■■■ 京都事典 (人名、地名、社寺など除く)

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● 内国勧業博覧会

明治政府が海外の万国博に学び、国内の殖産興業を目的として開いた博覧会。
第一回は明治十年、続いて十四年、二十三年にいずれも東京上野公園で開催。
第四回は京都、第五回は三十六年大阪天王寺で開催。
第四回は平安奠都千百年を記念して、明治二十八年四月一日から七月末日まで、当時野菜畑と雑木林が混在した岡崎町(現左京区岡崎)で開かれた。
敷地五万五千坪、出品約十七万点、入場者百二万三千六百九十三人。
この時開場北側に平安神宮が完成。
京都電気鉄道会社が市街電車を伏見区油掛町から博覧会開場まで走らせた。
黒田清輝が裸体画を出品、公開に賛否両論が起こり、審査総長九鬼隆一の決断で公開された。

● 内膳町遺跡

上京区中立売通室町上ル薬屋町にある弥生時代前期の遺跡。
昭和四十八年の調査で弥生前期の壺・石鏃・石錐・石包丁などが出土。
さらに翌年、烏丸通で地下鉄建設に先立って行われた発掘調査では、烏丸通中立売付近から縄文晩期の深鉢、弥生前期の甕・壺が出土した。
両出土地点は近接し、同一集落跡と考えられる。
市街地おける数少ない弥生前期の遺跡であるとともに、鴨川流域の稲作文化を知る上で貴重な資料を提供した。

● 長尾越

右京区梅ケ畑宮ノ口付近から嵯峨野への山越えの道。
「雍州府志」によれば、記載はやや混乱しているが、梅ケ畑から西の長尾山に登り、菖蒲谷南部を南下し、細谷を経て嵯峨野へ至る道がこれにあたる。
全長約1.5キロ。

● 中川北山ことば

北区中川北山町付近で使用することば。
京ことばと異なる言語の島を形成しており、次のような特色をもつ。

1. 文法上、書カセラッタ(書かせられたの意)のように、尊敬の助動詞ル・ラの残存、否定の助動詞にエン(ヘンの転)を使用。
2. これをコイ、それをソイ、あれをアイと訛り、また、ヤケロ(火傷)・シンズイ(親類)・ヒラ(膝)のように、ダ行・ラ行・ザ行の子音の転換・混同などがある。

● 仲九町組

江戸期の下京の町組。
所属町の範囲は、古町はほぼ綾小路通・錦小路通・室町通・新町通で囲まれた地域。
町数は、文政二年(1819)段階で古町九カ町、枝町二カ町の計十一カ町。
天文六年(1537)の「中組」を史料上の初見とする。
明暦年間(1655〜58)頃までに、九町組・十町組の両組に分かれた。

● 中京郵便局

三条通高倉西入ルにある普通郵便局。
京都郵便電信局の焼失を機に、明治三十五年、中央郵便局として京都郵便局の名で現在地に建設。
昭和二十四年、現称に改めた。
赤煉瓦造二階建。
設計は逓信省の吉井茂則と三橋四郎。
様式はルネッサンス・リバイバルで、平安博物館と並んで三条通の歴史的景観の中心的存在。
昭和五十一年から建替え工事を行い、五十三年三月に新庁舎が竣工。

● 中久世遺跡

桂川右岸に立地し、南区中久世一帯に広がる弥生時代中期・後期の集落跡。
弥生中期の方形周溝墓。溝跡・河川跡などが発見されている。
昭和五十二年の発掘調査では河川の流れ堆積内より多量の木器・土器を検出。
木器には鍬・鋤などの未製品を含み、そのほか太型蛤刃石斧・石包丁・石鏃・石剣などが出土。
桂川流域の稲作伝播の経路をたどる上で重要な遺跡。

● 中座

雑色(四座雑色)の下で、京都所司代・京都町奉行の御長屋の夜番と牢屋敷の御用を兼務した者。
初期には町用人があったが、十八世紀には雇人となり、定員は一応十二名になるが、時期により実質は異動。
給銀は町中から集める夫銭をあてた。

● 長崎問屋

寛永期(1624〜44)の鎖国以後、明治まで中国・オランダを相手として行った長崎貿易に直接携わった問屋。
仲間を結成し、糸割符商人とともに長崎貿易の中心的存在となった。
京都では主に二条から御池・三条にわたる新町や室町筋に店を構えた。
長崎貿易における主な輸入品は生糸・砂糖・薬品・皮革など。輸出品は丁銀・銅製品・漆器などで、たとえば生糸は西陣機業というようにいずれも京都の産業と関係が深い。
長崎問屋は中国産の白糸や絹反物などを専門に扱い、「京都御役所向大概覚書」に亀屋源右衛門(新町通二条下ル町)ほか五名がみえる。

● 仲十町組

江戸期の下京の町組。
所属町の範囲は、古町はほぼ新町通・室町通・錦小路通・仏光寺通で囲まれた地域。
町数は文政二年(1819)段階で古町十二カ町、枝町二カ町の計十四カ町。
天文六年(1537)の「中組」を史料上の初見とする。
明暦年間(1655〜58)までに、九町組・十町組の両組に分かれた。

● 中津藩邸

中津藩は豊前国下毛郡に置かれた藩で、藩主は寛永九年(1632)から享保二年(1717)まで小笠原氏。
以後代々、譜代大名奥平氏が藩主。
京屋敷は、幕末に至るまで出水堀川東に構えた。

● 中臣遺跡

山科区にある縄文期から平安期にかけての大規模な複合遺跡。
山科川と旧安祥寺川の合流点北方、山科区西野中臣町から勧修寺東金ケ一帯に広がる。
範囲は十万平方メートル以上。
古墳出現前後の集落跡と古墳時代後期集落跡が中心。
継続的な発掘調査の結果、現在までに古墳出現前後の竪穴住居址四十戸以上、古墳時代後期の竪穴住居跡四十五戸以上を発見。
掘立柱の建物群には古墳時代後期のものを多数含むが、それ以外は時期不詳。
ほかに縄文後期の土壙、稲作開始前後の甕棺墓、弥生中期の方形周溝墓などを検出。
平安期の井戸跡、須恵器の壺、曲物、斎串などの木製品が出土した。
山科地区における大規模な集落跡であり、近江地方との深い関係が注目される。

● 中臣十三塚古墳群

山科盆地西南部の来栖野丘陵上、山科区西野山中中臣町・勧修寺西来栖野町にある古墳時代後期の古墳群。
もとは十三基の小円墳であったことが知られているが、現在は宮道列子の墓とされている宮道古墳と折神神社古墳が残るだけで、他は宅地造成のため消滅した。
当古墳群は六世紀から七世紀前半代の築造と考えられ、近接地である。
中臣遺跡の竪穴住居跡群と時期が一致する。

● 中院家

公家。
村上源氏。
久我家の分流。
大臣家の一。
土御門通親の五男通方(1189〜1238)が祖。
江戸初期には、通勝・通村ら歌道に秀でた人物を輩出。
江戸期の家禄は300石。
幕末には500石。
烏丸下長者に邸を構えた。
菩提寺は上京区廬山寺。

● 仲野新王陵古墳

右京区太秦垂箕山町にある前方後円墳。
桓武天皇皇子仲野親王の陵墓に指定されるが、六世紀までさかのぼるとみられる。
全長約七十五メートル、周囲を濠をめぐる。
内部主体は不明。
古墳時代後期に嵯峨野一帯を支配した首長墓の系譜につながる古墳か。

