■■■ 京都事典
■ 人名、地名、社寺などは除く

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● 舞妓

遊興の席で舞をつとめる少女。
延宝・天和年間(1673〜84)八坂神社社頭の茶屋の茶汲み女が歌舞伎芝居の芸をまね、八坂神社参拝の旦那衆にみせたのが起こりという。
また井原西鶴の「好色一代女」には、万治(1658〜61)頃に駿河国あべ川のほとりから出た座頭酒楽が京で風流の舞曲の芸を教えると、少女たちが習い始め、それが舞妓になったという。
年齢は滝沢馬琴の「羇旅漫録」に「十歳ばかりより十八九まで」とある。
現在祗園に代表される舞妓の姿は、われしのぶの髪に長い振袖、だらりの帯におこぼをはくが、これはかつての京都の商家の娘の風俗。

● 魔王杉

鞍馬山中にある大木。
魔王大僧正降臨の杉という。
夜、天狗が腰を掛けるので木の股が輝いていると伝え、天狗杉という。
南区西寺跡、守敏塚付近の乾達稲荷神社にも魔王杉があり、鞍馬の魔王大僧正が夜とまる木と伝える。
また天狗杉は山科区牛尾山法厳寺(牛尾観音)や八幡市円福寺にもある。

● 蒔絵師

漆工職人の一。
塗師が塗漆した漆器の上に、絵漆で文様を描き、絵漆が乾く前に金・銀・錫・顔料の粉を蒔き付けて仕上げる。
技法上、平蒔絵・高蒔絵・研出蒔絵に大別。
平安末期、すでに蒔絵師の称があり、名手として則末の名がみえる。
室町期には日本の蒔絵を学ぶため中国から工人が来日。
蒔絵意匠が特定の蒔絵師集団と結びついた様式となるのは室町中期以後。
幸阿弥蒔絵・五十嵐蒔絵などがあらわれ、江戸中期まで続く。
桃山期には蒔絵の需要が急増し、高台寺蒔絵様式が生まれ、江戸期に入ると光悦蒔絵がつくられて高級蒔絵を代表。
一方では町蒔絵師による普及品もあり、烏丸物と呼ばれた。
江戸期の蒔絵師としては山本春正・永田友治・塩見政誠らが有名。
なお「京羽二重」は蒔絵師と唐蒔絵師を分記する。
明治期に一時期衰えたが、現在京都市内で約50軒が蒔絵に従事(「京都市の経済」1980年版) 

● 蒔絵筆

漆工芸で蒔絵に使う筆。
古来京都特産品の一。
蒔絵は粘りが強いため、腰の強い長い毛を用いる。
穂先を筆軸から取り外し、好みの長さに調節できるのが特徴。
線描筆と地塗筆に大別。
富小路通仏光寺上ルの村九は江戸期創業の老舗。

● 槇島城

室町期、旧巨椋池の宇治川川口の三角州(現宇治市槇島町薗場付近)にあった城。
正確な位置・築造者は不明。
京都東南郊の重要拠点で、足利将軍家の奉公衆であった土豪槇島氏が本拠とした。
槇島氏没落後は細川氏が入城。天正元年(1573)足利義昭が当城で織田信長に敗れ、室町幕府滅亡の地となった。

● 槇島堤

宇治橋から伏見向島に至る宇治川左岸に構築された長大な堤防。
文禄三年(1594)伏見築城と城下町建設に着手した豊臣秀吉が、伏見城下への水陸交通の集中化を図って行った宇治川の河道変更と巨椋池の築堤工事にともなって築かれた。
この結果、それまで宇治橋下流でほぼ三分流して巨椋池に注いでいた宇治川のうち、最も北の河道が岡屋付近から伏見へまわされ、巨椋池と分離、かつて岡屋津・宇治津がもった水上交通の要地としての機能は伏見に移り、宇治川は一本化してほぼ現在ののような流路となった。

● 魔鏡

太陽光線を当て、その反射光を白壁などに投影すると、鏡背面に鋳出した仏像や文字など肉厚部の文様を写し出す鋳銅鏡。
肉眼では鍍金した正面に作為がみられない。
江戸中期から宗教的な目的に用いられた。
原理不明のまま明治期に製造技術が途絶し、近年京都の鏡師が復活。

