三浦半島の歴史 P11  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P11

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島の歴史 ーその歴史と文化」 横須賀市 「横須賀市史」 三浦市 「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 文芸社 「三浦半島通史」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(明治時代U) ;横浜の歴史(明治・大正時代A)

(])明治時代A [横須賀の発展] 幕末までは戸数僅か200位の小さな村だった横須賀も造船所の建設により軍都として発展、トンネルの開 通や道路の整備により自動車が走り、鉄道も開通して人口も急増し、神奈川県では横浜に次ぐ大きな町にな りました。 やがて日清、日露戦争がおこり三浦半島全域が要塞地帯に指定され人々の生活にも次第に戦争に引き込ま れていきます。

 <市街地の形成>
 -海軍の町としての発展-
 1867(慶応3)年には僅か214戸だった横須賀の町も
横須賀造船所の発展につれ1872(明治5)年には512戸
と2倍以上に増え、市街地形成もはじまり、造船所が
内外の艦船の修理や海軍艦艇の建造で多忙を極める
ようになると職員の数も増加の一途を辿り、1885(明
治18)年には2212戸と1872年の4倍以上になりました
 この時期には横須賀兵学分校(機関学校の前身)や
横須賀水兵屯集所(海兵団の前身)、横須賀海軍病院
など様々な海軍施設が設けられ、のちに海軍の町と
呼ばれるきっかけになりました。
 -横須賀鎮守府の開庁-
 1884(明治17)年には横須賀鎮守府が置かれ横須賀
には海軍関係の殆どの施設が集まり、海軍艦艇の多
くが横須賀港を母港とするようになりました。
 こうして横須賀には海軍関係者の多くが居住する
ようになり、1889(明治22)年の戸数は3742戸にもな
り、下町地区は殆ど市街地になり新市街地は上町地
区や逸見地区、汐入地区等などの隣接地区へ広がっ
ていきました。
-陸軍関係施設の設置と進展-
 横須賀の町が海軍の町として発展する一方、三浦半
島の沿岸各地は東京湾防備のための陸軍関係の施設
の充実が図られました。
 海軍造船所の設置後、1874〜5(明治7〜8)年頃から
東京湾沿岸の砲台築造の声が高まり1880〜82(明治
13〜15)年にかけて観音崎や猿島に砲台の建造が起
工され1884年に完成しました。
 また東京湾要塞の火薬庫として初めての洞窟煉瓦
造りの観音崎付属火薬庫が1885(明治18)年12月に完
成、1890年には波島砲台、箱崎低砲台と第一海堡が竣
工しました。
 更に同年3月要塞砲兵第一砲兵第一連隊編制表が公
布され大隊長以下将校13名が任命されて第一大隊本
部及び三中隊が新設され、日露戦争勃発により、東京
湾要塞砲兵連隊は旅順や大連、樺太にも動員されま
した。

<郵便・通信の発達>
 1871(明治4)年に横須賀、浦賀、松輪に郵便取扱所が
開設され1875(明治8)年になると郵便局の名称が用
いられるようになり、電信分局も設けられ電報も取
り扱われるようになりました。
 1889(明治22)年横須賀電信分局と横須賀郵便局が
合併して横須賀郵便電信局が建設され横須賀の郵便
・通信事業の発展は加速されました。
 日清戦争前の1892〜3(明治25〜6)年には海軍造船
所が拡張され、それに伴って市街地も広がりこの時
期に深田郵便受取書、葉山村堀内郵便局、田浦郵便受
取所が開設されました。
 1903(明治36)年、横須賀郵便電信局は横須賀郵便局
の名に戻り、その後機構の拡大につれて大滝町に石
造の局舎を新築しました。

