■■■ 京都事典
■ 人名、地名、社寺などは除く

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● 外人教師

明治初年、京都の近代化と勧業のため府は外人教師を雇用し、独逸学校のレーマン、英学校のボールドウィン、仏学校のジュリー夫妻、新英学校女紅場のイーヴァンス夫妻、京都療病院のヨンケル、舎密局のワグネルをはじめ、民間でも同志社英学校のデイヴィスなどがいが、任期が短くよく交替した。
明治後期、学校制度が整ってくると語学教師として外人教師を採用するようになり、同四十五年の統計では二十二名。
多くはアメリカ人で、語学以外の教育にも従事した。
内訳は同志社に六名、英語教師として府立第一〜第五中学に各一名、私立第一商業二名、第二商業一名など。
ほかに医専のドイツ人一名、女子和装技芸学校のフランス人三名などがいた。
第二次大戦後、キリスト系の学校、外国語学校の設立により、大学を中心に外国人教師が多国籍にわたり増加。

● 鶏冠出遺跡

向日市鶏冠出にある弥生時代前期から中期初頭にかけての集落遺跡。
多量の土器片・石槍などが出土したが、遺構は検出されなかった。

● 皆如庵

西行庵にある茶室。
安土桃山期、宇喜田秀家の女が久我家に嫁した際、持参して同家に移築、明治二十七年さらに西行庵へ移したという。
夕刻の茶会などで、板床の正面にあけられた円窓に水屋の灯火が映り、風情をかもし出すので夜咄の席とも呼ぶ。

● 回峰行

比叡山延暦寺の行。
平安前期、相応が始めた。
現在の方法は、無動寺を本拠として七年間に計1000日、毎日比叡山内の定められた堂塔伽藍・山王七社・霊水霊石など数十ヵ所で修法して歩く。
七年目には京都市中まで足をのばし、一日の歩行距離は約八十四キロにも及ぶ。
なお、延暦寺の修行としてはほかに十二年籠山が知られる。
最澄の山家学生式の精神にのっとり、その廟所である浄土院で十二年間修行を続けるもので、俗に無動寺の回峰地獄、浄土院の掃除地獄という。

● 海北派

海北友松を始祖とする江戸期の画派。
京都画壇の一名門。
友松のあと、友雪-友竹-友泉-忠馬-友三-友徳-友憔と続いたが、友松・友雪の後はあまりみるべき作品がない。
友雪の長男で出家した専誉伝故に金戒光明寺の阿弥陀堂天井龍図があり、同じく友雪の門人友賢に真正極楽寺(真如堂)の涅槃図がある。
なお、友雪に清水寺の大絵馬があるが、以後海北派の絵師で絵馬に筆をとる者が多い。

● 回遊式庭園

庭園様式の一。
築山林泉式の大庭園で、庭園の中に大池があり、築山が造られ、庭内の要所に建物や施設物が配置され、それらを苑路で結び、回遊しながら庭景を鑑賞する形式の庭園をいう。
中世から発達したもので、桂離宮・修学院離宮の庭園、渉成園などはその代表的なもの。

● 代衣装

祇園花街の芸舞妓の略礼装。
舞妓や芸妓は正月の紋日(三が日・七日・十五日)には本衣装(五つ紋の黒紋付)に稲穂の簪の正装で、芸事の師匠やお茶屋へ挨拶にまわり、女紅場の始業式に臨む。
紋日以外の松の内は、代衣装(三つ紋の色紋付)の略装をする。
また祇園祭の期間中も代衣装を着、子方屋ごとに揃えた花簪を挿す。

