■■■ 京都事典
■ 人名、地名、社寺などは除く

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● 座

中世商工業者の同職組合。
商品経済の発達した京都・奈良に早くからあらわれ発展。
公家や社寺など庄園領主に所属し保護を受けた奉仕集団に起源をもつ。
初期のものでは祇園の綿本座が保延年間(1135〜41)の成立といわれ、醍醐寺の油座も平安末期の成立と見られる。
鎌倉期に入ると同一の業従事する者が地域ごとに荘園領主(本所)の下に組織された座に加入するようになり、座衆は本所に座役を納める代わりにその身分を保証され、営業税・市場税・関税を免除された。
大山崎離宮八幡宮に属した油商人は貞応年間(1222〜24)以前から関税免除の特権をもち、鎌倉中期以降には大和を除く畿内・瀬戸内海一円に商圏を拡大。
上京の四府駕輿丁座は米・紺・絹・呉服のほか様々な商品を扱い、下京では祇園社を本所とする諸座が活動した。
また三条の釜座、四条の扇座、九条の藍座、大宮の織手座などがあった。
四府駕輿丁座の米座、北野社の麹座は専売権をもつ。
中世末期には封建領主が荘園領主から商工業の統制権を奪うために楽市楽座をすすめ、京都では豊臣秀吉の時期に解散。

● 蓑庵

大徳寺塔頭玉林院にある茶席。
寛保二年(1742)大坂の豪商鴻池了瑛が造立した牌堂南明庵の西方に接続。
設計は表千家七世如心斎の指導によるという。
席名は鴻池の祖とする戦国末期の武将山中鹿之助の法名蓑庵義得居士によるとする説や、壁に多く塗り込んだ藁ズサ(草かんむりに切)の景色からともいう。
蓑庵・南明庵・霞床席の三棟とも重要文化財。

● 西院

右京区東南部の地区名。
九世紀の淳和天皇の後院、淳和院の別名西院に由来するとも、平安京の道祖(サイ)大路に由来するともいう。

● 西院邦恒堂

平安後期、丹後や備後など七カ国の受領を歴任した藤原邦恒(986〜1067)が、西院の領所に営んだ阿弥陀堂。
本尊丈六阿弥陀如来像は定朝の作。
尊容満月の如しと評され、仏の本様として仏像彫刻の規範とされた。
白河上皇は永長元年(1096)密かに礼拝に臨幸、また仏師院朝は、造仏の参考とするため細部の採寸を行った。
位置や廃亡の時期は不明。

● 斎院・斎宮

一定期間の精進潔斎ののち伊勢神宮に入って奉仕する未婚の内親王または女王を斎宮といい、賀茂社の場合は斎院と称した。
斎院は人と居所の両方に用いた。
斎宮も斎院も天皇の代ごとに交代するのを原則としていたが、その間でも父母の喪や本人の病気などで退下することがあった。
斎宮は嵯峨の野宮で三年間の潔斎をしたあと伊勢に下向した。
これを群行と呼ぶ。
起源は崇神天皇の時と伝え、後醍醐天皇の代に廃止。
一方の斎院は紫野の斎院で潔斎生活を送った。
嵯峨天皇の皇女有智子内親王を始めとし、後鳥羽天皇の皇女礼子内親王まで続く。
斎院の重要任務の一つに賀茂祭の奉仕がある。
また斎宮・斎院を総称して斎王ともいい、葵祭の斎王代はこれに由来。

● 西雲寺の星見地蔵

御前通今小路下ル馬喰町にある天台真盛宗の寺。
万松山と号す。
本尊は阿弥陀三尊像。
本堂にある星見地蔵は弘法大師の母が地蔵菩薩に祈願し、満願日の夜に明星を拝して大師をはらんだのを謝して造立したと伝え、明星を仰ぐ姿をとる。
歯塚地蔵とも呼び、歯痛治癒祈願の信仰がある。

● 西園寺家

公家
藤原北家閑院流。
清華家の一。
琵琶の家としても知られる。
家祖は平安末期の藤原公実の三男通季。
初め大宮という。
家名は曾孫公経が太政大臣となり、北山の別荘に西園寺を造営したのにちなむ。
鎌倉幕府の後援で代々太政大臣となり、朝廷と幕府の間を斡旋し、皇室の外戚として五摂家をしのぐ権勢をもった。
同家の記録『管見記』は弘安六年〜大永三年(1283〜1523)がのこる。
江戸期の家禄は597石。
明治になり侯爵から公爵。
徳大寺家から入った西園寺公望は明治・大正・昭和にわたり政界の重鎮をなし、内閣を二度組織した。

● 西行桜

西京区大原野の勝持寺(花の寺)にある桜。
世阿弥作の謡曲「西行桜」では、京都の西郊に住んでいた西行が庵の庭の老桜をの下で寝ていると、夢中に花の精があらわれ、京都の桜の名所を語り舞う。
これにちなんで名付けられたもの。

● 西京人物誌

明治初期の京都人名録。
乙葉宗兵衛編。
明治十二年村上勘兵衛刊。
一巻。
横井忠直の序がある。
十九部門に分け、延べ八一五名の住所・姓名を、その専門とする部門ごとに配列。
部門は皇学・和歌・支那学・画・篆刻・医・古書画鑑定・数学・楽・琴・茶匠・俳家・生花・碁・将棋・乱舞・文雅・各宗・諸職工。
諸職工の部ではさらに七十七の職種に分ける。
巻末に京都府御用達、勧業場御用掛、博覧会元金社中の名簿がある。

● 西京鉄道株

明治四年八月、三井八郎右衛門らが京都・大阪間の鉄道建設の資金を民間から調達するため設立した会社の株。
事業が京都府当局の主導により、また京都を中心とすることから西京鉄道株と呼んだ。
会社は当初、単に鉄道会社と称したが、同六年関西鉄道会社と改称。
当初七十万円を目標としたが、実際にはその倍額を要するとわかり、また当時関西地方の景気が低迷し、所要の資金が集まる目途が立たず、同年十二月解散。

