■■■ 京都事典
(人名、地名、社寺などは除く)

■ 更新 【】 2006.02.19
 
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〓 あ 〓

● 会津藩邸

江戸初期は堺町通二条下がる町に京屋敷を構えた。
幕末、松平容保が京都守護職となり、荒神口聖護院村の地に平屋敷を設け、主に練兵場として使用。

● 青貝師 あおがいし

漆器に青貝細工を施す職人。
京都では室町末期から江戸初期にかけてつくられた南蛮漆器に多様。
元禄年間、京都の名人として伊兵衛・四郎兵衛・羊三郎などの名が知られ、「京雀」には押小路川原町西入るに青貝屋があったことを記す。
島原の角屋に青貝之間がある。

● 青木能舞台

観世流能楽師青木家の能舞台。
両替町通二条上がる東側。

● 閼伽井

神仏に供える浄水を汲む井。
京都で有名なものを掲げると
鞍馬寺東側後ろ(左京区)、満願寺境内の法勝寺<俊寛の井ともいう>(左京区)、東寺灌頂院庭園にある(南区)、比叡山横川元三大師堂門前近く、安祥寺(山科区)、八幡宮境内(山科区)、大歳神社(西京区)、高山寺(右京区)、金蔵寺境内にある石井神社旧址(西京区)、円山の吉水(東山区)、仁和寺(右京区)、毘沙門堂(山科区)。

● 明石藩邸

江戸初期には室町通二条上がる町(冷泉町)銭屋善七を呉服所とした。
京屋敷は江戸中期、知恩院門前に設け、幕末期には御幸町通丸太町下るに所在。

● 上る・下る

京都で北行・南行を意味する言葉。
「満済准后日記」応永三十四年(1427)六月七日条にみえ、その表現法は室町初期より一般的に用いられ始めた。
一説に御所の位置から生まれたとも、京都が北に高く南に低い地形であるためともするが不明。

● 秋の山

平安末期、洛南鳥羽に営まれた白河・鳥羽二代の院御所鳥羽殿の築山。
現伏見区中島秋ノ山町付近。
明治維新期の鳥羽・伏見の戦いでは砲台に用いた。
現在は鳥羽離宮公園内。

● 悪謀之四天王

安政の大獄で捕らえられた梅田雲浜・頼三樹三郎・池内大学・梁川星巌。

● 朱宮御所 あけのみやごしょ

現在、修学院離宮内の茶屋となる。

● 朝原山古墳群

広沢池の西北で、古墳時代後期の円墳群。
秦氏一族の家族墓とも考えられる。

● 朝日焼

宇治市山田、朝日山麓にある窯元。
遠州七窯の一。
慶長年間、奥村次郎衛門藤作の開窯と伝え、正保年間二代陶作が小堀遠州の指導で茶碗・香合・鉢などを製し、遠州の子政尹は自筆の「朝日」の印を与えた。

● 旭山古墳群

山科区上花山旭町および東山区今熊野総山町にわたる六条山にある群集墳。
二十七基の古墳が点在する。

● 足利三代将軍木像梟首事件

幕末期、将軍徳川家茂の入京に対して尊攘派が展開したデモンストレーションの一。
文久三年三月四日、家茂は入京するが、それに先立つ二月二十二日夜、三輪田綱一郎(伊予)・師岡節斎(水戸)・仙石佐多雄(鹿奴)ら在京の尊攘派志士は洛外の等持院から足利将軍三代(尊氏・義詮・義満)の木像頭部と位牌を持ち出し、鴨川の河原にさらした。
三代の罪状なるものを批判した捨文は大庭恭平(会津)が書いたという。
京都守護職・松平容保が尊攘派対策を強化するきっかけとなった。

● 葦手絵

装飾的絵模様の一。
仮名書体のような線を用いて葦・流水・水鳥などにみたてた文字(葦手)を風景画の中に組み合わせた絵。
のちには友禅染などの文様となる。

● 愛宕十景

右京区の愛宕山頂から見渡せる10の勝景。
愛頂の層楼(山上の愛宕神社)、洛城(京都市街)の春霞、亀山(嵯峨)の夏雲、高雄の丹楓、叡峰(比叡山)の晴雪、桂川の長流、清滝の寒月、広沢の暮雨、水尾(愛宕山麓)の朝烟、月輪寺の松濤。

● 愛宕信仰

愛宕山に鎮座する愛宕神社の愛宕神に対する信仰。
愛宕神は火神迦倶槌神とされ、俗説では生まれた時に母神伊弉冉を焼死させ、仇子と称されたのが語源という。
元来防火神として崇められ、現在も同社の「火迺要慎」の護符を竈の上に祀る習俗があるが、室町後期には本地仏を勝軍地蔵として愛宕大権現と称し、防火神的性格に加えて軍神ともなり、武士の信仰を集めた。
愛宕山は山城・丹波の国境に位置し、古くから塞神的信仰があったとする説もある。
毎年七月三十一日の夜の参詣を千日詣でといい、その夜一回で千日分の参詣に値するという。

● 天の真名井

市比売神社の本殿東側に井桁が残る。
もと同社旧地の東市屋にあり、清和天皇から後鳥羽天皇に至る二十七代の間、皇子誕生の時にはこの水を産湯に使ったという。

● 粟田口解剖場

明治五年、京都府が舎密局の申請により東山区粟田口に設置した人体解剖場。
四方の窓にはガラスをはめた最新式の解剖場で、京都療病院の管轄となった。
翌六年二月四刑死体を解剖、数百名の医師が参観した。
同七年療病院内に仮解剖所が設置され、病理解剖も行うようになったため、まもなく廃止された。

● 粟田口処刑場

西土手処刑場と並ぶ江戸期京都の公的処刑場。
旧国道一号線(旧東海道)の東山区と山科区境界のあたり、九条山西麓にあった。
江戸期以前にも、天正十年明智光秀が粟田口で首をさらされ、同十六年にはキリシタンが処刑されるなど、刑場としての前史をもつ。

●粟田口焼

元和年間(1615〜24)瀬戸の陶工・三文字屋九右衛門が粟田口三条蹴上今道町で焼いた陶器。
唐物写しが特色。
京焼最古の窯とされ、「粟田口」の印を用い、九右衛門の子庄右衛門・助右衛門らが製陶し、元禄頃まで続いた。
その後もこの一統が付近に開窯し粟田焼として発展。

● 粟田焼

東山区粟田口付近で焼かれた陶器の総称。
青蓮院の保護により発展し、寛政十一年(1799)には八基の窯と二十一軒の業者を数えた。
色絵陶器の製造を中心とし、文政七年(1824)これをつくった。
清水焼との間に勢力争いが生じ、色絵陶器の製造を清水に禁じたため、清水焼きはその中心が磁器に移った。
明治に入り海外で京薩摩として評価され、輸出に黄金時代を迎えた。
明治二十年代、最大規模であった錦光山工場は、白川橋東三丁目・夷町・柚木町に5500坪の敷地をもち、職工205名を有した。
のち貿易が不振となり、昭和初年に衰退した。

● 阿波藩邸

阿波藩は阿波名東郡に置かれた藩で、徳島藩ともいう。
京屋敷は寛永期(1624〜44)松原通新町東入北側にあった。
その後、高辻通西洞院西入、四条通室町西入町に移り、祇園会の際、町内に寄付金を出すなど町人とも交流した。
幕末には二条川東の地にも邸を構え、阿波藍の専売など豊かな経済力を基盤として、朝幕間の政治に大きな影響力をもった。

● 安元の大火

安元三年(1177)四月二十八日に発生、東は富小路、西は朱雀、北は大内裏、南は六条に及び、都の三分の一を焼いた。
被害も公家の家14家をはじめ、一般庶民の家は数知れず、大内裏では大極殿も焼失した。

またこの翌年四月二十四日、七条東洞院より発生した火災も東は東洞院、西は朱雀、北は七条、南は八条坊門を焼く大火となった。

● 安産石

安産信仰の対象となる石。
月読神社の月延石
梅宮大社本殿東側の跨げ石
峰定寺にあった乳岩
三島神社の三島社影向石 など多数。



〓 い 〓

● 言い伝え

京都人の生活分化を支え、あるいは規制する格言的言い伝えは豊富にあるが、大別すると地域・職業・宗教・年代によって異なる。
しかも、それは衣・食・住・行事・習慣・動物・植物・商い・物・自然・健康など、さまざまな分野に及び、また地方に伝播したものも多い。

衣に関しては
「月の光で針に糸を通せば裁縫が上手になる」
「帯を巻いたまましまうと苦労が絶えぬ」
「服を着たままつくろう時は『脱いだ』といってからつくろう」

食では
「御飯を食べて横になると牛になる」
「祇園祭にはキュウリを食べてはいけない」
「六月三十日には水無月を食べる」

住では
「家を建てるとき、雨降りに建てる方が家が栄える」
「敷居を踏んではいけない」
「家の庭に池を作ると病人が出る」

行事・習慣では
「十三詣りの帰りに渡月橋の上で振り返ると、知恵を返してしまう」
「盃にお酒をついで、大文字の『大』の字を写して飲むと願い事がかなう」
「葬式に出会った時に、親指を隠さないと、親の死に目に会えぬ」
「雛人形を長く飾っておくと娘の婚期が遅れる」

動物では
「夜に笛を吹くと蛇が出る」
「蛙にあったら、旦那が帰る」(花柳界)

植物では
「実のなる植物を庭に植えてはいけない」
「桜の木を植えない」
「彼岸花を持って帰ると火事になる」

商いでは
「月末にそばとおからを食べるとよく集金ができる」(上京地域)
「月末、夕食にうどんを食べるとよい」(下京地域)
「聞いて極楽、見て地獄、おかゆかくしの長のれん」(室町)

自然に関しては
「雲がお稲荷さんの方へ行くと晴れ、愛宕さんの方に行くと雨になる」
「雲が清水さん詣りをすると必ず晴れる」

身体・健康では
「新しい風呂ができて、一番風呂に入ると中風にならない」
「上賀茂神社の池に足をつけたら、しもやけにならぬ」
「上歯が抜けたら便所の前で下へ向けて投げ、下歯が抜けたら上へ向けて投げ」等々がある。

● 生間流 いかまりゅう

京都で料理を家職とした生間家の流儀。
生間家は平安期に始まり、宮廷の料理方を担当したが、鎌倉期に入って生間五郎左衛門尉兼慶が源頼朝から苗字と定紋を賜り、幕府の庖丁方となった。
室町期に本膳料理が発展するにともない、公家方の四条流、武家方の大草流・進士流とともに発展した。
その後、豊臣秀吉の命で八条宮の家臣となり、饗膳司として庖丁式を伝え、後水尾天皇の二条行幸の折の料理方をつとめて家名を上げた。
明治維新後、その流儀は廃絶したが、庖丁式は京都の料亭万亀楼が伝える。

● 生洲料理

江戸期、鴨川・高瀬川沿いの料理屋で供した川魚料理。
清流に恵まれた鴨川や高瀬川の、二条から四条にかけての一帯では、鯉・鮒・鰻などの川魚を生洲に養っておき、料理して客に供する料理屋が繁盛した。
正徳(1711〜16)頃には西石垣斎藤町に生洲株が許され、松原・柏家などの料理屋が知られた。

● 池田家事件

幕末、在京の長州尊攘派に対して幕府が下した一大弾圧事件。
文久三年八月十八日の政変で長州派は京から追放されたが少数の者は市内に潜伏し、諸藩士と密かに連絡していた。
元治元年六月五日朝、古道具屋の桝屋喜右衛門こと古高俊太郎が新選組に捕まり、クーデター計画を白状した。
同日夜、三条小橋の西詰北側の旅館池田屋に長州派が集まって古高逮捕の善後策を講じているところへ近藤勇の指揮する新選組隊士三十名が襲い、激闘の末、長州の七名が即死、二十三名が捕らえられた。
新選組側は負傷ニ名。
憤激した長州は大軍を上京させ、禁門の変が起こった。

● 潦井 いさらい

名水の一。
広隆寺の西門近くにある。
伊佐良井・伊佐羅井とも書く。
井戸枠に「井浚」と刻む。

● 石野味噌

白味噌の老舗。
丹波出身の森村屋庄兵衛が、天明元年(1781)に創業したと伝える。
白味噌は山城味噌として京料理とともに普及した。

● 出石藩邸

出石藩は但馬国出石郡に置かれた藩で、江戸中期以降の藩主は仙石氏。
寛永期(1624〜44)には猪熊通綾小路下がる東側に邸を構え、その後下立売通千本西ニ丁行下がるに移り、幕末には御幸町通竹屋町下がる(松本町)に京屋敷を設けた。

● 出雲寺和泉掾 いずもじいずみのじょう

江戸期の本屋。
江戸初期から明治まで続く。
初代は元真。
和泉掾を受領し、朝廷の書物御用をつとめる。
寛永八年没。
以後代々、和泉掾を称した。
二代の時元は江戸にも店を出し、幕府の御書物師を拝命、家業の基礎を作った。
隠居して白水と改名。
宝永元年(1704)没。
店舗は初め今出川、のち小川通一条上ル町、下ル町に移り、さらに三条通高倉東入北側に移転。
漢学・有職・歌道・物語書を中心に出版。
林羅山の一族ともいう。
三代の一衣以降、通称を文治郎という。
八代から京都店と江戸店と家が分かれ、京都店は文治郎を襲名、江戸店は和泉掾を継ぎ、ともに明治まで続いた。