● 顔見世

南座で十二月一日から二十六日まで行う歌舞伎興行。
江戸期、芝居狂言の役者や座付作者は十一月から翌年十月までの一年契約であったため、十一月初めに新しい役者が顔を揃え舞台で名乗り口上を述べるのを顔見世あるいは面見世と称したのに始まる。
当時は京・大坂・江戸三都とも行い、京都では阿国歌舞伎を模した天冠舞(延宝年間に廃絶)や踊歌があり、また大坂同様、手打連と呼ぶ後援会が連中場に陣どり手打ちを行った。
花街では「祇園町は特に観之誉とし興行十日の間、虚日なく観之を其芸妓の名誉とする」(「守貞漫稿」)といい、またこの時期、芝居茶屋では蠣雑炊や鯛かぶを供し、これを食しながら見物するのが恒例だった。
一年契約の制は寛保(1741〜44)頃から崩れ、今日の興行形態となり、名称のみのこったが、京都では平日興行に比べて顔見世の人気が高く、花街の総見は現在も行われる。
十一月二十三日頃南座正面に上る勘亭流独特の文字のまねき看板は京の師走の到来を告げる。

● 家学

広義には特定の家に伝わる学芸一般をさすが、公家に限ることが多い。
和歌の冷泉家、蹴鞠の飛鳥井家、装束の高倉家、陰陽道の土御門家、儒学の清原(舟橋)家、製薬の山科家などがそれである。
儒学の清原家の例は律令制下の大学寮における職掌が世襲化したものだが、公家一般の教養であったものが特定の家に厳格な相伝として伝わった例が多い。
これらは王朝文化の原型の保存という目的から家学化したとみられるが、中世にはその教授が公家の主要な収入源となり、近世になると、一種の家元として、諸学芸に志す人々を京都に引きつける原動力ともなった。

● 雅楽

宮廷の正式の楽舞。
日本固有の歌舞もあるが、中心は中国・朝鮮・インドなどからの渡来楽舞。
大宝元年(701)宮中に雅楽寮を設置、宮廷・社寺の式楽となる。
平安期に国風化したが、中性に入って次第に衰退、特に応仁の乱で楽人が離散し、楽曲も散逸。
江戸期に朝廷・幕府が復興につとめ、禁裏、奈良春日大社・興福寺、大坂四天王寺の三方楽所の主な楽人を集め、京都・江戸に分けて伝習させた。
京都の楽人は楽奉行四辻家の支配下に五十一名。(京方・南都方・天王寺方各十七名)
明治維新後、両者を統合、宮内省式部職雅楽部(現宮内庁楽舞)となる。
第二次大戦後は神職以外の一般人にも愛好者が増え、京都には平安雅楽会・京都楽舞会・京都古楽保存会などがある。

● 加賀藩邸

加賀藩は加賀・能登・越中の三国にまたがる藩で、藩祖の前田利家以降代々前田氏が伝え、前田藩ともいう。
京屋敷は寛永期(1624〜44)一条通烏丸西入北側に所在。
その後、御池通河原町東の高瀬川筋に広壮な邸を営み、幕末にはさらに鴨川東、仁王門通の地にも屋敷を設ける。
鴨東の跡地は近代京都の文化ゾーンともいうべき岡崎公園の一面となる。

● 鏡池

名水の一。

1. 山科の鏡池
御陵別所町、鏡山の麓にあったが、現在は埋没。
天智天皇が姿を映したという。

2. 岡崎の鏡池
岡崎東天王町、岡崎別院内にあった。
親鸞が北越に流される時、この水に姿を映したと伝え、親鸞姿見の池ともいう。

3. 東山の鏡水
清閑寺霊山町、正法寺の本堂前。

4. 鏡の井
吉祥院政所町、吉祥院天満宮境内弁才天社の前にあった。
石原井、道真姿見の井戸ともいう。

5. 御影堂の鏡の水
五条通寺町西入南側にあった。

6. 六波羅蜜寺の鏡池
轆轤町、六波羅蜜寺にあった。。
空也がその姿を映し、肖像を自刻したと伝える。

7. 実相寺の鏡池
上鳥羽鍋ケ淵町、実相寺にある。

● 鏡石

名石の一。
有名なものだけを書く

1 貴船神社境内の本社西方の山林内にある、
貴船大神が従者とともに天降った時、従者の子孫の一人が多弁なため大神の怒りをかい大和へ追放されたが、のち許されて帰参した時、きまりが悪くて石の側にかがんだので鏡石と称したという。