● 西国街道

東寺口から西走し、唐橋川久保町で九条通りと別れて南西に向かい、久世橋、向日市の中心街、長岡京市の神足、大山崎を経由して西国へ向かう古道。
長岡京と平安京羅城門を結ぶ道筋であるため、起源は平安京成立の時にさかのぼるとみられる。
鳥羽作り道 − 久我畷ルートと並行するが、中・近世には高燥な段丘上を通る区間の長い西国街道の方が主要道となった。

● 西寺

唐橋西寺町付近にあった寺。
延暦十三年(794)平安遷都の際に羅城門の西に創建。
東に建立した東寺とともに平安京の二大官寺の一。
同十五年、東西両寺の造寺長官に藤原伊勢人、翌十六年に造西寺次官といsて従五位上笠朝臣江人を任命したと伝える。
弘仁三年(812)東西両寺で最初の夏安居(修行の一)行うことを定め、同十四年に東寺を空海に、西寺を守敏に勅賜。
寺域約四町、伽藍の規模は東寺とほぼ同じ。
東寺が真言密教の道場として発展したのに対し、鎮護国家の官寺として発展。
しかし、正暦元年(990)の大火をはじめ、保延二年(1136)、天福元年(1233)の火災で焼滅。
現在、西寺跡は国の史跡。
昭和三十四年以来、発掘調査が続けられ、現在まで南大門・中門・金堂・廻廊・僧房・食堂院などの遺構を確認。
なお、同区唐橋平垣町にある浄土宗西山禅林寺派の西寺は、当寺の名称を継承。

● 西石垣 さいせき

四条大橋西詰めから南へ団栗橋西詰までの護岸の石垣。
東岸の東石垣(とうせき)と対向する。
略して西石とも書く。
『京都坊目誌』によれば、寛文十年(1670)鴨川西岸の水防のため築造し、正徳二年(1712)願いにより町地となる。
町の正称は斉藤町だが、しばしば西石垣と俗称される。

● 歳旦祭

宮中や各神社で元旦に行う祭儀。
宮中では、皇室の先祖に新年の挨拶をして、五穀豊穣と国民の幸福、皇室の繁栄を祈る。
四方拝を終えた天皇が、賢所・皇霊殿・神殿の宮中三殿で玉串を皇祖に捧げる。
上賀茂神社・下鴨神社をはじめ伏見稲荷大社・松尾大社・八坂神社など各神社でも、新年を祝って。国家隆昌、国家安泰を祈願。
また、北野天満宮では、第二次大戦前まで神馬の三繞りと大和舞を行った。

● 西芳寺古墳群

西芳寺(苔寺)裏山の山裾から山腹にかけて群集する四十三基の小円墳。
墳径十メートル前後、内部主体はすべて横穴式石室。
石室が露出するものもあるが概して残存状況はよい。
六世紀後半から七世紀にかけて築造されたものであろう。
古墳の分布は西芳寺境内にも及び、西芳寺指東庵の枯山水の石組みは横穴式石室の石材を転用したもの。

● 蔵王森・春日森

油小路と東寺道の交差点の南西付近にあった蔵王社・春日社の社叢。
森の北側には伏見稲荷大社の御旅所が隣接。
南側には寛算石があり、近世より霊石として有名。

● 嵯峨駅

山陰本線の駅。
明治三十年、二条・嵯峨間を結ぶ京都鉄道会社の駅として開業。
京都鉄道はその後七条大宮から園部まで通じたが、同四十年に国鉄が買収。
駅舎は京都鉄道開業当初のもので木造平屋建。
駅舎は正面に三角屋根を配した洋風建築。
柱やベンチに意匠を凝らし、貴賓室や外人用の様式便所を設けた。
わが国鉄道敷設初期からの現存駅舎として貴重。

● 嵯峨菊

嵯峨あたりでつくり伝えた菊の一種。
160年ほどの歴史がある。
明治中期、東京の新宿御苑で品種が改良された。
現在は大覚寺の庭の花壇で栽培される。
十一月が見頃。
全体は箒木作りというやせ姿に仕立てる。
花は中菊。
花弁は初めは縮れ乱れて繰りだし、伸びるにつれて垂れ、その後上に向かって立ち上がり、茶筅を立てたような姿になる。

● 嵯峨大念仏狂言

清涼寺(嵯峨釈迦堂)で行う念仏狂言。
市の登録無形民俗文化財。
壬生狂言・閻魔堂狂言とともに京都の三大狂言の一。
四月十日前後の土・日曜と次週の土・日曜、および十月二十六日に近い日曜日。
狂言堂の舞台で、念仏講が素朴な楽器の囃子に合わせ、釈迦・弥陀・観音・地蔵の宝号と真言を唱和し、「ハハミタ(母みた)・ハハミタ」と念仏を唱える中、独特の衣装と狂言面をつけて無言狂言を演じる。
壬生狂言などと発生を同じくし、演技・演目はほぼ相似する・
演目数は二十四種。
昭和五十年、嵯峨大念仏狂言保存会が組織された。
鎌倉期、円覚十万上人が生き別れの母を求めて融通念仏を説き歩き、釈尊の法力によって、群集のなかで母なる狂女百万(観音の化身)と巡り合ったという故事に由来すると伝える。
十三詣りの親子がこの狂言を見ると親子の縁が切れないとされる。

● 嵯峨豆腐

嵯峨で製する豆腐の総称であるが、狭義には清涼寺門前で安政年間(1854〜60)から営業を続ける森嘉製の豆腐をいう。
この地は大堰川と清滝に近く水に恵まれている上、天龍寺の精進料理に使用するために良質の豆腐がつくられ、第二次大戦後、嵯峨豆腐として広く知られるようになった。

● 嵯峨七ツ塚古墳

北嵯峨赤阪町・洞ノ内町にある古墳時代後期の円墳群。
広沢池から大沢池にかけての水田中に六基の古墳が現存。
もとは七基で古墳群を形成していた。
削平をうけ遺存の状況はよくないが、復原すれば墳丘径20〜30メートルの中規模の円墳となる。
内部主体は横穴式石室で、石材が一部露出したものがある。
出土遺物は不明。

● 嵯峨日記

松尾芭蕉著。
宝暦三年(1753)刊。
芭蕉が元禄四年(1692)四月十八日から五月八日まで、嵯峨の向井去来の別荘落柿舎に滞在した時の日記。
芭蕉の日常生活や、去来・野沢凡兆・出井乙州・江左尚白・三上千那・内藤丈草・坪井杜国・河合曾良など芭蕉諸家との交渉・追憶を記す。

