーリングリストで「掲示板」のことを知らせたので、業を煮やしてとうとう発言してしまったとのことである。
12.「聞き手ゼロ」について再論 渡辺知明 1月 9日(水)00時45分15秒〈e140045.ppp.asahi-net.or.jp〉
「聞き手ゼロ」とは、単純に聞き手がいないというものでありません。実在の聞き手を意識するために、いかにも「読み聞かせる」ことになるよみを批判した考えです。クラシックの演奏家でも俳優でも、すぐれた人たちは、聞き手の受けをねらうような表現はしないものです。当人の内部に聞き手を想定して、その聞き手の評価にたえるような表現をします。「聞き手ゼロ」とは、いわゆる「受け」をねらうような表現を戒める考えでもあります。

※ 「再論」というと直前に発言がありそうだが、1月7日(月)21時10分51秒の発言から、あいだに5通の書き込みが入ったあとの発言になる。それまでの反論を読み返して、何よりも「聞き手ゼロ」についての発言が欠けているとの判断からであった。
13.癒されました。うれしいです。 岸里徹 1月 9日(水)01時46分25秒 < mcda026n056.ppp.infoweb.ne.jp>
 匿名の値打ちを再認識しました。匿名だからこそ可能になることがあるのですね。私は酷評されて反論もせずにいましたが、くすぶっていたものが、あらかた消えました。
 「いのうえ」さん、私にとっては、こうなるための、癒しになる素晴らしい発言だったのですよ。(あなたには不愉快なだけのようですね。渡辺さんには、批評される人の腹立たしさを実感してもらうための発言だったわけですが。)大道寺さんだか朝日奈さんだかわかりませんけれども(100歳ぐらいのかたのようですが)、どうもありがとうございました。
 しかし、それにしても、読み巧者は、書き手の心理から行間から、なんだって読めてしまうのですね。渡辺さんも、これからは、うかつには書けなくなるでしょう。下の「再論」は気をつけて書いているようですしね。ここに発言のねらいが見事に生きているではないですか。

※ また別人が登場した。このアドレスも mcda*******.ppp.infoweb.ne.jp である。わたしはこんな名前の人を批評したことはない。ガムのキシリトールからでも考えた名前か。自分で作った「大道寺」か「朝比奈」とやらを、自分で解説することをしています。三人目の人物によって自ら登場人物の整理をしたのだろう。そして、自分の文章の読みの能力の自画自賛である。
14.やはり悪文じゃよ。 おじぞうさんより 1月 9日(水)02時29分28秒 < mcda026n039.ppp.infoweb.ne.jp>
お坊さんとお地蔵さんをごっちゃにされて、小生、苦笑しておる。「再論」は気をつけておるだと? とんでもない、岸里さん、やはり、悪文なのじゃよ。書き手だけが分かったつもりの、不親切な文なのじゃ。いいかね、第2文の中の「ために」は、
・実際の聞き手を意識するために(目的で)、なのか、
・実際の聞き手を意識するために(不必要に意識してしまうせいで)、なのかがあいまいじゃ。しかも、その「意識するために」が、
・読み聞かせるに係っていくのか、
・批判したに係っていくか、それまたあいまいなのじゃよ。さらに、それが「考えです」につながるから、ますます分からなくなる。
 こんなこと書くと、渡辺氏には「ためにする批判」としか思えんじゃろうのう(「いのうえ」さんもそうじゃろうな)(小生の読みでは「いのうえ」さんには渡辺氏の文体と体臭がある。同一人物じゃろうのう)。しかし、違うのだよ。いいかね。書き手は100パーセント本人じゃから、自分を外から見るように自分の文章が読めないと、100パーセント本人じゃない他人には分かりにくい文章になるのだ。
 まあ、指摘するのはこの点だけにしておいて、あとは書かないでおこう。秘すれば花、と言うでの。ところで、99翁はだいぶ耄碌しておるもので、先般、井上ひさひと誤記してしもうたが、こっちの井上氏のご著書をあらためて推薦する。読んでみたまえ。皆々様方。小生のひまごみたよな娘さんも、な。