2. 鏡石町にある
金閣寺から鷹峯千束に至る途中の道に突出。
鏡のように光ったという。
紀貫之の歌「うば玉の我が黒髪やかはるらん鏡の影にふれる白雪」は、この石を詠んだものとされる。

3. 一条通松屋町西入鏡町にあったという。

4. 大原野南春日町、勝持寺の不動堂前にある。
西行が剃髪に用いたと伝える。

5. 大原古知谷。
屏風石ともいう。

6. 嵐山元禄山町、櫟谷神社にあったと伝える。

● 鏡師

青銅・白銅を鋳造し、和鏡をつくる職人。
鏡の製造は京都でも平安遷都後始まったと考えられるが、銘がのこるものは少なく、天正十六年(1588)頃寺町一条に住んだ天下一青家次が著名。
青家は明治まで禁裏御用鏡司として続いた。
「京雀」は新町二条下る中島和泉などの鏡師をあげる。
金属鏡は、鋳造後鏡面を平らに削って磨き、その後鍍金するが、これは鏡磨きとして専業が成立。
鏡は自然に曇りが生じるため、天文(1532〜55)頃には春の彼岸に鏡を磨く習わしがあった。
明治以後ガラス鏡の普及で和鏡は衰退し、現在全国でただ一軒、京都の山本家が御神鏡師としてその製造・磨きの技術を伝える。

● 鏡開き

一月十一日に神棚その他から鏡餅(飾餅)を下げて食する祝儀。
古くは四日あるいは二十日に行い、江戸期の「小西家歳中用事」に「四日、御鏡開キ。年男、庚申様あられ、其外、かき餅ハヤシ。昼、壬生菜の清し雑煮致し候事」とある。
京都では「切る」を正月中の忌詞とし、大きく切ることを開く、小さく切るのを囃すという。
鏡割りの「割る」も忌詞。

● 鏡山古墳

西京区大原野上里北ノ町、洛西ニュータウン南端近くの標高七十メートルの丘陵上にある五世紀前半代の古墳。
桂川流域を生産基盤に重要な役割を果たした有力首長の墓とみられる。

● 篝屋

鎌倉期、京都市中を警備するために設けた武士の宿衛施設。
最初の設置は暦仁元年(1238)。
その数年前にはすでに夜盗・群盗を取り締まる警備小屋的なものがあり、それが発展したものとみられる。
五間・三間の幕を引きまわした篝屋では夜中火を焚き、六波羅探題の指揮で在京武士が詰め、急を知らせるための太鼓も置いたという。
「太平記」によれば、四十八カ所に設置され、多くは平安京の大路と大路の交差する場所。
その範囲は、南北は一条から九条まで、東西は東京極と大宮の間にほぼ限られた。
のちには鎌倉にも置かれた。

● かき餅

のし餅や鏡餅などを薄く切って乾燥した餅。
名称は切餅の語を忌んで付けたという。
江戸初期の「雍州府志」には円山 安養寺・双林寺・正法寺の僧が、冬に餅をつくり、半乾きの時、三寸ほどに切って陰干とし、遠火であぶって壺に納めたと伝える。
安養寺のものは円山かき餅といい、遠方にまで送ったという、
また宇治辻の坊の名産の柿餅は、柿の実をすりつぶし、糯米の粉と粳米の粉を練り合わせて蒸し、短冊形に切った餅菓子。

● 学習院

公家の子弟のために設けられた公的教育機関。
天保十三年(1842)幕議により解説を決定し、弘化四年(1847)御所日之御門(建春門)外に開設。
初めは学習所と称し、講義は儒学を中心に、のちには和学も加味した。
幕末には勤王派の志士や公家の活動拠点となり、学習院出仕という称を与えられ御所へ出入りした。
明治元年に漢学所に改組したが同三年廃止、のち東京で華族子弟の学校にその名称が継承された。