 <陸上交通とトンネル>
 人力車が日本で発明されたのは1869(明治2)年です
が、4年後には横須賀に人力車夫が現れその後次第に
他の町村へ普及していきました。
 乗合馬車は長谷川という人が始めた逗子ー葉山間
の馬車が三浦半島では最も早かったといわれます。
 その後1897(明治30)年に横須賀(平坂下)ー浦賀(芝
生)間の乗合馬車が開業されました。
 三浦半島は丘陵地帯のため坂道が多く、陸上交通の
障害となっていました。明治の初め頃までは逗子か
ら鎌倉へ行くには中世に開かれた名越の切り通しを
越え、披露山の七曲りを越えて小坪へ出て海伝いに
行くしかありませんでしたが、この不便を解消する
ために地元民の熱意により1883〜4(明治16〜17)年
に名越坂に二つのトンネルが貫通して平坦な新道が
開通しました。
 船越や田浦と浦郷を結ぶ梅田トンネルが開通した
のは1887(明治20)年で、工事費用は殆ど民間有志の
寄付によるものでしたが、このトンネルの開通によ
り住民は険しい山坂を越すことなく往来が出来るよ
うになりました。
 明治時代後半には吉倉トンネル(1891年)、田浦トン
ネル(1893年)、田戸トンネル(1897年、埋め立てのた
め滅失)、深浦トンネル(1911年)などが開通しました
 道路が整備されてくる明治の終わり頃には自動車
が走るようになり1912(明治45)年湘南自動車(株)が
逗子に開業し逗子ー葉山間に乗合自動車が開通し、
翌年には浦賀ー横須賀間にも自動車が走るようにな
り自動車は急速に普及していきました。
 
 <横須賀線の開通>
 横須賀線開通の目的は海軍の横須賀鎮守府と陸軍
の観音崎灯台への兵員や物資の輸送を行なうことで
、当時陸路は十三峠の難所があるため殆ど利用され
ず、兵員や物資の輸送は船に頼っていましたが、悪天
候の場合は運行できないことから緊急時の不安が残
されており、東海道線から分岐して横須賀軍港を結
ぶ鉄道線の建設が海陸軍から求められていました。
 工事は1888(明治21)年1月に着工、翌年6月に開通し
ましたが、横須賀線の開通はそれまでやや交通不便
であった逗子、葉山を別荘地や海水浴場として発展
させるきっかけともなりました。
 一方金沢地区は京浜方面への海路の重要な場所と
いう位置が意味を持たなくなり、それまでの遊覧地
としての地位を失い、次第にさびれていく原因とも
なりました。
 横須賀線はやがて迎えた日清、日露戦争の時には兵
員や軍需品の輸送に利用されるとともに、新橋ー横
須賀間の直通便が運行されるようになり1924(大正
13)年には複線化、1944(昭和19)年4月には当時軍施
設が急増していた久里浜まで延長されました。

 <横須賀の埋め立て>
 江戸幕府の手によって横須賀製鉄所が置かれ、横須
賀は町としての発展が始まりましたが、背後には山、
前面が海という狭い土地の横須賀が町として発展す
るためには海を埋め立てる他に手段がなく1865(元
治2)年2月に製鉄所の建設が始まるや3月には三賀保
、白仙、内浦の三つの入江の埋立てが計画され、ここ
に製鉄所の中心になる建物を置くことが決まりまし
た。
 1868(慶応4)年には逸見村の3万坪が造成され、翌年
には汐留(現汐入)の沼地を埋め、その後汐入地先の
海岸を埋めて湊町が出来ました。
 これに伴って1867年より大滝町以東の海岸を浦賀
町の資産家高橋勝七が埋め立てを始め、1877(明治1
0)年頃には高橋家の家号である若松屋に因んで「若
松町」が誕生しました。
 1878(明治11)年からは大滝町の地先にある白浜の
海岸を埋立てて、ここに市民の生活物資の移入や横
浜や東京への旅客の便を図るための港町の建設が計
画されました。この町は1882年には横須賀に編入さ
れ、この事業の中心となって活躍した小川茂周の功
績に因んで「小川町」と名づけられました。
 このころまでの横須賀は軍施設のほかに地方行政
の中心となり、1873(明治7)年に神奈川県第15大区事
務所が汐留に設けられ、これが5年後の郡制施行に際
して郡役所に改められました。
 そして汐留付近には郡役所、学校、官舎、旅館などが
集まって町の中心地区となり東の小川町や若松町あ
たりが当時の住宅となっていました。

