三浦半島の歴史 P10  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P10

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島の歴史 ーその歴史と文化」 横須賀市 「横須賀市史」 三浦市 「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 文芸社 「三浦半島通史」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(明治時代T) ;横浜の歴史(明治・大正時代@)

(])明治時代@ [維新後の三浦半島] 明治維新により三浦半島も明治新政府の体制下に入り、やがて町村制がしかれ新しい町や村が誕生しまし た。 江戸幕府の滅亡により浦賀奉行所は廃止され、新政府の進める富国強兵政策により横須賀に造船所や鎮守 府が置かれ、三浦半島の政治的中心地は浦賀から横須賀に移りました。

 <新しい町や村の誕生>
 明治政府は1871(明治4)年に新しい行政制度をつく
りましたが、神奈川県では1873(明治6)年より大小区
制が実施され三浦郡は第十四大区と大十五大区に分
けられ、それぞれ七つの小区にわかれ、大区には区長
、小区には戸長が置かれました。(参考・明治初期の村々)
 区長、戸長は新政府の役人で明治時代の村役人とは
大きく違い、従来の慣例を無視した大区小区制はや
がて住民の激しい抵抗を招き、政府は1878(明治11)
年、この制度を改め郡区町村編制法を実施、村の支配
的地位にある有力者を戸長や村会議員にして、それ
を仲立ちにして農民を支配するかたちにしました。
 これにより三浦郡は78ヶ村であったものが67ヶ町
村となり郡には郡長がおかれました。
 1889(明治22)年、町村制が施行され、従来の町村は
整理されて横須賀、浦賀、三崎の三町と浦郷など十一
村が誕生しました。
 
 <徴兵令の制定>
 1873(明治6)年に発布された徴兵令は当時の一般庶
民にとって大きな驚きであるとともに恐怖でもあり
ました。(関連サイト・徴兵制度)
 三戸村(現三浦市三戸)でも徴兵令を受け、満20歳の
者3人を選抜していますが当時の日記によれば、彼ら
の心境は「人身御供」に出るようであったと記されて
います。
 神奈川県では県内各地に徴兵令の趣旨を徹底させ
ようとして係官を派遣し説明していますが、村民は
納得したわけではなく徴兵免役規則を最大に活用し
て徴兵を免れようとしたようです。
 こうした努力に拘らず徴兵された三浦郡の兵士は
1877(明治10)年の西南戦争で8人の戦死者を出して
います。

西南戦争村別戦死者一覧表(徴兵者)
村 名 戦 死 者 戸主との関係 林 村 1 人 五 男 長 井 村 1 人     弟 上宮田村 1 人 二 男 松 輪 村   1 人 弟 芦 名 村 1 人 三 男 堀 田 村  2 人 弟・二男 久 木 村 1 人 四 男   計 8 人
<地租改正> 徴兵令についで発布された地租改正条例を受けて 神奈川県下の村々では翌年、地引絵図(田畑の面積、 位置などを記した絵図面)編纂のための測量作業が 開始され三崎の三戸村でも1874(明治7)年の6月から 7月にかけて行なわれました。 翌年には土地の所在地、面積、所有者を確定するた めの地押丈量が開始されましたが、三戸村では三ヶ 月あまりもかかっており、時間や労力、費用負担の 多い地引絵図や地押丈量に村民が協力したのは、こ れによって自分たちの私的所有権が保証されたから と思われますが、地租額を定める地価の等級づくり では実際の土地の違いが無視されたこと等から村民 たちの反発をうけました。 