Link:山本合金製作所

   高橋一夫
双名島魔鏡製作所(新居浜市北内町3丁目3-26)
魔鏡づくりに本格的に魅せられ、京都の魔鏡師に師事、その間技能の研鍍に努めて精励し、卓越した技能を有し、日本で二人目の魔鏡師として高く評価をされています。

● 真葛原

東山西麓の知恩院から円山公園を経て双林寺に至る台地一帯。
名称は往時真葛が生い茂る原野であったことに由来するという。
古歌に詠まれ、謡曲「隅田川」にもうたわれる。
付近は風致地区・歴史的風土特別保存地域に指定されている。

● 真黒石

堆積岩が花崗岩により熱変成作用をうけ、ホルンフェルスと呼ぶ緻密な岩石となる。
真黒石はホルフェンスの一種で、多くは粘板岩の変成した黒色の岩石で、水石として珍重される。
八瀬・大原間を流れる高野川の八瀬真黒石が有名。

● 枕草子

平安中期の随筆。
作者は清少納言。
「清少納言枕草子」「清少納言記」ともいう。
正暦四年〜長保二年(993〜1000)頃の成立。
一条天皇の皇后定子に仕えた宮中生活を中心に、物はづけ的な段、名所を語る段、自然鑑賞・随想・日記的な段などといった内容、約300余段からなり、当時の京都における貴族の生活、四季の行事、風物などがうかがえる。

● 将門岩

比叡山の四明ケ岳山頂にある巨岩。
承平四年(934)八月、平将門と藤原純友が比叡山の登り、京都盆地を眺めながら京都占領を相談したとする伝承がある。
実際には将門と純友じゃ面識はなく、この地が近江・山城を一望できることによる後世の付合。

● 枡床席

大徳寺塔頭聚光院にある茶室。
閑隠席の東に水屋を隔ててある。
水屋が文化七年(1810)の造立なので、本席もその頃建ったとみられる。
内部は四畳半向切。
西に表千家六世覚々斎好みと伝える半畳の枡床を設ける。
席名はこの床にちなむ。
一畳の点前座、北側はやや低めの腰障子をたてて貴人口とする。
点前座を床脇に設けるため、床脇の下方を吹き抜けにして無目を入れた床柱は中柱を思わせて、千家流では特に好まれた。
重要文化財。

● 跨げ石

祭り石の一。
右京区梅津フケノ川町の梅宮大社本殿東側にある二個の丸い小石。
婦人が跨げば妊娠するという子授け信仰がある。

● 魔多羅神

元来はインドの神。
仏教化し天台宗で守護神としての信仰を集めた。
京都では太秦広隆寺の牛祭りの祭神で、源信が勧請したと伝える。
当日はこの神に紛争した人が参加し、祭事を行う。

● 町鑑

地誌の一。
洛中各町の町並みを列挙して解説し、挿絵を入れた諸町の案内書の総称。
江戸記に編纂され盛んに出版。
寛文五年(1665)刊の「京雀」に始まり、数種の刊本がある。
「京雀」は「江戸雀」「難波雀」とともに「三雀」と称し、三都の案内書の一つとして知られる。
以後、「京都跡追」「京羽二重」「京羽二重織留」と続く。
宝暦十二年(1762)に最も充実した内容をもつ京都の町鑑「京町鑑」が刊行。

● 町衆

「ちょうしゅう」ともいう。
室町後期に勃興し、江戸初期まで活躍した商工業者を中心とする都市民。
京都に顕著にみられるが、奈良・堺・博多・大坂などの大都市においてもみられた。
この用語は第二次大戦後まもなく市民的自治成立の把握の中で提唱された歴史概念で、京戸-京童-町衆-町人という市民形成の一段階として位置づけられ、地域的なまとまりをもって生活する集団として定義された。
従ってこの地域的な集団性の中から都市自治が生まれ、さらに新しい文化の担い手として考えられた。
町衆の活動は十六世紀後半から十七世紀中期にかけてがその高揚期であったが、江戸幕府の成立による封建的秩序の成立の中で、徐々にその活動も制約され、延宝から元禄期にかけて(1673〜1704)、新しい「町人」にその地位を譲った。