 <日清・日露戦争と三浦半島>
 1903(明治36)年11月横須賀海軍造船廠と船越の兵
器廠を合わせて横須賀海軍工廠が誕生しましたが、
陸軍の施設も東京湾要塞司令部などが置かれ、軍港
・軍都として発展していった横須賀は日清・日露戦争
とも深く関わることになりました。
 日清戦争が始まった翌1895(明治28)年、臨時軍事予
算でチリ国より購入した巡洋艦和泉(12900トン)が
横須賀軍港に到着。横須賀鎮守府造船部(海軍造船廠
の前身)は軍艦の修理、水雷艇と西京丸や明石丸など
の兵装、品川丸の改装と多忙を極めました。さらに海
戦で捕獲した清国軍艦「鎮遠」も横須賀港に回送され
て造船部において大修理が行なわれましたが、戦争
終了後も軍艦や輸送船など復旧修理で徹夜の作業が
続きました。
 その後三国干渉以来緊張状態にあったロシアとの
戦争に備えて海軍は拡張計画を進め、横須賀海軍造
船部でも千早、新高、音羽などの軍艦が作られ連合艦
隊として日本海々戦で活躍しましたが、旗艦であっ
た三笠は現在も記念館として横須賀市の三笠公園に
保存、公開されています。       (戦艦三笠はこちら)  
 一方日露戦争が始まると愛国婦人会横須賀支部が
設立されたり、三浦郡奨兵義会や横須賀町報公義会
が結成され人々も戦争に引き込まれていきました。
 三浦半島の各地では戦死者の慰霊祭や戦勝祝賀会
が盛大に開催され、海兵団の軍楽隊による市内行進
や小学校児童の旗行列なども行なわれました。
                           (関連サイト・少年音楽隊)

 <要塞地帯法・軍機保護法の制定>
 日本海軍の主要な軍港の一つとなった横須賀軍港
を持ち、また首都防衛の最重要地として多くの砲台
が築かれた三浦半島は1899(明治32)年7月に公布さ
れた要塞地帯法によって、全域が要塞地帯に指定さ
れました。 
 この要塞地帯法では軍施設(軍港・砲台・軍用地等)
を三つに分け、それぞれに不燃建築の新築や井戸、垣
根等の新設や耕地、竹木林等の形状の変更などにつ
いては要塞司令官の許可が必要であると定められま
した。
 同時に公布された軍機保護法では軍に関する情報
の公開に制限を加え、軍施設の写生や写真撮影、軍施
設の立入り許可制などが定められました。
 明治の末より京浜地区の行楽地として多くの人々
が訪れた三浦半島地区では無許可での写生、写真撮
影による違反事件が数多く発生、このため行楽客の
多い夏には要塞地帯であることを知らせるビラを配
布したり、海岸の海の家や飲食店に赤いポスターを
貼るなどして注意を呼びかけました。
 観光客ばかりでなく、三浦半島の住民にとっても様
々な影響がありました。漁民にとっては昔からの漁
場が要塞地帯になったことにより漁が制限されたり
し、そのため密漁して逮捕されるなどの事件も起こ
っています。また砲台の集中する走水では一般道路
を自由に通行することが出来なくなり、他地区との
交通が不便になる事態も見られました。
 鉄道も要塞地帯法によって様々な制約を受け、湘南
電鉄の建設にあたりトンネルが多くなったのも地形
だけでなく、この法律による面があったといわれま
す。
 太平洋戦争開戦の前年1940(昭和15)年には要塞地
帯法が改訂され要塞地帯が大船から本牧を結ぶ線で
あったものが、横浜市全域に拡大され鎌倉側も蛯島
まで拡大されました。
横須賀の戸数・人口推移(明治前半)
横須賀鎮守府の庁舎
梅田隧道碑(横須賀市・浦郷町)
梅田トンネルは軍用以外では横須賀で最初 のトンネルで近隣町村の有志が多額の費用 を出し合い1887(明治20)年完成しました。 碑は1915(大正4)年、トンネルの入口近くに 建てられました。
明治40年代の横須賀駅

<初代三浦郡長・小川茂周>
小川茂周は1835(天保6)年大津の池田町 の有力な農民の家に生まれ、通称は三郎 右衛門といいました。 1848(嘉永元年)には大津村の名主見習 として公職につき、以後大津村名主、農民 世話役、三浦郡大惣代等を務め、ペリー来 航を目のあたりにした青少年期には、三 浦半島のリーダーとして活躍しました。 明治維新後も活躍は続き1871(明治4)年 に行政区画として区が設置されると三浦 初の第二区11か村の区長に、そして1878 (明治11)年に新しい郡町村制になると、 初代の三浦郡長となりました。 そののち足柄郡長に転ずるまでの20年 間もの長い間郡長の重責を果たし、三浦 半島の近代化に多くの足跡を残しました
小川町の名称の由来ともなった小川 茂周(横須賀市・庶務課蔵)