● 隔メイ記 メイ=クサカンムリに冥

鹿苑寺(金閣寺)の住持鳳林承章の日記。
記載は寛永十二年〜寛文八年(1635〜68)の三十四年間。
承章が慶長十三年(1608)より住持をつとめた相国寺鹿苑院の記事が多い。
彼自身が勧修寺家の出であること、後水尾院の知遇を得たことなどから、公家を中心とした寛永期(1624〜44)の文化サロンを知る上での重要資料。
御室焼きを中心とした初期京焼の基本資料としても著名。

● 学問所

本来は書室を意味し、特に武家の邸宅で書室を学問所と呼んだ。
慶長二年(1597)豊臣秀吉は伏見城に学問所を設けたが、「太閤記」や西笑承兌の「学問所記」によれば、これは茶亭であって、東山区の高台寺にある茶室 傘亭・時雨亭はその遺構とされる。
江戸期には学問所は教育機関をさすようになり、京都では寛政四年(1792)老中松平定信が計画した京都学問所や文化二・三年(1805、6)頃設けられた禁裏御学問所が知られる。
このほか文化年間(1804〜18)開設の大覚寺学問所があり、葛野郡上嵯峨村字六道の三百二十七坪の地に建坪四十坪の学舎、儒者野口左門ら六名の教職員、通学生三十余名という規模で、建物は明治初年、小学校の教室に利用されたという。

● かくれ念仏

六波羅蜜寺で行う念仏踊。
十二月十三日より三十一日まで。
空也踊躍念仏ともいう。
寺伝では天暦五年(951)京中に疫病が流行したとき、空也が救済を願って始めたという。
本堂内陣で導師以下職衆四名が金鼓に合わせ「モーダ ナンマイト」と唱しながら台壇周囲を右へ行道し、踊躍念仏を行う。
長く秘法とされたが、昭和五十三年に公開。

● 蜻蛉石

宇治市菟道大垣内にある来迎の阿弥陀三尊像。
「源氏物語宇治十帖」の蜻蛉の巻による命名という。
高さ約二メートルの花崗岩の自然石に線彫で描かれ、勢至菩薩の前下方には発願者とみられる上臈の合掌する姿がある。
石造遺品では供養念仏者と阿弥陀三尊の図は珍しい。

● 風早家

公家
藤原北家三条流の権大納言滋野井実家の子公清(1228年没)が風早の二位と称した。
江戸期、姉小路公景の次男実種(1630年没)が後水尾院の勅により、一家を興し風早家を名乗る。
実種は烏丸光広に和歌を、千宗旦に茶を学び、香道にも造詣深く、香道風早流を興した。
実種の孫実積(1753年没)は宝暦事件に連坐。
明治に至り子爵。

● 飾り馬

端午の節句の飾り物に用いる馬の人形。
元禄(1688〜1704)頃からつくられ、宝鏡寺に江戸期のものがのこる。

● 錺師

金・銀・銅などの金属板を加工し、神社仏閣・仏壇・家具・建具などの装飾金具をつくる職人。
錺職・錺屋ともいう。
古くは銀師(しろがねし)・白金細工師などと呼んだ。
元禄五年(1692)の「万買物調方記」に錺師として新町通椹木町下がる因幡・油小路通上長者町下がる泰阿弥のほか二条通・寺町通に多いとあり、江戸期から錺師の機能が独立したとみられる。
社寺の多い京都では職人も多く、「京都御役所向大概覚書」によると触頭藤田源四郎の下に五百十二名が所属。
また高度な技術を要するため大工・左官・石屋・屋根屋とともに京都御所の五工職とされた。