「浜浅葉日記」の記事によれば1878(明治11)年1月太 田和村(横須賀市太田和)など五小区の村々の惣代人 、村用掛、正副戸長が土地の等級の見直しを求める嘆 願書に調印しましたが、同年10月11日に畑方新税額 にて地租を収めることになったことが書かれてあり 、一揆にまではならなくてもかなりの期間、村人たち の抵抗が続いたことがわかります。 (関連サイト・地租改正) <横須賀製鉄所> 1853(嘉永6)年6月のペリー来航以後幕府は海軍力 の不足を痛感し、鎖国政策の一環として1635(寛永 12)年以降禁止していた大船建造を解禁、勘定奉行の 小栗上野介、目付栗本瀬兵衛(鋤雲)の尽力により駐 日フランス公使ロッシュに造船所設立を相談、フラ ンス人技師ヴェルニーを主任として1865(慶應元)年 横須賀製鉄所の建設がはじまり、1871(明治4)年完成 しました。(関連サイト・薔薇〔ヴェルニー公園〕) 製鉄所は明治新政府に引き継がれ、内外の船舶の修 理を一手に引き受けたほか、鉱山機械や鉄道のレー ルなど日本の近代化に必要な機械や資材の製造にも あたっていました。 -横須賀造船所から横須賀海軍工廠へ- 横須賀製鉄所は工部省の所管になった完成直後の 1871(明治4)年4月に横須賀造船所となり、その施設 は更に充実が図られ日本各地から造船所見学の観光 客が来るようになりました。 造船所は1884(明治17)年に開庁した横須賀鎮守府 の管轄となり、造船所で働く人の数は3000人近くま でなり、その労働力は地元民だけでなく日本国中か ら集められました。 1887(明治20)年には造船所でわが国最初の鋼鉄鉄 皮鑑「愛宕」が浸水し、造船技術はさらに向上しまし た。 1889年になると横須賀鎮守府造船部と名称が変わ り海軍造船工学校や職工練習所が設置され、1903(明 治36)年には造船部と兵器廠が統合されて横須賀海 軍工廠が誕生しました。 -進水式と横須賀- 横須賀造船所では船卸式と呼ばれた明治初期以来、 進水式の当日には三浦半島や京浜地方から多数の人 々が見物に訪れ、毎回数万人の人が集まったと伝え られています。 天皇陛下が行幸されることも少なくなく横須賀郵 便局前と海軍工廠正門前には天皇陛下行幸を歓迎す る大アーチが作られ万国旗が飾られました。 1906(明治39)年に建造された、当時世界最大級の国 産初の戦艦「薩摩」の進水式には海軍工廠から記念の 絵葉書が発行され、以後進水式ごとに太平洋戦争開 戦の前年まで続けられました。 <洋式灯台の建設> 夜間における船舶の航海に必要な灯台は江戸時代 からも灯明堂として三浦半島では浦賀と城ヶ島(の ちに篝屋)に設置されていましたが、光が弱かったた め遠くまで照らすことの出来る灯台の設置が待たれ ていました。 江戸幕府は1865(慶応元)年、横須賀製鉄所に命じて 観音崎灯台の機械製作をフランスに委託、ヴェルニ ーらの協力により完成、その後明治新政府によって 1869(明治2)年わが国初めての洋式灯台として観音 崎灯台が点灯しました。 観音崎灯台に続いて1870(明治3)年フランスの灯台 機械による城ヶ島灯台が点灯、翌年には三浦市松輪 に剣崎灯台(現在剱崎灯台)が点灯しました。 <小学校の設立> 三浦半島で小学校設立の動きが始まるのは1873(明 治6)年で、政府は小学校設立の推進役に区長らを任 命、小学校の位置と寺子屋の廃止、小学教師の選考を 指示しました。 村々では小学舎設立にむけて準備が進められ二ヶ 月足らずのうちに小学舎は設立されました。 このように短期間の間に小学舎が出来たのは寺子 屋をそのまま利用したり、教員に寺子屋の師匠を任 命するなど地域の在来の施設や教育者を利用したこ とにあったようです。 <自由民権運動>(関連サイト・・民権運動と横浜) -三崎の国会開設運動- 薩長藩閥政府の専制体制を打破し、国民の政治参加 を求めた国会開設運動が全国的な高まりとなるなか 、三崎町では神奈川県下の国会開設運動に先立って、 1880(明治13)年町会議員石渡直道が発起人となって 運動を開始しました。 この運動を知った近隣の村々からも賛同者が続々 と参加、さらに三浦郡役所の筆頭書記加藤泰次郎、三 崎町長小松徳左衛門など公職にあるものまでが運動 に加わり、石渡直道らは横須賀、浦賀あたりにも遊説 し、運動を三浦郡全体に広げる努力を重ねました。 三崎町でこの運動に中心的役割を果たした加藤泰 次郎は三浦郡の自由党の民権運動家として活躍、ま た三浦汽船会社の設立などの事業により地域の発展 を図りました。 -民権結社相東社の設立- 1881(明治14)年、横須賀の民権派県会議員古谷正橘 が発起人となって有志懇談会を開いたのがきっかけ となって三浦半島では唯一つの民権結社相東社が設 立されました。 相東社は懇親会のほかに月一回の演説会を開催、社 長の古谷正橘や社員の鈴木忠兵衛(初代横須賀町長) 、江頭正五郎(第二代横須賀町長)、大塚静喜らは横須 賀の町政の中心人物として活躍し、明治20年代に入 ると大同団結運動に参加し、やがて三浦半島最初の 政論雑誌「よこすか新報」への発行へと進みました。 <三崎臨海実験所> 1886(明治19)年、三崎沿岸の豊富な海の生物に目を つけた箕作佳吉博士が入船の番所跡に帝国大学臨海 実験所の設立を進言し、文部省がこれを建設しまし た。 ここで丘浅次郎氏はシリス虫を、飯島魁氏は新種の 海綿を発見するなど研究の成果をあげ国内外に注目 されるようになりました。 1897(明治30)年12月、この場所が狭いことや人の出 入りが激しくなって研究に支障をきたすことになっ たので静かな油壷に移転しました。 1932(昭和7)年には付属の水族館を開設して観光に も一役買いましたが、水族館は京急油壷マリンパー クの開館後、来館者が激減し1971(昭和46)年8月に閉 鎖され飼育棟になりました。 三崎周辺で採取された海産動物を材料とした研究 報告が学会誌に発表されると欧米からも学者が次々 と実験所にやってくるようになり、1900(明治33)年 にはコロンビア大学教授のパッホート・ディーンが 妻を伴って実験所の客員教授としてやってきました そして帰国の際には三崎で入手した「三浦古尋録」 を実験所に寄贈しています。
三浦半島の大区・小区の区画図,1874年
(図説・三浦半島の歴史より)
地 券(逗子市・小坪小学校蔵)
土地の所有者、地目、反別、地価などを記載 し、政府は地券所持者に土地所有権を認め、 地租を賦課しようとしたものです
1878(明治11)年頃の横須賀造船所
(横須賀の文化遺産を考える会刊行「横須賀 造船所」より)
小栗上野介忠順の肖像画(群馬県倉渕村 ・東善寺蔵)
小栗上野介忠順は日本初の遣米使節をつと め、外国奉行や勘定奉行を歴任し、フランス の支援を得て横須賀製鉄所建設を推進しま した。軍制の改革、フランス語学校の設立な ど日本の近代化に大きく貢献しましたが、大 政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を 解かれ領地の上野国権田村(群馬県倉渕村) で官軍に斬首されました
観音崎灯台
小学校卒業証書・1877(明治10)年、 三浦郡三戸村(前田家、小嶺安蔵氏蔵)
相東社社長 古谷正橘氏像 (図説・三浦半島の歴史より)
東京帝大三崎臨海実験場 初代所長 蓑作佳吉 (東京大学臨海実験所蔵)

蒸気船と三浦