※ こういう細かい点をつつくのにかけては相手は天才的である。わたしが「再論」で「聞き手ゼロ」について次のように書いた。「実在の聞き手を意識するために、いかにも「読み聞かせる」ことになるよみを批判した考えです。」。しかし、この「ために」を「目的」として読んだときの続き方――「意識する目的で「読み聞かせる」ことになる」という続き方は不自然である。また、「批判した」に係るとすると、わたしの「聞き手ゼロ」の発言とはちがう意見になる。「実在の聞き手を意識する」を否定して「聞き手ゼロ」と主張しているのだから、それを意識して批判するようなことはない。文の意味を捉えずに形式ばかりを問題にするところにも、このあと展開される相手の朗読論の思想と共通するものがある。
15.はじめまして 姫(匿名希望) 1月 9日(水)06時05分47秒 < n02-187.e-tokyo.highway.ne.jp>
 皆様が書き込まれたことにより、渡辺さんの読みに対する否定的な意見が存在している事がわかり、正直ほっとしました。これまで、どの読みを聞いても粗雑な印象を受け、軽薄な読みに感じていましたが、これは「軽妙」な文体・表現なのだろう、「快活」にやればこうなるのも仕方あるまいと思い、自分をごまかしてきたようなところがあります。正々堂々、「軽薄に感じられる!!」と言えればよかったのですが。また、読みの中でつっかえるのは、本番一回きりの録音の中ではやむを得まいと考えておりましたが、それを「表現のキズにはならない」と開き直られると、聞き手としては閉口せざるを得ません。大道寺さんの仰っていたとおり、つっかえつっかえ読まれた文章と、つっかえずに読まれた文章では、やはり聞き手に与える印象は違ってくるのは当然でしょう。「表現」ばかりを追い求めていないで、もう少し聞き手に「伝える」ことを意識してもらいたいと思います。―――
ひょっとすると、軽薄だろうがつっかえようが、今公開されているように読むのが「表現よみ」なのかもしれませんが、「これは表現よみだからこういうよみでいいのだな」という聞き方をする聴衆が果たしてどれほどいるでしょうか。わたしたちが聞きたいのは「理論とその実践」ではなく、「よい朗読・芸術」なのです。ここで公開されているのは、芸術作品ではなく、表現よみのためのサンプルに過ぎなかったのだろうか、と思われます。大道寺さんから望まれた「自評」が公開されておりませんが、これでよいと思っていらっしゃるのでしょうか。  追伸;悪文だからといって他人の文章を否定・非難する必要は感じません。・・・が、わたしのこの文章も、大道寺さんに叱られてしまう?下手糞な文章かもしれないと思うとちょっと気になりますどうぞお手柔らかにお願い致します。やっぱり悪文でしょうか?

※ これも別アドレスからの最初の書きこみである。だが、別人が書いたかどうかは判断できない。批判点はいくらかはっきりしてくる。「どの読みを聞いても粗雑な印象を受け、軽薄な読みに感じていました」という発言から想像すると、均一で安定した声で読むのが朗読だと考えるのだろう。「軽薄に感じられる!!」というのは、わたしの声の高さばかりを気にしているようだ。声が低ければ表現が重いというものではない。そして、「「表現」ばかりを追い求めていないで、もう少し聞き手に「伝える」ことを意識してもらい」という指摘の根本には「朗読」の本質を「伝達」と考える思想がある。
16.分かってきました いのうえ 1月 9日(水)23時03分51秒 < 210.238.52.111>
要するに、どこかで渡辺さんの批評を受けたわけですね。その評価が気に入らなくて「匿名」を利用してこんな嫌がらせじみた発言をしている、と。
「いのうえ」さんには渡辺氏の文体と体臭がある。同一人物じゃろうのう)。(苦笑)残念ながら、そんな恥知らずな真似はできません。私は十数年前に一度だけ渡辺さんの話を聞いた事があります。
 しかし、人に対して「同一人物じゃろうのう」などという失礼な発言ができるのですね。偽装工作を施して発言するという手法を用いる方にとっては常套手段なのかもしれません。
 議論には議論のやり方があるはずです。