● 花山院家

公家
藤原北家の道長流。
清華家の一
藤原道長の孫師実の次男家忠(1136年没)が花山院を伝領して家号としたのに始まる。
近衛南・東洞院東にあった花山院は清和天皇の皇子貞保親王の邸宅で、家名は撫子や萩の花が多かったことによる。
笛・筆道の家として知られた。
師賢(1332年没)は元弘の乱(1331)の時、後醍醐天皇をひそかに笠置へ逃がし、長親(1414年没)は歌人で南朝に仕えた。
中山・飛鳥井・難波・野宮・今城などの分家がある。
江戸期の家禄七百十五石。
明治に至り侯爵。

● 歌誌

京都で最古の歌誌は明治二十七年、中西松琴らが創刊した「朝日桜」。
同時期に「紫苑」「詩声」なども生まれたが、すべて短命であった。
大正元年、雨森長三郎の主宰で「銀磬」が創刊。
同六年には中西松琴が「洛陽」を主宰。
翌七年、自由律口語歌を主張する高草木暮風が「露台」を、翌八年、青山霞村が口語歌普及のために「カラスキ」を創刊し、これらは新しい短歌運動の先駆となった。
昭和五年、吉沢義則は京都帝国大学文学科の学生らを中心に「帚木」を始め、今日、誌名「ハハキギ」として最も長い歴史を誇る。
翌六年、明星派の万造寺斉は「街道」を発刊。
田中常憲がこの系統を継ぎ、「新月」を主宰。
昭和二十四年宮崎信義が非定型の自由律短歌をめざして「新短歌」を創刊。
同二十八年「関西アララギ」の若手を集めた高安国世が「塔」を始めた。
このほか「短歌世代」「恵風」「炎樹」「吻土」など。
第二次大戦後の一時期「ポトナム」の発刊もあった。
昭和二十八年創刊の「群落」は結社にとらわれず、京都歌壇を中心とする歌誌として発展。

● 鍛冶師

鍛冶師には刀剣を打つ刀鍛冶と、その他の鍛冶屋とがある。
刀鍛冶では、平安中期の三条小鍛冶宗近、鎌倉初期に粟田口に住んだ国友・久国、その後の藤原吉光・来国行・埋忠重吉らが著名。
江戸初期の「京羽二重」は七十五箇所の鍛冶所をあげ、刀鍛冶は西洞院通竹屋町下がる付近、包丁類は小川竹屋町付近に多い。
大工道具類は伏見街道の大仏殿(方広寺)より南、東福寺から稲荷の近くまでに集中した。

● 菓子角力

菓子づくりの技を競った催し。
明治二十三年、四年ごろ菓子組合が祇園町の有楽館で開催。
三条通以北の菓子屋が西方、以南が東方に分かれた。
会場には土俵や四本柱が立ち、袴姿の頭取や行司が、菓題による菓子の製法や意匠の説明と判定を行った。

● 勧修寺家

公家
藤原北家高藤流。
藤原冬嗣の孫で醍醐天皇の外祖父の藤原高藤(838〜900)の子定方(872〜932)が、母方の山科の宮道氏の邸跡に建てた勧修寺を一門の氏寺としたのに始まる。
上皇や摂関家に仕えて弁官家・名家と呼ばれた。
定方の姉胤子は醍醐天皇の生母。
室町末期、教秀の女藤子は後奈良天王の生母(豊楽門院)、晴右の女晴子は後陽成天皇の生母(新上東門院)となる。
院政期の為房・為隆父子以後繁栄し、この系統から甘露寺・葉室・万里小路・清閑寺・中御門・坊城・芝山・池尻・梅小路・岡崎・穂波・堤の諸家が分かれた。
儒道を家の業とし、江戸期の家禄は七百二十六石。
明治に至り伯爵。
山科区勧修寺下ノ茶屋町の鍋岡山に高藤の墓があり、小野墓と称する。