三崎に初めて蒸気船が就航するように なったのは1881(明治14)年のことで、当 時の三浦郡長小川茂周が県議の加藤泰 次郎らと共に三浦汽船株式会社を設立 し江戸への魚介類を押送舟に替えて汽 船で輸送しようと計画したのがはじま りです。 ところが三崎の魚商や魚類荷主は黒煙 を出す汽船に魚介類を積んでも腐って しまうと思いこみ、これを利用せず3ヶ 月あまりで解散しました。 その後東京湾汽船株式会社が三崎に進 出する中で、地元民は1882(明治24)年三 崎町魚商荷主同盟を結成し1号三盛丸 (39トン)を建造、さらに三崎町会議員宮 川長五郎を社長とする三浦共立運輸株 式会社を設立、2号三盛丸(60トン)、3号 三盛丸(130トン)を就航させ東京湾汽船 会社に対抗しました。 その後も三浦共立運輸と東京湾汽船の 対立は続きましたが、1917(大正6)年3号 三盛丸の沈没により対立は終わり、やが て魚類輸送はトラックにとって代わら れるようになりました。
2号三盛丸(高梨健児氏蔵)
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略 年 表
江戸時代(続き) 1864 製鉄所創設の幕議 決定し、フランス公 使レオン・ロッシュ に横須賀製鉄所と ドックの建設の斡 旋を求める 小栗上野介、栗本 瀬兵衛ら、ロッシュ 、ジョーライスとと もに長浦湾、横須賀 湾視察 長州征伐のため三 浦郡中村々の加助 郷が戸塚宿より出 され、二十五ヶ村は 加助反対の願書提 出 1865 幕府、フランス公 使ロッシュと横須 賀製鉄所建設の約 定書を交わす 横須賀製鉄所建設 鍬入式 1866 ウェルニー、横須 賀に来て土木工事 視察 1867 横須賀製鉄所で日 本最初の耐火煉瓦 を製造 明治時代 1868 横須賀製鉄所、新 政府に公収される 三浦郡の大部分は 神奈川県の所轄と なる 大津陣屋の撤収開 始 1869 観音崎灯台点灯開 始 大風雨で田越橋大 破 アメリカ汽船ハヤ マロー号、久里浜沖 で座礁沈没 1870 製鉄所工事による 城ヶ島灯台完成 1871 横須賀製鉄所を横 須賀造船所に改称 横須賀、浦賀、三崎 、金沢、横浜間の郵 便業務開始 峯島茂兵衛が久里 浜坂を開削 1872 岡本伝兵衛、雑貨 屋を創業 横須賀造船所は海 軍省に移管される 1873 県下に区番制がし かれる 浦賀に水兵練習所 を設置 1874 造船所、走水の水 道工事煮着手 逸見地先の海面が 埋め立てられる。 横須賀村に魚市場 と青果市場開設。 大小区制実施 1875 初めての国産軍艦 「清輝」の進水式に 天皇陛下ご出席 1876 稲岡に横須賀電信 局開設。 横須賀村を横須賀 町と改める。 造船所、走水間の 水道完成 1877 平坂が開通。 若命信義氏、陣屋 山(三崎)の官林に 緬羊牧場を開く 西南戦争から帰国 途中の士卒、船中で コレラにかかり、箱 崎の仮病舎に収容、 死者48人は黒崎(浦 郷町)に埋葬される 1878 三浦郡に郡制施行 、初代郡長に小川茂 周就任。 横須賀警察署に浦 賀分署、三崎分署が おかれる。 東京湾汽船会社が 創立される 1879 横須賀、横浜間の 往復通船業務が民 営として開始され る。 横須賀、東京間に も蒸気船が就航。 後に若松町となる 埋立地が完成 1881 三浦汽船会社創立 、東京への魚の輸送 がはじまる。 天皇陛下、観音崎 砲台や横須賀造船 所を訪問、民家に一 泊、水戸浜沖でイギ リス船ウェリント ン号沈没、里民これ を救う 1882 横須賀町海岸、小 川茂周らによって 埋め立てられた土 地に小川町の名が つく。 名越トンネル開削 の第一回陳情が行 なわれたが、却下さ れる。 コレラが大流行し 沼間では厄除けに 神輿をかつぎ村中 をまわった 1883 名越坂トンネル二 ヶ所と新道が落成 する 1884 猿島砲台が竣工。 大暴風雨で田越橋 流失 1885 尻こすり坂(久里 浜・野比間)開削工 事竣工 1886 海軍造船所、船越 に兵器工場(後の海 軍工廠造兵部)を完 成。 走水低砲台竣工。 三崎に帝国大学臨 海実験所設置 (次ページへ続く)