● 一条室町の辻

このあたりは、地理的にも人口密度の点からも、上京の中心地帯であり、町触の高札を立てるのにふさわしいため、室町期から江戸初期には一条札の辻とも呼ばれた。
なお江戸期を通じての高札場は三条大橋西詰北側で、地図類にみえる道路基点も同所へと移った。

● 一条戻り橋

平安京の一条通を踏襲する一条通が通じるが、その位置は比較的正確に平安京一条の位置を伝える。
長徳四年(998)「権記」に初見する古い橋で、文章博士・三善清行の死に関わる説話や渡辺綱と鬼女の話、豊臣秀吉による千利休の木像の磔けなど、さまざまな伝説・歴史をもつ。

● 市原平兵衛商店

箸専門の老舗。
創業は不詳だが、近江屋喜兵衛が江戸中期に興すとする。
明治十六年刊行の「都の魁」にその名がみえる。
利休箸をはじめ、各種の箸を考案。

● 市原八景

洛北の市原の景観を讃えたもの。
「京羽二重」によると
手月磧、朽斧松、巖牆水、北肉峯、流六渓、洗密科、枕流洞、飛鳥潭の八景。

● 市女

平安期、官設の東西市で一定の品を売った女性。
市町に住み、市に籍をもつ。
店を構えず行商する販女と区別した。
「宇津保物語」などに裕福な市女の存在が記される。
北野天満宮を創祀したと伝える多治比文子も市女の一人とみられる。

● 鴨脚家 いちょうけ

下鴨神社の社家。
祝家として代々賀茂社に奉仕した。
近世中期以後は地下人として御所へも出仕。
古文書が多く残る。

● 一力

お茶屋。
一力とは「万」の字を一と力に分けたもので、万屋・万亭・万春楼ともいう。
祇園では古い格式のある茶屋を「赤前垂れ」の店と呼び、正式の装いには赤前垂れをつける。
寛延元年(1748)に上演された竹田出雲の浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の七段目「一力茶屋の場」で、大石良雄遊興の場として有名になった。
滝沢馬琴も旅日記「羇旅漫録」で「祇園大楼の噂」と題して、一力や「仮名手本忠臣蔵」にふれている。

● いづう

鯖鮨の老舗。
天明年間(1781〜89)の創業と伝える。
屋号は、創業者の泉屋卯兵衛の名にちなむという。
若狭の一塩物を使った関西寿司の代表。

● 一閑張

漆工芸の一。
木型を用いて和紙を何枚も漆・糊で張り重ね、のち型を抜きとった器胎に黒漆・色漆を塗る。
また、木材を割ったままの素朴な木肌をもつ片木目や竹で編んだ器物に和紙を張り、素地とするものもある。
軽い上、漆は薄塗りするので和紙の味わいをよく保ち、茶道具などに好まれる。
寛永年間(1624〜44)明から帰化し京都に住んだ飛来一閑の創案という。
一閑は茶人千宗旦と交遊、その好みにより香合・棗・折敷などをつくった。
子孫代々この技法を伝える。
茶道具を中心に、京塗の特色ある技法として有名。

● 一保堂

茶舗
創業は弘化三年(1846)
山階宮家が「茶一つを保つ」と命名したことに始まる。

● 糸掛鯛

一月十日の十日ゑびす大祭に、商家などで恵比須の画軸または神像に供える鯛。
一の三方(中央)に洗米と神酒、ニの三方(向かって右)に糸掛鯛、三の三方(向かって左)に塩と水を供える。
糸掛鯛は、今年も商売が繁盛し、家運が上昇することを願い、尾を上へ曲げて赤の木綿糸を掛け、その糸の先を鯛の歯に結わえ、鯛が勢いよくはね上がった姿にする。

● 威徳水

名水の一
西ノ京中保町に井戸址がのこり、地蔵尊を祀。
椿の大木の根本から湧いたので椿の水とも呼んだ。
なお江戸中期、大徳寺の門前にも同名の水があり、密教僧が大威徳の法を修する際、閼伽水に用いたと伝える。

● 糸割符仲間 いとわっぷなかま

近世の商人仲間。
慶長九年(1604)唐船糸割符成立期には、堺・京都・長崎の三ヶ所、寛永八年(1631)に江戸・大坂を加えて五ヶ所の有力町人が組織。
輸入生糸を独占的に取り扱う特権を幕府から得て、その利益銀は各五ヶ所仲間で分配した。
元禄ニ年(1689)刊の「京羽二重織留」によれば、京仲間の人数は年寄四名、中老五名、御物見三名、斤西一名、以下平割符、総計七十六名。

● 田舎端物

京都以外の諸地方から京都へ出荷された絹織物をさす。
田舎絹ともいう。
近世前期、西陣織は圧倒的な優位にあったが、中期になると丹後・長浜・桐生・足利などの新興機業地の絹織物が西陣織の市場を奪い、京都へも流入するようになった。
京都ではこれを軽蔑して田舎端物といった。

● 稲荷山八景

伏見稲荷大社周辺の景観を讃えたもの。
「京羽二重」によると
三峯春眺、浮橋夜月、恵日晩鐘、草野晩霞、雪厳暮雨、瀑布余音、前渓紅楓、西山霽雪の八景

● 井上流

京舞の一流派。
家元名は代々井上八千代。現在は四世。
初世井上サトは最初、近江家の老女、南大路鶴江のもとに上がり、そこで舞の素養を認められ、町方では目に触れることの少ない御殿舞を学ぶ。
寛政九年(1797)舞で身をたてるべく退下した時、鶴江から「玉椿の八千代をかけて忘れぬ」との言葉をうけ、近衛公夫人から「井菱」の紋型を賜った。
以来井上八千代を名乗り、流儀の模様を玉椿、紋章を井菱と定めた。
初世は御所風な座敷舞と町方で流行していた地唄舞を流儀の基礎とし、二世は金剛流の能や文楽の人形の演出を取り入れ、井上流を大成。
三世によりさらに観世流能の影響が加わり、四世は流儀の伝統を継承するとともに新味を加え、それまで京の地を離れなかった井上流を、第二次大戦後初めて東上させ、その存在を世に認めさせた。
芸風として女舞に関わらず格調の高さ、内にためた表現、力強さが指摘される。
曲目は「八島」「信乃」「桶取」「虫の音」などに200曲。

● 位牌屋

位牌の製造業者。
位牌の起源は不明であるが、江戸期の宗門改めの制度以降、家庭に普及。
江戸中期の「京独案内手引集」に、位牌商が寺町通の椹木町・五条間と六角通寺町西入にある、とみえる。

● 今宮講

店方とも称する織物仲買仲間の一。
西陣および地方機業地から織物を仕入れて売りさばく集散地問屋からなる。
同様のものに天神講がある。
江戸中期から発達し、卸問屋的な性格とともに、一方では購入した絹布を下織りの染物屋に加工させて諸国の出店に卸す加工問屋的性格もある。
西陣地区に密着した古組仲買商(神楽講)とは区別される。

● 芋棒

海老芋と棒鱈を一緒に煮た料理。
古来京都名物として名高い。
棒鱈を水につけて柔らかくし、皮をむいた海老芋を入れて長時間煮続け、柔らかくなったところで盛り合わせる。

● 医療

平安期の医療制度は奈良期のものを踏襲し、中央医療機関は典薬寮・内薬司・薬司・施薬院で構成、典薬頭は丹波・和気両氏が世襲した。
これらは主に貴族を対象としたが、典薬寮の医師が一般庶民を治療することもあり、施薬院は貧困病者の救療に従事した。
私的機関では悲田院が二ヶ所あり、また正子内親王が大覚寺域内に設立した済治院はハンセン氏病患者を収容、ほかに藤原良相の建てた延命院・崇親院や諸寺院も救療活動にあたった。
鎌倉期に入ると僧侶による救療活動が活発化、室町期には市井の医師があらわれ、「七十一番職人歌合」などにも描かれる。
戦国期には武器にようる傷の治療を専門とする金瘡医が出現。
また中国から新しい医学・薬方も伝わった。
安土桃山期には曲直瀬道三が啓迪院を開いて医学教育を行った。
豊臣秀吉は廃絶同様の施薬院を復興したが、一方南蛮寺や教会のほか聖アンナ病院・聖ヨセフ病院といった西洋式の病院も建ち、キリシタンによる医療活動が行われた。
江戸期に入ると町医が増大し、「京都御役所向大概覚書」は町医師(内科) 四十一、小児医師 九、婦人医師 四、針立医師 十一、外科医師 八、口中医師 ニ、目医師 七の計八十二名を記載。
正徳三年(1713)刊の「良医名鑑」には百五十名をあげる。
このほか宮廷・公家に対する御典医がいた。
江戸期の医師の主流は親試実験を主眼とする儒医が占めるが、後期には蘭医もあらわれ、幕末期に近づくにつれて漢蘭折衷家が増加。
京都は近世を通じ他都市に比べて開業医が多く医療活動が盛んであったが、明治期に入ると祇園に駆黴院および療病館、南禅寺に京都癲狂院ができ、さらに木屋町二条に京都療病院が開設されるなど、近代的・組織的な治療も始まった。
この療病院の附属医学校が独立して、のち府立医科大学へと発展。
また三十二年には京都帝国大学医科大学附属病院ができ、近代医療の基礎ができた。

● 岩国藩邸

岩国藩は周防玖珂郡岩国に置かれた藩で、毛利氏の家老吉川氏が預かる。
幕末期、河原町通姉小路に京屋敷を構えた。

● インクライン

琵琶湖疎水による舟運ルートの一区間をなす斜頚鉄道。
日ノ岡第三トンネル西口・蹴上間を結び、水路を離れて山腹の傾斜面に敷設した軌道上を、電力運転による台車に舟を乗せて上・下した。
明治二十年五月着工、同二十二年四月に完工したが、台車運転用電力を供給すべき蹴上発電所の完成を待って二十四年十一月に運転開始。
同二十八年鴨川運河の完成に伴い伏見橦木町にも延長約二百三十六メートルのインクラインを設置。
その後、東海道本線などの鉄道網や道路の整備が進んだため舟運連絡ルートととしてのインクラインの役割は減少したが、昭和初頭までは運転した。

● 印刷

京都の印刷は平安期に開始された。
「御堂関白記」寛弘六年(1009)の条に法華経の印刷の記事がみえる。
鎌倉期には禅宗の五山の寺院で印刷出版が盛んとなり五山版が刊行され、また泉涌寺・醍醐寺、あるいは比叡山や浄土教の寺院などでも仏典を印刷出版した。
五山版に漢詩文集もみられる。
これらはすべて木版整版印刷。
今日のカラー印刷は昭和二十四年に京都に導入された。
五十年代後半に至ってコンピューターによる整版も行われるようになった。
近代の京都の印刷業は東京・大阪・名古屋につぐ日本第四位の地位にある。

● 印地打

石合戦・飛礫のこと。
因地とも書く。
平安末期に都市の遊戯として定着。
起源は不詳であるが、豊作を祈る農耕行事に由来するとみられる。
時には殺害に及ぶほどの遊びで、「白河の印地」と呼ばれる印地打集団も生まれた。
のち端午の節句の行事として定着し、室町期にも多くの例を見るが、江戸期には禁止された。

● 院庁

上皇または女院の院務の処理機関。
十世紀後半の円融上皇のころまでにほぼ主要組織は整ったとみられ、後三条天皇が譲位して院庁始を行って以後、白河・鳥羽・後白河と継続した院政の中枢官庁として、朝廷にかわる存在となった。
院の居所に別当院・院司以下の役人が集まって院庁を形成し、評議を行い、院庁下文・院宣などを作成した。
鎌倉期の後嵯峨院時代にも院の評定衆や院文殿が訴訟処理などに重きをなしたが、院政と盛衰をともにした。

● 院派

平安後期・鎌倉期の仏師の一派。
院助を祖とし、仏師の名前に「院」の字を用いた。
七条大宮に仏所を構え、七条大宮仏所と呼ばれたが、のち六条万里小路仏所が分立。
伝統的様式をつぐ温雅な作風で、法勝寺や鳥羽金剛心院など主に朝廷や貴族関係の造像に従事。
平安末期、院尊や院実が出て全盛となり南都復興時の興福寺でも活躍。
鎌倉期には慶派の影響を受ける。

● 陰陽石

宝福寺(伏見区)境内にある石。
跨げ石と同種で、子に恵まれぬ婦人がこの石を跨ぐと妊娠するという。
その他、数カ所あり。



〓 う 〓

● 外郎

名称の由来は、元代の礼部員外郎職の医官陳宗敬が、応安(1367〜75)の初め、博多に帰化して外郎家を興したことに始まる。
その子孫が西洞院錦小路蟷螂山町に移り住んで透頂香という薬種を商い、黒色方形で樟脳に類する効能があったという。
この薬が次第に菓子に変化したものと伝える。

● 植木屋仲間

造庭・庭木手入れの植木職、盆栽・草花・鉢植の栽培と販売の植木商の仲間。
明和五年(1768)仲間規約が成立、北野・川原・大仏・鳴滝の四組に分つ。
文化期(1804〜18)百二十名前後が加入し、うち北野社近辺に北野組七十名が集中。
植木は主に池田(大阪府)・宝塚(兵庫県)・三田(同)から植木苗が流入。
造庭は神社仏閣や王侯貴族の邸宅の造庭術を継承し、京都特有の技術を誇る。
明治十八年、同業組合準則により京都園芸業組合を設立、造庭・盆栽の二部を置く。
当時百二十六名が全市に散在。