※ 再び「いのうえ」さんの書きこみである。「いのうえ」さんをわたしと同一人物だと判断したのは、自分がすでに何人かに化けてきたことからの想像なのだ。
17.文章の書き方を教えている人じゃから 朝日奈陽源 1月 9日(水)23時29分00秒 < mcda026n041.ppp.infoweb.ne.jp>
 姫さま、拙僧が悪文悪文と批難するのは、渡辺氏が文章道の師範だからであります。人に教えておられることをホームページを読んで知ったので、こりゃあいかん、才が無いことを指摘せんといかん、と思って、あえてそうしたのであります。姫さまのご文章は、達意の文章とおもいました。実に分かりやすいし、しかも、心映えのうつくしささえ感じられる、すがすがしいものでした。ご安心くだされ。  姫さま、愚僧、なんともありがたかったのは、「表現よみ」がなんなのか、姫さまのお受けとめ方からよく分かったことであります。はじめ、それは、「表現を読む」ことかと思いました。しかし、「よむ」といっても、音読もあるし朗読もあるし、黙読もある。「詠む」というのもある。そもそも「よむ」という和語(やまとことば)には意味がたくさんある。それゆえ、「表現」と「よむ」をくっつけて新造語にするのは、むちゃなはなしです。
 いやいや、まてよ、「表現を」でなく、「表現して」かいな、と次に考えました。表現して黙読? 身体表現じゃろうかのう、わからん。表現して音読? なにを表現するのじゃ? さっぱりわからん。なんてことはない、この用語からして、悪文じゃったのですなあ。古来わが国には朗読ということば(漢語ですが)があります。それでいいではないか、とおもいました。古いことばに新しい意味を注げばいいのですからな。
 はあ、なあるほど、「表現よみ」とは、粗雑や軽薄やつっかえを是とする安易きわまる音声化を言うのでしたか。それなら、姫さま、そんなものはこの世には一切いらない。お書きなされたように、「よい朗読・芸術」を希求してくだされ。拙僧も、それを、生きていられるうちに知りたい聞きたい出会いたいと、こころよりおもいます。では、お元気で。

※ 「表現」についての無理解がある。というより思考の不足か。この書き手は「読み」の理解は形式的である。「よむ」ことと「理解」や「表現」がまったく別物と考えられている。そもそも文学作品が何かの表現であること、それを声にすること自体がすでに表現であるということの理解もない。はからずもそれが表現されている書き込みである。そして収まるところが「朗読」という固定した観念である。
18.(無題) 匿名希望 1月10日(木)00時00分10秒 < L135203.ppp.dion.ne.jp>
メーリングリストの中での渡辺さんの発言です。私信ではありませんので、引用させて頂きます。
>渡辺知明です。思っていたより、エスカレートしてだんだんひどく
>なりました。あとから書き込まれたものも、おそらく自作自演です
>ね。「内藤節子」とやらいう人は、わたしが招待もしないのに、招
>待を断っています。自らシッポを出してます。おもしろいものです。
>しばらく消さずにおきますので、まあ、お読みになってください。
>わたしの評価についてマイナスにはならないでしょう。