● 嘉祥

嘉定とも書く。
陰暦六月十六日に十六個の菓子または餅を神に供えたのち食し、疫病除けを願う行事。
仁明天皇の承和十五年(848)賀茂社で悪疫退散の禊を行い、嘉祥の年号に改めことに始まるとも。
室町期、賭弓に負けると宋銭嘉定通宝十六文で食物を買い、勝敗に振舞ったのにちなむなど、起源に諸説ある。
宮中では七嘉定と称して菓子は七種に定め、一条通の二口屋に米一升六合相当の蒸菓子を注文したという。
戦国期から江戸期になると「嘉通」を「勝つ」に通わせて吉祥とし、武士の間では同通宝十六枚で十六個の食物を買い、六月十六日に饅頭・羊羹・鶉焼・しんこ・あこや・金団・いただきなどを、杉葉を敷いた土器(かわらけ)に盛って贈答した。
また民間でも嘉定喰といって、十六文で餅十六個を買い無言で食べる風習があった。

● 嘉祥閣

中京区両替町通竹屋町上る東側にある能楽堂。
井上嘉祥閣ともいう。
財団法人嘉祥閣の所有。
昭和三十六年四月、観世流能楽師井上嘉久を中心に、同門および社中が出資して建設。
舞台は三間四方。
橋掛りはやや短い。
客席は畳敷。
店員二百名。

● 家職

家代々の職業。家業。
公家の世界では家学が鎌倉期に成立し、のち家職の変型として伝わるが、京都の商家の屋号は南北朝期からみられ、家業の成立を示している。
十六世紀中葉には、本阿弥・後藤・道喜など、後代に著名となる家々が活動を始め、家業が具体的な姿をあらわす。
この頃成立の洛中洛外図屏風にマーク入りの暖簾がみられるのも、家職の成立と思われる。
江戸期以来の千家十職などは家職の代表例。

● 過書船

伏見・大坂間に就航した荷客船。
過書とは関所通行の許可状を意味するが、交通特権を保持する船を過書船と呼んだ。
中世以来淀川を舞台として活躍した特権的な舟運組織を、慶長八年(1603)徳川家康が過書船として制度化、銀五百枚の運上を課して舟
運特権を付与し、過書奉行(角倉与一・木村宗右衛門・河村与三右衛門)の支配下に置いたことに始まる。
初め伏見・大坂・尼崎を航行区域としたが、のち伏見・大坂(天満橋)間に改めた。
過書船業者は株仲間として、一定数の過書船株を独占し、持船の船腹には「過」の極印を打ったという。
荷船は主に二十石積、客船は三十石船で、いづれも享保(1716〜36)初期には数百艘を数えた。
明治維新後、特権は解消したが、旧来の実績からなおしばらく存続し、「西洋造屋形早船」を新造して延命を策した。
その後蒸気船の登場、交通法制の近代化により姿を消した。

● カステラ

南蛮菓子。
室町末期に渡来したポルトガル人が伝えたものという。
卵を使わない和菓子の中で、南蛮菓子として珍重され、近衛家熙の「槐記」の茶会記録にも何度かあらわれる。
その後も普及を続け、「おちばかご」にみえる油小路通三条上る万屋五兵衛の引札には五臓を調和すると効能を記し、カステラの上に大根おろしや山葵をかけて酒の肴にするとある。

● 絣織

西陣織の一。
部分的に防染した糸を用いて文様をあらわした織物。
京都での製織は室町末期からとみられ、締切絣の技法で段替り文様を織り出した能衣裳がのこる。
近世以降、能衣裳のほか武家の熨斗目小袖、奥女中の矢絣に代表される御殿絣、明治・大正期にはお召柄などが織られた。

● 華族会館

烏丸通今出川の北東角、現同志社大学構内にあった華族の社交場。
明治七年、有栖川宮熾仁親王を総裁として東京に設立された華族会館の分館。
第二次大戦後、占領軍が接収。
その機能は大聖寺門跡が引き継ぎ、接収解除後、建物は同志社大学に売却された。