● 鵜飼

古来の漁法だが、明治期に廃れ、のち観光行事となる。
嵐山の大堰川や宇治川で行う夏の行事。
嵐山では昭和二十四年岐阜県長良から鵜匠を招いて始めた。
宇治川でも長良から鵜匠を招き、喜撰橋から鵜船を出す。
桂川(大堰川)・宇治川の鵜飼が平安期からよく知られ、『源氏物語』 『蜻蛉日記』などに描かれる。
詩歌では「大堰川鵜舟にともす篝火のかかる世にあふ鮎ぞはかなき」 (在原業平) などがある。
宇治川浮舟島の南は鵜飼瀬と呼ばれた。

● 浮世絵

江戸期を通じて描かれた風俗画の一。
浮世絵は江戸絵とも呼んだように、絵師も版元も江戸に集中し、京・大坂ではほとんど発展しなかった。
しかし、菱川師宣らの前史となった版画技師はすべて京都の仮名草子・浄瑠璃本の挿絵で養われた。
また、『浮世絵類考』が「古今比類なき妙手なり浮世絵師の名誉なるべきか」と評した西川祐信は、肉筆の美人画に優れ、「百人女郎品定」をはじめ数多くの評判記・絵本を京都の版元八文字屋より出版し、それらは江戸で錦絵を開発した鈴木春信に大きく影響した。
一枚絵を描いた絵師には、寛保ニ年(1742)四条小橋角鍵屋、四条なわて角かぎやという版元から墨摺手彩色の芝居絵を出した梅雪堂貞道がいるが、その画系は続かなかった。
幕末になると京都では祇園会の練物などを描いた有楽斎長秀のほかみるべき絵師はいない。
なお版画ではないが祇園井特はもっぱら祇園の芸妓など美人画を描き、京都に来た瀧沢馬琴が井特を京都の浮世絵とみていることが注目される。

● 宇治火薬製造所

日清戦争の終結に引き続く軍備拡張の一環として宇治市五ケ庄地区に設置された軍事施設。
明治二十七年九月に政府決定、同十一月には仮製造所で運転開始、二十九年四月に開所式。
五ヶ庄が選ばれたのは、明治五年設置の黄檗火薬庫の存在と宇治川の水利によるとされる。
製造開始後、幾度かの火災や爆発事故、また汚水による被害などもあり、周辺住民の不安が高まっていたが、昭和十二年八月十六日午後十一時過ぎから三度にわたる大爆発を引き起こし、多大な被害をもたらした。
現在、かつての火薬庫は運動公園となり、火薬製造所跡には京都大学の付属施設と、陸上自衛隊補給所がある。

● 宇治川水力発電所

宇治川電気株式会社が宇治山田に建造した発電所。
近江南郷から宇治に至る水路を開削し、大正二年七月完成。
八月一日開業、十一月には宇治町営電気事業が創始された。
宇治川にはその後、大正十三年に大峰ダムと大峰・志津川両発電所、昭和三十九年に多目的ダムとしての天ヶ瀬ダムと同発電所、四十五年には喜撰山揚水ダムと同発電所が建設され、幾度かの大きな景観改変があった。

● 氏子圏

産土神に奉仕するために設定された氏子の居住範囲。
敷地圏ともいう。
平安京およびその近辺における氏子圏成立の確たる時期は不明だが、平安期には存在したといわれ、『今昔物語』は「七条辺ニテ産レタリケレバ、産神ニ御ストテ、二月ノ初午ノ日、稲荷ニ詣」でる話を記す。
永治年間(1141〜42)には洛中に「稲荷社敷地」「祇園社敷地」が設定されたが、社役としての敷地役を課しており、氏子圏の概念に等しいと考えられる。
また敷地の境界に榊を立てて目印とすることが古今の例とされた。
現在、京都の氏子は今宮・上下両御霊神社・北野・八坂・松尾・稲荷・藤森社などと大別できるが、このうち八坂(祇園社)と稲荷は五条大路を古くから境界とした。
他の神社の氏子圏の公式記録は、享保二年(1717)の『京都御役所向大概覚書』が最初。

● 宇治猿楽

山城国宇治の鎮守離宮明神の庇護の下に生まれた猿楽の芸団。
猿楽の前身である田楽・散楽の宇治離宮祭への参加は、すでに『中右記』長承二年(1133)五月八日の条にみえるが、『兵範記』仁平三年(1153)四月十五日の条に「宇治白川等座々法師原」とあり、この頃には芸団を組織したとみられる。
その母体は、文永八年(1271)四月、宇治の南、木津川沿いの綴喜郡多賀村高神社の祭礼に、紀州石王権守の率いる石王座とともに参加した宇治若石権守の若石座。
のち御田植神事の翁式三番や、南山城の各神社の楽頭職を確保、さらにその活動範囲は大和にも及び、興福寺・西大寺の祭礼に参勤の権利を得たが、寺社勢力の衰退とともに新興の大和猿楽に圧倒され、その座は他に吸収された。

● 宇治七園

足利義満が宇治郷に開かせたと伝える七ヶ所の名茶園。
近世初期までに成立したとみられる。
『僊林』には、「祇園(足利将軍家)ハ森・川下、武衛(斯波家)ハ朝日、京極ハ祝・奥山、山名ハ宇文字、以上六園ノ後、上林ヲ加ヘ号七種。異説有之」とあり、一般に琵琶園を上林家の茶園として宇治七名園と称する。
茶産地として宇治が有名になるのは南北朝期以降で、やがて室町後半期には宇治茶は栂尾に代わる本茶として受容されるが、六名園なり七名園という名茶園の組合せが好んで用いられるのは、近世初頭以降とみられる。
現存するのは宇治郷(現宇治市宇治)の東方台地上にある奥ノ山茶園のみ。

● 宇治七名水

かつて宇治にあり、飲料水、特に茶の湯に用いられて有名となった七ヶ所の名水。
阿弥陀水(平等院の鐘楼付近)
泉殿(JR宇治駅の北)
法華水(平等院内浄土院の北)
公文水(橋姫神社付近)
桐原水(宇治上神社境内)
百夜月井(桃の井とも。宇治四番保)
高浄水(泉殿の近く)をさす。
現在、桐原水を除いていずれも廃絶、あるいは所在不詳。

● 宇治拾遺物語

説話集。
197話の説話を含む(本により異同あり)。
作者に源隆国設がある。
建暦ニ年(1212)から承久三年(1221)の間に一応成立し、以後増補されたという設が有力。
「今昔物語集」「打聞集」「古事談」などの、院政・鎌倉期の説話と同文・同話がある。
第一話は、道命阿闍梨が和泉式部のもとに通い、経をよんでまどろもうとしたところ、五条西洞院の道祖神があらわれた話。
また比叡山の僧たちが掻餅をつくる間、児が狸寝入りし、起こしてくれるのを待つ話(第十二話)、錦小路の改名の伝説(第十九話)、宇治池の尾に住む善珍内供が鼻長であった話(第二十五話)などが載る。

● 宇治十二景

貞享ニ年(1685)の「京羽二重」に記す宇治の十二の名勝。
すなわち
春岸?(酉へんに余)?(酉へんに麻のしたが糸)・清湍螢火・三室紅楓・長橋暁雪・朝日靄暉・薄暮柴舟・橋姫水社・釣殿夜月・扇芝孤松・槙島瀑布・浮舟古祠・興聖晩鐘をいう。
このほか隠元隆gの撰による黄檗十二景もあり、「山城名勝志」に収録する。

● 宇治代官

江戸期、茶どころ宇治郷をはじめ近隣の幕府領の支配にあった代官。
宇治茶業界を頭取として統轄した上林六郎家・又兵衛家が家禄を与えられ世襲。
宇治代官としての上林氏の関わりは織田信長の天正年間(1573〜92)からみられ、豊臣秀吉も天正十七年には上林氏の要請で宇治郷の国並夫役を免じている。
徳川幕府の宇治代官もこうした支配形態をうけ継いだが、近世後期にかけて、宇治郷が衰える中で、京都代官が宇治代官職を兼務することもあった。

● 宇治茶

宇治市域の洪積丘陵に栽培された茶で、わが国を代表する産地茶。
起源には、黄檗山万福寺門前の「駒蹄影園跡」碑が語るように、明恵が馬蹄の跡に茶の種を播くことを五ヶ庄の里人に教えたという伝承がある。
また十三世紀中頃には後嵯峨天皇の宇治行幸の際に平等院小松茶園と木幡西浦茶園が開設されたとも伝える。
宇治が茶産地としてあらわれるのは南北朝以降。
史料上の初見は応安七年(1374)だが、足利将軍家や有力守護の保護を得たため有名となり、この頃から宇治茶は急速に発展、十五世紀中葉には「宇治は当代近来の御賞翫、栂尾は此間衰微の体」といわれるほどとなった。
その後、茶の湯の隆盛とともに、宇治茶は日本の茶の代名詞としての地位を確保した。
この発展を支えたのは、ロドリゲスが『日本教会史』で初めて記述した覆下茶園での栽培・採葉による技術で、江戸幕府の保護もうけた。
上林家を筆頭とする多くの茶師たちがあった。
江戸紀後半には煎茶・玉露が創製されるまでは、宇治茶といえば碾茶(抹茶)をさしたが、そのすぐれた技術や製法が、近代の他産地の茶業に与えた影響は極めて大きく、今日もなおその指導的地位にある。

● 宇治茶師

江戸期における宇治の製茶業者で、朝廷・将軍家・諸大名の御用茶に携わった特定の家。
それぞれ由緒をもって幕府や諸侯の強い保護を受け、十七世紀中頃以降は、階級に応じて御物・御袋・御通の茶師三仲間を形成した。
近世前期には五、六十家を数えたが、中期以降は宇治郷の衰退にともない減少、明治維新で保護を失ったのちは大半が廃業。

● 宇治茶壷道中

江戸の将軍家が用いる例年の宇治茶を運ぶため、幕府派遣の役人が茶壷を仕立てて往還する一行をいう。
すでに宇治採茶使の派遣があったが、制度化したのは寛永十年(1633)とされる。
往路は東海道、復路は中仙道・甲州街道を通るのを常とした。
十七世紀後半から十八世紀初頭には最も盛大となり、それぞれの宿駅で一千人以上の人足と百数十頭の駄馬が用意されたこともある。
また、将軍が飲み、徳川家祖廟に献ずる茶でもあったため、道中行列そのものが神聖視され、沿道の住民は畏怖して一行の通過を見守った。
「茶壷に追われてドッピンシャン抜けたらドンドコショ」という童謡は、そうした庶民の畏怖心を伝えたものという。

● 氏長者

氏族中の首長。
奈良期以前の氏上に相当。
八世紀末頃より宗中長者・氏中長者と呼ばれるようになった。
氏長者の号を有した氏族としては、藤原氏・源氏・橘氏・王氏などが有名であるが、そのほか菅原氏・和家氏・伴氏などの氏族中にも存したことが知られる。
氏長者は原則として氏族中の官位第一の者がなり、藤原氏では藤原兼家以降は摂関職と一体化し、摂関職の者が藤原長者を兼ねた。
職能は第一に氏神の祭祀および氏社の管理、第ニに藤原氏の勧学院、橘氏の学館院などの大学別曹の管理、第三に氏人の氏爵の推挙。
そのほか藤原氏の渡領のように、氏財産の管理も重要な職掌であった。

● 宇治橋断碑

大化二年(646)奈良元興寺の僧道登(道昭とする説もあり)が、急流で名高い宇治川に初めて橋を架けたことを記念する石碑。
造立は九世紀以前と考えられる。
その後、度重なる宇治川の洪水によって流出したが、寛政三年(1791)四月に上端部のみを発見、『帝王編年記』所収の宇治橋造橋銘によって同五年に下半部を補刻再建し、ここに「断碑」の称を得るに至った。
橋寺 放生院境内に現存。
日本交通史上の貴重な遺物であり、金石文研究や書道にも重要な資料である。
重要文化財に指定されている。

● 薄雪物語

仮名草子。作者不詳。二巻。
寛永(1624〜44)初期の古活字本がある。
園部衛門と薄雪姫との悲恋を恋文三〇余通の往復形式で描く。
近世書翰体小説の初期の作。
恋文文例集としてもてはやされた。
深草に住む衛門が清水寺で見かけた薄雪姫を見初め、文を交わしたあと二人は結ばれるが、衛門が近江に出かけている間に薄雪は病没する。
衛門は出家して大原に籠るが、菩提を弔うため高野山へ向い、鳥羽の恋塚、秋の山を通り、木幡・稲荷山を見返りつつ淀川を舟で下る。
のち京都に戻り往生を遂げる。

● 歌合

宮廷芸能競技の一つ。
歌人を左右に分ち、その詠歌を左右一首ずつ組合せ、判者がその優劣を決する。
その単位を一番といい、番数の小規模のものから、千五百番のものまでのこる。
女郎花・菊・菖蒲根などを合わせる物合もの的な歌合いと、歌のみを合わせる歌合とがある。
平安初期以来、宮廷・貴族の間に流行。
在民部卿家歌合(仁和元年、885年前後)を最古として、亭子院歌合(延喜13年、913)・天徳四年内裏歌合・六条斎院物語歌合(天喜三年、1055)・皇后宮春秋歌合(天喜四年)など。
遊楽行事を伴った社交的な歌合いから、国信卿家歌合(康和二年、1100)を契機とした衆議判的歌合へと変化し、藤原基俊・俊成前後に至って、歌論的傾向を強くした。
俊成判の六百番歌合(健久四年、1193)は、その判を批判した「顯昭陳状」とともに有名。
歌合は、次ぎの千五百番歌合(建仁元年・同ニ年、1201・2)で、歌合様式の最大限界に達する。