いのうえさん、渡辺さんのこの発言についてどう思われますか?私は、正直に申しまして、呆れました。渡辺さんの批評・批判は好きですが。

※ わたしのメーリングリストのうっかり者が書き込んだものだ。「私信ではない」というが、メーリングリストでのメールは限定されたメンバーの間に配布されるものである。メンバー以外に配布することは私信を公開することにも通じるモラル違反である。「内藤節子」は別のアドレスから書き込んでいるので別人の可能性がある。たしかに、ほとんど相手の自作自演であるが、この人物まで同一の書き手と推測するのは無理である。
19.もう少し言わせてください 内藤節子 1月10日(木)00時21分51秒 < 1Cust40.tnt4.tko2.jp.fj.da.uu.net>
先ず、<姫>という方へ。
同じような感性をお持ちの方がいらっしゃることを知り、うれしく、ほっとしております。貴女の、『わたしたちが聞きたいのは、「理論とその実践」ではなく、「よい朗読・芸術」なのです。』というご意見、大賛成! よくぞ言ってくださったと思います。そのあたりのことを書きたいと思いますので、読んでくださいね。 いのうえさんへ 大道寺様や、<姫>さんや、私の書き込みが、ネット上でのいやみな悪戯と思われ、お怒りのご様子ですが・・・・・・これらの”真摯な意見”を、そのように曲解されるいのうえさんの品性と理解力を疑わざるを得ません。もう少し頭を冷やし、そして、熟読してください。真面目に意見を述べている者に対して、大変失礼です。<なんのための書き込みか>という、いのうえさんの問いかけに、真面目にお答えします。
★渡辺知明氏に、目を覚まして欲しいからです。 <姫>という方の言葉を借りれば、渡辺氏の『軽薄な読み』は、龍之介、チェーホフ等、多くの作者への大いなる冒涜だと思います。(部屋で独りでよんでいるのでしたらまだしも、ネット上で、よみを聞かせたり、人前で公演するなどとんでもないことです。)
★<表現>というものへの”畏敬の念”や”覚悟”が、渡辺氏のよみに感じられないからです。 表現とは、どんな分野でも、もっともっと深さが求められるはずのものです。 うすっぺらな表現や安易な読みを、<表現よみ>が許すというのでしたら別ですが。 <声>による表現をこよなく愛し、大切にしている者にとって、以上のようなことは、許し難く、それゆえ、書き込みをしたわけです。メールにしなかったのは、多くの方々に、これらのことを是非考えていただきたいと思ったからです。
 最後にもう一つ、私は渡辺氏に批評など受けておりません。いのうえさんこそ、底意地の悪い言いがかりをつけています。少なくとも私には・・・・・悲しい限りです。

※ 再び「いのうえ」さんの書きこみである。「いのうえ」さんをわたしと同一人物だと判断したのは、自分がすでに何人かに化けてきたことからの想像なのだ。しかし、この 1Cust40.tnt4.tko2.jp.fj.da.uu.net と、3月以降に登場する1Cust228.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net とは、tko2 と sagamihare とのちがいだけで、よく似ているのである。
20.びっくりしました! 内藤節子 1月10日(木)00時49分09秒 < 1Cust217.tnt2.tko2.jp.fj.da.uu.net>
 一時間以上かけて「もう少し言わせてください」を書き終え、ネットで送ったところ、いつのまにか、大道寺さまと私が同一人物にされていました。
 招待のことは、渡辺氏が大道寺さまに招待しますので聞きに来て欲しいとメッセージを送っていらしたので、きっと私にも言って下さることと思い、先手を打って、お断りをしたわけです。それを、しっぽを出したとか、今度は、渡辺氏本人の品性の下劣さを見た思いで、大変残念です。
 メールなんとかで、こそこそしていないで、初めのころのように、きちんと掲示板で意見を述べられたらいかがですか。あまりにも真摯な思いで貴ホームページに足を踏み込んでしまったがゆえに、より傷ついております。人の善意を踏みにじるようなことは決してしないでください。

※ 正直なところ、このあたりまでやりとりしてくれば、わたしももううんざりという気持になるのも無理はない。メーリングリストでの発言も、応援を求める気持ちもあった。だが、正体不明の者たちに向かうことを考えると、ほかの方たちにとっても大きな勇気が必要であった。そうなると、この書き手の得意なのが人の善意を刺激するようないい方である。いわゆる泣き落としのような表現がこのあたりから始まる。このようにゆすぶりをかける文章表現においてはなかなか見事なのである。
21.せこいじゃん あゆ美 1月10日(木)02時47分22秒 < mcda026n004.ppp.infoweb.ne.jp>
ああつかれた。深夜のバイト、阿佐ヶ谷でしてんだけどさ。しおじいのファンなんだ。かわい〜んだもん。でも、朝日のおじぞうさんも、もっとかわいい感じで、だ〜い好き。だけど、あゆ、まごぐらいだよ。ひ孫じゃ幼稚園じゃん。あのさ、(無題)ての読んでてさ、ほんねってのかな、どこでみつけたかしらないけど、スクープじゃん。渡辺ってひと、せこいなあ。あゆ、だいだいだいだいだいだい、だーいっきらいだよ。あほみたい。腹黒い男、今までいなかったなあ。おじぞうさん、おやすみちゃい。