● 町並み保存

京都市は昭和四十七年産寧坂地区を条例で特別保全修景地区に指定し、町並み保存を始めた。
計画的な復原・整備ではなく、住民からの増改築や新築の申請を待って指導・助成する方法をとる。
町並みを構成する建物の外観を分析し、いくつかの伝統的様式を設定、現代的な生活機能を満足させながら修景する方式で、一般工法との差額を補助する。
昭和五十年の文化財保護法の改正にあたって重要伝統的建造物群保存地区が定められ、京都では産寧坂・祗園新橋・嵯峨鳥居本の三地区。
外壁保存に関しては近代洋風建築、たとえば三条通の中京郵便局の外観保存に採用。

● 町の火消

近世、町役人の指揮の下に町家の消火にあたった火消人。
京都の火消し制度は、数度の大火を経験した後、京都常火消など元禄期(1688〜1704)以降徐々に整備された。
各町々では消火器を常設し、火元の町の二、三町四方から各町三、四名の人足を出し消火にあたることを慣習としたが、享保七年(1722)京都常火消の廃止とともに町方が火消人足とその役料を負担するようになった。

● 町版

江戸初期、天皇家・幕府・大寺院で行った出版に対し、市人の出版をいう。
寛永元年(1624)に起こり、「保元・平治物語」を四条の権十郎が、「医方大成論」を二条城前の忠兵衛が、「元亨釈書」を小嶋家富が出版。
のちこれが発展して、出版を専門とする近世の本屋が出現する。

● 町触

京都町奉行所が京都市中の町々に出した法令・伝達事項などの総称。
京都町奉行所が作成したものと、江戸からの触状を京都市中へ伝達するもの(江戸触)がある。
両者とも京都町奉行所から町代(農村部は雑色)を通じて各町へ伝達され、町ではその写しを触留という帳面に書きとって保存した。
市民が周知すべきことは迷子の案内などに至るまで取り扱われ、近世京都の行政研究に欠かせない史料。

● 町家

京普請・京間・京畳などの言葉を生んだ京の町家は、質量ともに日本の都市住宅史の頂点に位置する。
絵巻物に平安末期の町家の姿を、洛中洛外図に室町末期の京の町家、町並みがうかがえる。
その形態は切妻造平人、石置板葺屋根、平屋建、部屋は二室程度であった。
中世末・近世初頭には二階建ても出現し、元禄期(1688〜1704)には今日の町家の原形がほぼ完成したと考えられる。
町家は一様に表通りに面し、間口が狭く、奥行きの深いのが特徴で、俗に「鰻の寝床」と呼ばれる。
この細長い敷地の中に、隣家と軒を接して母屋が建ち、裏庭には離座敷・湯殿・雪隠が、さらに奥には土蔵を配す。
各戸の土蔵が裏庭で軒を連ねると、一種の防火帯が形成され、隣接する町内への延焼を防ぐ役割も果たした。
町家の間取りは土間と居間からなる。
土間は入口に面したミセニワと、中戸を隔てた奥のハシリニワに分かれ、後者には側壁に接して、カマド・井戸・ハシリ(流し)・庭戸棚などを一列に配す。
土間はトオリニワともいい、表から裏へ通り抜ける交通機能をあわせもつ。
居間部分は土間に沿って表からミセノマ(店)・ダイドコロ(台所)・オク(座敷)の三室を一列に配するものが標準型。
ミセノマとダイドコロの間にゲンカンを設けたり、また間口が四間から五間以上の場合は、居間を二列に配したものもある。
表の店を別棟にして独立させ、内玄関を介して奥の母屋と接続する「おもて造」は京町家でも最高級のものとされる。
内玄関の前後には坪庭がつくられ、構成の妙を発揮する。
外観は、表通りに面した揚げ見世・出格子・通り庇・虫籠窓などの表構えに意匠を凝らす。
揚げ見世は上半分は蔀戸に、下半分は床几になって商品を並べる台になり、両方を閉じると戸締りができた。
この床几は俗にバッタリ床几とも呼ぶ。
江戸前期の町家は平屋か中二階建のものが多く、階上はツシと呼び物置や使用人の居室に用いた。
のち二階部分が発達し、最初は裏に座敷が設けられ、やがて総二階建てに代わった。
屋根も初期には板葺きや柿葺きが多く、しばしば火災にみまわれたが、桟瓦の発明とともに江戸中期以降は瓦屋根が普及した。