● 謡

本来は舞台演劇としての能に附属する音曲。
室町末期から謡だけを素謡としてうたうことが流行。
世阿弥元清の伝書にも、貴人の酒席に参上し、謡曲のまとまった一節や祝言用につくった小謡をうたい、興を添えたことがみえる。
この頃になると、公家は自ら「堂上の謡」を頻繁に催し、小謡や部分謡でなく、一曲を全部、それも何番も続けてうたうようになった。
「言継卿記」に永禄(1588〜70)頃、烏丸邸では毎月謡(諷)講が催したことがみえ、戦国期には市中各所に謡講が出現、のち武家・町衆の間にも広まる。
江戸期に能が武家の式楽となってからも、京都では謡が町人の教養、遊芸としてたしなまれ、その指導には主として京観世五軒家などの町の謡師匠があった。

● 歌の中山

清水寺の音羽滝から清閑寺に至る間の山路。
地名は、昔清閑寺に住む真燕僧都が、ある夕方門外を通る美女に俗念を起こし、清水への道を尋ねると、女は「見るにたにまよふ心のはかなくてまことの道をいかでしるへき」と答えて姿を消したという寺伝に由来する

● 内野蕪菁

中世から近世まで京都で有名だった蕪。
大内裏跡の内野(現上京区)で作られた。
『毛吹草』には内野蕪菁とあるが、内野にまたがる聚楽第跡でもつくったので、『日次紀事』には聚楽蕪菁と記載。

● 内野新地

上京区の六軒町通仁和寺街道付近の地域。
北新地とも称す。
烏丸下立売新在家の土地が幕府御用地になり、替地として与えられた内野に新地が開かれた。
この地は北野天満宮を控え、愛宕山参詣の道筋にもあたり、享保年間(1716〜36)煮売屋が許され、遊興地として発展。
安政六年(1859)遊里の上七軒から内野五番町への出稼ぎが許され、慶応三年(1867)に独立の遊里となった。

● 内浜

高瀬川水運の施設として、河原町通と東洞院通の間、七条通の北側に設けられた船溜場。
高瀬川河岸では最大規模の船入りで、貯木場でもあった。
付近に納屋町や材木町の名があるのもこれによる。
現在、東七条郷之町と東七条小稲荷町の境界となっている小路が、高瀬川と内浜を結ぶ運河であった。
内浜は大正元年の電車軌道の敷設に際し埋め立てられた。

● 鰻の寝床

京都の町家は、鰻の寝床のように、間口は狭いが、奥行きは甚だ深いということ。
表通に面した部屋が一つでも、その奥に五つも六つもの部屋の並ぶ家が多い。

● 産湯井

菅原道真・牛若丸(源義経)など歴史上著名な人物の産湯に使ったと伝える井。
誕生水・誕生井・誕浴水と呼ばれるのも同種。

1・ 菅公初湯井
上京区堀松町、菅原院天満宮神社境内。
石台形花崗岩の井

2・ 菅原公誕浴水
下京区菅大臣町、菅大臣神社境内。
六角形の石井筒。

3・ 牛若丸誕生井
北区紫竹牛若町。
井戸の前に応永二年(1395)の碑がある。

4・ 六孫王(源経基)誕生水。
源満仲誕生水ともいう。
南区八条町、六孫王神社の弁天堂内。
京都七ツ井、洛陽の名水の一。

5・ 和泉式部産湯井
紫式部産湯井ともいう。
北区紫野大徳寺町、大徳寺塔頭 真珠庵。
一休宗純が聖水と名付けたと伝える。

6・ 三条実美の産湯井
上京区下立売通油小路西大路町にあった滋野井をいう。

7・ 文覚上人の産湯井。
下京区油小路北小路の民家内。

8・ 親鸞産湯井
伏見区日野西大道町、法界寺の薬師堂付近。

9・ 蓮如産湯井
東山区林下町、知恩院境内 崇泰院付近。

● 埋忠家

安土桃山期に始まる刀剣工の家系。
初代重吉(1558〜1631)は三条小鍛冶宗近の二五世の孫と伝える。
俗名彦次郎。
明寿と号した。
十三歳で足利義昭の近習となり西陣に住むが、のち豊臣家に仕え四条室町に土地を賜った。
名手として聞え、諸国から門下に集まり、日向の藤原国広、肥前の橋本忠吉などの名工が出た。
また鐔など金属彫刻にもすぐれたという。
弟家隆(一説に嫡子)が明真と号して家を継ぎ、以後代々、徳川家に仕え幕末まで続いた。

● 梅の井

名水の一。
上京区本法寺前町の裏千家の邸内にある。
名称は井戸車側面の梅花文の刳りに由来。
北東にある茶室咄々斎の五葉松を用いた床柱から横に渡した丸竹とともに松・竹・梅を構成する趣向。
古来、茶の名水として有名。

● 梅の名所

北野天満宮の境内には約2000本。
京都御苑では蛤御門その他に約200本。
二条城の西南部には紅梅・白梅の壮木群がある。
京都府立植物園では約50種に品種名を明示する。
相国寺の塔頭 林光院にある鶯宿梅は紀貫之の女紀内侍の「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかに答へむ」の歌とともに有名。
霊鑑寺の紅梅は樹齢300年以上で、三月上旬に八重紅色の花を開く。

● 裏千家

茶道家元。
千利休を祖とし、二世 千少庵、三世 千宗旦を経て十五世 鵬雲斎 千宗室に至る。
宗旦の三男江岑宗左が表千家、四男仙叟宗室が裏千家、次男一翁宗守が武者小路千家をたてて、三千家が成立。
仙叟は宗旦に晩年まで随心したため、その侘び茶の精神をよくうけ継いだといわれる。
仙叟以降歴代の家元は加賀前田家・四国松山松平家に出仕。
代表的な茶室として今日庵・又隠・寒雲亭・咄々斎などがあり、ともに重要文化財。

● 盂蘭盆会

旧暦の七月十五日に、祖先の精霊に食物を供えて冥福を祈る法会。
現在は八月に行う。
昔は晦日から正月にかけても行ったが、鎌倉期の京都では七月に行うようになった。
江戸期以降、七月十一日頃から仏壇を洗い清め、墓地を清掃し。珍皇寺・引接寺(千本閻魔堂)・六波羅蜜寺などで精霊を迎え、お迎え団子を供える。
十三日から十六日までは精霊棚を設け、茶菓香花にそうめん・枝豆・枝ささげ・根芋・青そば・わさ米・なす・うり・水米・麻箸などを供え、僧を招いて棚経をあげる。
十六日には、おみやげ団子を供え、送り火を焚いて精霊を送った。
それが大文字五山送り火や、また、矢田寺の送り鐘の原形という。

● 瓜生石

祭石の一。
「かしょうせき」とも。
知恩院の黒門前にある。
幅約1・5メートル。
この石に一夜にして瓜が実り、「牛頭天王」の文字が記されていたので、牛頭天王を祭神とする粟田神社にこの瓜を納めたという。
知恩院七不思議の一。

● 雲水ことば

僧堂で修行する禅僧の使用することば。
独特な仏教用語を多用。
禅僧の大本山の専門道場に入門のため、その門を叩く。
タノ(頼)ミマショウ(案内を乞うことば)と大声で案内を乞う。
ドーレ(「誰」の転という。応答語)と堂内の雲水が答える。
僧堂生活では、起床をカイジョウ(開定)、暁の勤行をチョウカ(朝課)、朝食をシュクザ(粥座)、作業をサム(作務)など。
なお、托鉢の際、オー(実は法)と唱えることから京ことばで托鉢僧を「オーサン」という。

〓 え 〓

● 映画撮影所

京都に初めて映画撮影所ができたのは明治四十三年。
横田商会が尾上松之助を得て二条城の西南櫓に設けた小さなもので、翌年には廃され、続いて上京区御前一条下がるの法華堂の地に、太陽光線撮影のためのグラスステージをもつ撮影所が建てられた。
これは大正元年日活のものとなる。
関東大震災で東京の現代劇が京都に移ってくると、右京区太秦に現代・時代併用の撮影所が建った。
東亜キネマ・マキノ映画に続き、松竹キネマも震災後、左京区下鴨に下加茂撮影所を開いた。
映画産業の衰退とともに、昭和三十五年頃の賑わいはない。

● 英国文化センター

正しくはブリティシュ・カウンシル京都センター。
当初、京都大学内の湯川記念館に開設。
現在は、左京区北白川西町。

● ええじゃないか

慶応三年(1867)八月下旬に始り、広範囲にわたった群集乱舞現象。
十二月の王政復古とともに終息したので、討幕派が仕掛けたともみられる。
京都における皇太神宮札の降下は六十余件。

● 益寿糖

求肥の餅菓子。
糯米の粉に砂糖・飴のほか漢方薬の胡麻・肉桂などの粉末を加え、短冊形に練り合わせてつくる。
享保年間(1716〜36)に松柏軒の祖で禁裏御用をつとめた藤井播磨が西王母の故実から案出して宮中に献上したのが最初という。

● 絵師

宮廷や有力社寺に所属した画家。
のちには画家一般の名称となる。
古代氏族の姓(かばね)に「画師」があり、「日本書紀」に楢画師・河内画師などとともに、山背(やましろ)国に住んだ渡来民族の高麗(こま)氏が山背画師に定められたことがみえる。
奈良期の律令制度下では中務省 画工司(えだくみのつかさ)に所属。
平安期には宮廷絵所に属し、主に世俗画の倭絵を描く者と、大寺院に属する僧名の絵師で仏画や建物の装飾にあたる者(のちの絵仏師)に分れた。
後には、その活動は所属する絵所の範囲にとどまらなかった。

● 越前藩邸

福井藩ともいう。
藩主は家門松平氏。
近世初期には下立売通小川西入、新町通一条下がるに京屋敷を構え、その後、二条通堀川東南に移る。
幕末には洛東聖護院の地にも邸を営み、十六代の松平慶永は幕政に関与した公武合体派の中心として活躍。
現在、二条堀川の本邸跡は京都国際ホテル。

● 絵所

宮廷や有名社寺に所属し、絵画関係の業をつかさどった機関。
画所とも書く。
江戸末期まで存続。
律令制度下の画工司が大同三年(808)内匠寮に合併されてのち、仁和年間(885〜89)までに律令制度外の独立機関として再興され、障子絵や仏画・絵巻・装束の彩色など仕事の内容は多岐にわたった。
機構は別当・預・墨書・内豎に分れ、絵所筆頭は初めは墨書、鎌倉期以降は預。
平安末期に源氏物語絵巻の作者と伝える藤原隆能が預となり、鎌倉期には春日権現験記絵巻を描いた高階隆兼がつとめたが、室町期以降は土佐家が世襲。
社寺の絵師は京都では宮廷絵所の経験者が任ぜられ、東寺・祇園社・本願寺などにおかれた。

● 江戸店持京商人

江戸に店を所有した有力な京商人。

● 夷谷座

明治九年、中京区新京極通六角上がる西側にできた劇場。
身振芝居や都をどりの模倣が評判だったが同二十八年三階建てに改装。
同三十三年松竹の直営となる。
昭和十三年松竹劇場と改称。
同ニ十二年から映画館となり、二十九年に京都ピカデリー劇場と改称。

● 恵美須山古墳

向日町市物集女町恵美須山にあった古墳時代前期の円墳。
全壊。

● 会符荷物

会符とは江戸期、公家・武家・門跡などがその荷物を運送する際、荷主を表示した運送上特別の取り扱いを要請するために付けた荷札。
会符は、のち一般人の間にも普及し、その商貨を会符荷物と詐称する者が増えたため、天明期(1781〜89)以後しばしば禁令が出た。
現在、小包などに用いる会符はこれに由来。

● 烏帽子折り

烏帽子を制作する職人。
十五世紀頃の京都の職人の風俗を伝えた「七十一番職人歌合」にも登場する。
烏帽子の塗り直しや修繕なども行った。
路傍で塗り上げるような職人から、高度な技術をもち、将軍の抱え職人となる者もいた。
現在も神祇調度業者の一として存続。

● 烏帽子着

民間の伝統的な成年式。
烏帽子祝ともいい、十五歳前後に行う。
左京区市原では十月十日から十二日までの吉日に行う。
式場は世話役の一和尚(いちわんじょう)の家が受け持ち、ニ和尚・後見役が集まる。
そこへ裃を着た烏帽子子(十七歳男子)と紋付羽織袴の父兄が出席し、長柄の銚子で盃を酌み交わし、祝儀の謡曲のあと、氏神の大神宮社・厳島神社に参詣する。
家の座敷には大鯛や松を飾り、親類縁者を招いて祝宴を張る。
成人したことを示す儀式で、長男の場合は一和尚から烏帽子をもらう。
訛って「ヨボシギ」ともいう。