<横須賀ー横浜間の蒸気船>
横須賀製鉄所(造船所)の設立によって 明治10年代末には横浜につぐ県下第二の 町に発展した横須賀町も横浜ー東京へと 続く陸路は十三峠の難所によって阻まれ 、その間の交通は蒸気船航路に頼ってい ました。 1865(慶応元)年、横須賀製鉄所の工事が 開始されると物資の調達や連絡のため横 須賀ー横浜間の往来が頻繁になり、翌年 この区間に週3便の定期航路が開始され 1868(明治元)年8月末からは一般人も乗 船できるようになりました。 横須賀造船所の操業が本格化し、横須賀 町の市街化が進んだ1876(明治9)年には 利用客の増加によって隔日に運航するこ とになりましたが、1879(明治12)年には 造船所の本来の業務でなく煩雑で出費の 多いこの航路の業務を東京の藤倉五郎兵 衛に営業させることにし、造船所の四隻 の船を貸与しました。 これによりそれまでの隔日運航から毎 日5便づつの往復運航となり横須賀ー横 浜間の船便は大変便利になりました。 当時の横須賀には横須賀造船所を見学 するために多くの観光客が訪れましたが 、そのコースは横浜から蒸気船で横須賀 へ渡り、陸路鎌倉、江ノ島を見物するのが 一般的でした。 このように横浜ー横須賀間の最重要交 通路であったこの航路も1889(明治22)年 6月の横須賀線の開通によって、その地位 を鉄道に譲りましたが、その航路の営業 は経営者を替えながら国道31号線の開通 する昭和初年まで安い運賃によって継続 されました。
横須賀丸(1868=慶応4年横浜造船所 で建造され、横浜ー横須賀間に就航し ました)
清国軍艦「鎮遠」の描かれた錦絵
日露戦争からの凱旋を祝って立てられた アーチ、三崎町にて・1906(明治39)年 (株式会社・マツザキ蔵)
昭和16年刊「国防と写真の撮影」より
略 年 表
明治時代(続き) 1887 有志の私財により 梅田トンネル(船越 町、浦郷町間)が開 通。 鈴木三郎助、葉山 で沃度製造を始め る。 横須賀線の工事が はじまる。 浦郷村外三ヵ村組 合立で高等科併設 の船越小学校創立 される 1888 「横須賀港案内」 「横須賀繁盛記」 発 刊。 剣崎電信局電話開 通 1889 町村制施行。 横須賀線開通。 大滝町にあった遊 郭が柏木田に移転。 丸 富次郎、養神亭 を開業 1890 不入斗に陸軍要塞 砲兵第一連隊を設 置。 横須賀で大火、83 9戸焼失 1891 各小学校に教育 勅語の謄本が配ら れる。 愛宕山公園 (浦賀)が開設され る。 三盛丸の前身、相 海丸の三浦共立運 輸株式会社創立。 三崎町の大火(海 南・西野)200戸余 焼失 1892 軍艦「秋津州」の 進水式に天皇陛下 ご出席。 横須賀造船所の 工員5150人、就業 規則に反対してス トライキ。 徳富蘇峰、蘆花は じめて逗子に来遊 1893 横須賀憲兵分隊 創設。 旧田浦トンネル (船越・田浦間)完 成。 三崎町、避暑・海 水浴急増のため町 長名で暴利を戒め る論告を出す。 このころ逗子の 海水浴場も賑わう 徳富蘇峰「逗子だ より」を国民新聞 に連載しはじめる 1894 小原砲台竣工。 旧田越橋の跡に 養神亭の丸 富次 郎氏が富士見橋を かける 葉山御用邸落成 1895 横須賀線が日清 戦争戦利鑑「鎮遠」 の見物客で賑わう 国木田独歩、桜山 柳屋に幽居 1896 横須賀税務署開設 1897 浦賀船渠(株)設立 登記 帝国大学臨海実験 所油壷に移転 横須賀人力車組合 創立 乗合馬車(株)設立 1898 徳富蘆花の「不如 帰」が国民新聞に連 載始まる 1899 鎌倉銀行横須賀支 店開設 要害地帯法が制定 され、田越村も要塞 地帯に繰り入れら れ、風景スケッチも 禁じられる 浦賀船渠(株)船渠 竣工 横須賀・三崎間、長 井・佐野間の乗合馬 車運行開始 (次ページへ続く)
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