● 仲間

近世の同業商工業者による相互扶助的連帯組織。
京都および伏見では宝暦・明和・安永期(1751〜81)にあいついで成立。
商人の私的な結合として内仲間・内分仲間・講が生まれ、のし幕府・諸藩の官許をうけた株仲間があらわれて営業独占の機能を強化。
江戸期を通じて京都では株仲間二十六、仲間百三十余、伏見では株仲間二十五、仲間八十余が確認される。
株仲間は初め外国貿易品統制・警察的取締り・品質管理・価格統制などを目的として設定され御免株と呼ばれたが、のちには願い出によって組織されるようになり願株と呼ばれた。
一般には願株が多く生まれたが、京都では業種的には御免株が多い。
天保の改革により株仲間解散の触書が出され、嘉永四年(1851)に復興したが、京都で実際に株仲間再興が命じられたのは同六年とみられる。
京都と関係の深い大津は同七年。
明治五年、市場経済の再編により解散した。

● 中御門家

公家。

藤原北家道長流。
藤原道長の曾孫宗俊のとき中御門を称した。
宗俊は筝・笛に堪能。
長男宗忠は右大臣に昇り、日記『中右記』をのこす。
室町期の宗量以後、松木と称した。

藤原北家勧修寺流。
鎌倉後期、坊城教俊の子経継が中御門家の祖となる。
江戸期、家禄260石。
命じに至り伯爵、のち侯爵。

● 中御門天皇

元禄十四〜天文二(1701〜37)第114代。
東山天皇の第五皇子。
名は慶仁。
宝永七年(1710)十一月即位。
在位二十六年。
享保二十年(1735)実子昭仁親王に譲位、自ら太上天皇の尊号をうける。

● 中村楼

東山区祇園町南側にある料亭。
八坂神社南楼門前の二軒茶屋の東の茶屋から発展。
桃山末期から江戸初期にかけての創業。
古い屋号は柏屋で、江戸末まで中村屋、明治に入り中村楼となる。
江戸初めより祇園豆腐と呼ばれる田楽豆腐が評判で、文人墨客が多く集まり、南画家池玉瀾が茶くみをしたという。
明治期にはホテルも兼業、洋食を供し、京都におけるホテルの草分けとなった。
板垣退助や伊藤博文なども宿泊した。

● 中山家

公家。
藤原北家花山院流。
羽林家の一。
権中納言藤原忠宗の次男忠親が中山内大臣と称されたのに始まる。
代々大納言に任ぜられた。
天皇の信任が厚く、特に尊号一件に関わった愛親が有名。
二十四代忠能は女慶子を孝明天皇の后とし、明治天皇の外祖父として活躍。
尊皇攘夷を主張、岩倉具視らと皇妹和宮の降嫁を斡旋、王政復古を推進した。
その子忠光も尊皇運動に参加。
江戸期の家禄は200石。
屋敷は現京都御苑の石薬師門西入北側にあった。
明治に至り侯爵。
菩提寺は上京区の廬山寺。

● 長刀鉾稚児

祇園祭の長刀鉾に乗る稚児。
昔は船鉾を除くすべての鉾に乗ったが、現在は長刀鉾以外は人形となる。
長刀鉾町では毎年六月頃、十歳前後の男児の中から稚児を選ぶ。
稚児は七月十三日、禿や役員を伴い、騎馬で八坂神社へ行き、位もらいの式を行う。
これによって五位少将の格式を授けられ、10万石の大名の格式を得るといわれる。
稚児の最も重要な務めは十七日の山鉾巡行の際、四条麩屋町で行う注連縄切り。

● 夏越祓

各神社で六月晦日に行う神事。
大祓・名越祓・水無月祓ともいう。
一月から六月まで半年間の罪けがれを除く伝統的な行事で、一般に、茅の輪をくぐる茅輪神事が行われる。

● 名古曾滝

嵯峨天皇の離宮嵯峨院の庭内に設けられていた滝。
大覚寺の大沢池から北へ100メートル。
右京区北嵯峨名古曾町石組みの跡がある。
名称は、藤原公任がここで、「滝の音は絶えて久しく成ぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ」と詠んだ歌による。

● 七不思議

伝説・故事を名数的に数えたもの。
中世からあらわれる。
主として景気をあおり、名所案内としたり、信仰を集めるために考え出された。
京都では「本願寺七宝物由来」をはじめ、東福寺・金閣寺・東寺・要法寺・建仁寺・本圀寺・方広寺・三十三間堂・清水寺・金戒光明寺・妙心寺・大徳寺・知恩院などの寺院、上賀茂神社・八坂神社・伏見稲荷大社・豊国神社・下鴨神社などの神社や、島原・新京極・西陣、あるいは出水通などにも七不思議を伝える。

● 奈良絵本

室町末の江戸初期の御伽草紙を内容とする華麗な書写絵本。
縦本と横本とがある。
紺紙金泥絵に朱題簽の表紙、挿絵には金銀箔・朱・緑青などを用いる。
奈良絵本の名称は明治中頃からのもので、江戸期には単に古写本・書き本と呼び、主に京都でつくられたと考えられている。
江戸初期の御伽草紙の絵巻物に京都城殿の草子屋の印があり、「雍州府志」でも絵草子屋の存在がわかる。

● 奈良街道

山科盆地東北部の追分で東海道から分かれて盆地東辺を南下し、伏見を経て奈良へ向かう街道。
山科から宇治を経て奈良に向かう道は奈良盆地に都があった時代の北陸道(古北陸道)で、古い道であるが、豊臣秀吉が文禄三年(1594)巨椋池中に堤を築いて大和街道とし、宇治橋を撤去して豊後橋(現 観月橋)を架けてから、山科・奈良間の道は伏見を通過するものが主道になったとみられる。
伏見以南はむしろ「大和街道」であったが、いつしか奈良街道の名を用いるようになった。

● 双ケ丘古墳群

右京区御室双岡町の国の名勝。
双ケ丘(岡)の丘陵上にある十九基に及ぶ古墳時代後期の円墳群。
一基を除いて墳丘径10〜20メートルの群集墳で、内部主体は横穴式石室。
他の一基は右大臣藤原夏野の墓とされ、墳丘径44メートル、巨石を用いた横穴式石室を内部主体とし、京都では蛇塚古墳につぐ七世紀前半の巨石墳。
石室の全長は14.4メートル。
昭和五十五年の発掘調査で須恵器・金環などが出土した。
秦氏との関連で注目される首長墓。

● 鳴り石

名石の一。
鞍馬本町由岐神社拝殿近くに、片桐且元が宿泊したと伝える宿があり、その家の書院の西側に置かれていた沓脱石は、叩くと鳴るので鳴り石という。

● 業平忌

大原野の十輪寺で行う在原業平の法要。
五月二十八日。
寺では業平朝臣御忌秘密三弦大法要という。
業平は晩年当寺に住み、風流をたしなんだといわれ、没後遺族が集まり法曲を誦して霊を慰めたのが始まりと伝える。
近世に途絶え、第二次大戦後復活。
正午すぎ導師の長素絹をまとった住職が三弦を弾きつつ読経、「祈請」「般若心経」などの法曲を披露し、献茶・献歌・献句や小唄・山城舞楽などを奉納。

● 鳴滝砥石

右京区の鳴滝・梅ケ畑・高雄などに産する砥石。
黄褐色、緻密、やや珪質の頁岩で、適度の硬さと吸水性があり、最上の仕上げ砥として珍重され、全国的に有名。
石の中にコノドントという微化石を含み、中世代三畳紀にできたことが知られる。
鎌倉期に本間藤左衛門が発掘したと伝え、「京都御役所向大概覚書」によれば、江戸初期には採取権は本阿弥家、採石・商売は鳴滝村在住の砥屋五左衛門に認められた。
採掘は明治・大正初期が最盛期で、近年は休山中。