● 松明上げ

盆の精霊送りと火災予防・五穀豊穣を祈願する火祭り。
花脊では八月十五日、雲ケ畑・広河原では二十四日に行う。
火神迦遇槌神を祀る愛宕神社への聖火奉納に由来すると伝える。
花脊では原地町と八桝町が合同で行う。
午後九時、大堰川の河原にさした1000本余の松明に点火。
古老の掛け声を合図に、先端に竹の大笠を取り付けて直立させた高さ二十メートル余の桧丸太(灯籠木と呼ぶ)めがけて小松明を投げ上げ、笠の中の杉葉に点火する。
大笠が燃えつきると灯籠木を倒し、伊勢音頭を歌いながら春日神社へ参詣する。
雲ケ畑の出谷町・中畑町では、雲ケ畑のの愛宕さんと呼ばれる二つの山に100束余の松割り木で文字の形を櫓に組んで燃やす。
字の形は毎年異なり、点火直前まで知らさないのがしきたりという。

● 松江藩邸

松江藩は出雲国島根郡に置かれた藩で、江戸初期、藩主京極氏の時には室町通綾小路上ル鶏鉾町に京極屋敷を設置。
寛永十五年(1638)以後、松平氏が代々藩主をつとめ、京屋敷は江戸中期には新町通出水上ルに、幕末には西洞院通二条上ルに所在。

● 松尾祭

松尾大社の例祭。
四月二十日以後最初の日曜日に神幸祭、それより三週間後の日曜日に還幸祭を行う。
古くは松尾の国祭と称し、三月中卯の日に神幸祭、四月上酉の日に還幸祭を行った。
神幸祭は六基の神輿に分霊奉安の神事後、拝殿まわしを行い、桂離宮付近の桂川堤で輿を止め、祭典を営み、西京極郡・西京極川勝寺・西七条御旅所に分かれて神幸。
還幸祭では、神輿が町内を巡幸、旭ノ社で粽講・赤飯座の当屋が粽・赤飯の神輿を供え、のち本社に還幸。
出御還御のどちらにも榊御面という先導があり、日本の榊御面を中門付近で互いに打ちつけ、面合わせをする。
還幸祭には本社の社殿と神輿を葵と桂で飾り、宮司以下神職も冠に葵と桂を付けるので、松尾の葵祭りともいう。
なお、神幸祭には七条通の桂大橋上流付近で舟渡御(川渡り)を行う。

● 松尾山

嵐山松尾大社背後の山。
標高約223メートル。
松尾大社の神域境内。
七つの谷に分かれ、大杉谷には霊亀の滝がかかり、醸造家が酒水に混ぜる風習のある亀井が湧出する。
山麓には松尾大社のほかに西芳寺(苔寺)・華厳寺(鈴虫寺)などがある。

● 松尾山古墳群

松尾谷松尾町・嵐山宮町にかかる松尾山丘陵の標高160メートル付近に点在する古墳時代後期の五基の円墳。
すべて横穴式石室を内部主体とする。
石室の一部が露出し、封土の流出したものが多い。
松尾大社の西方にも古墳群があるが、同一のグループに属すると思われ、松尾地域における後期古墳群の一支群を形成する。

● 松風

小麦粉に味噌と砂糖を加えて焼いた菓子。
表は砂糖汁を塗り、ケシの粒や胡麻を散らして焦目もつくが、裏は模様がなく「浦淋し」から松風と名付けたという。
もとは禅寺の点心で牛皮(求肥)に対して犬皮と呼んだ。
紫野味噌松風は烏丸光広の命名と伝え、菓子司の松屋常盤は山城大掾を名乗り内侍所御神供、朝廷や大徳寺の御用をつとめた。
六条松風は後水尾天皇の命名と伝え、菓子司亀屋陸奥は陸奥大掾を名乗って西本願寺の御用をつとめる。
松屋藤兵衛は、大徳寺納豆を散らした松風をつくる。

