慶 珊 寺

 山号は花翁山、富岡の領主であった豊島刑部明重が、両親の菩提を弔うため建立したもので開山は伝栄上人である。本尊は大日如来、寺宝には明重、継重父子及び両親花翁、慶珊の木像や、愛染明王像、十一面観音像があり大般若経六百巻が伝えられている。
 ローマ字で有名なヘボン博士が明治のはじめ一時滞在していた時に掲げたという門札が残されている。
 境内には横浜市の指定名木であるくろまつが見事な枝をひろげている。

           (慶珊寺)

豊島刑部明重父子の供養塔

 境内裏手に豊島明重父子の供養塔がひっそりとのこっている。
 寛永5年(1628)当時富岡1700石の領主だった豊島明重は仲人になって、老中井上主計頭正就の長男と大阪町奉行の島田越前守直時との縁談をまとめたが、井上正就は当時大奥で権勢をふるっていた春日局に追従し、将軍の意向と称してこれを破談にし、島田家より羽振りの良い山形城主鳥居土佐守忠政の娘と婚約してしまった。
 仲人の面目をつぶされたと怒った明重は、江戸城内で井上正就を「武士に二言はあるまじき事」とさけんで切り伏せた後、後ろから抱き留めた青木小左衛門をも、我が身もろとも、田楽刺しにして死んだと言われている。(このシーンはNHK大河ドラマ「葵徳川三代」で放映されました)
 息子の継重(13歳)も切腹を命ぜられ豊島家は断絶した。二基の宝篋印塔は姉が供養のために建てたものとつたえられる。


      (右が明重、左が継重の供養塔)

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