● 南画

東洋画の一。
中国で絵を専門としない士大夫の描く絵を文人画と呼び、十四世紀以後の文人画に生まれた柔らかい線を重ねていく様式を南画、あるいは南宗画という。
日本でも「平安人物志」など文人画の呼称をもちいるものもあるが、ほとんどが専門画家による南画である。
日本で南画を描くようになったのは江戸中期からで、祇園南海・彭城百川・柳沢淇園らがいる。
京都では早くも寛文十二年(1672)唐本屋清兵衛が明版「八種画譜」を翻刻出版し、学者・僧侶の好評を得た。
享保六年(1721)名古屋の百川が上京、南画を広め、明和八年(1771)「十便十宜図」を合作した池大雅・与謝蕪村が独自の日本的な南画を大成、以後、南画は京都を中心に西日本に広がった。
江戸の南画が西洋画や円山四条派の影響を受けたのに対し、江戸後期の京都の南画は皆川淇園・村瀬栲亭を経て青木木米などを中心とする全盛期を迎え、浦上玉堂・田能村竹田ら多くの南画家が京都に遊んだ。

● 南禅寺十境

南禅寺境内の十の境致。

独秀峰(当寺の主山、南禅寺山)
羊角峰(鐘楼の上の峰)
帰雲洞(方丈の北にある南院国師の塔所)
拳龍池(勅使門前の■ハン池) ■サンズイ+半
曇華堂(仏殿)
鎖春亭(天下龍門といわれた外門の近くの亭)
蘿月庵(駒ケ滝前蔵春峡の傍らの庵)
綾戸廟(拳龍池の北の鎮守明神社)
愈好亭(不詳)
簷蔔林(衆寮)
をいう。

● 南蛮寺

安土桃山期、キリスト教宣教師が京都に建てた教会。
ポルトガルの宣教師は、日本の首都に教会を建てることを早くから希望し、当初四条あたりの民家を仮の教会とした。
のち四条坊門姥柳町、現在の室町通と新町通の間、蛸薬師通北側に地所を得、天正四年(1576)八月十五日には、未完成であったが新しい教会の奉献式を挙行した。
三階建で、一階は礼拝堂、三階は住居にあてた。
狩野元秀筆の南蛮塔の扇面画にその姿がみられる。
南蛮寺として著名なこの教会は、同十五年(1600)から同十七年までに、一条堀川から元誓願寺橋を渡り、東に入った地に小教会があり、岩上通と綾小路が交差した一域に一時スペイン系フランシスコ会の修道院と病院があった。

● 南蛮寺の鐘

妙心寺の塔頭春光院にあるキリシタンの教会の銅鐘。
重要文化財。
表面にイエズス会の紋章と”1577”の年号が浮き彫りになっており、天正四年(1576)に奉献式を行った四条坊門の南蛮寺の遺鐘と思われるが、断定できない。
 

= に =

● 新島襄旧宅

同志社大学の創始者。
新島襄が後半生を送った私宅。
上京区寺町通丸太町上ルにある。
寄棟造の木造二階建て。
明治十一年完成。
米国人J・M・シャースが助言し、日本人大工が建てた。
ベランダをめぐらした洋風住宅の外観で、内部も洋風調度をしつらえるが、箱段や欄間など要素もみられ、簡素な造りの中に和洋の様式が調和する。

● 二井商会

日本最初の乗合自動車会社。
明治三十六年九月、西陣の織物商福井九兵衛と坪井菊次郎が創立。
二人乗り蒸気自動車二輌を有し、「途中昇降御随意」と新聞広告を出し、七条停車場・堀川中立売・祇園石段下間を経路とした。
人力車の妨害もあり、このため楽隊を繰り出し、煙草の景品をつけたりしたが、乗客も冬には激減。
資本金十五万円の第一自動車株式会社に改組したが、四ヵ月で廃業。

● 二軒茶屋

静市市原町南部の地名。
地名は、参詣人相手の二軒の茶屋があったことに由来。

● 二軒茶屋

八坂神社南楼門前の東西にあった二軒の茶屋。
八坂神社参詣の人々の腰掛茶屋から始まったという。
また「都名所図会拾遺」に「其の濫觴は年暦久遠にして詳にしれがたし。今より百八十年前、慶長の頃東にも建てて東西両翼の如し。これを二軒茶屋といふ」とある。
東を柏屋、西を藤屋といったが、藤屋はなくなり、柏屋は中村楼と改めて現在に至る。
豆腐の田楽や菜飯が名物となり、地唄「京の四季」には「粋も不粋も物かたい二本差してもやわらこう祇園豆腐の二軒茶屋」とうたわれたほか、小唄や新春の手まり唄にもうたわれた。

● 西岡十一カ郷

室町期に山城国乙訓郡一帯の諸郷が組織した連合体。
各郷の名は不明。
「東寺古文零聚」第七所載の「桂川用水図」中に記す御庄・下桂・河嶋・下津林・牛瀬・上久世・寺戸・築山・大藪・下久世といった諸庄(村)で構成したとみられる。
農業用水の確保を目的として結成した側面が強く、十一カ郷の動脈的用水ともいうべき今井用水の井懸りの関係から、上桂あたりで上六カ郷と下五カ郷に分かれた。
応仁の乱以後もこの地を中心とする土一揆が勃発し、特に長亨元年(1487)の国一揆は、守護不人をかちとって国持体制をつくりあげた。

● 西賀茂瓦窯址群

北区蟹ケ坂町から山ノ前町にかけて分布する官営の瓦窯址群。
操業の中心は平安前期。
瓦窯址は船山東麓から賀茂川に広がる段丘上に位置し、その分布範囲は南北約1.8キロを測る。
北から、上ノ庄田瓦窯址(平安前期)、醍醐ノ森瓦窯址(平安前期。郡中最古で大阪岸部瓦窯と同笵瓦がある)、鎮守庵瓦窯址(平安前期)、角社瓦窯址(平安前期)、河上瓦窯址(平安中期)が知られる。
調査の行われた鎮守庵瓦窯址では、床面が平坦な須恵器系窖窯とロストルをもつ平窯を検出、前者からは多量の丸瓦・「官」刻印瓦・鴟尾・緑釉軒平瓦・褐釉瓦などが、後者からは「中」「近」の在銘軒平瓦、平瓦・セン(土+専)が認められた。
また角社瓦窯址の調査は、四基一単位で東西二群を構成し操業したとする所見を得た。
本瓦窯の刻印・在銘瓦の「官」は太政官、「中」は中務省、「近」は近衛府を示すと考えられる。
これらは平安京大内裏中にある要官庁で、本瓦窯は平安京造営当初、これら官庁に瓦を供給すべく操業を開始したとみられる。

● 錦市場

錦小路通にある食料品小売市場。
東は寺町通から西は高倉通まで約390メートルにわたる部分をいう。
鮮魚店が最も多く、乾物店・青物店がこれに続く。
前進は三店魚問屋街のひとつ錦の店。
一説に元和元年(1615〜24)丹波篠山出身の木村六右衛門の創業というが、応長元年(1311)に備後国から年貢10貫文を錦小路で替銭するよう淀魚市の商人に依頼している史料もある。
寛永十四年(1637)上の店、六条の店と並んで鮮魚専門の特権的問屋市場として公認され、明和七年(1770)には隣接して錦高倉に青物立売市場も開設された。
今日の景観となるのは、昭和二年京都市中央卸売市場開場以後。
それ以前は高倉通りから柳馬場通までが問屋街、その東は寺町通まで卸小売屋街。
また東洞院通には八百屋の市問屋があった。

