三浦半島の歴史 P15  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P15

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島ーその 歴史と文化」 横須賀市 「横須賀市史」  三浦市 「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 文芸社 「三浦半島通史」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(昭和から平成へ) ;横浜の歴史(昭和から平成へ)

(]V)昭和から平成へ(太平洋洋戦争終了後〜現在) 比較的爆撃の被害が少なかった三浦半島は旧軍港都市転換法の施行により旧軍用財産が基本財産となった横須賀を中心と して復興への道を進みました。 1950(昭和25)年の朝鮮動乱による特需は経済の飛躍的発展をもたらしましたが、その後の高度成長は半面都市への人口集 中をもたらし、三浦半島にも住宅地や団地が造成され緑が失われ産業公害の発生、交通災害の激増、ゴミ問題などがおこりま した。 平成時代に入りバブル崩壊後の三浦半島では官・民・学が一体となった大型プロジェクトが進められています。

 <占領下の横須賀>
 1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えましたが、半月
後の8月30日にアメリカ海兵隊の横須賀上陸が開始さ
れ、横須賀は進駐軍の占領下となりました。
 新しい平和都市を目指す横須賀の戦後の第一歩は9月
15日に梅津市長はじめ各界の代表30名から構成する
「横須賀更正対策委員会」の設置から始まりました。
 委員会はその年の12月に対策要項を発表、工業の振興
、産業の発展、港湾の整備、観光施設の整備拡充,学園の
建設、住宅地帯の設定,交通運輸機関の整備拡充を掲げ
,旧軍の全面的な転換活用により成果を挙げようとし
ました。
 アメリカ軍は1952(昭和27)年の対日講和条約が発効
される迄,バッシャー少将以下6人の司令官が就任しま
したが,なかでも1946年4月に着任したデッカー大佐は
4年2ヶ月あまりも在任し「デッカー時代」と呼ばれる一
時期を築いた代表的な司令官です。

<旧軍港都市転換法と横須賀>
 横須賀市では終戦により軍用財産はすべて一旦米軍
に接収されましたが、その後1945(昭和20)年12月末ま
でに40ヶ所以上の施設が返還されていき1950(昭和25)
年旧軍港都市転換法の施行により旧軍用財産は横須賀
市の基本財産として再生され、市の発展に大きく寄与
するようになりました。
 1950年から1955年迄の5年間に市が無償で譲り受けた
主な公共施設は旧海軍水道施設をはじめ、小学校は鴨
居小学校以下7校、中学校は長井中学校以下7校、公園
は大津運動公園など8ヶ所、その他博物館、保健所、墓地
、消防施設などでした。
 企業用地は東京絹織株式会社(1.2万平方b)、関東自
動車工業株式会社(4.9万平方b)、東京芝浦電気株式会
社(4.1万平方b)、大洋漁業株式会社(2.8万平方b)な
ど7件5企業に及んでいます。
 しかし1956年10月時点では当時の旧軍用財産総面積
の51%は駐留軍施設、6%は防衛庁施設(自衛隊関連施
設)で占められており、今日の姿を見るまでには幾多
の困難な道が横たわっていました。

<六・三制教育のスタート>
 1947(昭和22)年4月から実施された六・三制により小
学校も6年間使用された国民学校という呼び名が市
(町)立小学校となり、三浦半島では33の小学校が再出
発しました。
 三浦半島は戦争の被害が比較的少なかったので戦災
にあった都市に比べると恵まれたスタートとなりまし
たが、それでも疎開の復帰による児童数の増加とこれ
に伴う教室不足、二部授業の開始、教員不足と生活苦、
児童の健康低下、生活苦難から来る社会の荒廃など多
くの問題をかかえてのスタートとなりました。
 同年5月新制中学校は一斉に開校式並びに入学式を行
いましたが、その数は横須賀が10校、三浦が3校、逗子と
葉山が1校づづ計15校でした。
 新制中学校は校舎の整備や教員の確保などここでも
多くの問題を抱えてのスタートでしたが、横須賀では
幸いに不要となった旧軍用施設があったのでこれらを
校舎にあて、ほかは小学校の校舎の一部を共用する形
での開校でした。