※ ご存知の自作自演の「あゆ美」さんの登場である。今の若い女性の話しコトバをマネた軽薄な口調は、文章の意味するところと合わせると下品としか言いようがない。
22.あさひ・なそうげん じゃない。あさひなじゃ。 朝日奈陽源  1月10日(木)03時31分59秒 < mcda026n030.ppp.infoweb.ne.jp>
 拙僧の朝の勤行は午前3時からはじまる。高知の田舎寺じゃが、ホームページを造ろうとおもっておる。100歳までにつくりたい。たった今だな、あゆ美嬢のおたよりは。阿佐ヶ谷じゃそうだが、1月20日に阿佐ヶ谷に行く用事がある。s本k子女史に会うのじゃ。女優さんじゃ。阿佐ヶ谷西に住まわれておる。nhkにおられた。大文字にならんな。変じゃな。どこを押せばいいんじゃ?1月20日の夜8時、阿佐ヶ谷駅の改札口に15分だけ立って待っておるから、会いたければ声をかけてくれ。なあに、坊主じゃから、しかも99歳の老人じゃから、すぐわかる。
 一休禅師を知っておるだろう。とんちの一休さんじゃ。あのかたは、80歳近いころ、おしんさんという盲目の女性と深く愛し合っていた。お森さんじゃ。「狂雲集」という書物か、後輩水上勉さんの「一休」「一休を歩く」という名著を読んでみてくれ。森侍者(しんじしゃ、とよむ。おしんさんのことじゃ)は30代。美しい人だったそうだ。あゆさんをお森さんに見立てて、一休禅師の心を垣間見てみたいとおもうておる。
 あゆさんが「せこい」と喝破したように、これはカッパと読む、わしも実はがっかりした。もう渡辺氏など、相手にはせん。失望した。絶望した。おや、もう理趣経を誦経する時刻じゃ。渡辺氏にはかけることばも無いが、この欄の動向はたまに見守りたい。いや、かけることばがあった。狂言綺語は恥ずかしいことじゃよ、渡辺さん。そうそう、スクープしてくださったかた、ありがとうございました。「いのうえ」さんがいらしたことがわかり、愚僧の過ちを詫びる事ができる。「いのうえ」さん、ごめんなさい。我が不明をはじております。しかし、友とする人じゃ無いね、渡辺氏は。つきあうなら、彼をまっとうな人に改心させること。よろしく頼む。つかの間の、この世の旅なのじゃからな。

※ 初歩的な創作技術論には書かれていることであるが、現実の地名や人名などを取り入れることはリアリティの保証になるだろうか。このあたりの書きぶりは、もう羽目を外したドンちゃん騒ぎとでもいった具合だ。
23.匿名の方がたに提案 渡辺知明 1月10日(木)09時07分46秒〈 e142248.ppp.asahi-net.or.jp 〉
せっかくの掲示板です。議論を積極的な方向に進めましょう。わたしのよみや表現よみ理論について「わるい、よくない」というあなたがたのご意見については十二分に承りました。しかし、あなたがたがよくないとするわたしへの批判をどんなに繰り返しても、発展的な議論にはなりません。わたしにいろいろ教えてください。

もしも、音声表現の文化、朗読文化の発展に寄与したいというお気持ちがあるのでしたら、次のようなことを書き込まれたらいかがでしょうか。
(1)この人のよみなら聞けるという具体的な人物の具体的な作品のよみの例をあげること。
(2)どのようにしたら、日本の音声表現、朗読文化が発展するのかという提案をすること。
(3)このようなやりかたをしたら音声表現や朗読の質があがるという方法を示すこと。

メールアドレスも示さない匿名の発言は、無責任で乱暴な意見になりがちです。今後の発言には、正真正銘の本名を名乗るか、メールアドレスを表示するかしたうえで行うようお願いいたします。