● 松代藩邸

松代藩は信濃国埴科郡に置かれた藩で、藩主は外様大名真田氏。
京屋敷は、幕末期には洛東六波羅裏に構えた。
呉服所は、江戸中期より伊勢屋。

● 松茸

壮齢の赤松の根に共生する茸。
古来その芳香により茸中最も賞味される。
贈答の記録は鎌倉前期北条泰時の書状に初見。
各地に産するが、山城の産が優れたことが諸書に記載され、京都の代表的特産。
傘が白く、厚く、堅いのが良品で、中でも稲荷山・粟田・龍安寺山・嵯峨の産を最優とし、上賀茂・松尾・山科の産がこれにつぐ。
雑菌を嫌い、有機質の乏しいやせた土壌の赤松林に繁殖。
初夏に出るサマツは香味ともに中秋の産に及ばない。
別字松蕈。

● 松の葉

歌謡集。
秀松軒編。
五巻。
元禄十六年(1703)刊。
室町末期から江戸初期に至る上方・江戸の三味線歌を収録。
巻一組歌。、巻二長唄、巻三端唄、巻四吾妻浄瑠璃、巻五投節を収める。
「東山八景」(巻二)は瀟湘八景に擬して歌う。
詞は「見渡せば、東山の春の景色や、祗園ばやしに吹く嵐は、山市の晴嵐と疑われ、河原おもての真砂の色は、江天の暮雪もかくやらん」。
また「京では一条柳屋が娘、四割帯をたすきに掛けて、いかにも腰が、しなやかなーー」など、当時の風俗を伝える歌詞が多い。

● 松の名所

善峰寺の遊竜松はヒメコマツの名木。
直立幹は傘形仕立てて小さいが、水平幹が西へ二十五・六メートル、北へ二十四メートルと波状に長く伸び(現在、片方の幹は短くなっている)、奇観を呈する。
昭和七年四月国の天然記念物に指定された。
金閣寺(鹿苑)境内の坪庭にある。
「陸舟の松」と呼ぶゴヨウマツは、地上〇・五メートルのところで直立幹と水平幹に分かれ、見事な舟形を形成する名松。
大原の宝泉院前庭にあるゴヨウマルは地上〇・五メートルの幹周が三・五五メートル、樹高一〇メートル。
幹冠がほぼ扇形をした優美な老松である。
桃山町にある大善寺の「臥竜の松」はクロマツの古木で、胸高幹周が二・二メートル、樹高七メートル。
三支幹に分かれ、樹冠が水平状傘形をしている。

● 松葉むしり

正月習俗の一。
一月七日、門松のある家で子供たちに松葉をむしらせた行事。
その松葉で鶴や亀などをつくり、祝いの菓子などをうけたともいう。
門松は京都では江戸期に入ってから一般に普及した。
松葉むしりは季語ともなり、明治・大正期の京都の俳人中川四明に「七日から松葉むしりのあそびかな」の句がある。

● 松原不動

松原通麩屋町東入ル石不動之町にある真言宗東寺派、青蓮山北向不動寺の俗称。
妙王院と称す。
本尊は空海作という石仏不動明王。
江戸期には石不動と呼ばれ、名不動の一。
寺伝では道観が法相宗の寺として創建。
平安遷都の時、王城鎮護のため経巻を石蔵に納めた四岩倉の一つ南岩倉ともいう。
天暦年間(947〜57)洪水のため流出したが苔莚が再興、応仁の乱で再び荒廃。
天正十四年(1586)聚楽第造営の時、本尊が持ち去られたが、霊光を発する奇瑞があり、再び現地に返されたと伝える。

● 松虫・鈴虫

ともに生没年不詳。
平安末・鎌倉初期の人。
後鳥羽上皇の女御。
法然の弟子住蓮房・安楽房の説教に感化され、宮中を密かに逃れて二人のもとで出家。
これが原因で住蓮房と安楽房刑死となり、その累が及んで法然は土佐に遠流、いわゆる承元の法難の因となった。
鹿ケ谷の住蓮山安楽寺に松虫・鈴虫の供養塔があり、恋塚として有名。