● 嵯峨人形

江戸期、京都を中心に作られた木彫りの小人形。
嵯峨に隠棲した角倉了以の創案、あるいは了以が製作を奨励したともするが不詳。
細かい彫刻と極彩色が特徴。
初期には道釈的な題材が多く、のち風俗人形もつくられた。
幕末期に衰退。
技法は江戸にも伝わり、歌舞伎などを題材とした江戸嵯峨がつくられた。

● 嵯峨野

地名
山越以西、小倉山までの山麓一帯をさす。
『三代実録』に禁猟地の一つとしてその名が初見。
嵯峨天皇をはじめとして皇族・貴族が山荘・寺院を次々に営んだ。
歌枕ともなり、『古今集』『枕草子』『源氏物語』『平家物語』や松尾芭蕉の『嵯峨日記』など、多数の文学作品にその名がみえる。
現在、風致地区や歴史的風土保存区域となっており、大覚寺・清涼寺などの寺院や広沢池といった観光地が多い。

● 嵯峨の御松明

清涼寺で行う涅槃会の行事。
三月十五日夜。
涅槃会法要後、境内に立てた逆円錐形の大松明三基に点火。
松明をそれぞれ早稲・中稲・晩稲に見立て、その火勢で米作の豊凶を占う。
古くは陰暦二月十五日に行い、「嵯峨の柱松明」と呼んだ。
本来は、釈尊を火葬する様子をあらわしたものという。
大松明は嵯峨松明保存会が丹波地方の松の枯葉を藤づるで結わえてつくる。

● 嵯峨の竹林

かつては物指・剣道用竹刀・笠などの原料竹の主産地。
日本の三大美竹林の一に数えられた。
種類は真竹で良質。
昭和十一年、ベルリン・オリンピックの棒高跳びでは大江季雄選手がこの竹を使って銅メダルを獲得した。
同十年頃には嵯峨付近に竹刀の生産者が四十戸あり、全国生産量の九十パーセントを占めたが、その後漸滅し、加えて昭和四十年頃からの大開花枯死により原竹を失い、竹刀つくりは激減した。
その後竹林は更生したが、宅地造成のため減少。
昭和四十二年古都保存法の制定により六ヘクタールを保存。

● サガノミジンツボ

ヌマツボ科の淡水貝。
高さ1.7ミリの超小型の巻貝で、地下水に生息。
昭和三十年嵯峨野の深さ八メートルの飲料用井戸で発見。
井戸で発見された最初の例。
その後、他見の井戸からも近似種を採取。

● 嵯峨八景

洛西嵯峨の八つの勝景。
1.嵯峨(嵯峨野)の春草
2.亀峰(天竜寺背後の亀山)の緑樹
3.広沢(広沢池)の秋月
4.小倉(小倉山)の紅楓
5.野宮(野々宮神社)の松風
6.宕嶺(愛宕山)の積雪
7.洪川(桂川)の水鳥
8.清涼(清涼寺)の晩鐘

● 佐賀藩邸

佐賀藩は肥前国佐嘉郡に置かれた藩で、藩主は外様大名鍋島氏。
備前藩・鍋島藩ともいう。
京屋敷は近世初期から堺町通四条下ル町に置き、幕末には日暮通上長者町の地にも邸を構えた。

● 嵯峨蒔絵

洛西の嵯峨・嵐山の春秋風物を図柄とする蒔絵。
技法・意匠様式は桃山期の高台寺絵巻に似る。
平蒔絵や朱漆で枝垂桜・藤・筏流などを描いた黒塗の棗(薄茶器)が多く、特に嵯峨棗と呼ぶ。
名称は、文様が角倉素庵らの刊行した嵯峨本(光悦本)の地模様に共通するためとも、桃山期から江戸初期にかけて嵯峨でつくったためともいう。
また右京区大覚寺ではこれとは別に、同寺正寝殿の帳台構にある高台寺蒔絵風の桐竹文蒔絵を嵯峨蒔絵と呼ぶ。

● 嵯峨祭

嵯峨の氏神、愛宕・野々宮両神社の祭礼。
五月第四日曜に還幸祭を行う。
愛宕神輿・野々宮神輿の渡御とともに、榊・太鼓・獅子頭・剣鉾・道楽土器・子供神輿・稚児行列などが、清涼寺前御旅所から氏子町内を巡行。
渡月橋に出て嵐山から御旅所に還幸。
古くは大覚寺門跡が執行し、愛宕神輿は寺内真言僧の六軒、野々宮神輿は八軒村が奉祀した。
八軒村からは衣冠の稚児が出るが、時に幡枝村から出ることもあった。
四月の中の亥の日に行われ、元禄四年(1691)の『嵯峨日記』に「廿日 北嵯峨の祭見むと 羽紅尼来ル」とみえる。
現在は嵯峨祭奉賛会が行う。

● 嵯峨丸太

嵯峨に集荷された丹波丸太材木の別称。
江戸期以降、嵯峨は丹波材筏の集荷地として発展。
嵯峨材木屋が扱う丹波丸太を嵯峨丸太と呼んだ。
明治四十年火力製材機が設置され、嵯峨製材とともに嵯峨丸太の名称が定着。

● 酒屋・土倉

中世の金融業者。
鎌倉期、金融業者は借上と呼ばれたが、質物管理のための土塗りの倉庫をもつ業者を特に土倉と称した。
また巨額な資金をもつ酒造業者の中にも金融業を営む者が多く、酒屋・土倉は金融業者の代名詞となった。
鎌倉期、多くは延暦寺や検非違使庁の支配をうけたが、室町幕府は明徳四年(1393)に造酒正を除く寺院・貴族の課役徴収権を否定、納銭方を設けて酒屋役・土倉役を徴収した。
有力業者の中にはこの納銭方に任命されて幕府の財政に関与した者もいる。
のちにかれらが都市周辺の農村に進出するに及び、土一揆や徳政一揆の襲撃対象となった。

● 下り松

左京区の一乗寺地区中央部、白川通に面した地名。
比叡山西麓の雲母坂への起点。
地名は、登山口の目印に枝垂れの老松があったのに由来。
宮本武蔵の一乗寺決闘の地とするが、確証はない。
松は幾度も植え替えられて現存。
現在は一乗寺を冠した町名。