<三崎と平和運動>
 1954(昭和29)年3月、焼津の漁船第五福竜丸が南太平
洋マーシャル諸島のビキニ環礁で行われたアメリカの
水爆実験で被爆し犠牲者を出しましたが、三崎でも地
元の漁船第十三光栄丸(119トン)から放射能が検出さ
れ、その後も地元漁船から検出された汚染マグロはす
べて廃棄処分とされました。
 この水爆マグロ事件の影響ですっかりマグロは人々
に食べられなくなり、検査に合格した検印の貼られた
マグロでさえも売れなくなり、南太平洋で操業するマ
グロ漁船を多く抱える三崎の漁業に大きな打撃を与え
ることになりました。
 この事件をきっかけに原水爆禁止運動が活発になり、
三崎町では町助役や町議会漁業対策委員ら一行12人が
水爆実験の即時停止と経済上の損失補填の陳情書を持
って関係省庁やアメリカ大使館を訪ね陳情を行いまし
た。
 運動は漁業被害だけでなく平和運動としても広がり、
三崎地区労働協議会主催の町民大会でも原爆禁止が決
議され、続いて行われた三崎地区各労働組合の労働祭
においても原爆禁止運動の推進が決議されました。そ
の後全国各地で様々な自治体や団体によって平和運動
が繰り広げられ、三浦市でも1993(平成5)年3月三崎魚
市場においてビキニ被災を三浦市三崎で掘り起こし、
核実験被害の実相を解明しようという国際シンボジュ
ウムが開かれました。

<三浦市の誕生>
 政府が地方自治経済の確立を図る目的で1953(昭和2
8)年町村合併推進法を公布すると三浦半島南部の三崎
町、南下浦町、初声村の三町村はただちに町村合併調査
委員会や研究会を設置して合併及び市制についての検
討を行いました。
 当時の三崎町は三崎港をかかえ遠洋漁業の一大基地
であり三浦市の中核として期待され、面積は7.34平方
kmと三町村の中では最も小さかったものの戸数4696
戸、人口22,001人は最も多く、南下浦町は主として農業
中心でしたが、金田や松輪など漁業もやっているとこ
ろも少なくなく、戸数1534戸、人口8,701人,面積は12.8
3平方km、初声村は農業中心の地域で戸数766戸、人口
4,464人、面積10.32平方kmでした。
 1955(昭和30)年1月1日三町村は合併して市制を施行
し、人口36,687人、面積30,68平方kmの三浦市が誕生
しました。
 
<高度成長と三浦半島>
-横須賀周辺-
 1955(昭和30)年頃より国民車構想が発表され、国をあ
げて自動車の生産増強が図られましたが、三浦半島で
はそれ以前に早くから関東自動車が操業を開始してお
り、1951年には追浜地区の接収解除や特需工場跡地に
日産自動車が進出し生産を始めました。
 横須賀市での自動車生産台数は次第に増加し、1960
(昭和35)年には約3万台であったのが、10年後には約65
万台と大幅な伸びとなり、更に久里浜地域には1962(昭
和37)年には、通商産業省から工場適地の認定を受けた
地区を主体とした工業団地が造成されました。
 ここには市内に散在していた鉄工業を主とする中小
企業など80社のほか日本ニュクリアフェル株式会社、
日産自動車横浜工場・久里浜工場などが進出しました。
 久里浜地区の臨海部には日本屈指の発電量を持つ東
京電力横須賀火力発電所が海面を埋め立てて建設され
1960(昭和35)年8月より送電を開始しました。
-三浦周辺-
 三浦半島南部の農業地域では牛馬に代わって動力耕
運機(テーラー)が使われ、また1966(昭和41)年に京浜
急行電鉄が上宮田まで延長され、三浦海岸駅が設置さ
れると、首都圏地域の海浜レクリエーションゾーンと
して注目され、三浦海岸の海水浴場のメッカに変身し
ました。

 高度成長期には宅地の大規模開発が三浦半島でも顕
著となりました。1965(昭和40)年には逗子市小坪の西
海岸が埋め立てられ逗子マリーナの建設が始まり、そ
の一室でノーベル賞作家の川端康成が自殺を遂げたの
は1972(昭和47)年のことでした。
-高度成長の裏側-
 しかし昭和40年代になるとこの繁栄がもたらす様々
な弊害がでてきました。それは産業公害、交通災害、ゴ
ミ公害などで1971(昭和46)年頃より三浦半島でも度々
光化学スモッグが発生し、1974(昭和49)年5月には横須
賀市立常葉台中学校で160名もの生徒がその被害にあ
いました。
 また激増する車によって、交通事故による死傷者は急
増し、大量生産、大量消費は大量のゴミをも生み出すこ
とになり、その処分に自治体が苦慮するようになりま
した。
 
<団地造成>
 三浦半島の中核都市となった横須賀市は1955(昭和3
0)年には所帯数60,890戸、人口279,132人であったもの
が1985(昭和60)年には世帯数130,469戸、人口427,116
人となり世帯数は30年間で2倍以上となり、新規住宅の
必要性から宅地造成が行われ、横須賀市内でも団地が
誕生していきました。
 横須賀市における大規模開発の始まりは1959(昭和3
4)年の市住宅公社による立野団地や翌年の県住宅公社
による鶴が丘団地です。1961年には久里浜工業団地開
発計画につながる平作川沿岸の公卿、根岸土地区画整
理事業が着工されました。
 この時期になると民間企業による宅地造成や住宅建
設が盛んになり、市街地の地価も上昇し、スプロール化
現象が進行しました。