● 松屋常盤

京菓子の老舗。
堺町通丸太町下ル西側にある。
創業は承応年間(1652〜55)と伝える。
貞亨二年(1685)刊「京羽二重」に、「諸職名匠」として、虎屋とともに「松屋山城(掾)」の名がみえる。
「味噌松風」は京名物の一。

● 万里小路家

公家。
藤原北家勧修寺流。
鎌倉期の参議吉田資経の四男資通を祖とする。
子の宣房、その次男秀房は後醍醐天皇を補佐して建武中興に尽力。
秀房の二代のち嗣房が住いにちなみ万里小路と称した。
室町期以降、大舎人座の本所。
江戸期の家禄は三九〇石余。
政房は尊号一件の時の武家伝奏で免職。
正房は幕末期、日米条約勅許・将軍継嗣問題のころ議奏・伝奏をつとめる。
明治に至り伯爵。

  爵位 - 旧華族制度で、公・侯・伯・子・男の爵の階級  Link : ヨーロッパと日本の君主称号及び貴族爵位

● マネキン

主に流行の服を着せて店頭ディスプレイなどに用いる人形。
第二次大戦前は今日いうファッションモデルに近いマネキンガールの略称としても通用。
発祥地はフランス。
大正十一年頃、丸物百貨店(当時は物産館)がフランス製マネキンを使用し、修理を島津製作所に依頼したことから、同製作所が国産化に進出。
昭和五年頃、丸物に子供マネキン、帽子マネキン数体を販売したのが国産マネキンの始まり。
現在市内に、吉忠マネキン・七彩工芸・ヤマトマネキンなどのメーカーがある。

● 豆区役所

元学区ごとに設置された区役所出張所俗称。
第二次大戦後、町内会の廃止により、それまで町内会および同連合会が行っていた戸籍・配給などの行政事務が区役所に移管されたのにともない設置。
昭和二十二年六月三十日から市政協力委員制度の発足を前にした同二十七年十月三十一日まで存在。

● 丸岡藩邸

丸岡藩は越前国坂井郡に置かれた藩で、藩主は外様大名本多氏。
京屋敷は、江戸中期には堺町通四条下ルにあったが、その後は不明。
呉服所は俵屋八右衛門。

● 丸亀藩邸

丸亀藩は讃岐国豊田郡に置かれた藩で、藩主は万治元年(1658)より、代々外様大名京極氏。
京屋敷は、江戸中期に河原町通三条上ルに構えたが幕末には烏丸丸太町西に移る。
呉服所は鍵屋清兵衛。

● 丸物

烏丸通七条下ル西側にあった百貨店。
前身は大正九年呉服商中林捨次郎が京都駅前に創業した京都物産館。
名産品を主とした百貨陳列販売を行った。
同十五年鉄筋コンクリート六階建てに改装して物産館と通称。
昭和四年百貨店協会に加盟。
ついで豊橋・岐阜に支店を設置。
同十一年には、八階建てに大改装。
第二次大戦後は大垣・舞鶴・東京・北九州(八幡)にも支店を開設。
同三十七年マックストアの名称でスーパー部門にも進出したが、所期の成果を得るに至らず撤退。
東京進出の結果も思わしくなく、四十一年新宿丸物、四十三年東京丸物も閉鎖した。
五十二年近鉄百貨店と合併し、名称は消滅。
現在、プラッツ近鉄として営業。

● 円山音楽堂

円山公園内にある野外ホール。
京都市文化観光局所管。
市民の情操向上、音楽趣味の涵養を目的とし、市民の寄付金をもとに昭和二年十一月竣工。
以後、舞台や観客席を拡張し、現在、ステージ約170平方メートル、観客席には3600名を収容。
音楽会のほか集会などに利用される。

● 円山公園

東山区円山町・祇園町・鷲尾町にまたがる公園。
面積八万六六四一平方メートル。
明治六年一月、政府は太政官布告を出し各地方に公園を設けるように命じ、京都では同十九年、維新後の神仏分離によって取り壊された祗園感神院の坊舎の跡地、丸山一帯の社寺境内地(祗園の三院三坊の寺領)安養寺六坊の地などを公園地に指定。
円山安養寺にちなんで円山公園と命名。
同二十二年京都市政施行とともに市へ移管、大拡張整備・改修を行い、大正三年に完成した。
昭和三年に野外音楽堂を建設、同六年には文化財保護法による名勝地となり、四十二年古都保存法特別保存地区に指定。