● 鷺知らず

鴨川でとれる小さな魚を飴煮にした食品。
魚はコイ科に属するオイカワ(追河)。
京都の方言でハイ・ハエ、俗に「ハイじゃこ」という。
あまりに小さいので鷺の目にもとまらないという意からこの名がついた。
小魚を生きたまま湯に通し、淡口醤油と砂糖で長時間煮る。
幕末につくり始め、以後京都の名物として鉄道唱歌(Link:鐵道唱歌)にも歌いこまれたが、鴨川産の魚を用いたものは近年消滅した。

● 左義長

新年に行う火祭りの儀式。
「とんど」ともいう。
一月十五日、注連縄や門松などを、三本の松と青竹で組み立てた中へ入れて焼く。
爆竹のようなもので、室町期以降は宮中から民間に至るまで広まった。
左義長の火に書初めを燃やすことを吉書揚げといい、この火で餅を焼いて食べると病気にかからないとも伝える。
子供たちは「とんどや左義長 餅のかけないかいな とんどや左義長」といって餅を貰い歩く。
古くは、十五歳を迎えた少年が若衆組みに入ることを祝う火祭りであった。
市内各神社や辻・広場で行われた左義長は、防火のため明治以降禁止され、現在、伏見区納所や醍醐などにのこる。

● 鷺舞

祇園祭の神幸祭と花笠巡行の祭に行う芸能。
鼓と笛に囃された白鷺が「橋の上に降りた鳥は」の詞に合わせて白い羽を広げ、そのまわりを赤熊が踊る。
古くは白鷺舞とも呼び、西陣の大舎人町が祇園祭に出した笠鷺鉾の中心。
永正十七年(1520)頃山口に伝わり、さらに天文十一年(1542)山口から津和野に伝わる。
その後、京都と山口では廃絶し、津和野だけにのこったものを、昭和三十年津和野から京都に取り入れて復活。

● 桜石

大文字山付近に産する六角柱状の菫青石の双晶。
泥石の岩石が、花崗岩の貫入による高熱で変質した変成鉱物。
名称は、断面が六角形で、桜の花のようにみえ、また風化して銀白色を呈することによる。
なお、亀岡市稗田野町付近の桜石は国の天然記念物に指定。

● 桜馬場

室町幕府の管領斯波義将が造営した武衛陣邸に設置された馬場。
位置はほぼ上京区下立売通烏丸通付近と考えられる。
江戸期にはこの一帯を桜馬場町と称し、また、名の由来としては、桜が多く、馬の稽古場であったと記す(『京町鑑』)。
武衛陣は天文年間(1532〜55)には将軍義輝の居所ともなったが、この桜馬場も存続していたらしく、永禄八年(1565)三善義継らが武衛陣を襲撃した際に、岩成主税が桜馬場に押し寄せたことが知られる。

● 酒造り唄

伏見などの酒造地で歌う作業歌。
各工程ごとに歌が異なり、米搗き歌・桶洗い歌・かし場歌(米洗い歌)・もと(酉+元)すり歌(もとかき歌・山卸し歌)・櫂入れ歌(仕込み歌)などに分かれる。
現在は全工程が機械化したために歌われず、保存会が伝承。
米搗き歌は江戸期に、桶洗い歌も早くに廃れ、伝わらない。
歌詞は杜氏・蔵人の出身地によって越前流・越後流・丹後流・丹波流・但馬流などがある。
伏見に多い越前流の歌詞は「酒屋男とうぐいす鳥は 寒さこらえて 春を待つ」(かし場歌)、「宵にゃもとする 夜中にゃこしき 朝のかし場がなけりゃよい」(もとすり歌)、「酒は上出来 お家は繁盛 造る杜氏さん 福の神」(櫂入れ歌)など。
杜氏または頭の独唱と蔵人の合唱からなり。仕込みに入るもとすり歌からは杜氏が音頭をとる。

Link:Google 酒造り唄

● 篠山藩邸

篠山藩は丹波国多紀郡に置かれた藩で、京都と常に密接な結びつきをもった。
藩主は譜代大名青山氏。
京屋敷は寛永年間(1624〜44)には東洞院通錦小路東入ル、その後、猪熊通中立売上ルに移すが、同邸は元禄年間(1688〜1704)に岡山藩邸となり、幕末段階では烏丸通六角下ル東側の屋敷を藩邸とした。

● さざれ石

名石の一。

1.右京区山越の通称千代の古道沿いのさざれ石山にある石。
  平安初期嵯峨天皇が嵯峨院(現 大覚寺)行幸の際、この地を休息の場所とし、さざれ石と名付けたという。
2.右京区宇多野福王子神社の境内にある。
  さざれ石山の石の一つを移したものという。
3.右京区花園妙心寺町、妙心寺塔頭春光院の庭園にある。
  同庭園は伊勢神宮をうつす。
4.宇治市喜撰山の山上にある。

● 坐禅石

最澄・明恵・夢窓疎石など主に高僧が坐禅をしたと伝える石。
近世の地誌にみえる主なものを掲げる。

1.伝教大師(最澄)坐禅石
  右京区山之内中畑町、妙徳院。
2.善峰坐禅石
  西京区大原野小塩町、善峰寺。
  同寺開山の源算が坐禅したという。
3.鴨長明坐禅石
  伏見区日野西大道町、法界寺。
4.夢窓疎石坐禅石
  左京区銀閣寺町、銀閣寺。
5.同
  西京区嵐山元録山町の嵐山城址付近。
6.同
  左京区松尾神ケ谷町、西芳寺。
7.明恵坐禅石
  右京区梅ケ畑栂尾町、高山寺の山中。
8.法燈坐禅石
  右京区宇多野上ノ谷町、妙光寺の山上。
9.寛朝座禅石
  右京区嵯峨広沢池の北、朝原山の山腹。
10.観賢坐禅石
  右京区鳴滝般若寺町、般若寺跡の奥の西山。
11.慈鎮坐禅石
  東山区林下町、知恩院。
  一説に瓜生石という。
12.菅公(菅原道真)坐禅石。
  北区雲ケ畑、岩屋山山頂。