● 錦織

西陣織の一。
色糸で文様を織り出した絹織物。
中国で創始され「枕草子」に「めでたきもの、から錦」とうたわれたように、豪華・美麗な織物。
近世まで西陣が独占的立場を占めていたが、江戸中期以降、加賀・桐生などにも製織技術が伝わった。
明治以降はジャガード機で織ることが多い。
技法は各種あり、経糸で文様をあらわす経錦は平安期以降すたれたが、近世に再興、現在はゴブラン織とも称し、バッグや小物に用いる。
緯糸で文様を織り出す緯錦は錦織の主流となり、風通・唐織・緞子・金襴・銀襴・朱珍など、各織物ごとの名称が定着。
その他、神宝包製・神輿の飾りなどに使う倭錦、丸帯に使用する糸錦などがある。

● 錦ことば

錦小路通にある小売市場で主に使用する語。
商品名やその商品をあらわすことばに特色がある。
テマモン(手間物)は、料理物として鉢皿に添える多種多様な細工野菜。
シロイタ(白板)は、おぼろ昆布を削り取った後の、鯖寿司などの上にのせる白くて薄い昆布。
また生魚の鮮度をあらわす「ハヤ」はピチピチした新鮮なものをいい、「シマリ」は少し鮮度が落ちたもの、「モドリ」は煮物にするしか使い道のないものをいう。

● 錦手

京焼の特徴の雅と華やかさをなす陶磁器上絵付け技法の一。
野々村仁清の色絵にみるような、赤・青・緑・紫・金など多彩な上絵具で彩色したもの。
錦窯で焼く。
色絵のうち桜と紅葉をあしらったものは、花の雲と、紅葉の錦の意味から雲錦手と呼ぶ。
また幕末の永楽保全・和全が得意とした。
赤地などの上に金彩で文様を描いた金襴手も錦手と呼ばれることがあり、錦彩の銀襴手もつくられた。

● 西車塚古墳

八幡市八幡大芝にある古墳時代前期前半の前方後円墳。
墳丘は男山丘陵の東麓に北面する。
全長115メートル、後円部径70メートル、後円部の高さ8メートルを測り、前方部が低い。
後円部中央に主軸と直交する竪穴式石室があり、明治三十六年に二神二獣鏡をはじめとする船載鏡・ホウ(イ+方)製鏡五面・車輪石・石釧・鍬形石・石製品・勾玉・管玉・小玉・刀などを検出した。
後円頂部は広く、明治の神仏分離の際、男山山上より八角堂を移築。
船載の二神二獣は、長法寺南原古墳(長岡京市)・ヘボソ塚古墳(神戸市)・長塚古墳(岐阜県)と同笵関係にある。

● 錦織氏

百済系の渡来氏族。
機織技術にすぐれたためについた氏族名とみられる。
山城国では愛宕郡錦部郷に住み、同郡粟田郷のものとされる計帳に錦部(錦織)氏の名が多い。
西陣織と錦部氏を結びつける説もあるが、これは後世の伝説と思われる。

● 西陣織

十五世紀後半の応仁の乱後、山名氏の西軍陣地跡付近に興り、発達した織物。
現在、上京区を中心とする西陣地区一帯で製織し、高級織物として知られる。
製品は帯と着尺のウェイトが高く、特に綴織などの手織高級帯は全国の市場を独占する。
多品種少量生産のため賃機・出機の形態が多く、また複雑な分業組織が発達。
綴織・錦織・緞子・朱珍・紹巴・風通・捩り織・本しぼ織・天鵞絨・絣・紬の十一種が、西陣織として伝産法に指定される。
西陣機業は平安中期以降、織部町・織手町(現在の黒門通上長者町付近)に住む織部司の織手が私織を始めたのに端を発し、室町期には「庭訓往来」に大舎人の綾、大宮の絹がみえ、すでに著名であった。
応仁の乱の間、織手の多くは堺に移住、乱後京へ戻った者は東陣跡の白雲村で練貫座を組織して絹を織り、西陣跡では大舎人座が綾を織った。
永正十年(1513)練貫座と大舎人座との間で製品の種類について争いが生じ、翌年大舎人座が綾織物の独占権を得た。
その後天文十七年(1548)座中三十一家が足利家の保護を得、元亀二年(1571)には井関家ら六家が御寮織物司に任じられ、以後この六人衆を中心として西陣機業が発展。
安土桃山期には、堺を通じて輸入された海外の織物をモデルとして技術を伸ばし、野本氏が金襴、俵屋が唐織を織り出した。
江戸期にも幕府の保護を得、糸割符による中国輸入糸の割当をうけ、元禄(1688〜1704)頃には160余町に及ぶ大機業地となり、従業員数万人、七千台の織機をもつ産業となったが、中国糸の輸入制限や和糸の不足、丹後・桐生など地方絹の進出に加えて享保・天明の大火による損害などから、天保六年(1835)には織屋2118戸、機数3164台に減少。当時は織物の種類別に分業化され、、延亨二年(1745)公許の高機織屋仲間も製品別に組分けされた。
江戸末期、天保の飢餓と同十二年の改革により、西陣は大打撃をうけ、嘉永五年(1852)には885戸、1625台を数えるのみとなった。
明治に入り株仲間が廃止されると、京都府は同二年に西陣物産会社を創立させ、商取引の改善をはかった。
同五年にはフランスのリヨンへ佐倉常七・井上伊兵衛・吉田忠七が留学、ジャガード機など様式機織をもたらした。
同七年、府は織殿を設置し技術指導を行うが、荒木小平は木製ジャガード機を摸作し西陣に普及した。
また二十年代以降、川島甚兵衛・伊達弥助・佐々木清七らが各地の博覧会に出品受賞し、西陣織の名を高めた。
以後西陣は日本最大の絹織物産地かつ同業者町として推移し、手機から機械機への工業化も進んだ。
戦時中は企業整備などで衰えたが、第二次世界大戦後再び絹織物をはじめ化繊織物にも進出、機械化もさらに進んだ。
製造工程は複雑に分業化され、大別すると、撚糸・糸染などの原料準備、綜絖・筬などの機準備、図案・紋彫などの企画・製紋、製織、仕上げの各工程があり、織屋がこれを統轄する。
製品の流通は上仲買と呼ばれる西陣地区の産地問屋から、下仲買の室町問屋の手を経て地方の卸売商や百貨店へ流れる。

● 西陣織会館

堀川通今出川下ルにある西陣織の総合的なセンター。
前身は大正四年今出川通大宮東入に建設された西陣織物館。
西陣織工業組合が西陣五百年記念事業の一つとして、昭和五十一年移転新築。
西陣織工程や織物物品の展示のほか、手機・つづれ機の実演と即売、三階ホールでは新製品の紹介と宣伝を兼ねた着物ショーを行う。
(現在、着物ショーは毎時一階で行われている。見物人数がない時は中止のようですから、事前に電話確認されたほうがよい)
財団法人西陣織物館が所有する文献や織物館を史料室に展示。

● 西陣織工業組合

西陣の織屋の組合。
明治十六年設立の西陣織物同業組合の後身。
昭和四十八年、西陣織物工業組合・西陣着尺織物工業組合・西陣毛織工業組合を合併して設立。
西陣織会館を運営。

● 西陣織物館

今出川通大宮東入ルにあった西陣織の陳列館。
煉瓦造三階建で、設計は本野精吾。
大正四年、西陣織物同業組合が設置。
昭和三十七年財団法人となる。
同五十一年、西陣織工業組合が新たに西陣織会館を建設したためへ閉館、法人は西陣織会館に移る。
建物は京都市に移管して京都市考古学資料館となる。