※ このあたりで、わたしはもう「掲示板」の閉鎖を考えた。匿名の書き手は勝って放題、わたしの善意を逆手にとって、書き放題である。いくらかでも、考えを変えてまともな態度をとるかと思っていたことがすべて逆へ逆へと進んでいた。このような問題提起をしてもダメだろうという気持で書いた。これは「掲示板」を見つめていた方たちに読まれることを意識した文だ。
24.仕事先で日中書いたものです。 内藤節子 1月10日(木)22時19分43秒 < 1Cust247.tnt1.tko2.jp.fj.da.uu.net>
 朝日奈氏(大道寺様)は、いのうえさんに謝罪されておりますが、私は、その必要は無いと思います。
 いのうえさんは、やはり、渡辺氏と同一人物だと思うからです。なぜならば、いのうえさんの<わかってきました>の中の、”苦笑”と、匿名の方が勇気あるスクープ(?)を書いて下さった中の”自らシッポを出してます。おもしろいものです。(略)まあ、お読みになってください。わたしの評価についてマイナスにはならないでしょう。”の言葉に、同じ顔、同じ心が、見えてしまうからです。
 それに、十数年前に一度だけ渡辺さんに会っただけの人が、このような書き込みをするのでしょうか・・・・・と、ここまで書いてきましたが、いのうえさん、もし本当にいのうえさんが実在する方でしたら、さぞや、腹を立てておられるでしょう。私が、大道寺様と同一人物だと決めつけられたときの気持ちが、少しわかっていただけたと思います。
 それも、私の場合は、渡辺氏の誤読により疑われたのです。私は、<招待されたとしても>と書いております。大道寺さまだったら<招待されましたが>と書くでしょう。それを、”内藤節子とやらいう人は、私が招待もしないのに、招待を断っています。自らシッポを出してます。”とメールでお仲間に送っています。ここまで読解力のない方かと呆れるばかりです。
 それにしても、悲しいです。せっかく、建設的な意見が活発に行われる良い機会でしたのに、このような低レベルのやりとりになるとは・・・・・私の心まで汚れてしまいそうなので、もう書き込みはやめようと思います。自分自身のピュアな心を守るために。
 ここまでが、日中、電車の中などで書いていたものです。帰宅して、渡辺氏の冷静さを装った書き込みを読み、またまた驚き、憂えております。
 メール上の品性を疑うような暴言も含め、さまざまな無礼に完全にだんまりを決め込み、謝罪もせず、また、あれだけ何回も<自評>を求められているにもかかわらず、(人の批評をとことんなさってきたのですよ)全くそれには、応えようともせず、<積極的な方向に進めましょう>と言われても、私の傷ついた心は癒えるはずもなく・・・・・(1)〜(3)にお答えする気も起こりません。大人げないとお笑い下さい。昨夜も書きましたように、善意を踏みにじられた思いは、決して消えないでしょ

※ ここにも人の善意に付け入るような泣き落としの戦術がある。生産的な議論はなく人格攻撃だけである。この書き方は、mcda infoweb の書き手に似ているのだが、確定はできない。ただし、パソコンの文体でも、「…」(三点リーダ)を「・・・」(中点)にするとか、〈 〉(山カギ)を< >(数学の不等号)にするなどの癖をとらえることはできる。
25.真摯な発言 いのうえ 1月10日(木)23時45分39秒 < 210.238.52.26>
内藤節子さん 私は実在していますし、十数年前に一度話を聞いたというのも事実です。
「同じ顔」とおっしゃいますが、私は実は渡辺さんの顔もよく覚えていないのです。(技術的に同一人物かどうか確かめる方法はあるのですよ。)
 それほど腹も立てていません。それこそ(苦笑)です。  私も「よみ」に関しては一学習者です。(学者ではありません。)渡辺さんの著作からも様々なことを学びました。渡辺さんからだけという意味ではなくて、様々な人達から自分に有用なことを学ぼうと思っています。
「表現よみ」は特段新しい研究や実践ではありません。多くの研究者がいます。  私には今回の唐突な議論の展開が理解しがたい。正当な意図や背景が見えないし、発端となった発言から私には真摯な発言とは思えません。