<平作川の水害>
 1984(昭和49)年7月、平作川の河口に近い船倉、久比里
、久里浜地区は大水害に襲われました。この水害により
床上浸水3595戸、床下浸水3403戸、計6998戸の住宅が被
害を受け、この流域での最大の災害となりました。
 平作川は大楠山の麓から久里浜湾へ注ぐ三浦半島最
大の河川で宇東川、矢部川、岩戸川、吉井川などの支流
を持っていますが、この支流を含めた地区では昭和30
年代半ばからの高度成長期に宅地造成、工業団地造成、
土地区画整理事業による開発が進み、流域の30%に及ぶ
場所でその地形を変えていきました。
 この結果、流域では田の69%、畑の59%が減少し、さらに
山が削られて姿を変え、雨水は舗装された道路を一気
に駆け下りて、平作川やその支流に注ぎ込む状態とな
り、山や田畑が持っていた保水能力は著しく低下しま
した。また特に被害が大きかった船倉地区は、もともと
海抜の低いところであり、江戸時代の内川新田開発で
も海水が流れ込まないように砂村新佐衛門がもっとも
苦労したところでした。この時も吉井川が平作川と合
流するところの水門の未整備による逆流が被害を大き
なものにしました。その背景には急速に拡大していっ
た開発事業を優先した結果の護岸工事や遊水機能整備
の立ち遅れがありました。

<平成時代の到来>
 平成時代に入り、三浦半島ではいくつかのビッグプロ
ジェクトが計画、実現され、一部はなお進行中です。
 湘南国際村は1990(平成2)年葉山町と横須賀市にま
たがる188haという広大な丘陵地に基盤整備事業が開
始され、1994年には村の中核施設である湘南国際村セ
ンターがオープンしました。
 湘南国際村には総合研究大学などの公共研究施設の
ほかコスモ石油、ファミリーマートなどの民間の研修
施設や飲食などのサービス施設、居住施設などが整備
されました。
 横須賀リサーチパーク(YRP)は横須賀市の丘陵
地62haに情報技術の研究開発拠点として、1994(平成6
年)基盤整備事業がはじまり1997年にはYRP1番館な
どがオープン、NTTドコモなど進出企業も62社を数
え(2004年12月現在)幅広い研究開発活動が進められて
います。[関連サイト・のばら(YRP野比)]
 三浦市の三崎フィッシャリーナ・ウォーフ(うらり)
は地域活性化と水産振興を目的として2001(平成13)年
にオープンしました。この施設は(株)三浦海業公社が
運営し、マグロをはじめとする魚介類や野菜などを販
売する「産直センター」、多目的イベントスペースの「う
みぎょうプレイス、研修・展示室」があり、コンサートや
演劇など多目的に利用できる市民ホール「シーサイド
ホール」も併設されており、三浦地方の観光拠点として
も期待されています。
 また国の道路整備計画に伴い、東京湾口道路の建設
促進も進められています。この道路は東京湾の入り口
にある「浦賀水道」を横断して横須賀市と千葉県富津市
を結ぶ延長17キロの海峡横断道路で、実現すれば三浦
半島の生活圏が房総半島まで及ぶことになります。

                                        (完)

進駐軍担任区域図(1945年) (市町村名、市域界は現況による。横須賀市史より)
<デッカー大佐>
デッカー大佐は横須賀を日本一よい町にすると 宣言し、進駐軍が民生活動を活発に行うよう指示 したのを受けて市立病院(深田台)の設備改善や 共済病院への慈善病室の寄付などに積極的な働 きをし、また赤十字横須賀支部の創立や新生横須 賀婦人会の設立にも腕をふるいました。 デッカー大佐の徳を称えて1949(昭和24年)には 市役所前の中央公園には胸像が建てられました。
1949年11月29日、横須賀商工会議所の主催でデ ッカー大佐の胸像の除幕式が行われました。 胸像を後ろに笑顔で写真に納まるデッカー夫妻 (横浜商工会議所蔵)