● 西陣織模範工場

明治期の織物会社。
同三十五年、稲田卯八・鳥居栄太郎・伊達虎一らが農商務省の後援を得て紫野雲林院に設立。
力機織による西陣織の工業化をめざし、織工八十九名を擁した。
主に紋織物を製織。
大正八年西陣織物株式会社となる。

● 西陣天狗筆記

西陣織に関する基本史料の一。
筆者は御寮織物司のひとり井関宗因。
弘化二年(1845)の奥書がある。
内容は、井関家の由緒、太秦大酒大明神の縁起、西陣の地名由来、各種織物・機道具の歴史や解説、西陣の風俗、西陣焼けのこと、仲間の申合せ定め、奉行所への請願など多方面にわたる。
挿図があり、また当時の西陣付近の地図を収める。

● 西陣電話局

油小路中立売下ルにある電話分局。
大正十年京都中央電話局西陣分局として開局。
京都市内では下分局・中分局・についで三番目の設置。
現在も開局当初の局舎を使用。
鉄筋コンクリート造二階建。
正面には二階部分までレリーフ半楕円形に並べ、一階入り口の左右ならびに中央の柱には裸婦の彫像がのるなど、大胆な意匠をみせる。
明治期の様式建築から脱却し、初めて建築家の個性によってデザインされた記念碑的建築として評価が高い。
設計は逓信省技師岩本禄で、その唯一の現存作品。

● 西陣五水

1. 染殿井
智恵光院通上立売上ル聖天町、雨宝院(西陣聖天)の南門右側の手水井。

2. 桜井
智恵光院通五辻下ル桜井町の民家の庭にあり、桜井基佐邸跡の井戸という。

3. 安居井
大宮通寺之内西入下ルにある。比叡山東塔竹林院の里坊安居院ゆかりの井戸と伝える。

4. 千代野井
智恵光院通五辻上ル紋屋町、本隆寺本堂付近にあった。四角形の石框が残る。天明の大火のとき、この水を汲み堂宇にかけたので同寺は災を免れたと伝える。

5. 鹿子井
智恵光院通寺之内下ルの民家内にある。

● 西陣の造り物

上京区の笹屋町を中心に行う地蔵盆行事。
八月二十一日〜二十三日。
笹屋町は、東は智恵光院通、西は七本松通にわたる笹屋町通の両側町で、西陣織に関係のある糸・わく・織物などの材料で、歌舞伎役者の人形などをつくり、通りに面した紅殻格子をはずして飾った。
明治初期に始まり、夏の風物詩の一つとして昭和四十年代末頃まで盛んに行われた。

● 西陣焼け

享保十五年(1730)六月二十日午後、上立売通室町西入の呉服所大文字屋五兵衛方から出火、強風にあおられて西陣地区の134カ町を焼きつくした火事。
被災地域は東は室町から西は北野まで、北は船岡山、南は井町上ルまで。
火は同日夜におさまったが、民家約3800軒、社寺約70カ所が焼け、西陣の機織7000余台のうち約半数が失われたといい、西陣機業は大打撃を受けた。
この被害に対し、下京・中京から施行がなされ、近郊農家からは食料が送られた。
また知恩院方丈から銭100貫文の施行、京都所司代から西陣組108町に米5000石の貸し下げがあった。
なお「月堂見聞集」「西陣天狗筆記」に記事がある。

● 西土手処刑場

粟田口処刑場と並ぶ江戸期京都の公的処刑場。
現在の中京区西ノ京円町付近の土手(お土居)西側の嵯峨街道二条口の近くにあった。
現在一部が共同墓地となる。

● 西機

近世の西陣で、千本通の西に住んだ織屋をいう。
主として紋織以外の織物を平機(京都以外の機業地でいう高機)で織り、綜絖が二枚で足りる機もあったため二枚機とも称した。
これに対して千本以東の織屋は高機(空引機)で高級紋織物を織る者が多かった。
西陣織屋の中から茶宇嶋・縮緬織屋などの仲間が成立し、のちに西機二十組を結成、
このほか小川・新町付近で金襴などを織った東機、水火天満宮付近で紋生絹類を織った上機がある。

● 西八条邸

平清盛が東寺の北、八条壬生に構えた邸宅。
現在のJR梅小路貨物駅付近がその跡。
清盛の場合は六波羅館に対して西八条邸の方が本邸。
六町という破格な広さを誇るが、主要な殿舎があったのは二町ほど。
ほか清盛の妻時子(二位尼)が供養した八条堂などがあった。
清盛は出家後、播磨国福原にいることが多く、時子がこの邸の主となった。
白拍子祇王・祇女の話の舞台である。
養和元年(1181)清盛の死後に放火事件があり、さらに二年後の平家都落ちに際し、平氏自らの手で焼き払われた。

● 西本願寺学林

西本願寺にあった末寺僧侶の教育機関。
初め学寮として寛永十六年(1639)に本山境内に建設、翌年四月から講義を開始した。
その後、本山廓外の大宮通東側へ、さらに興正寺の南へと再度移転。
しかし、承応年間(1652〜55)の西本願寺と興正寺の法論、いわゆる承応鬩牆のあおりをうけ、争論の火元として明暦元年(1655)七月幕命により破却された。
その後、仮の学寮で私的に講義を続け、元禄八年(1695)東中筋通六条下ルに学林として再興。
学林の講義は夏季集中講義方式をとり、諸国から上京する僧侶のための寄宿舎も付置した。
明治八年、真宗学庠に改めた。
現在の龍谷大学はこの学林の系譜を引く。

● 西本願寺寺内町

江戸期京都において、西本願寺の支配下に置かれた町々の総称。
当時は一般に西寺内と称した。
天正十九年(1591)本願寺は豊臣秀吉から京都に寺地を与えられ、大坂から移転した。
これ以後、本願寺の末寺や家臣、出入りの商工業者なども順次大坂から京都へ居を移した。
この人々の居住地域を、本願寺の東西分裂後、西寺内と称した。
江戸中期、その範囲は北は六条通、南は下魚棚通、東は新町通、西は大宮通西の市街地西端の境域を占め、町数六十一カ町、人口一万人前後を数える。
京都町奉行所の管轄となる行刑を除き、住民は西本願寺の支配化に属し、地子や夫役を納めた。
六十一の町は、古町と呼ばれる草分けの十三カ町を中心に九の町組に分かれ、京都のほかの市街地とは異なった地域を形成した。

● 西本願寺伝道院

油小路通正面角にある西本願寺の施設。
明治四十五年完成。
煉瓦造二階建。
玄関上にドームをもつ。
設計は伊藤忠太。
当初は真宗信徒生命保険会社社屋で、のち布教研究所・あそか診療所・伝道院と、西本願寺の関連施設に用いられてきた。
西洋建築の骨格の中に花頭窓など東洋的な装飾をちりばめる大胆な意匠が著名。

● 西本願寺東移事件

明治十二年六月から八月に至る西本願寺の宗政改革と本山東京移転をめぐる事件。
同年五月宗主明如が東京に赴き、六月十四日築地別院で大洲鉄然ら宗政担当者を罷免し、改正事務所を発足させたことに端を発した。
この背景には明治維新から宗政を掌握してきた大洲ら長州系僧侶から宗政を取り上げようとする明如の意図があった。
しかし、大洲鉄然らは京都府知事槙村正直らの応援で、免職通告を無視し改正反対を唱えたので、事件の収拾は困難となった。
この過程で議会制度導入などの意見が僧侶の間から出たため、岩倉具視が斡旋に乗り出し、明如の京都帰着、両派首脳の免職でほどなく終了した。
副産物として明治十四年、仏教教団で最初の議会制度が西本願寺で成立した。