● 佐竹コレクション

日本古典楽器のコレクション。
現在、京都府立総合資料館が所蔵。
第二次大戦後、伝統楽器の散逸と製作技術の衰微を防ぐため、音楽家山田忠雄・東洋音楽学会会長田辺尚雄・楽器師佐竹藤三郎が、日本伝統の音楽の系譜をたどるのに必要最小限の楽器116点を収集整理し、昭和四十三年同資料館に寄贈した。
いずれも完全な演奏が可能な状態に修理され、また録音テープも保存。

● 薩摩藩邸

薩摩藩は薩摩鹿児島郡に置かれた藩で、藩主は外様大名島津氏。
鹿児島藩ともいう。
京屋敷は初め室町通四条下ルに設けたが、その後錦小路東洞院東入に移る。
幕末期、島津久光の上京後文久三年(1863)に相国寺南の二本松に新屋敷を、さらに等持院村(現北区白梅町から等持院に至る)の広大な敷地内にも邸を構え、それぞれ重要な政治的拠点とした。
錦小路の本邸は、明治初年、誓願寺となり、馬芝居や影人形などの興行場と変わり、その後京都取引所が創設された。
また二本松邸は同志社大学の敷地となった。

● 里内裏

内裏の火災や倒壊などにより、大内裏外に一時的に設定された仮皇居。
今内裏ともいう。
里とは京中というほどの意で、多くは摂関家の邸宅を用いた。
貞元元年(976)五月に内裏が焼けた時、円融天皇が約一年間住んだ太政大臣藤原兼通の堀河第が最初。
その後、内裏はたびたび消失し、平安期では一条第・東三条第・高陽院、鎌倉期では閑院・二条殿・小六条などが里内裏として用いられた。
こうして里内裏の使用が繰り返されるにつれて、邸内の既存の建物を内裏殿舎に模すばかりか、当初から小型内裏的な計画で建設され、里内裏が事実上の皇居となった。
一方、本来の内裏は安貞元年(1227)四月の焼失以後は再建されず、正慶元年(1332)二月、光厳天皇が即位した東洞院土御門殿が以後皇居と定まり、京都御所として今日に及んでいる。

● 里坊

山上の本坊に対するもので、山麓あるいは人里にある僧坊。
本来は山上での修行生活に耐えられない病者や老僧のための住房。
のち俗生活を営む場所となり、あるいは教勢拡大や寺領経営など門流の中枢機能を果たすようになる。
中世比叡山の大勢力たる青蓮院門跡は本坊が東塔にあり、粟田口が里坊で、東山妙法院門跡も本坊は西塔にあり、梶井門跡も本坊は東塔、里坊は西坂本(現大津市)から京都船岡、ついで大原三千院と移り、いずれも里坊を拠点とした。

● 佐野家

中世・近世の豪商。
角倉家・茶屋家・後藤家と並ぶ上層町衆として知られる。
屋号は灰屋。
遠祖は足利氏に仕えた佐野左衛門四郎氏綱。
その子秀綱が丹波国野村の紺灰問職を下知されて以後紺灰商を営む。
代々又三郎を名乗る。
室町期以降京中の紺灰は長坂口紺屋座が支配し、一部の問屋が特権を握ったが、その中でも最も有力な問屋として巨富を蓄えた。
紹由・紹益は文人としても知られ、天正十三年(1585)頃の座人佐野又三郎が紹由とみられる。
墓所は上京区立本寺。

● 鯖鮨

塩と酢で締めた鯖を棒状の飯にのせ、昆布で包んだ押し鮨。
バッテラ鮨ともいう。
京都では祭鮨として、各家でつくる。
また天明年間(1781〜89)創業の東山区祇園の「いづう」の鯖鮨は著名。

● 侍所

平安期には貴神家の侍の詰所、またはその家の家務執行機関。
鎌倉幕府の侍所は治承四年(1180)御家人の統制機関として設置、のち重要な政治機関となった。
室町幕府では京中の治安・警察を中心任務とする機関に変化し、所司(長官)には、のち山名・赤松・一色・京極のいわゆる四職家を交代で任命。
所司は山城国守護を兼ねることが多く、代官の所司代をもって京都を中心とする山城一国の統治に大きな権限をふるった。
文明年間(1469〜87)以後、廃絶。

● 猿楽

古典芸能の一。
中楽とも書く。
狭義には平安初期から鎌倉期にかけて行われた古猿楽をさし、広義には古猿楽を母体に室町期に大成された能楽を含む。
奈良期に中国から渡来した民間芸能である散楽を源流とし、平安期には日本古来の雑芸とも混ざり合い、芸能も様々に展開した。
十一世紀半ばに藤原明衡が書いた『新猿楽記』には職務的猿楽師による新旧の猿楽の実態が紹介されている。
こうした都会風な雑芸に、延年や田楽、風流、今様などを取り入れながら、次第に演劇的な筋立てをもった歌舞伎を形成。
室町期、近畿各地では大きな社寺の保護のもとで猿楽の座が次々と結成されたが、観阿弥清次・世阿弥元清の出現により、猿楽は芸術的な完成をみた。
観阿弥親子は新今熊野神社社頭fr将軍御前能を演じ、足利義満に哀願され、以後猿楽は将軍家の保護を受け、足利義政の時代には室町幕府の式楽として確立。
この新猿楽が今日の能楽で、江戸期を通じて猿楽と呼ばれたが、明治十年頃、猿楽を日本の代表的伝統芸能として西洋人の観賞に供するようになった時、猿楽は字面が適当でないという理由から能楽の語が新造され、能楽は廃された。

● 猿ケ辻

京都御所の東北角あたりをいう。
御所の鬼門にあたり、築地屋根の蟇股に、御幣をかつぐ山王権現日吉社の浮彫りにされた猿があるのにちなむ。
文久三年(1863)五月二十日、尊攘派の公家姉小路公知が朔平門外のこの付近で暗殺されたが、この事件を猿ケ辻の変と呼ぶ。