※ いのうえさんは、勇気をもってよく書いたくれた。「技術的に確かめる方法」というのは、掲示板のソースを見る方法だ。わたしの掲示板は、Tea Cup free bbs で、ここには、メールアドレスの記入はなくてもプロバイダーのコンピュータのアドレスは記録される。この時点で、わたしもいのうえさんも、ほとんどの人物が同一の書き手であることを知っていた。しかし、いったいダレが何のために書いたのかは、まだ分からなかった。
26.あさひなさまへ あゆ美 1月11日(金)02時37分38秒 < mcda026n057.ppp.infoweb.ne.jp>
あのさ、おじぞうさん、カン違いしてるよ。(無題)のスクープのさ、さいごの「いのうえさん、渡辺」っての、そっからは匿名のひとが書いた文だよ。「いのうえ」さんがしゃべったんじゃないよ。もいちど見てみて。ふふ、あれで「いのうえ」さんがいるっておもっちゃったんでしょ。おじぞうさんも誤読っての、するんだね。あゆ、おじぞうさんを批判しちゃった。うふふ。批判されて、おこる? それとも、うれしい? ひはんするひとってさ、ひはんされるとむかつくんだよね。うちの店長がそうなんだ。渡辺サンもおんなじだねえ。されていやなことはするな、って、仏教? キリスト経? ウサマビン教?だけどさあ、わたなべってヒト、裏と表の顔があるんだね。多重人格じゃん。裏のメール読んでさ、カルト集団だとかんじたよ、あゆ。オウムみたい。ヒョウゲンヨミ教?節子さんがさ、「いのうえ」さんがいないって、わたなべサンだって、言ってるよね。あゆもそう思うな。顔覚えてないって、笑わせるじゃん。これだけでウソって、みんな思うよ。いるいるっていうのはさ、多重人格だからいるんだよ。おじぞうさん、あやまっちゃったじゃん、あやまることないよ。いないんだもん。
ひとってさ、あやまられたら、こころ、やわらかくなるよね。「いのうえ」さんてさ、おじぞうさんのこと、書いて無いじゃん。こころ、やわらかくなってないじゃん。こころ、ぜんぜん無いじゃん。なんでか? はーい、答えです。それは、そんなひとがいないからだよ。誤読であやまったらさ、ばっかみたい、渡辺がやわらかくなったじゃん。(1)(2)(3)とか書いちゃってさ。あれだけみると、カッコいいけど、裏の顔知られてあんなこと書けるんだから、地獄に落ちるよね。なあんかさ、紳士みたよなこと書いちゃってさ、人格ハカイがいっちゃってるんじゃない? あゆ、つっぱってたから、高校のときまで、だからわかるんだ。おじぞうさんが「いのうえに」あやまったら、わたなべがやわらかくなりました。あさひな爺ちゃんが本気であやまったとこ、あゆ、感動したよ。いないひとなのになっておもっても、感動したよ。20日、コンビ二ぬけだして会いにいくね。じゃあ、ねむいから、おやすみちゃい。ついしん。わたなべさん、匿名でも、無責任で乱暴じゃないよ。あゆ美は本名だよ。みょうじだけ、匿名。鮎美がよかったんだけどな。「いのうえ」ってさ、名前が匿名だよ。注意しないの?