● 尼衆学校

新橋通大和大路東入三丁目林下町にある京都唯一の尼僧の学校。
明治四十五年十月、浄土宗第五教区宗学教校付属尼衆教場から、私立尼衆学校として独立開校。
同尼衆教場も、明治二十年の設立当初は尼衆学校と称した。
大正八年九月、「私立」を削除。
女学校の普通科目に加え、宗乗(浄土宗の宗義)・余乗(一般仏教学)を講じた。
同十五年一月、五年制の尼僧教師養成機関となる。
昭和七年入学資格を高等小学校卒業とし、三十四年四月、吉水学園高等学校に昇格。
同五十五年休校。

● 二条河原

鴨川沿い二条橋付近の河原。
平安京の二条大路にあたり、かつては法勝寺西大門に至る橋が架かっていた。
建武二年(1335)八月、後醍醐天皇の建武新政権を批判した二条河原の落書きが立てられたことは有名。
山中越に通ずる白川は、承応二年(1653)頃まで当地で鴨川に合流した。
江戸期には二条城前の要路として賑わう。
二条通の東端で、河原の樵木町あたりまで店舗が並んだ。

● 二条河原の落書

建武二年(1335)八月、鴨川の二条河原に掲示されたといわれる落書き。
長歌の形式をとるので落首ともいう。
前年に成立した建武政権の混乱ぶりや、不安定な世情下の風俗・人情を風刺たっぷりに描いている。
かなりの教養人の手になるものと推定され、建武政権の論功行賞に不満を持つ下層の公家などが想定される。
二条河原は、後醍醐天皇の政治の拠点となった二条富小路内裏にちかく、この落書きは新政権への批判を主目的としたと推測される。

全文は以下の通り。(「建武年間記」群書類従本による)

此比都ニハヤル物。夜討強盗諜綸旨。召人早馬虚騒動。生頸還俗自由出家。俄大名迷者。安堵恩賞虚軍。本領ハナルヽ訴詔人。文書人タル細葛。追従讒人禅律僧。下克上スル成出者。器用ノ堪否沙汰モナク。モルヽ人ナキ決断所。キツケヌ冠上ノキヌ。持モナラハヌ笏持テ。内裏マジハリ珍シヤ。賢者ガホナル伝奏ハ。我モ我モトミユレドモ。巧ナリケル詐ハ。ヲロカナルニヤヲトルラン。為中美物ニアキミチテ。マナ板烏帽子ユガメツゝ。気色メキタル京侍。タソガレ時ニ成タレバ。ウカレテアリク色好。イクソバクゾヤ数不知。内裏ヲガミト名付タル。人ノ妻鞆ノウカレメハ。ヨソノミルメモ心地アシ。尾羽ヲレユガムエセ小鷹。手ゴトニ誰モスヱタレド。鳥トル事ハ更ニナシ。鉛作ノオホ刀。太刀ヨリ大ニコシラヘテ。前サガリニゾ指ホラス。ハサラ扇ノ五骨。ヒロコシヤセ馬薄小袖。日銭ノ質ノ古具足。関東武士ノカゴ出仕。下衆上臈ノキハモナク。大口ニキル美精好。鎧直垂猶不捨。弓モ引エズ犬逐物。落馬矢数ニマサリタリ。誰ヲ師匠トナケレドモ。遍ハヤル小笠懸。事新キ風情ナク。京鎌倉ヲコキマゼテ。一座ソロハヌヱセ連哥。在々所々ノ歌連歌。点者ニナラヌ人ゾナキ。譜第非成ノ差別ナク。自由狼藉世界也。大田薬ハ関東ノ。ホロブル物ト云ナガラ。田楽ハナヲハヤルナリ。茶香十エイ(火+主)ノ寄合モ。鎌倉釣ニ有鹿ト。都ハイトゞ倍増ス。町ゴトニ立篝屋ハ。荒涼五間板三枚。幕引マハス役所鞆。其数シラズ満ニタリ。諸人ノ敷地不定。半作ノ家是多シ。去年火災ノ空地共。クワ福ニコソナリニケレ。適ノコル家々ハ。点定セラレテ置去ヌ。非職ノ兵仗ハヤリツヽ。路次ノ礼儀辻々ハナシ。花山桃林サビシクテ。牛馬華洛ニ遍満ス。四夷ヲシヅメシ鎌倉ノ。右大将家ノ掟ヨリ。只品有シ武士モミナ。ナメンダウニゾ今ハナル。朝ニ牛馬ヲ飼ナガラ。タニ変アル功臣ハ。左右ニオヨバヌ事ゾカシ。サセル忠功ナケレドモ。過分ノ昇進スルモアリ。定テ損ゾアルラント。仰テ信ヲトルバカリ。天下一統メヅラシヤ。御代ニ生デテサマヾノ。事ヲミキクゾ不思議トモ。京童ノ口ヅサミ。十分一ヲモラスナリ。

● 二条行幸

寛永三年(1626)九月の後水尾天皇による二条城への行幸。
同年六月二十日、大御所徳川秀忠、八月二日に将軍家光が上洛、この両者が九月六日に後水尾天皇を二条城に迎え、同月十日の還幸まで四日間にわたって歓待した。
これは朝廷と幕府の和合を誇示するための政略的な行幸で、天正十六年(1588)豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた聚楽行幸に範をとったものである。

● 二条家

公家。

1.

藤原北家の嫡流。
五摂家の一。
鎌倉期に九条家の良実が二条京極に邸をもったので二条と称した。
江戸期、徳川家と親しく、代々将軍の諱一字をもらった。
家禄1708石。
明治に至り公爵。

2.

藤原北家の御子左流。
藤原定家の孫為氏が二条邸を伝領して家祖となる。
京極・冷泉と対立する歌道の家として歌壇に重きをなしたが、南北朝期に断絶。

● 二条御所

織田信長が室町幕府十五代将軍足利義昭のために造営した御所。
旧二条構とも呼ぶ。
文献資料などから、現在の烏丸通・新町通・丸太町通・下立売通に囲まれた二町四方がその敷地と推定されたが、地下鉄烏丸線建設にともなう発掘調査によって、烏丸通出水・烏丸通下立売・烏丸通椹木町・烏丸丸太町上ルの四ヶ所で東西方向の濠が発見され、指定範囲より一町北でも濠の廻っていたことが明らかになった。
永禄十二年(1569)二月に着工、フロイスの「日本史」によれば七十日間で完成したという。
義昭は同年四月、この御所に入り、天正元年(1573)信長が義昭を追放して以後は正親町天皇の皇太子誠仁親王の御所となった。
天正十年の本能寺の変の時、信長の長男信忠が当御所に篭って戦い自刃、御所は焼失した。

● 二条御所

二条南・東洞院東(「捨芥抄」による)にあった。
里内裏。
敷地は現在の鍵屋町を中心に、瓦之町・左京町北側・瓦町西側に及ぶ方一町。
藤原道長が建て、後朱雀天皇以降、歴代の天皇が遷御。
道長のあと教通・師通と伝領したが、この間、康平元年(1058)、治暦四年(1068)、保安元年(1120)、保延四年(1138)、建仁三年(1203)としばしば火災にあい、再建を繰り返した。
鎌倉後期、亀山天皇の里内裏となってからは二条高倉殿と呼ばれた。
文永十一年(1274)の御宇多天皇の即位はここで行った。
弘安元年(1278)焼失、再建後は伏見上皇の仙洞御所となった。