静原 四月十日。
久多 四月の吉日
松ヶ崎 二月一日
北白川 十月二十日の北白川天神宮の祭礼の日

その他、十五歳で「おとう仲間」に入る嵯峨野高田町は二月十日。
上賀茂では二月二十四日の幸在祭に。

● 絵馬

祈願・報謝の徴として社寺に奉納する板絵。
文献上の初見は「本朝文粋」の寛弘九年(1012)大江匡衡による北野天満宮への色紙奉納の記事とされる。
鎌倉期の「一遍上人絵伝」には下京の平等寺(因幡薬師)の築地塀に庵形の絵馬がみえる。
室町期に馬以外の絵や扁額式の大絵馬が出現、絵馬堂も建った。
江戸期には町人層にも絵馬奉納が普及。
既製品を売る絵馬屋が寺町二条・三条辺に店を構えた。
画題も多彩になり、江戸後期にはこれを集成した「扁額規範」も出た。
大絵馬は公開・鑑賞性が強く、長谷川等伯筆の土佐坊昌俊相騎図(北野天満宮)、池大雅筆の蘭亭雅会図(八坂神社)など著名画家の遺品も多い。
市内に1000面近く現存する大絵馬では天正七年(1579)石田三成奉納の絵馬(上賀茂神社)が最古。
寛永年間(1624〜41)の末吉船図・角倉船図(清水寺)は重要文化財に指定。
絵馬堂は永享年間(1429〜41)千本絵馬堂が「蔭涼軒日録」にみえるが、現存のものでは慶長十三年(1608)豊臣秀吉寄進の北野天満宮絵馬堂をはじめ、藤森神社・御香宮神社・上御霊神社・安井金比羅宮・今宮神社・伏見稲荷大社・八坂神社などに江戸期の遺構がある。
寺院では本堂外陣に掲げることがおおく、清水寺はその代表。
このほか、大雲寺・峰定寺・蓮華王院など観音信仰の寺院が絵馬中心となった。
大絵馬奉納は大正期にすたれたが、小絵馬奉納の習俗は現世利益的な民間信仰のある社寺を中心に現在も行われる。

● 絵巻物

巻子本形式の絵。
通常はこれに対応する詞書きがつく。
平仮名が成立し、倭絵が完成した平安中期以降に大成、鎌倉期を通じて隆盛をとげた。
絵は宮廷や社寺絵所の絵師が描き、詞書きは公家や僧侶が記した。
内容は経典・社寺縁起・伝記・物語・説話・お伽話・戦記・和歌など多岐にわたる。
京都にちなんだものとして、北野天満宮の北野天神縁起(国宝)、真如堂の真如堂縁起(重要文化財)、西本願寺の慕帰絵詞(重要文化財)、徳川黎明会の源氏物語絵巻(国宝)、伴大納言絵詞(国宝・個人蔵)、十二類縁起(重要文化財。個人蔵)などがある。

● 絵屋

安土桃山期を中心に、堺・大坂・京などの町の絵師らが営んだ美術手工芸品の製造・販売業。
それぞれ工房を構えて掛幅絵・屏風絵・絵巻物・色紙・短冊・扇面画・灯籠絵から染織下絵・建築装飾・人形制作まで幅広い活動を行った。
京都では「時慶卿記」の慶長五年(1600)条に初見し、同九年には宮廷女房の記した「御湯殿上日記」にもみえる。
海北友雪が父友松の没後、一時絵屋忠左衛門と称する絵屋となり、土佐家の雅楽助も絵屋を営むなど、有力な絵師の絵屋もあるが、多くは町衆を顧客とする無名の町の絵師が営んだ。
彼らの工芸的な絵画の手法は近世絵画史に大きな影響を与え、宗達も俵屋の屋号とする絵屋の系譜をひくと考えられる。

● エラン・ヴィタール小劇場

京都の新劇団。
大正七年四月、野淵昶が創始。
当時京都では殆ど唯一の新劇団で新村出・成瀬無極・堂本印象・山本修二ら文化人が応援。
野淵のあと久保武を中心に活動を続けたが、戦時体制の中で昭和十四年活動を中止。
第二次大戦後復活し二回公演。
名称はラテン語で「生命の泉」

● 莚饗録

有職家 高橋図南(宗直)の随筆。
子の宗之が図南の草案を一書に編んだもので、明和四年(1767)十月の宗之の跋文がある。
本文は諸友の下問に返答する問答形式で記され、「武家昇殿の事」「三毬打の事」「延年舞の事」など儀式に関するもののほか、「当時堂上方は被染歯、其余の人は不染歯、子細有之事候哉」など公家の風俗に関する詳細な答えがみられる。

● 園太暦

南北朝期の公家 洞院公賢の日記。
書名は「中園太相国暦記」の略。
当代の政治・社会の動向に関する重要資料。
もとは120余巻、慶長元年〜延文五年(1311〜60)の約五十年間にわたる日記であったが、現存の自筆体は応長元年の一巻のみ。
他は 甘露寺親長の抄録した写本が康永三年(1344)から延文五年までのこる。
市中の木戸・釘貫の史料など中世京都の町の様子に関する記事が多い。

● 道切様

一月八日の薬師の縁日に伏見区竹田内畑町で行う神事。
古来、疾疫など村落の平和を脅すものの侵入を防ぐために行った道切り呪術の遺風。
早朝に注連縄をつくり、同町入り口付近の道路をはさむ一対の椋の木の間に注連縄をかけ、中央に安楽寿院の絵馬形の守札を、両脇に剣先札の十二神将を六体ずつとりつけ、樒などを飾り、「えんださんだ」と呪文を唱える。

●燕庵

薮内家の代表的な茶室。
古田織部好みと伝える。
豊臣秀吉拝領の熱田の金灯籠、利休三つ小袖と呼ぶ踏分石、足利義政所持と伝える石灯籠(銘雪の朝)、文覚手水鉢などを置く。
燕庵写しの茶室に大徳寺塔頭・三玄院の篁庵(こうあん)、妙心寺塔頭・天球院の蓬庵などがある。

*茶室のコーナーに詳しく書くつもりですが、いつの事になるやら (笑 *

● 遠碧軒記

随筆。
黒川道祐著。
著者の備忘のための雑記。
遠碧軒は道祐の号。
巻頭に延宝三年(1675)正月の林春斎の一文を載せる。
内容は諸事に及び、二十部門に分類する。

● 閻魔堂狂言

引接寺(いんじょうじ 千本閻魔堂)の大念仏狂言。
五月一日〜三日に行う。
壬生狂言・嵯峨大念仏狂言とともに京都の三大狂言の一。
他の二狂言が無言劇であるのに対し、有声であるのを特徴とする。
寺伝によれば寛仁年間(1017〜21)定覚が教言として始め、のち中絶、文永年間(1264〜75)如輪が再興した。
一説に応永十五年(1408)後小松院の北山行幸以後、定例となったという。
またこの頃、鎮花の意を寓して境内の普賢像桜の開花とともに催すようになったらしい。
さらに、猪熊三条南の褐速社(廃)で死刑者を弔うために行った死活杖祭の中絶後、その遺意を当狂言に含ませたという。
現在の演目は往古の部二十八番、輓近の部十九番に分かれ、このうち毎日初番に演ずる。
「閻魔の庁」は、閻魔庁で審判をうけた亡者が千本閻魔堂にある閻魔大王の手判を示して、大王の命で極楽へ案内されたという内容。
最終日には「千人切」「江戸万歳」を上演し、「千人切」には定覚の守護侍として為朝が登場、観衆の中に分け入る。
この時、為朝の持つ金剛杖を病人の患部に当てると病が平癒するとされる。
古くは念仏講中が演じたが、現在は千本閻魔堂大念仏狂言保存会が行う。

● 延命地藏

京大構内および壬生寺が有名。
壬生の地藏尊は江戸期の名地蔵の一。
寿延寺(大黒町松原下る)に洗い地藏がある。
浄行菩薩石像といい、水をかけ、束子で洗いながら祈願する。
千本通上立売の石像寺は釘抜(苦抜)地藏で有名。
東山区の遊行前町の安祥院の地蔵堂内には日限(ひぎり)地藏がある。

● 延命水

名水の一。
清水寺の南方汁谷の路傍にあったといい、江戸期には服薬の用水として知られた。
修学院、北花山などにも同名の井水が伝えられる。

〓 お 〓

● 御家流

青蓮院十七世尊円親王(1298〜1356)を祖とする書の流派。
日本書道の中興の祖とされ、その書流を青蓮院流という。
この書流が江戸期、一般に実用書道として定着し御家流と称された。

● 負別阿弥陀

下京区本塩竈町蓮光寺の本尊阿弥陀如来。
名弥陀の一。
嘉禎年間(1235〜38)仏師快慶が東国の僧覚明の依頼で阿弥陀像をつくったが、像と分かれがたく、覚明に追いついて再拝しようとしたところ、像が二体に分身した。
そこで一体づつ背負って東西に別れ、快慶が持ち帰った像を当寺の本尊としたという。

● 扇絵

扇面に描かれた絵画。
桧扇は平安中期に発生し、女性の使用とともに加飾が始まり、金銀箔泥地に泥絵で倭絵(瑞祥画)を描くようになった。
広島の厳島神社に伝わる彩色桧扇(国宝 伝平氏奉納)には嵯峨野の子日の遊びが描かれる。
のちに出現した紙扇はより自由な性格をもち、花鳥風月・物語絵・風俗絵を泥絵・唐絵・白描などであらわした。
大阪の四天王寺に伝わる扇面法華経(国宝)は「源氏物語」や「伊勢物語」に取材した下絵の上に写経した平安末期の作。
鎌倉期の桧扇には家紋を記したものがあらわれ、紙扇では紅地に金の日輪を描いた軍扇がある。
室町期になると扇は民衆の間にも普及。
この頃、華美を極めたバサラ扇がもてはやされ、華麗な倭絵、枯淡な水墨画、洒脱なしゃれ絵も流行。
また扇面画を独立の観賞対象とした扇面貼交屏風などが出現し、南禅寺には二百四十面の使用済扇面を貼った室町期から安土桃山期の屏風(六曲八隻)が伝わる。
室町期以降、蹴鞠・香道・茶道・能・舞踊などの芸能や贈答・儀礼用として画扇の需要が増加すると、宮廷・幕府の御用絵師のほか扇屋とよばれる専門職人が扇絵を手がけた。
江戸期の俵屋宗達や宮崎友禅もこのひとりとされる。

● 扇塚 

五条大橋の西北側にある碑。
御影石の扇面を立てる。
昭和三十五年に建立。
同地はかつて御影堂扇がつくられ、その由緒により、古くから扇工が集まり、扇の名産地として知られた。

● 扇屋

扇作りの業者。
室町期、扇の需要が高まるにつれ、それまで絵所などで行っていた扇作りが独立し、専業化した。
この頃贈答に用いた画扇や、日明貿易の輸出品となった扇は扇屋でつくったとみられ、七十一番職人歌合には扇うりが登場する。
「言継卿記」永禄七年(1564)四月条には泥絵の扇をつくった上京小川の布袋屋がみえ、「城殿の扇」も散見する。
五条橋西新善光寺の御影堂扇は近世に至るまで京都土産として有名。
初め扇絵師と扇折り師程度であった扇作りは、近世には骨師。要師・地紙師などに分化し、京都の手工業の一角を担う。
現在京扇子として伝産法に指定される。
扇折りの姿は職人歌合絵巻に描かれるが、扇屋はほとんどの洛中洛外図屏風にみられ、職人尽絵屏風でも扇は重要な位置を占め、扇屋の店先のみを描く屏風もある。

● 鶯宿梅

相国寺塔頭林光院にある梅樹。
花は薄桃色の八重咲。
名称は紀貫之の女紀内侍が詠んだ
「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」による。

● 王塚古墳

八幡市美濃山本郷にある古墳時代中期初頭の前方後円墳。
全長七十メートルを測る。
大正九年の調査報告では直径五十五メートル、高さ九メートルの円墳。
後円部南西裾に周濠とみられる幅八メートルほどの落ち込みがある。

● 応仁の乱

応仁元年(1467)勃発し、文明九年(1477)に終結をみた京都を主戦場とした内乱。
直接的な原因は、足利将軍家や管領畠山・斯波両家の後嗣問題。
細川・山名という有力守護大名の勢力争いに発展して内乱となったが、その背後には守護大名の勢力伸張、失政や土一揆の頻発などによる幕府の権威失墜があった。
細川(東軍)・山名(西軍)両軍は、文正二年(応仁元年)正月十八日、上御霊社付近の御霊林で開戦した。
五月、細川方は室町今出川の花の御所を押さえて本陣とし、山名方は堀川舟橋付近の山名邸(現山名町付近)を本陣として対立、これ以後、両軍は本陣の位置によって、東・西軍と呼ばれた。
同月二十六日、洛中での大規模な戦闘があり、九月十八日には南禅寺付近を中心とする東岩倉の合戦、ついで十月三日には相国寺合戦が戦われたが、この合戦を契機に、洛中での戦闘は下火となった。
翌応仁二年六月頃から、洛中での戦闘が増加、一乗寺・山科・醍醐・木幡・嵯峨・伏見稲荷・西岡・鳥羽・下桂などが、その主な戦場となった。
これらの戦いによって洛中洛外の民屋はもちろん、多くの社寺が戦火によって焼失し、現在京都の旧市街地域には鎌倉期の大報恩寺の一宇を除いて室町期以前の建造物はみられない。
内乱は文明九年に一応の終結をみたが、この内乱によって祗園御霊会や稲荷祭りといった祭礼が中断、京都の街々は荒廃した。
公家や商工業者には他国に身を移す者もあった。
乱終結後、戦国期へと突入するが、この混乱の中で人々は、町の防衛を学び、自治組織の素地をつくり上げていった。