※ とうとう、わたしは「多重人格」「カルト集団」とまで呼ばれた。だが、それも「あゆ美」の発言とすることで、書き手はまったく責任を回避できるのだ。一方の泣き落としといいこれといい巧妙な手口だ。現実社会で「地獄に落ちるよ」「人格ハカイがいっちゃってる」などと面と向かっていったとしたらどういうことになるか。匿名を隠れ蓑にした無責任な発言がどこまでもエスカレートするという例である。
27.やわらかなこころを 朝日奈陽源 1月11日(金)11時43分01秒 < mcda026n016.ppp.infoweb.ne.jp>
 拙僧の名は僧としては本名じゃ。俗名はあるがの。寂聴さんと晴美さんの関係じゃな。
 なあるほど、「いのうえ」さんは、メールアドレスも明記しておらんし、姓名の名のほうが匿名じゃ。あゆさんは面白いことに気がつくのう。
 「いのうえ」さんはナンバー1の忠実な援護者なのに、匿名はいかんという渡辺氏の訓えを無視しておる。と、我らには思える。しかしじゃ。二人は同じき心で仲間じゃから、ご本人も渡辺氏も、匿名と思っとらんのじゃろ。この欄は開かれたものじゃから、われわれ一般人には「いのうえ」だけでも匿名なのだが、そこに気がつかないんじゃから、彼らは意識の或る面が閉塞しておる。あゆさんはカルト集団だと喝破したが、そうかもしれん。喜んでくっついている人たちだけについての謂いじゃがね。(無題)の書き手のかたは、渡辺氏からああいう文章を送ってもらえるお立場にあったんじゃな。かならずしも仲間ではないのだろう。アクセスしたことにより、メールがつながるようになっとったんじゃないかな。あのようなかたをカルトに加えたらばちがあたる。勇気或る立派なかたじゃ。渡辺氏のあの文章の底の、ドス黒いものを看過出来ず、告発したというわけじゃもの。
 気が付かんかった。誤読してしもうた。しかし、わし以上に愚かじゃね、渡辺氏は。相手かまわずシンパと錯覚しておるのじゃから。あれは、渡辺氏が仲間だと思っている人たちにあてた裏のメッセージだったのじゃね。「あとから書き込まれたものもおそらく自作自演ですね。」と渡辺氏は書いている。あとから書き込まれたもの「は」、じゃろう? なんで、あとから書き込まれたもの「も」、になるんじゃ? ここに尻尾が見えておる。「自分も」を心理の底に踏まえているわけだ。あゆさん、あなたが言うとおり、あっちこそ自作自演じゃな。渡辺氏は、さらに、「内藤節子」という人は、自らシッポを出してます、云々と書いているが、ここのところは「内藤節子」さんが鮮やかに読み取って分かりやすく書かれている。舌を巻くほど見事な文章じゃった。
 渡辺氏は、キメテカカリの過ちをおかしたのだ。色眼鏡のことを、亡くなった畏友大久保忠利くんはキメテカカリと言っておったな。ほかならぬその彼が、あのあいまいな用語の「表現よみ」ということを言い出したのだが、彼にはかれの理念があった。新語を作る人には、やむにやまれぬ思いがあるのだよ。既にある語を用いないで新しいことを言おうとした忠利くんには、「表現よみ」は意味のある言葉だった。しかし、この新造語を受け継ぐとき、人を得ないと、思想は内部から腐りだしていく。渡辺氏の代になって、たしかにカルト的になったようじゃ。
 しかし渡辺氏は、なさけないほど「よみ」が浅いのう。文章のそれもじゃが、見通しについてもじゃ。「わたしの評価についてのマイナスにはならないでしょう。」とは恐れ入った。確かにならない。なりっこない。絶対零度の下はないのだから。どん底のマイナスにいるのだから。「いのうえ」さんが書いておる。「私には今回の唐突な議論の展開が理解しがたい。」と。「意図や背景が見えない」と。関心がそんなところにしかないのかと寒々しくなった。カルトらしい反応じゃな。拙僧がそんな「いのうえ」さんにあやまったことについてだが、あれはあのときの本心だから、撤回も削除もできない。我が心の真実として、あのままにしておく。しかし、あゆさん、あなたはいいことを言う。「あやまられたら、こころ、やわらかくなるよね。」
 一つ付け加えさせてほしい。「あやまると、こころは、もっとやわらかくなるものだ。」とね。撤回も削除もしないと書いたのは、我が心のそのやわらかさを気にいってのことじゃ。撤回したら、また少々硬くなってしまう。頑なになってしまう。それは人生の損失だ。ところで、大久保くんが岩波から出した翻訳書、あれはまれに見る名著だ。わしは改版されるたびに一々全部読み返した。いまでも岩波は出しておるのかな。倒産しそうなので、応援したいのじゃが、出ていたら、皆様、買って読んでくだされ。「思考と行動の言語」という表題じゃ。大久保君はいいタイトルをつけた。大文字が出てこんのでカタカナで書くが、エス・アイ・ハヤカワ博士の本じゃ。言葉の魔術にがんじがらめになっておる渡辺氏や、「いのうえ」さんに、特によんでもらいたい。また、あらためて書くとしよう。

※ まったくの言いたい放題である。この書きこみを最後に、わたしは「掲示板」を閉鎖した。「いのうえ」の匿名問題をとりあげているが、その匿名は正体不明の人物たちに対する警戒からのもの、mcda infoweb の匿名は、自分の立場をあらわしてまともな議論をすることができないからである。まったく性質のちがうものである。しかも、そのような細部の問題をほじくりだすことで本質から目をそらしていく。そんな手口を使う人物はもう人間として軽蔑されるべきである。また、初めて大久保忠利の名が登場することから、この人物が「朗読」はもちろん「表現よみ」ということばにかかわりを持つ世界にいることがわかる。ちなみに、大久保忠利氏の翻訳の最終版となったS・I・ハヤカワ著『原書第4版・思考と行動における言語』(1985/岩波書店)の原稿の清書をしたのはわたしである。
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