● 山雲床

大徳寺塔頭孤蓬庵にある茶室。
小堀遠州が造営した孤蓬庵は寛政五年(1793)に焼失。
現在の山雲床は松平不昧が新たに建てたもの。
席名は「碧巖録」の中の「語尽す山雲海月の情」の語から出たという。
内部は大徳寺龍光院の密庵席にならった四畳半台目であるが、密庵を範としながらも違棚や書院床は略され、墨蹟窓と小窓の下地窓が加わるなど、開放的な明るさをもつ。
路地にある布泉の蹲踞も著名。

● 三カ所材木問屋仲間

桂川沿岸の嵯峨・梅津・桂の材木屋仲間。
桂川上流の丹波山地から筏で流下する丹波材を扱い、市中・伏見・大坂に販売する仲買。
嵯峨・梅津は平安期以来の材木浜で中世には問丸が存在。
桂は元和五年(1619)に材木浜が公許となる。
享保十九年(1734)株仲間が成立。
嵯峨に運上所が設置された。
また同年から九年間、産地山方と直売買争論が続き、産地方勝利で嵯峨・桂に山方直売店を設け、年間約2500乗の筏をさばく。
明治三十一年葛野郡材木商組合を設立。

● 参詣曼荼羅図

社殿と神域の景観に重点を置く宮曼荼羅と異なり、参詣者の描写を多くして社寺の活況を描いた曼荼羅。
社寺参詣曼荼羅ともいう。
室町末期から流行、
勧進・布教のために持ち歩いたともいう。
風俗的要素を濃厚に取り入れ、文化的資料としても重要。
京都関係では、法界寺・祇園社・松尾寺・清水寺などの参詣曼荼羅がのこる。

● 残月亭

表千家の代表的な広間の茶席。
千利休の聚楽屋敷にあった色付九間書院を写したと伝える。
色付書院は二畳の上段と四畳の中段を備えたが、残月亭では中段を省き、十畳敷きに残月床と呼ぶ二畳の上段を付ける。
上段と付書院、そして床前二畳の天井を化粧屋根裏にした珍しい構成は往時の特色をよくのこすといわれる。
江戸期には南に不審庵が接して建ったが、天明の大火後、東側に移したため、四枚の障子を隔てて直接、路地に面する。
現在の建築は明治四十二年に再建。
席名は、豊臣秀吉が化粧屋根裏の突上窓から月をめでたことによるという。
外路地から杉皮葺の中潜をくぐると広い残月亭の内路地になる。
残月亭の内路地から梅軒門を通ると不審庵、萱門を通ると祖堂の内路地に続く。

● 三郷薪屋仲間

東高瀬川筋の薪炭屋仲間。
享保四年(1719)に成立。
両岸を含み二条〜四条を二条郷、四条〜五条を松原郷、五条〜七条を七条郷に分け、合わせて三郷。
大坂・高槻の薪炭問屋や宇治・笠置から買いうけ、高瀬舟で着荷し、市中に販売。
良質の土佐・日向・熊野炭も移入し、川筋に薪炭倉庫が並んだ。
明治元年の加入薪炭商数は二条郷73、松原郷60、七条郷71の計204軒。
同十六年組合設置の布達により翌十七年京都薪炭商三郷組合に改組。
同二十二年の移入薪数は約16万束、炭は約三十三万俵。

● 三弘法詣

弘法大師 空海とゆかりの深い東寺、仁和寺、神光院を巡拝する風習。
家内安全・無病息災を祈る。
また四国八十八ヵ所霊場に詣る人が道中の無事を祈願したり、そのお礼参りのためにも巡拝。
神光院では毎月二十一日の弘法大師の命日に訪れる人が多い。

● 三業惑乱

江戸中期、西本願寺で起こった異安心事件の一。
宝暦十二年(1762)学林第六代能化功存の著した『願生帰命弁』での信仰理解をめぐって始まり、功存没後もその説を支持する学林と、反対する末寺・門徒とが対立し、文化三年(1806)宗主本如の裁断で学林側が異安心とされ収集をみた。
功存などが主張した信仰理解は三業帰命説といわれ、往生浄土を願う際、身・口・意の三業を揃えて弥陀に帰命しなければならないと説き、通常、新義派という。
それに対し、末寺・門徒側を古義派という。
両派は本山のみならず諸国でも争論し、遂に幕府の介入により両派や本願寺が処分され決着した。

● 山紫水明処

文人頼山陽の書斎。
東三本木通丸太町上ル南町にある。
国の史跡。
山陽は文政五年(1822)に新居水西荘に移転、その庭内に設けた別棟の書斎は東山と鴨川にのぞむところから山紫水明処と名付け、晩年を過ごした。

● 三十三間堂通矢

三十三間堂の弓の引き始め儀式。
お弓初めともいう。
1月中旬の日曜日 12日〜18日の間。
本堂西側で距離60メートル、直径1メートルの的を競射。
起こりは正月の射礼とするが、堂通しは天正年間(1573〜92)今熊野観音堂の別当梅坊の発案ともいう。
当時は西側広縁で行い、距離は南端から北端まで六十六間(約120メートル)。
強弓で一昼夜に何本通すか競射したと伝える。
江戸期に最盛となり。今も柱や垂木に矢疵がのこる。

● 山州名跡志

地誌。
沙門白慧(坂内直頼)撰。
元禄十五年(1702)序、正徳元年(1711)成立。
山城一国八郡三八六カ村を実地踏査、神社・仏閣・名所・旧跡の由来・縁起を記し、当時実見した有様を和文にて記す。
随所に古書の記載と実地の現状との相違を指摘考証。

● 三十石船舟唄

近世、伏見から大坂八軒家まで淀川を上下した三十石船の船頭歌。
上りは船頭が岸へ上がり、綱で船を曳くため、下り船で歌った。
下りは夜明けに大坂に着く夜の便が多く、乗客が景色を見られないためとも言う。
「淀の川瀬のあの水車 誰を待つやら くるくると」
「鍵屋浦にはいかりはいらぬ 三味や太鼓で船とめる」
など、歌詞にある両岸の風物は殆ど失われたが、枚方の船宿鍵屋は料理旅館としてのこる。
落語「三十石」はこの歌をとりいれる。