● 黄檗宗

江戸初期、明の禅僧隠元隆gを始祖とする禅宗の一派。
寛文元年(1661)宇治に万福寺を創建したのに始まる。
黄檗禅は基本的には臨済宗と変わらないが、明の念仏禅の影響が加わる。
隠元は住山三年にして弟子木庵性トウにその職を譲った。
現在の万福寺は木庵の門下の俊英たちの努力によるところが大きい。
鉄牛・潮音・慧極などが江戸に下がり、黄檗宗の教勢が関東・東北に伸展する基礎を築いた。
また木庵門下の鉄眼道光が一切経を刊行したことは有名。
万福寺は隠元以降十三世竺庵に至るまで、代々中国僧が住職。
元文五年(1740)龍統が日本人として初めて住持となる。
臨在の一派として取り扱われていたが、明治九年黄檗宗として独立。
京都市内にある同宗寺院は十四カ寺(昭和五十四年現在)。

● 黄檗の三筆

黄檗宗の僧で能書家として知られるた隠元隆g・木庵性トウ・即日如一をさす。
黄檗流の書風は寛文元年(1661)宇治万福寺の創建前後、隠元らが明から将来。
この黄檗宗文化の影響をうけ、わが国でも煎茶の流行とともに、黄檗禅僧の墨蹟を尊重するようになり、特に前三者は「隠・木・即」と称し、文人の書に禅味を加えた書風が喜ばれた。
このほか、独立性易・高泉性トン(サンズイに敦)・千呆性o・悦山道宗などもすぐれた墨蹟をのこす。

● 皇服茶

新年の祝儀茶。
大福・大服・王服とも書く。
若水で煎じた茶に小梅干や結び昆布を入れ、主人をはじめ一家中で飲み、その年の縁起を祝う。
元来は大服茶といい、茶を大服(多量)に飲むのを、大福にかけて縁起とする。
六波羅蜜寺では、正月三ガ日、皇服茶として古来参詣者に授与する。
起源は村上天皇が病の際、空也が献じた茶湯によって平癒したという寺伝に基づく。
また空也は天暦五年(951)京に悪疫が流行すると、疫病退散を願って観音菩薩像をつくり、車に載せて洛中洛外を曳き巡り、車に積んだ湯の中に茶と小梅干・結び昆布を入れ、八葉の蓮弁の形に割った青竹でかきまぜて、病人に授与したと伝える。
この青竹茶筅はのち中京区の空也堂の空也僧(鉢敲)が厄除けとして製作し、洛中で売った。
現在、空也堂では一月十五日に、青竹茶筅で直径三十センチの大きな茶碗に茶を点てる王服茶会を催す。
昭和四十一年六波羅蜜寺本堂の地下遺構から平安期の皇服茶碗が発掘され、皇福茶の伝統の古さが証明された。
なお、大福茶の起源を仏前に供える御仏供茶に求める説もある。

● 近江衆

近江より出京した京都町人。
「冷泉町記録」の文禄二年(1593)の記事には、「近江いしやま衆」といった表現もある。
近江商人の店舗は三条通に多く、現在もその系譜を引く会社が多い。

● 近江太郎

盛夏期の午後、京都から東の方角、滋賀県方面に見える入道雲(雷雲)。
京都では、東方に発達する雷雲がはげしい雷雨をもたらすことは少なく、わずかに東山周辺か山科方面に降る程度である。

● 応門十哲

江戸後期の円山応挙門人中、特に優れた十名の画家。
応挙の新画風は京都画壇を風靡し、その門人一千名といわれ、円山派を形成した。
その十哲は
源g(駒井g)・長沢蘆雪・山跡鶴嶺・渡辺南岳・森徹山・西村楠亭・吉村孝敬・山口素絢・奥文鳴・僧月遷をさし、そのほか応挙の長男応瑞、次男の木下応受、八田古秀・皆川淇園・岡村鳳水・山本守礼らの高弟があった。

● 往来田

中世、上賀茂神社の氏人の間で行われた土地制度。
賀茂六郷(河上・岡本・小野・大宮・小山・中村)のうち、小野郷を除く五郷の上層農民に一筆一段宛の社領田地を配し、氏人のうち百四十名が年齢順に各々五段を給田として神社からうけた。
年貢を納めるかわりに神事・社役をつとめる義務があった。

● 大石忌

赤穂四十七士の法要。
三月二十日。
大石良雄が遊興したという伝説により、祗園の茶屋一力亭で顧客を招待して行う。
四十七士の木像を祀り、義士の遺墨・遺品を展覧、京舞の家元井上八千代の舞「深き心」がある。
寛延元年(1748)「仮名手本忠臣蔵」(竹田出雲・三好松洛・並木千柳)の上演とともに一力の名はとみに高まり、義士の百回忌を修して以来、毎年行う。
なお十二月十四日には山科で義士祭が行われる。

● 大石天狗堂

寛政十三年(1801)創業。
江戸期、製造が禁止されたときには表向き精米商を装い、裏でカルタを商ったという。
公に営業を始めたのは、トランプが輸入された明治初期。
厚紙は洋紙に、木版と型紙による線画刷と彩色は印刷に変わったが、和紙の裏紙を一枚一枚手で貼る伝統的な製法は今も継承。

● 大炊殿

平安期の貴族の屋敷。
大炊御門(竹屋町通)南・西洞院東の藤原師実邸、大炊御門北・東洞院西の白河院御所などがある。

● 大炊御門家

公家。
藤原北家流。
関白藤原師実の三男経実(1131年没)に始まる。
その四男経宗(1189年没)が大炊御門を家号とした。
書・和琴・笛・装束などを家業とする。
明治に入って侯爵。

● 大枝遺跡

西京区大枝北福西町にある先土器時代・縄文時代早期の遺跡。

● 大江能楽堂

観世流能楽師大江家の能楽堂。
中京区押小路柳馬場東入る。
明治四十一年十一月大江竹雪が設立。
昭和二十年
強制疎開のため居宅・楽屋を取り壊し、舞台のみ残る。

● 大江関

山陰道沿いに山城国から丹波国へ抜ける老坂峠の手前に設置した関所。
現在の西京区大枝沓掛町付近にあたる。
室町期には天龍寺領の年貢輸送に必要な人夫や糧物調達のために活用され、天龍寺はこの関所を媒介として多額の収益をあげた。

● 大枝富有柿

西京区大枝付近に産する富有柿。
栽培は比較的新しく、大正期に岐阜原産の富有柿が全国に紹介され、各地に広まったものの一つ。

● 大枝山古墳群
西京区御陵大枝山町にある二十三基からなる古墳時代後期の群集墳。
京都市内の古墳時代後期古墳群の中では最もよく形状を残している。

● 大垣藩邸

大垣藩は美濃安八郡大垣に置かれた藩で、藩主は戸田氏。
京屋敷は江戸初期から幕末まで富小路二条下がる東側にあり、京都との密接な関係を保ち続けた。

● 正親町家

公家。
藤原北家閑院流の西園寺家の支流。
鎌倉期、太政大臣洞院公守の次男実明(1351年没)に始まり、別号を裏築地(裏辻)ともいう。
羽林家の一。
屋敷は烏丸今出川にあった。

● 正親町三条家

公家。
藤原北家閑院流の三条家の分流。
摂関家、清華家につぐ三大臣家の一。
鎌倉末期、左大臣三条実房の三男公氏(1237年没)に始まり、代々正親家に住んだので正親町三条を家号とした。
南北朝期、公秀(1363年没)の女秀子が光厳天皇の後宮に入り、崇光・後光厳天皇を生んだ。
江戸期は仙洞御所の南に屋敷があった。
明治の初め実愛(1909年没)は嵯峨を名乗り、伯爵、のち侯爵。
三条西家・滋野井家などに分かれた。

● 大草流

室町期に成立した膳部料理の一流派。
足利将軍家の包丁人大草三郎左衛門尉公次が始めたと伝える。
進士流・園部流と並んで膳部料理の献立をする武家の料理をつかさどった。
「宗五大草紙」には、「公方様には進士・大草両流を御用候ふ」とあるが、進士流を圧倒し、次第に力をもつようになった。
伝書として「大草家料理書」「大草殿より相伝の聞書」などがある。

● 大坂街道

南区四ツ塚町。
平安京羅城門に相当する位置に設けられた京七口の一つ東寺口から南走し、淀・橋本を経て逢坂へ通じる街道。

● 大沢家

洛南下鳥羽に住んだ車借(力)の問屋。
慶長十九年(1614)に京都所司代板倉勝重がその権利を改めて認めており、車力問屋としてはそれ以前にさかのぼる。
幕末まで京都・鳥羽間の陸上輸送の差配にあたった。

● 大惣仲間

江戸期、鞍馬寺を構成する十院九坊のもとに組織された七仲間の一。
七仲間はこのほか宿直仲間・名衆仲間・僧達仲間・脇仲間・大工衆仲間・大夫仲間からなり、半僧半神官的な側面をもち、鞍馬の竹伐り会式(蓮華会)と鞍馬の地主神由岐神社の祭礼、鞍馬の火祭りの運営に奉仕した。
大惣仲間はこの中でも最も権威があり、本家筋の「本家株」と分家筋の「若い衆なみ」とに分かれ、さらに年齢順の序列を貫徹させ、本家株では講師・法師・唱講の順に昇進、唱講の最年長者を一和尚と呼び、座頭とした。
これらは世襲で、現在も大惣仲間のほか僧達・宿直の三仲間た家柄や格式の区別を伝える。

● 大谷探検隊

浄土真宗本願寺派二十二世門主大谷光瑞が仏教東漸の研究調査を目的として組織した中央アジアの探検隊。
第一次は明治三十五年から同三十七年。
第二次は同四十一年から翌年。
第三次は同四十三年から大正二年にかけて行われた。
多数の出土品を得、大谷コレクションとして名高く、その一部は「西域考古図譜」として出版され、また龍谷大学にも所蔵する。

● 大年寄

明治維新の町組改正後、上下大組(上下京)に置いた市中の総括者。
府知事の特選により任命。
官府への勤府と市中の総括にあたり、十人扶持を官給され勤務中は苗字帯刀が許された。
定員は八名と申請しているが、六名の時期が長く、市中在住者で行政的な実務能力のある者が選ばれた。
手代十三名、書記手代四名、用遣い七名が付き、彼らの給料や大年寄り詰所の諸経費は町民が負担。
明治五年に総区長と改称する。

● 大舎人座

室町期の織物の座。
本所は万里小路家。
大舎人綾と称する綾織物を製織した。
織部司の廃絶にともない、平安末期から鎌倉期にかけて、織部町の工人が東隣の大舎人町(現上京区葭屋町通下長者町上る菊屋町付近)に進出、民業の織物を興した。
応仁の乱で一時衰えたが、のち復興、永正十一年(1514)練貫座を押さえて綾織物生産の独占権を確保、天文年間(1532〜55)には足利家の被官となり、特権的地位を得た。
この頃の座衆は小島・野本・蓮池・井関氏ら十三名。
元亀二年(1571)うち六家が御寮織物司となり、その地位はさらに高まった。
豊臣秀吉の楽座令で解散したとみられるが、主要な織家は高機仲間として西陣機業の基盤となる。

● 大仲

町代改義一件後の町組の連合組織。
上京が大仲を称し、下京は旧来の下古京八組を称した。
大仲は上古京十二組から一年ごとに一定の順序で選出される大年番・先年番・大加番の三役を代表とし、十二組の各町組を代表する惣代・加番で構成して役料は各町組で負担した。
下古京八組は各町組の上座が交替であたる触当番・先触当番・後触当番の三役が代表者となり、各町組の座上・ニ老・三老が寄り合った。
京都市中に関わる問題は、大中寄合と下古京八組寄合で決定。
主な行事は年頭拝礼の江戸下り、所司代・町奉行への年頭・八朔の御礼、これらの諸経費を割り当てる大割勘定寄合、御朱印の上下京受け渡しと虫干、籾年番の運営などで、上下京の三役は上下京大割勘定寄合や御朱印守護で顔を合わせた。

● 大祓

六月三十日と十二月三十一日に各神社で百官万民の罪けがれを祓う神事。
六月を夏越祓(名越祓)、十二月を年越祓(除夜祭)という。
奈良期以降、国家的行事として大内裏の朱雀門で行ったが、次第に衰退、応仁の乱後廃絶した。
江戸期わずかに復興し、吉田家が奉仕、明治四年旧儀を復し、翌年に茅輪神事を営み、茅の輪をくぐって無病息災を願う参拝者が多い。

● 大原口

京の七口の一。
現在の上京区今出川寺町付近をさす。
中世には大原辻とも呼ばれ、洛中から比叡山や近江国・若狭国へと通じる起点となった。
特に近江国を経て若狭国へと至る若狭街道の出入り口にあたり、交通の要所であった。

● 大原家

公家。
宇多源氏。
宇多天皇の皇子敦実親王の子。
源雅信の四男時方が大原少将と号したが、七世の孫仲兼は五辻と改めた。
雅信の長男時中の子孫は綾小路家を称し、のち庭田家に分かれ、江戸期、庭田重条の猶子栄顕(1723年没)が大原家を復活した。
代々神楽をもって朝廷に仕えた。
幕末の重徳(1879年没)は尊攘派として活躍。
明治に至り子爵、のち伯爵。