● 円山派

円山応挙に始まる江戸後期の京都の画系。
上田秋成は応挙の「写生といふ事のはやり出て京中の絵が皆、一手になつた事じゃ」と述べているが、その画風は京都画壇を風靡し、門人1000名といわれるほどとなった。
高弟に源g(駒井g)・長沢蘆雪・森徹山・吉村孝敬ら応門十哲があり、四条派と京都画壇を二分する大流派を形成した。
源g・山口素絢は美人画で知られ、蘆雪は新鮮な画風を見せたが、多くの門人は師法に従うのみで、のち画段に対する影響力は薄らいだ。
応挙に学んだ呉春は洒脱な画風でやがて四条派を結成、森徹山は養父森狙仙と応挙の画風をあわせ円山派の中に森派を形成し、その門から森寛斎・山元春挙ら明治の画家が出、渡辺南岳の画系には大西椿年・鈴木百年があり、その門から今尾景年・木島桜谷・鈴木松年・上村松園らが出た。

● 万亀楼

京料理の老舗。
猪熊通出水上ルにある。
元禄(1688〜1704)頃、酒屋万屋と称し、天明(1781〜89)以後に料理屋となり、当主の万屋亀七の通称にちなみ現称に改めたと伝える。
幕末期には、多くの志士がここに遊んだ。
明治中期頃、有職生間(いかま)流の二十七代生間正起より式包丁を伝授され、作法・伝書・道具をうける。

● マンスフェルト

1832〜1912(天保3〜大正元) 
オランダ人医師。
アムステルダム郊外で生まれ、海軍軍医となる。慶応二年(1866)来日、長崎でわが国最初の皮下注射を行う。
明治九年、ヨンケルの後任として京都療病院教師となり、療病院の教育制度の近代化につとめた。
しかし、往診拒否事件、オランダ語による授業などで摩擦を生じ、契約のなかばの翌十年大阪府立病院に移り、同十二年帰国。
同二十年勲四等旭日章をうけた。
フラウェンバーグで没。

● 曼荼羅山

嵯峨鳥居本北方の山。
標高約278メートル。
曼荼羅山・仙翁寺山ともいう。
山名は盂蘭盆に精霊送りとして鳥居形の送り火を点火し、万灯供養を行うことに由来。
現在、南東麓に火座がある。
山麓に応神天皇を祭神とする鳥居本八幡社、愛宕街道の南には化野念仏寺があり、嵐山・高雄パークウェイが北側を走る。

● 万灯会

盆の精霊迎えとして行う万灯供養。
六波羅蜜寺では八月七日〜十日。
応和三年(963)空也が一堂を創建した際に、600名余の高僧を請じて厳修したのが始まりと伝える。
七日は関白法要、八日から三日間を徹して献灯法。
献灯方法は、土器坏の縁に出た芯端五ヵ所に火を点じる。
大の字形の木製燭台にも土器坏を並べて点火する。
大の字は密教の五大(地・水・火・風・空)の思想に基づく。
東大谷本廟でも八月十四日から十六日まで境内全域に万灯を献じ供養する。

● 万灯流し

嵐山の桂川(大堰川)で精霊送りとして行う灯籠流し。
八月十六日夜、渡月橋東詰、臨川寺の前の川べりで川施餓鬼法要後、読経の中、供養名を記した灯籠を流し、先祖の霊を送る。
第二次大戦後、嵯峨仏徒連盟が戦没者の霊を慰めるために始めたもので、以後恒例行事となった。
遍照寺でも鳥居形の送り火に合わせて広沢池に灯籠を浮かべる。

● 政所

平安期は権門勢家の家政事務機関。
源頼朝は右近大将となるや建久二年(1191)政所を設置し、庶務一般を政所の管轄とした。
初代別当(長官)は大江広元。
室町幕府も政所を置き、幕府御料所の管理をはじめ幕府財政を管掌させた。
長官は執事と呼ばれ、初め二階堂氏、のちには伊勢氏が世襲。
政所代は蜷川氏が世襲した。
 
 
 


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