● 二条城

徳川家康が征夷大将軍の宣下をうけるにあたり京都の宿館として築いた平城。
国の史跡。
現在は京都市が管理。
西向き凸字型をした現内郭は本丸と二の丸からなり、敷地規模は六万四千坪。
周囲に外堀をめぐらし、多門塀で取りまき、正面の東大手門、北大手門、西門、および東南・西南の両隅櫓(いずれも重要文化財)を配す。
城内西部中央に位置する本丸は方七十二間をさらに内堀で囲い、東に櫓門(重要文化財)を構える。
慶長六年(1601)藤堂高虎の縄張りをもって普請を開始、同十一年頃に完成。
当初は矩形平面の単郭で、現二の丸の西北部に初期望楼型五層の天守や小天守、二の丸御殿の原型となる雁行状に延びた殿舎群を有した。
その後寛永三年(1626)後水尾天皇の行幸に際し現在の規模に拡大。
この時、先の天守を淀城に移築し、層塔型五層の天守を新造し、ほぼ現状通りとなった。
二の丸御殿(国宝)は南の唐門のうちに車寄・遠侍・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院が雁行し、内部は狩野探幽・尚信などにより障壁画(重要文化財)が描かれる。
黒書院の南・大広間の西にある南北に長い池を中心とした築山林泉式の二の丸庭園(国の特別名称)は、この時の作事奉行小堀遠州の作。
面積約4450平方メートル。
当初は行幸殿(現存せず)からも観賞できる三方正面の庭であった。
城郭の庭園として、また江戸初期の観賞本位の庭として代表的なもの。
寛延三年(1750)の雷火で天守、天明八年(1788)の大火で本丸御殿などが焼失し、現在の本丸御殿(重要文化財)は桂宮本邸より、弘化四年(1847)造立の御書院・常御殿・台所などを明治二十六年移築したもの。
なお当城は公武和合の舞台となったが、寛永十一年家光の駐留以来、文久二年(1862)家茂の上洛まで将軍の入城はなかた。
慶応三年(1867)大政奉還の評定に使われ、明治十七年宮内省の所管となり、昭和十四年京都市に下賜された。

● 二条城会議

慶応三年(1867)十月十三日、徳川慶喜の大政奉還を決定した二条城での会議。
四十藩の重役約五十名が出席。
老中板倉勝静が大政奉還の上表文を回覧させ意見を求めた。
薩・土・芸など五藩を除く藩はほとんど無言で去り、薩摩藩の家老小松起て帯刀が慶喜に謁見して賛意を述べ、会議は終わった。
その後十月十五日、慶喜は参内し政権奉還の「御沙汰書」をうけ、大政を返上した。

● 二条城番

二条城の留守居・警護・管理にあたる在番の制度。
当城は徳川氏常住ではなかったため、築城後まもなく開始されたが、寛永十一年(1634)を最後に将軍の上洛が行われまくなると、東西二組の在番にすべてを委ねた。
東番頭屋敷は二の丸東北隅で、その西に東組衆小屋があり、西番頭屋敷は二の丸西北隅で、その南に西組衆小屋があった。
在番の士は交代であったが、ほかに殿番(御殿預)があり、三輪氏が世襲した。

● 二条新地

左京区の川端通の東、二条通以北夷川通までの地域。
江戸前期は聖護院村の畑地だったが、享保十九年(1734)北野吉祥寺の願により新先斗町・大文字町の二町がまず新地として開発され、旅籠屋茶屋渡世が許された。
寛政二年(1790)島原の出稼ぎという名目で遊女渡世が公許され、手軽に遊べる茶屋街として発展。
明治中期に廃業。

● 二条陣屋

大宮通御池下ルにある小川家の住宅。
重要文化財。
二条城の南方に位置。
小川家は米両替商や生薬商を営み、駕興丁役をつとめる御用町人で、住宅は町屋風だが、二条城や町奉行所で公事に関わる大名などが宿舎としたため陣屋と称する。
寛文年間(1661〜73)の建築と伝え、大正期に改造された個所も少なくないが、二階建ての客室部は天明八年(1788)の大火以後の再建様態をそのままのこす。
書院造りの格式をもち、お能の間が隣接する大広間を中心に、一・二階に大小二十ほどの部屋を配す。
いずれも数寄屋造りの贅をつくし、茶の湯もたのしめる。
陣屋の特徴は防犯・防火に対する配慮で、外を漆喰壁の塗籠にし、軒先には濡れ莚を描けるための釘を打つ。
大広間を天井裏から見下ろす武者隠し、釣梯子、落とし階段など、要人の宿舎らしい構造をもつ。

● 二条天皇

康治二〜永万元(1143〜65)第七十八代。
後白河天皇の第一皇子。
母は贈皇太后源懿子。
名は守仁。
美福門院の猶子となり、保元三年(1158)に即位、押小路東洞院の皇居に住んだ。
在位八年。
即位の翌年、平治の乱がおこり、源義朝らに幽閉された。
また、近衛天皇の皇后藤原多子を入内させ、「二代の后」騒ぎを起こした。
父後白河上皇の院政を喜ばず、親政を行おうとした。
陵墓は北区平野八丁柳町の香隆寺陵。

● 二条薬種街

二条通に沿い、主として新町から烏丸間に形成された同業主町。
上京と下京の境をなし、二条城前のメインストリートだった二条通は、俗謡に「一条戻り橋二条きぐすり屋」とあるように、薬屋が集住し二条組薬種仲間をつくった。
和薬(国産薬種)の流通機構整備がはかられた享保七年(1722)幕府の公認となり、江戸本町・大坂道修町など全国五ヵ所の市場と並んで和薬改会所(薬品検査機関)が設けられ有名になった。
この会所の向かいに、明治になって薬祖神祠が建てられた。

● 二条柳町

近世初頭の遊郭。
島原西新屋敷(島原遊郭)の先駆で、公許の遊郭の創始。
東西を京極・万里小路・南北を冷泉・押小路に囲まれた方二町の一画。
現在の二条柳馬場より東、寺町通までの間にあたる。
天正十七年(1589)原三郎左衛門と林与次兵衛が、応仁の乱で荒廃した当地に豊臣秀吉の許可を得て遊里を開いた。
幕府の風俗政策によって、二条城造営の時の慶長七年(1602)五条魚棚、室町西洞院の間に移転し、新たに六条柳町(六条三筋町)と呼ばれた。

● 日図デザイン博物館

岡崎成勝寺町の京都市伝統産業会館内にある展示施設。
昭和五十二年開館。
京都に本部をもつ社団法人日本図案家協会が運営。
美意識の向上とデザイン感覚の養成、生活文化の向上を目的とし、デザイン作品・ポスター・主要建材などを収集。
展示室は十一室、染織図案関係の展覧会を開く。

● 日蓮宗洛中二十一ヵ寺本山

応仁(1467〜69)以後、京都における日蓮宗の進出、発展は著しく、多くの寺院が建立された。
特に天文(1532〜55)頃には最盛期を迎え、次の各本山が洛中二十一ヵ寺本山と総称されて威勢をふるったが、天文法華の乱でことごとく破却された。
妙顕寺(二条西洞院)・住本寺(二条堀川)・妙伝寺(一条尻切屋町)・妙覚寺(二条衣棚)・頂妙寺(高倉中御門)・本満寺(東洞院土御門、一説今出川新町)・本圀寺(六条堀川)・妙満寺(錦小路東洞院)・立本寺(四条櫛笥)・本能寺(六角大宮)・妙蓮寺(綾小路大宮)・上行院(六角油小路)・本法寺(三条万里小路)・妙泉寺(三条油小路)・本隆寺(四条大宮)・本禅寺(四条油小路)・本覚寺(三条猪熊)・宝国寺(本国寺隣)・学養寺(四条)・弘経寺・大妙寺。