● 大原ことば

大原で使用する洛北ことば。
町内では敬語を使用することが少ない。
二人称にワゴリャ、一人称にウラ(女性語)、また、アンナラ(あんな)・コンナラ(こんな)、タモ(下さい)、早いノオ(な)などを使用。

● 大原三寂

平安末期から鎌倉初期にかけて大原山に住んだ寂念・寂然・寂超の三兄弟。
藤原為忠の子。
出家遁世者、歌人として知られる。

● 大原声明 → 魚山声明

● 大原談義

文治二年(1186)天台宗の僧顕真(のち六十一代天台宗座主)が、浄土宗の祖法然を洛北大原勝林院に招いて行った専修念仏についての論議。
大原問答ともいう。
三論宗の明遍、法相宗の貞慶、天台宗の智海・証真ら聖道門の学匠、法然に従う重源など聴衆数百人が参集。
問答は一日一夜に及び、顕真らは法然に信伏したという。
こののち、法然とその専修念仏は九条兼実ら貴族の注目を集めるに至った。

● 大原野古窯址群

西京区大原野石作町から小塩町にわたって分布する平安前期から中期にかけての須恵器・縁釉陶器窯跡群。
平安京へ陶器・須恵器を供給した窯跡群とみられる。

● 大宮川

平安京の大宮大路に沿って九条大路まで南流した川。
耳敏川ともいう。
清冽で大内裏の御溝水となり、二条大路以南は芥川とも呼んだ。
明治末期に鵺川という小溝が残っていたが、現在はない。

● 大宮絹

鎌倉末期から室町期にかけて大宮付近で織られた絹織物。
「庭訓往来」に京都名産としてあげる。
大宮は平安期織部司が置かれた所で、平安中期以降盛んとなった私織の中心地。
近接する大舎人町の綾とともに西陣織業の基礎となった。
のち織手は大舎人座に吸収されたとみられる。

● 大宮森

北区紫竹竹殿町にある久我神社の社叢。
名称は、同社の旧称「大宮」に由来。
貞亨三年(1686)刊「雍州府志」に、賀茂斎院が同地にあったと記す。

● 大宮葡萄

江戸期の京名物。
「毛吹草」に「大宮通ニ葡萄、当所ニ多ク作出ス」とみえ、
「雍州府志」には嵯峨産の葡萄が良質であるが、大宮のものもこれにつぐとある。
中世末にはつくり始めたとみられ、幕末頃まで続いた。
同地には林檎も産し、前二書に記載する。

● 大宅廃寺

山科区大宅鳥居脇町にある古代寺院址。
出土品や遺構の状況から、創建は白鳳期で、平安前期に修造され、火災で全焼、平安後期に小堂一宇が再興されたとみられる。
藤原鎌足の山階精舎(奈良興福寺の前身)説、大宅氏の氏寺説がある。

● 大宅廃寺瓦窯址

山科区大宅向山にある大宅廃寺創建時の所用瓦窯址。
醍醐山の北に連なる高塚山の西裾丘陵中腹に位置。

● 大山崎油座

平安末期から室町期にかけて、石清水八幡宮末社の大山崎離宮八幡宮の神人が結成した座。
荏胡麻油の製造・販売に従事した。
油商人は神人身分として石清水八幡宮の内殿灯油備進や四月三日の日使頭役を勤仕し、鎌倉期には諸関料免除、室町期には公方役・土倉役免除・荏胡麻購入、製品油専売の特権を得た。
油商人は西国を中心に荏胡麻の買い付けに赴きながら販売圏を拡大し、南北朝期には六十四名の荏京油神人が成立、諸国においても地方油商人を新加神人に組み入れて独占権を拡大した。
しかし応仁の乱以後の幕府権力の失墜と戦国大名の台頭で独占権を失い、豊臣秀吉によって油座の特権を奪われた。

● オールロマンス事件

差別事件。
昭和二十六年十月、京都市役所の職員が雑誌「オールロマンス」に「特殊部落」と題し、京都市内の被差別地区を舞台とする、きわめて差別的。露悪的な小説を掲載した。
この件について、部落開放全国委員会京都府連合会は、地区の環境が低位な状況に放置されているのは市行政の怠慢によるとして、市当局の責任を問い、同和行政の推進を要請した。
この事件は戦後の地方公共団体が同和行政と取り組む主要な契機となった。

● 岡崎土

左京区岡崎天王町および粟田口付近で産出した土。
粟田焼の業者が宝暦八年(1758)頃から明治まで陶土として使用。
現在も粘土層の存在は確認されているが、人家密集のため採掘不能。

● 尾形家

江戸前期の豪商。
遠祖は「源平盛衰記」にも登場する緒方三郎惟義というが、光琳・乾山を生んだ呉服商雁金屋は曽祖父の尾形道柏に始まる。
「本阿弥行状記」によれば、道柏は近江国浅井家の家来筋にあたり、本阿弥家より光悦の姉法秀を妻に迎え、上層町衆としての基礎を築いた。
家業の呉服商は、道柏の代より浅井家の縁で淀君・京極高次夫人・徳川秀忠夫人の御用をつとめて繁栄し、道柏の子宗柏の代には東福門院御用の特権を得た。
宗柏のあと長男宗甫が家督を継ぎ、万治三年(1660)宗甫の死により三男宗謙が継承。
延宝六年(1678)東福門院の死によって呉服御用の特権を失い、以後は諸大名家への金子用立による大名貸にも失敗し、宗謙の没後、光琳・乾山の代には没落した。
屋敷は上京区中立売小川にあった。

● 岡藩邸

岡藩は豊後直人郡に置かれた藩で竹田藩ともいう。
藩主は外様大名中川氏。
京屋敷は江戸中期に下長者町衣棚辺、幕末には三本木を設けた。
なお文久年間(1861〜64)在京中の同藩主中川久昭は大津・京都間の通船計画を朝廷に申請し注目された。

● 岡山藩邸

岡山藩は備前国御野郡に置かれた藩で、藩主は外様大名池田氏。
京屋敷は二ヶ所あり、猪熊通中立売上るの屋敷は元禄十四年(1701)から池田氏の所有となる。
それ以前は丹波篠山藩邸。
その規模は、表口三十三間四寸、裏行十六間六尺二寸の地に東面して門を開き、左右に長屋を続け、北端に裏門を設ける。
玄関の北には料理の間などが並び、北の居間・寝室へとつながる。
西の裏庭には二階造りの土蔵も置かれ、京屋敷の典型を示している。
もう一つは幕末期、元誓願寺通小川に所在した。

● 御粥祭

一月十五日朝、神前に小豆粥を供え、五穀豊穣・国家安泰を祈る神事。
御粥神事ともいう。
上賀茂神社・下鴨神社・北野天満宮・貴船神社などで行う。
下鴨神社は小豆と白米で紅白の粥を炊いて供える。
同社の文書によれば、もと薬酒を供える儀式で、明治の初めまでは初卯の日に梅の枝先に薬をつけて供えた(卯杖の儀)。
上賀茂神社では小豆粥・野菜・果物を供え、粥杖と呼ぶ樒の木(長さ約三十センチ)二本で内陣扉や膳などを軽く叩いて邪気を祓う。
民家でも小豆粥を食べて祝う習慣がある。

● 小川組

江戸期の上京の町組。
上京十二組の一。
史料上の初見は元亀二年(1571)。
町数は、文政三年(1820)段階では古町三組で三四カ町。
ほぼ、東は新町通、西は東堀川通、南は一条通、北は寺之内通の内にあった。

● 御為替十人組

元禄四年(1691)江戸幕府が御為替御用達として任命した公金為替を取り扱う両替商十二名(御為替組)のうち、三井家の二名を除く十名をいう。
三井から参加した越後屋八郎兵衛・三井次郎右衛門の二名は御為替二人組と称した。
二人組はのちに三人組、四人組となりさらに御為替三井組といった。
三井が幕末まで営業を維持したのに対し、十人組は衰え、小野・島田のみが維新まで続いた。

● 小川流

煎茶道の一流派。
天保(1830〜44)の初め、もと御典医の小川可進が興したため可進流ともいう。
京都の煎茶家元としては最古。
家元は代々、可進の号「後楽」を継ぐ。
煎茶は長く文人墨客の余技としてたのしまれ、茶味を追及する上での技法や煎法の解明は遅れていたが、可進は近世の合理思想に基づき、茶葉の改良、煎法の工夫に意を凝らし新しい煎茶手前を創案した。
可進の手前は多くの公家・文人に好まれて、室町一条の後楽堂(現京都府議会公舎)には近衛忠熙・一条忠香らが出入りした。
のち冷泉家が家元を代行する時期もあったが大正年間に復活、現六世に至る。
王朝的な風雅が特色。

● 阿国歌舞伎

出雲阿国が始めたという創始期の歌舞伎。
慶長(1596〜1615)初期、勧進興行の名目で、京都において「ややこ踊り」を演じ、人気を博した。
最初は流行の小歌に合わせて数人の少女が踊る可憐な踊りであったが、やがて劇的な要素を加味し、阿国が男に扮し、新奇な衣装を着て茶屋の女と戯れる様を演じた。
「かぶき」とは本来「傾き」と書き、異端を意味する言葉で、「かぶきおどり」の初見は「慶長日件録」慶長八年(1603)の条。
阿国は五条河原町や北野社境内の勧進能の舞台跡を借用して筵張りの囲いで上演。

● 巨椋池

昭和の初めまで京都盆地の中央部にあった水深0.9メートルの浅い遊水池。
現在の伏見区・宇治市・久御山町域にまたがる広大な水面を有したが、昭和八年に干拓を開始、同十六年に完成した。

● 送り鐘

矢田寺(矢田地蔵)で八月十六日、精霊送りにつく鐘。
珍皇寺の迎え鐘(八月七日〜十日)に対していう。
昔は大文字送り火を見ながら鐘をつき、精霊を送ったので大文字送り鐘供養とも呼んだ。
死者が出たときや盆の精霊送りにこの鐘をつく慣わしは、当寺開祖満慶(満米)上人の冥土往還伝説に関連して生じたものともいう。
寺では終日施餓鬼法要を営み、また矢田地蔵縁起(重要文化財)を展観。

● 小栗栖遺跡

伏見区小栗栖山口町に所在する弥生時代後期の遺跡。
山科盆地の南西端、大岩山の東南麓に位置する。

● 桶屋

桶の製造・販売店。
樽は水漏れを防ぐため板目材を用いるが、桶は水切りをよくするため柾目材を用い、製造業者も異なる。
昔は生活必需品であったため桶屋も多く、江戸期の「京雀」には東堀川夷川より三条までと、西堀川下立売より南三、四丁の間に集まっていたことがみえる。
昭和初年には市内で五、六十軒あったが、樹脂製品に押され、現在は約十件に減少(1980)。
材料は椹が中心で、その生産量は一日五個程度。
なお千枚漬・染物用などの特殊な桶をつくる業者もある。

● おけら詣り

大晦日から元日の朝にかけて八坂神社や北野天満宮へ参詣し、おけら火を吉兆縄に移し取って家へ持ち帰る行事。
火を消さないために短く持った火縄の端をくるくるまわしながら帰り、その浄火を火種にして元日の大福茶や雑煮などを祝うと一年の無病息災がかなうという。
おけらはキク科の植物で薬草として効果があり、厄除けのため浄火にくすべるのでおけら火と呼ぶ。
八坂神社では十二月二十八日の鑽火式で浄火をきり出し、三十一日の除夜祭で削掛の木に移し、その後、浄火を鉄燈籠三基に移し火縄に授ける。
削掛神事ともいう伝統的祭事で、昔は元旦寅の刻(午前四時)に行った。
また削掛とおけら火の煙の方向で丹波・近江両国の豊凶を占ったり、参詣者は互いに悪口をいいあい、これに勝てばその年の吉兆を得るともいった。
北野天満宮では火之御子社で鑽火神事を営み、斎火をおこし、中庭の鉄篝に移して火縄を授与する。

● おこし

蒸した糯米を乾かし、炒ったものに胡椒や胡桃を加え、水飴や砂糖をまぶして固めた菓子。
おこし米・興米ともいう。
室町四条南松木町で良質の興米を製したが、江戸期に入ると二口屋・虎屋の製する商品が評判をとったと「雍州府志」にみえる。

● おこぼ

舞妓や女の子がはく桐の高下駄。
こっぽり・ぽっくりとも呼ぶ。
畳表のものと漆塗のものがあり、子供用に裏に鈴を付けたものもある。
製造は下駄屋が行うが、京都では花街など需要家の目も肥えてるため、桐下駄の製造技術は日本一といわれる。
これらの製造業者は明治・大正を最盛期とし数十件を数えた。

● 御師

各神社および山岳修験系の霊場で、参詣者のために案内や祈祷を行い、また宿所を提供する人。
平安中期に始まり、熊野・伊勢が特に有名。
京都では愛宕信仰を諸国に広めた愛宕山の御師の活躍が有名で、また鞍馬の御師(のち願人坊主と呼ばれた)は鬼一法眼の虎の巻や毘沙門天の絵像の配布や宿坊を経営した。
このほか賀茂社・北野天満宮・八坂神社・石清水八幡宮などの御師も有名。