Link : 鍵屋資料館】【三十石船とくらわんか舟

● 散所

元来は本所とする機関から離れたところ、あるいは本所に対して散在する所領の意であったが、鎌倉末期頃から卑賎観をこめた語として用い、寺社の清掃や築地・池堀の土木業など雑役に使役される散所法師や、千秋万歳・毘沙門経など雑芸能を業とする声聞師などの被差別民の居住所を意味するようになった。
算所あるいは産所とも記す。
各地に点在するが、京都市中では東寺・北野天満宮などに属する散所が知られる。

Link :散所 さんじょ

● 三鐘

すぐれた三つの梵鐘。
一般に勢いの東大寺、形の平等院、声の園城寺といわれるが、東大寺のかわりに「三絶の鐘銘」で知られる神護寺の鐘、園城寺のかわりに黄鐘調で名高い妙心寺の鐘を入れ、「天下の三鐘」ともいう。

● 三条大橋

中京区と東山区の境にあり、鴨川に架かる橋。
平安京の三条大路を踏襲した三条通が通じ、近世には東海道の西の事実上の起終点。
中世末には架橋されたと推定されるが、恒常的な橋を建造したのは天正十八年(1590)で、豊臣秀吉の命により増田長盛がつくった。
以後たびたび流出したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復。
三条大橋西詰は高札場とされた。
現在の橋は昭和二十五年建造の鋼材を使用した木造橋で、旧態をとどめる擬宝珠高欄がある。
長さ73メートル。

● 三条鍛治

平安・鎌倉期、粟田口鍛治と並んで著名だった刀鍛治集団。
三条通付近に集住したとみられ、三条小鍛治宗近はじめ、その子吉家、弟子有国、有国の子兼永、その子国永など名工が続出。
室町期以降は名工をみないが、「祇園社家記録」に三条烏丸入道の名がみえるなど、鍛治師は所在したらしい。

● 三条釜座

三条通の新町・西洞院間にあった鋳物師の座。
現在、地名として残る。
東寺文書の正応二年(1289)条に「三条町釜の座弥藤三」の名があり、鎌倉末期には成立していたらしい。
蔵人所の供御人として鍋釜の販売を独占。
戦国期以降諸国の鐘の鋳造も行い、茶釜などの高級技術を要する鋳物の座としても知られた。
豊臣秀吉は京都の鋳物師をここに集め、最盛期には約80軒を数えた。
武野紹鴎(區ヘン)・千利休らが指導し、茶釜の名工名越善正・辻与次郎・西村道仁らが輩出。
現在も千家十職の釜師 大西清右衛門家と、その門系の高木治良兵衛家が続く。

Link :大西清右衛門美術館 ONISHI SEIWEMON MUSEUM】【方広寺梵鐘

● 三条家

公家。
藤原北家閑院流。
清華家の一。
平安末期に始まる。
別称転法輪家。
閑院公季の五代孫の実行(1079〜1162)が祖。
家名は、三条大路北・高倉小路東に住んだことによる。
笛を家業とした。
太政大臣を極めた実行をはじめ、代々多くの大臣を輩出し、西園寺・徳大寺両家とともに摂家についで朝廷に重きをなした。
江戸期の家禄は469石。
幕末期、実万とその子実美が尊皇攘夷運動に活躍。
明治に至り公爵。
上京区梨木神社は実万・実美を祭る。
菩提寺は右京区嵯峨の二尊院。

● 三条御所

十一世紀末から十二世紀にかけての院御所の一。
三条の北、烏丸小路をはさんで三条西殿と三条東殿があった。
西殿は関白藤原師実が白河天皇の中宮となった養女賢子の里第としたことで知られ、白河天皇の里内裏ともなった。
その後、白河法皇・鳥羽上皇・待賢門院璋子の御所となるなど、十二世紀前半に脚光をあびた。
大治四年(1129)白河法皇が崩御した西殿の西対は鳥羽殿に移築された。
白河法皇は同様に東殿も御所とし、鳥羽上皇・待賢門院の御所ともなった。
十二世紀中期には後白河上皇の御所であったが、平治の乱(平治元、1159)で源頼朝の襲撃をうけ、火をかけられた。
その光景は「平治物語絵詞」に活写される。

● 三絶の鐘銘

神護寺にある梵鐘(国宝)の銘。
文は序詞と銘の二部に分かれ、序は橘広相、銘は藤原是善が撰し、藤原敏行が書す。
銘文は陽鋳され三十二行二百四十五字。
文中に貞観十七年(875)とあり、古くから名筆として重んじられた。江戸期に高芙蓉がこれを模刻した。

● 三大奇祭

広隆寺の牛祭、今宮神社のやすらい祭、由岐神社の鞍馬の火祭りをいう。
牛祭・やすらい祭は江戸期から奇祭として知られる。
なお火祭りに代えて鞍馬の竹伐り会式や北野天満宮の瑞饋祭りを数えることもある。

● 三大祭・四大行事

京都で行う祭りのうち葵祭・祇園祭・時代祭を三大祭といい、これに大文字送り火を加えて四大行事という。
葵祭りは五月十五日、祇園祭山鉾巡行は七月十七日、五山送り火は八月十六日、時代祭は十月二十二日に行う。

● 三大問題

明治中期、平安奠都千百年記念祭、第四回内国勧業博覧会、京都・舞鶴間鉄道の建設をもって当時京都市における三大事件ないし三大問題と称した。
琵琶湖疏水工事完成後の京都の最大の課題として、実業界は商工同盟会を組織してその実現のために活動した。

● 三店魚問屋

近世京都の特権的鮮魚市場。
上の店(椹木町通西洞院以西、小川以東)・錦の店(錦小路通富小路以西、高倉以東)・六条の店(魚棚通室町以西、新町以東)の三つをいう。
慶長・元和(1596〜1624)頃に成立。
享保年間(1716〜36)に上の店十二軒、錦の店十一軒、六条の店二軒の計二十五軒の問屋からなる三店株仲間が生まれた。
うち六条の店は元和元年(1864)以降衰え、代わって問屋町市場が繁栄。

● 三田藩邸

三田藩は摂津国有馬郡に置かれた藩で、藩主は外様大名九鬼氏。
寛永期(1624〜44)九鬼久隆が堀川通一条上ル西側に京屋敷を構えた。

● 三町組

江戸期の下京の町組。
所属町の範囲は、ほぼ北は三条通、南は四条通、東は麩屋町通、西は烏丸通に囲まれた地域。
町数は、文政二年(1819)段階で古町四カ町、新町三十八カ町の計四十二カ町。
史料上、天文六年(1537)に初見する「七町半組」が祖と考えられる。