● 二年坂

産寧坂(三年坂)の北続きで、東山八坂の一。
名称は三年坂に比べてやや小坂であることによる。
竹久夢二も住んだ。
付近は特別保存修景地区に指定。

● 二九

山科区の小山で行う大蛇の慰霊祭。
二月九日。
赤い口を開き橙を目にした藁づくりの大蛇を孟宗竹に巻きつけ、それを二九の雄松と呼ぶ大木までかついで奉納し、霊を慰めるとともに五穀豊穣を祈願する。
この大木には二月九日大蛇が山の神となって宿されるとされる。
鎌倉後期、牛尾観音に参詣する人々を襲った大蛇を四手井景綱が退治し、後難を恐れて祀ったのに始まるという。
大蛇をつくるのは毎年二人一組、親を亡くした戸主とされ、この大役を終えたあと、正式に一人前の世帯と認められる。

● 日本イタリア京都会館

左京区牛ノ宮町にある日伊文化経済交流を目的とする財団法人。
昭和四十七年五月、日伊両国政府の一部補助を得て設立。
会館誌「イタリアーナ」を年一回発行。
開館内にイタリア大使館所属のイタリア文化会館京都支部がある。

● 日本基督伝道会社

日本人の自主的なキリスト教伝道を進めるための協力組織。
明治十年同志社で開いた京阪神のキリスト教会の会合で沢山保羅(浪花教会牧師)が提案、京都の第一(今出川教会)・第二(新烏丸教会)・第三(竹屋町教会)の三公会代議員が概則を編成し、翌十一年一月、神戸・三田・兵庫・京都第一・同第二・同第三・大阪・浪花・多聞の九教会で結成。
社長に新島襄、委員には松山高吉・沢山保羅・今村謙吉が就任。
同志社神学生による各地への福音伝道、十九年の組合基督教会成立の母体となり、また組合基督教会の外国ミッションからの独立と自給に寄与した。
三十年まで事務所を京都に置いた。
大正元年組合基督教会伝道部と改称。

● 二本松藩邸

二本松藩は陸奥国安達郡に置かれた藩で、寛永四年(1627)松下氏が領知するが、翌年加藤氏が就封。
同二十年には丹羽氏が入部して以来、代々藩主をつとめる。
江戸中期には京屋敷を本阿弥辻子南側に構えたが、幕末には、松屋町通上長者町や日暮通中立売下ルに所在。

● 日本歴史資料館

鳴滝音戸山町にある武具中心のコレクションの展示館。
私立。
昭和五十三年九月開館。
縄文土器、戦国期の武具、第二次大戦の遺品など、各時代の歴史資料約二万五千点を展示。

● 尼門跡ことば

尼門跡で使用されてきた御所ことば。
江戸時代までは皇女が入寺した比丘尼御所、明治以後は公家の女が入寺した尼門跡(大聖寺・宝鏡寺・曇華院など)では、御所ことばによる生活を行ってきた。
「ゴゼン(御住職)、恐れ入りますが、オカチン(お餅)をアモジ(網)でオヒドリ(お焼き)アソバシテイタダカサレ」のように、一老が御前に申し上げる。
また「でアラシャイます」(でございます)、「済みマシャリます」(高い敬語)を使用。

● 女紅場

明治初期に設立された女子教育機関。
新英学校女紅場・遊女女紅場などがある。
明治五年まず新英学校女紅場が上京区土手町通丸太町下ルに開設され、のち英女学校女紅場を経て京都府女学校となり、さらに京都府立第一高等女学校に発展。
市中女紅場は明治六年から十年代にかけて各小学校に付設した女紅場は郡中女紅場という。
一方、明治六年には祇園・島原・北野上七軒などに婦女職工引立会社ができ、翌年女紅場と改称。
これらを総称して遊女女紅場と呼んだ。
いずれも明治期京都の勧業政策の一環として女性に養蚕・手芸・女札の女子教育機関として種々の学校に発展解消した。

● 人形劇団京芸

昭和三十五年劇団京都芸術劇場(略称京芸。昭和二十四年創立)から独立した人形劇団。
団員は三〜五班に分かれ、全国を巡演、それぞれ150〜250ステージの公演を行っている。
代表作品に「猫は生きている」「大工と鬼六」「サーカスの象花子ちゃん」など。
左京区岡崎に事務局、宇治市白川鍋倉山に稽古場がある。

● 人形司

京人形の着付師兼販売業者。
雛人形を扱う雛屋と娘物を扱う中子屋に分かれる。
京人形の生産は分業形態をとり、桐のひき粉で頭をつくり顔の彩色を行う頭師、その頭に絹糸を植え、櫛ですいて結び上げる髪付師、桐の木を削って手足をつくる手足師、持物・小道具をつくる小道具師などがあり、これらを組み立てて衣装を着付け、最終仕上げを行うのが着付師。
一般に着付師が問屋・小売業を兼ねる場合が多く、こうした業者を人形司と呼ぶ。

● 仁孝天皇

寛政十二〜弘化三(188〜46)第百二十代。
在位文化十四年(1817)〜弘化三年。
光格天皇の第四皇子。
母は東京極院藤原タダ(女+)子。
名は恵子。
御陵は東山区今熊野泉山町の後月輪陵。

● 仁和寺宮嘉彰親王

弘化三〜明治三十六(1846〜1903)伏見宮邦家親王の第八皇子。
元帥。
陸軍大将。
安政五年(1858)仁和寺に入り純仁法親王と称す。
慶応三年(1867)十二月還俗して嘉彰親王と改名。
議定・軍事総裁となり、明治元年一月四日征夷大将軍に任命され伏見の幕軍と戦った。
六月越後口総督に就任。
維新後は軍人として生活した。
明治三年二月東伏見宮、同十五年十二月小松宮彰仁と称した。

● 仁和寺八十八所

仁和寺の北、大内山の西方の成就山にある観音霊場。
文政十年(1827)仁和寺二十九世済仁法親王が、山内に四国八十八ヵ所を写し、一里半の間に仏堂を建て、本尊を安置して一巡できるようにした。
「御室八十八ヵ所」と呼ばれて庶民の間に信仰され、現在も巡拝者が多い。

● 仁明天皇

弘仁元〜嘉祥三(810〜50)第五十四代。
嵯峨天皇の第二皇子。
母は檀林皇后橘嘉智子。
深草帝とも呼ばれた。
名は正良。
天長十年(833)二十四歳で即位。
在位十八年。
その間に藤原氏台頭のきっかけとなる承和の変が起こった。
嘉祥三年清涼殿に没。
次の文徳天皇はこれを忌み、清涼殿を仁明天皇陵の傍らに移して嘉祥寺を営んだと伝える。
同陵は所在不明であったが、幕末に伏見区深草の東車塚に治定され、現在は深草陵と呼ばれる。

● 仁明陵北方古墳

伏見区深草瓦町にあった古墳時代前期の古墳。
稲荷山から派生する丘陵端に立地。
すでに古墳は消滅したが、埴輪列が確認され、伝世鏡と考えられる内行花紋鏡をはじめ碧玉製椀飾・銅鏃などが出土したと伝える。
稲荷山古墳群に系譜的につながる古墳で、深草一帯を基盤にする有力首長の墓と見られる。
 
 
 
 

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