● 押小路家

公家
藤原北家閑院流。
三条家の分流。
太政大臣三条実重の子公茂(1324没)が押小路内府と号し、その孫公忠(1384没)も押小路を称したが、いずれも一時的な称号。
江戸期の三条西実の孫公音(1716没)が押小路家を復活した。
家禄八百三十石。
明治に至り子爵。

● 押小路焼

寛永年間(1624〜44)粟田口焼の創始者三文字屋九右衛門の子庄左衛門・助左衛門が、中京区押小路通東洞院東入付近に開いたと伝える窯。
交趾焼風の楽焼で、明和(1764〜72)頃まで焼いた。
色釉の使用技法は京焼の諸窯にも吸収され、色絵陶器を生む素地となった。
尾形乾山は押小路焼物師一文字屋助左衛門の弟子孫兵衛を作陶に用い、またその書「陶工必用」に押小路焼きの技法を記述。

● 忍藩邸

忍藩は武蔵国埼玉郡に置かれた藩。
寛永年間(1624〜44)幕府老中職にあった藩主松平信綱が東堀川通竹屋町下がる東側に京屋敷を設置。
のち釜座通夷川上るに移り、文政六年(1823)松平忠堯の入封以後、幕末まで東洞院通蛸薬師下がる町に所在。

● お十夜

浄土宗寺院で、十一月五日から十五日(古くは十月五日から十五日)まで、十日十夜営む法要。
十月十日夜の間、念仏を唱え、極楽往生を願うもので、永亨九年(1437)に平貞国が真如堂に参籠し、三日三夜に七日七夜の修行を重ねたことに始まり、以来真如堂が根本道場になったという。

● お砂踏法要

今熊野観音寺の彼岸法要。
九月二十一日〜二十五日。
四国八十八ヵ所へ代参して持ち帰った霊場の砂を堂内に敷き、各霊場をあらわす掛物を掛け、八十八ヵ所の法印の笈摺(巡礼者の着る袖なしの衣)を着た信者が参拝。
文政十年(1827)頃に始まり、畿内各地から多数の参詣者を集める。

● お千度祭

長岡京市走田神社の豊作祈願祭。
一月十三日。
前日、大蛇をかたどった勘定縄を参道石段の中ほどの老樹の間に掛け、これに一月から十二月までの各月を示す榊(御幣)を吊るす。
十三日、石段下の鳥居から勘定縄の下をくぐり、本殿まで百余段の石段を登降するお千度を行う。
榊の先の高低により米相場の変動を占う。
次に御弓講(本座。高橋姓のみ)が歩射神事を行う。
かつては歩射神事が終わると的の両側の御幣を奪い合ったが、今は氏子の数だけの福笹を用意し、御供(円錐形のおにぎり飯)とともに授与する。
講員は神事後、絵馬殿で牛蒡・棒鱈などを肴に神酒を戴く。

● お千度廻り事件

天明の飢饉に町人が米価下落を願って禁裏へお千度した事件。
天明七年(1787)六月、米価上昇にたまりかねた京都町人と大坂など各地から上京した群集が、昼夜を問わず禁裏へお千度廻りし、賽銭を上げ五穀成就、神道と国風の再興を祈願した。
その結果、朝廷は扇商人西村近江ら三名に令して、関白鷹司輔平邸で庄内米を直売。
八月下旬、米価が下がると御礼のお千度が起こった。

東京遷都に反対した市民のお千度。
明治二年九月二十四日、皇居の東行に反対し天皇の還幸を求めて、町組みの旗を立て市民が石薬師門前に集まってお千度廻りをした。
同時に北野天満宮でもお千度があった。

● 愛宕家

公家
村上源氏久我家中院家の庶流。
江戸期、英彦山権現座主有清(岩倉具堯の子)の子通福(1699没)が中院通純の養子となり、一家をたてたのに始まる。
羽林家の一。
家禄百三十石。
四代通敬(1787没)は竹内式部の垂加神道を学び、七代通祐・八代通到(1886没)は安政八十八廷臣の一。
九代通旭(1871没)は外山光輔らと蒙古を求めて挙兵を計画、発覚して明治四年自刃。
明治に至り伯爵。

● 御塚巡り

伏見稲荷の神蹟や、山中に散在する小祠・石の御塚の巡拝。
全山を巡ると約四キロ、二時間を要する。
御塚は古くは荒神塚・人呼塚など峰上の五塚をさしたが、明治初期より伏見稲荷大社の信者が石碑を建立し、昭和十四年の台帳では2400余基、今日では一万数千基に及ぶという。
それぞれ「白菊大神」「末広大神」などと大神の名を付し、磐座信仰の一種とされる。
信者は巡拝を「お山する」といい、七神蹟その他を登拝する。
建立者は初午詣・福参りと称して月初めの午の日や建立した日などに詣で、神饌を供え祈りを捧げる。

● お土居

豊臣秀吉による京都改造の一環として、天正十九年(1591)京の周囲に築かれた土塁。
東は鴨川、西は紙屋川に内接し、北は鷹峯、南は九条を限り、全長二十六町に及ぶ。
土塁の高さ五=十二尺、基底部の厚さ五間、頂部に竹を植えて盛土を保護し、幅二〜十間の濠を掘った。
軍事的な城塞であるとともに、鴨川の洪水に備える防災施設であり、加えて洛中・洛外の境界を明らかにし、市街地の範囲を示すものであった。
寛文九年(1669)角倉与一がお土居藪の支配を命ぜられ、竹木の売買を含む管理権を与えられたが、その後市街地の拡大とともに、土塁の破壊も進んだ。
現在、国の史跡に指定され、北区大宮土居町から鷹峯旧土居町にかけて、お土居の一部を復原。
また壬生土居ノ町の名称や、河原町今出川上る一筋西入るの枡形通の名は、お土居の出入り口が枡形構造になっていたことにちなむなど、その名残をとどめる。

● 音羽焼

洛東音羽山で焼かれた陶器。
古清水の一。
起源は諸説あり、天正・文禄(1573〜96)頃とする説もあるが、寛永十八年(1641)頃音羽屋惣左衛門が東山区清閑寺茶碗坂に開窯し、音羽焼と称したともいう。
「隔メイ(クサカンムリに冥)記」寛文六年(1666)の条に音羽焼茶碗の名がみえる。
宝暦年間(1751〜64)九代目音羽屋九郎兵衛が五条坂へ窯を移し、この地の陶業の起源となった。
なお明治まで五条坂には音羽屋を称する窯が数窯あった。

● 小野組

明治維新期に三井組・島田組と並び称された両替・金融業者。
屋号は井筒屋。
もとは近江商人で、宝永五年(1708)奥羽盛岡で成功したのち京都に進出した。
慶応三年(1867)十二月、新政府は金殻出納所を設け、三井三郎助・小野善助・島田八郎左衛門が御用を命ぜられた。
翌四年(明治元年)正月の会計基立金三百万両の調達などにも尽力し、同年二月為替方を拝命。
明治政府は全国的な公金取り扱い機関を設置できなかったので、その機能をもつ三井・小野・島田組を利用したもの。
為替方は政府に納付するまでの公金を無利息で預かり、利息付で貸し付けることができた。
小野組はこれを利用して製糸場を設立し、鉱山にも投資した。
同六年、本拠を東京へ移そうとして京都府の反対にあい、小野組はこれを訴えて認められたが、府はなおも阻止したため、京都府大参事槇村正直が拘束された(小野組転籍事件)。
同七年、政府は預けた公金相当額の抵当を提供させる政策を打ち出し、三井は切り抜けたが、小野・島田はこれに応ずることができず破綻した。

● 小野氏

和邇氏系の古代氏族。
もと大和大春日(春日)氏を名乗ったが、妹子の時に分かれて近江国滋賀郡小野村に移住、小野氏を称したという。
京都の愛宕郡に小野郷があり、妹子の子の毛人の墓もあるので、山城国にも進出したとみられる。
妹子・毛人・毛野の三代が有名で、飛鳥・奈良期に朝廷に仕えて重きをなし、平安期には歌人・政治家として著名な篁、書家の道風、承平・天慶の乱を鎮圧した好古などが出た。

● お化髪

節分に女性が結う厄除け髪。
老女は島田や手鞠髷に結い、娘は丸髪などに結って氏神や吉田神社・八坂神社などへ参拝し、老女は若さを求め、娘は良縁を祈る。
年齢や階層転換の呪術。
今は節分の日の日本髪や童女の髪にとりつけた髷もお化髪(おばけ)と呼ぶ。

● 大原女

洛北大原の里に住み、薪・柴を頭上にのせて京中へ売り歩く女性。
中世の東北院職人歌合や七十一番職人歌合に、頭の上に薪をのせ筒袖の着物に前結びの帯、足に脚絆をつけた姿が描かれる。
近世の正装は紺の着物に御所染の帯を前で結び、着物の裾をからげ、帯にはさむ。
足は、白い脚絆を前合わせにして甲掛けをつける。
頭は島田髪に結い、手拭を吹き流しにかけ、その上にワラの輪台を置き、黒木をのせる。
装いは阿波内侍ら建礼門院に仕えた女官の柴刈の時の姿にちなむと伝える。
小原女とも書く。

● 織子

西陣織の織手。
古くは御経講・御幣子の字をあて、現在ではウィーバーともいう。

● 御室焼

野々村仁清が慶安三年(1650)頃仁和寺門前の右京区御室竪町に開いた窯。
御庭焼の一。
仁和寺焼とも呼んだ。
数代続いた。
嘉永年間(1848〜54)仁清写しに巧みな永楽和全がこの地に新窯を築き、「おむろ」の印を用いたという。

● お召し

西陣織の一。
しぼのある地合の絹織物。
お召縮緬の略。
十一代将軍徳川家斉が納戸地に細かい格子の縮緬を好んだため、この名がある。
天正(1573〜92)頃、明から堺を経て製織法が伝わり、天和年間(1681〜84)には紋縮緬・柳條縮緬があらわれた。
享保・元文(1716〜41)頃、桐生・丹後などに技術が伝わり、のちにこれが地方絹として京都の絹織物を圧迫。
もとは男物であったが化政期(1804〜30)以降、女物にも用いられ、明治期にはお召着尺の全盛を迎え、第二次大戦前まで高級着尺の大部分を占め、着尺のことをお召しということもある。
紋・縞など先染縮緬のほか、友禅染の加工用生地としても用いる。
なお、西陣では着尺の織屋を広幅の織屋に対して、狭屋という。

● オランダ焼

オランダ貿易船で輸入された陶器。
江戸期、茶人が愛好した。
船・風車・花鳥・幾何模様の絵付を施したデフォルト陶器が中心で、中国製も混入。
当時欧州に輸出された古伊万里の影響をうけたデザインが多い。

● 織殿

明治前期の織物技術伝習所。
明治七年京都府が中京区河原町通二条下がるの旧角倉屋敷跡に開設。
当初は織工場と称した。
前年フランス留学から帰国した佐倉常七らの持ち帰ったジャガード機をはじめとする新式の様式織物の関係機会を設置。
同八年全国から伝習生を募集、新しい織物技術の教育を行い、業界の啓蒙につとめた。
同十年に織殿と改称。
舎密局とともに京都の産業近代化に先鞭をつけた。
同十四年一時民営となるがのち府営に復し、同二十年に京都織物会社に払い下げられた。

● 織物消費税

日露戦争の戦費調達のために設けられた非常特別税の一。
戦争終結後も永続化する恐れがでてきたため、各地の織物産地が結束してその廃税運動を展開。
この運動は十年に及んだが遂に廃税には至らず、逆に恒久的な税として定着、運動はむしろそれを積極的に活用する方向に転換した。
京都市染色試験場・京都市染色学校(のちに工業学校、現洛陽工業高等学校)の拡充、西陣織物館の建設は同税交付金による。

● 尾張藩邸

徳川御三家の一である尾張藩は、江戸初期から錦小路通室町西入るに京屋敷を構え、幕末には洛東吉田村、伏見の板橋にも邸を営んだ。
近世に入り、吉田村の跡地には京都帝国大学(現京都大学)、伏見屋敷跡には伏見第二小学校(現伏見板橋小学校)が創設された。

● 御堂ケ池古墳群

嵯峨野の東端、右京区梅ケ畑向ノ地町にある古墳時代後期の群集墳。
御堂ケ池の西側の山腹を中心に、二十三基が古墳群を形成していたが、現在は宅地造成により大半が破壊された。
昭和三十九、四十年に、うち六基が発掘調査、横穴式石室をもつ古墳時代終末期の稀少な円墳であることが知られた。

● 音戸山古墳群

鳴滝音戸山町・太秦中山町にある古墳時代後期の円墳群。
もとは十三基の小円墳が音戸山の丘陵頂から裾部にかけて点在したが、現在は宅地造成のため破壊され、四基のみが私有地内に遺存する。
嵯峨野一帯の古墳時代後期古墳群の一支群を形成する。

● 陰陽師

中務省被管の陰陽寮の職員。
「日本書紀」欽明天皇十五年(554)二月条に、前年のわが国の要請に対して易博士施徳王道良・暦博士固徳王保孫などが百済から来朝したとあるのが記録上の初見。
天文暦数のほか異変に際して吉凶を占ったが、平安期、陰陽道が貴族社会に浸透するにともなって活躍の場を得、賀茂忠行・保憲父子や安倍晴明などが出た。
陰陽家は保憲が子の光栄に暦道、弟子の安倍晴明に天文道を伝授して以後、賀茂・安倍両氏の世襲職となり、中世以後は特に安倍氏の子孫土御門家が重きをなした。
 


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