● 三長者

茶屋・角倉両氏に後藤氏を加えて三長者という。
茶屋四郎次郎は徳川家康と同年輩で、側近としても活躍、京都で呉服商となり、朱印船貿易に従った。
角倉了以も朱印船貿易を行い、大坂の陣では家康方の兵站部の役割を果たした。
土木技術にも詳しく、保津川開削は有名。
後藤庄三郎は慶長の幕府幣制のもとで金銀改め役として金座の統括にあたった。
三長者の家運は家康との結びつきによるところが大きい。

● 三度黒

黒染め法の一。
伝産法に基づく指定品「京黒紋付染」の引染の一技法。
黒染めは古くは櫟・椽など日本産の草木を染料としたが、良質の黒が得られず、江戸期に入って憲法染が生まれ、中期以降、輸入剤による檳榔子染めが普及。
明治中期、メキシコ産の植物染料ログウッドが輸入され、大正初期には、それに各種の媒染剤を加えた黒色染料ノアル・ナフトールの使用も始まり、手間のかかる檳榔子染はすたれ、ログウッドエキス、ノアル・エフトール、重クローム酸カリを重ねて塗布し黒を染め出す染法が京都で考案され、深みのある黒色が得られるようになった。

● 三白社

皆川淇園が赤松滄州(赤穂藩家老)・柴野栗山・山田適処などと結んだ詩社。
天明四年(1784)正月七日、初めて会合した。
会食は倹約を尚んで銭穆父が蘇東坡に飯一盃、蘿蔔(だいこん)一樽、湯一盞を出した中国の故事にちなんだ。
社名もこれによる。
天明期(1781〜89)の京都の代表的詩社。

● 三尾

清滝川に沿う三つの山の総称。
南から高雄(尾)・槇尾・栂尾。
いずれも紅葉の名所として知られるが、高雄山 神護寺・槇尾山 西明寺・栂尾山 高山寺が所在するように、平安京造営以前からの仏教の修行地。

● 三筆

平安初期の能書家 空海・嵯峨天皇・橘逸勢の三人をいう。
平安期にはこのほか二聖(嵯峨天皇・空海)、三蹟(小野道風・藤原行成・藤原佐理)、三賢の聖跡(空海・道風・菅原道真)など、さまざまな組み合わせが行われたが、平安京の内裏大内門額の筆者としての「三筆」が、特に江戸期以降尊重され、一般に定着したとみられる。
いずれも中国書法の基礎の上に、日本的な個性のある筆跡をのこし、日本の書道に大きな影響を与えた。

● 三宝院門跡大峰山花供入峰修行

醍醐の三宝院で行う大峰山への入峰修行。
六月七日〜九日。
醍醐寺開祖聖宝が吉野山・金峰山・大峰山に修験道当山派を創始したのが起源。
七日早朝に三宝院門跡をはじめ一山の修行僧・信者が山伏装束で三宝院を出発、大峰山麓洞川の龍泉寺まで修行。
八日大峰山の各行場を巡拝、小笹道場で護摩供。
九日吉野大日寺・蔵王堂を参拝し、三宝院へ帰り護摩供を修して勤行を終える。

● 三本木

鴨川西岸に沿う東三本木通の竹屋町から出水あたりまでを三本木と称したが、宝永五年(1708)の大火後、公家町拡張によって収公され、その代替地としてこの地が与えられた。
幕末、花街として賑わい、桂小五郎(木戸孝允)ゆかりの吉田屋は丸太町橋西詰北側。
近くには立命館大学発祥の地となった清輝楼や、志賀直哉ら白樺派同人が会合に利用した信楽などがあった。
南町には国史跡 山紫水明処がある。

● 三藐院記 -さんみやくいんき-

近世初期の代表的な公家の日記。
近衛信尹著。
文禄元年(1592)十二月十四日より慶長十五年(1610)十二月まで。
本記(日次の日記)と別記(件別の日記)よりなる。
自筆は陽明文庫蔵。
本記では慶長六年四月一日、照高院道澄を誘って政仁親王の御所の藤を見物した記事、また同年六月十七日には曼殊院と松梅院の争いを調停した記事がみえるなどのほか歌会・連歌会・茶の湯・碁・能楽などの記事が散見。
別記は「薩摩坊津左遷雑記」「羽柴秀吉関白宣下次第」などからなり、豊臣秀吉の時代の筆者の苦難の側面がうかがえる。

● 三藐院流

寛永の三筆の一人近衛信尹を祖とする書の流派。
近衛流とも。
信尹の筆蹟は当世第一と称され、その養嗣子近衛信尋も書で名高い。
そのほか、代表的な能書家に徳大寺実久・花山院忠長・鷹司教平・後水尾天皇など。

● 三夜荘

伏見区桃山町本田上野にある西本願寺の別荘。
明治初年、大谷光尊が信徒の寄進をうけて設けた。
この地は伏見城の月見台の跡と伝え、三夜荘の名は豊臣秀吉が「山の月、水の月、杯中の月」と一夜に三夜の勝景を賞した話による。
昭憲皇太后の行幸に侍してこの地を訪れた女官税所敦子が「三夜荘記」をのこす。

● 幸在祭 -さんやれまつり-

上賀茂神社の氏子町で、十五歳の男子の成人入りを祝う祭。
二月二十四日。
本来は、冬の間山の神として山で雪をつかさどった田の神を、春の農事はじめに迎える田の神迎え。
数え年十五歳に達し成人入りした男子を「あがり」と呼び、その家が当家となって、祭りのあと、十五歳までの男子全員を集めて祝善をふるまう。
行列は午前十一時頃から、大将木という青木の幣を手にした十三歳未満の子供を先頭に行う。
副大将の少年は首から胸につり下げた鉦をたたき、「あがり」は大島紬の羽織着物、黒足袋に下駄履き、首に白襟巻きのいでたちで、太鼓をたたきながらあとに続く。
時折「そしらい、おんめでとうござる、どっこい」などとはやす。
各町内の山の神、大田神社、上賀茂神社に参拝し、神前に成人入りを奉告する。

 
 
 
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