県立横須賀高等学校の卒業記念写真 (昭和20年代末)
1947(昭和22)年の学制改革により旧制中学校は新制 高等学校となりました(図説・三浦半島-その歴史と文 化 より)
第13光栄丸の水爆マグロ投棄を扱った 神奈川新聞 (1954年4月2日付)
魚市場前で行われた三浦市制祝賀式の模様 (目で見る三浦市史 より)
日産自動車(株)追浜工場全景(1971年当時) (横須賀市史 より)
海沿いに広がる馬堀海岸住宅地 横須賀市史 より)
平作川水害の被害を蒙った船倉周辺 (久里浜小学校蔵)
湘南国際村センター (葉山町)
村の中核施設で国際会議場、飲食施設、宿泊施設を備え た研修所となっています
YRP一番館 (横須賀市・光の丘)
三崎フィッシャリーナ・ウォーフ (三浦市・三崎)
「うらり」と名づけられた鉄筋コンクリート造、地上2階 (一部3階)建のこの建物の傍の岸壁からは半潜水式の水 中観光船も運行されています
略 年 表
昭和時代 1945 進駐軍、横須賀の 全軍用財産を接収 1946 B・Wデッカー海軍 大佐第4代米海軍基 地司令官に就任。 住民の食糧事情悪 化、進駐軍放出食料 の配給。 各学校のご真影、 奉安殿の撤去命令 出る 横須賀市内で外人 専用のリンタクが 流行しはじめる 1947 南氷洋捕鯨船団が 長浦港を出港。 新制中学校が発足 1948 新制高等学校発足 久里浜に進出の転 換会社14社となる 1949 追浜総合運動場開 場。 葉山観光自動車 (株)設立 1950 逗子市が横須賀か ら分離独立。 朝鮮戦争勃発によ り、池子の弾薬庫へ のトラックが多く なる。 久里浜の旧海軍通 信学校跡に警察予 備隊が入る 1951 横須賀市内の小学 校の完全給食始ま る 1952 横須賀市内に初め てテレビが備えつ けられる。 逗子第一回の寒中 水泳実施。 横須賀市内の性病 患者6920人を数え る 1953 ペリー来航開国 100周年記念式典が 行われる。 浄楽寺の阿弥陀三 尊、国の重要文化財 に指定 1954 逗子市制施行。 原爆禁止三崎町民 大会開催 1955 三浦市、市制施行。 池子弾薬庫の従業 員大量整理 1956 豪雨で鷹取川が氾 濫。 石原慎太郎の「太 陽の季節」が第一回 文学界新人賞とな り、大反響をよぶ 1957 東京電力火力発電 所起工式。 逗子海岸で第一回 海上ページェント 開幕 1958 台風22号の豪雨で 各地に被害発生 1959 記念艦三笠の復元 起工式 1960 城ヶ島大橋完成 久里浜・金谷間の フェリー就航 1961 日産自動車(株)の 追浜工場起工式。 横須賀市は久里浜 工業団地造成を決 定 1962 三浦市、初の完全 給食が初声小で実 施。 横須賀市立横須賀 病院が焼失 1963 京浜急行電鉄、野 比駅まで延長開通。 三浦市初の自動交 通信号が、諸磯入口 に設置。 国鉄逗子会館落成 1964 横須賀出身の猪熊 功、オリンピック東 京大会で柔道に優 勝 1965 日産自動車(株)の 第一追浜丸、対米輸 出で長浦港を出航 1966 京浜急行電鉄、津 久井浜まで延長開 通 1967 大津、馬掘海岸の 埋立がはじまる。 逗子市池子接収地 返還促進市民協議 会発足 1968 池田団地竣工 1969 横須賀新港埋立工 事着工 1970 野比の第百団地、 久比里の長銀団地、 浦賀の浦上団地な どが竣工 1971 横須賀市で初めて 光化学スモッグ発 生。 葉山御用邸放火に より一棟焼失 1972 夏島貝塚、国の文 化財(史跡)に指定 1973 岩戸団地竣工。 米空母ミッドウェ イが母港後はじめ て横須賀港に入港 1974 台風8号による集 中豪雨で被害各地 に発生 1975 京浜急行電鉄、三 崎口まで延長開通。 三崎五丁目大火 (39所帯全焼) 1976 浦賀丘、桜ヶ丘団 地竣工 1977 日米合同委員会が 池子弾薬庫久木柏 原地区の一部返還 を合意 1978 池子弾薬庫閉鎖 1979 米海軍クラブ(E Mクラブ)の返還が 日米合同委員会で 決定 1980 横須賀線、総武線 相互乗り入れ、横須 賀線の一部、逗子、 久里浜間折り返し 運転となる 1981 第一回三浦国際市 民マラソン開催 1982 逗子市議会、米軍 住宅建設反対と即 時全面返還の意見 書採択 1984 横浜・横須賀道路 で開通記念のマラ ソン大会開催。 逗子自然と子供を 守る会、住民投票付 託条例の直接請求 を申請。 逗子市長リコール 署名、市長辞職 1985 湘南国際村の建設 構想見直しを求め る三浦半島自然保 護連絡協議会発足 1987 逗子市長、辞職届 を議長に提出し、知 事調停案を返上す るについて市民の 信任を問うための 再出馬を表明。 1991 大型ショッピング センター「ショッパ ーズプラザ横須賀」 が本町にオープン 1992 かねだ海業センタ ー開所 1994 湘南国際村センタ ー完成 1997 YRPセンター 一番館オープン 2001 三崎フィッシャリ ーナ開業

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