● 樫原本陣

丹波街道(山陰道)の宿駅である旧樫原宿(現西京区樫原下ノ町付近)に所在する本陣。
江戸期、参勤交代の大名行列は原則として京市中の通過を許されず、東海道から山陰道に抜ける時は、大津から伏見をまわって樫原に出、老坂を超えたため、ここに本陣が置かれた。
洛外の本陣遺構として唯一のもので、街道沿いの町並みにのこる宿場町の面影とともに貴重な文化財といえる。

● 片言

京都方言集。五巻。
慶安三年(1650)刊。
安原貞室が愛児の片言直しのために、当時の京ことばの訛音・訛語や方言を集めた文献。
正語を掲げて訛語と対比し、語によっては批判を加え、語源・語史にも触れる。
巻一・巻二は編目を立てない。
京ことばの史的資料として貴重であり、貞室の標準語教育観もみられる。
京ことばのみに関する研究書としては最古の文献。

● 型彫屋

染色用型紙を彫る職人。
型染は桃山期に盛んとなり、その切型は二条堀川付近で多くをつくり、堀川紺形と呼ばれた。
江戸後期には全国の型染はほとんどが伊勢型を用いたが、京都では独特の風をもつ切型を自給。
京都の型彫技術は引き彫りを特徴とし、流れのある文様をつくる。

● 学館院

橘氏子弟の大学寮学生のための寄宿寮(別曹)。
承和十一年(844)から同十四年の頃に檀林皇后橘嘉智子が創設、康保元年(964)に別曹として公認された。
位置は平安京の右京というほかは不明。

● 楽器師

雅楽器の製作者。
雅楽器は三管(笙・篳篥・笛)、弦楽器(楽琵琶・和琴・楽筝)、和太鼓の各分野に分れ、特に三管の製作者を示す「京羽二重」では笙作に松原通富小路東入山本藤右衛門、笛篳篥師および尺八として室町通松原上る町獅子田左衛門ほかをあげる。
明治には十八件のの製造業者を数えたが、その後需要減から衰退し、プラスティック製の笙の出現もあって、現在京都で雅楽器師は十数名。
笙の管に用いる媒竹など良質の材料の入手が困難であるが、雅楽器が揃って製作されるのは京都のみ。

● 桂飴

古くから洛西桂の里で産した名物の飴。

江戸初期の「毛吹草」に名がみえる。
管飴ともいう。
孫夜叉という桂女が所司代に謙譲したり、京の町を売り歩いたという。
「雍州府志」に、細密にして甘美、形は竹の管のようであったと記す。

● 桂渡

現在の桂大橋(桂橋)付近にあった渡し。
北は丹波、南は山崎を経て摂津へ向かう要衝の地で、延暦十八年(799)には、楓渡と書かれ、佐比渡(現在の南区上鳥羽塔ノ森南部)とともに桂川大渡といわれた。
特に両渡には船頭を置き、交通の便をはかるようにと勅が出された。

● 桂女

洛西桂の里(現西京区)に住み、アユや飴を京中に売り歩いた女性。
先祖は神功皇后に仕え、お産の世話をしたという伝承をもつ。
中世には芸能や助産に携わり、巫女として縁起を祝うための従軍や出陣の見送り、慶事の祝言の祓なども行った。
桂以外の住人で、石清水八幡宮や御香神社に仕える桂女もいた。
装いは着物を短く着、頭は白い布で包んだ桂包。
桂川のアユや桂飴の行商は近世まで続き、桂の名主家は女系相続で、名家の慶事に招かれ祝詞をのべることもあった。
第二次大戦後も旧家は十二件存続。

● 褐簾石

左京区北白川付近の花崗岩中にみられる黒色の細い柱状の鉱物。
トリウムなどの放射性元素を含む。
明治三十六年京都帝国大学の比企忠が大文字山の参道の傍らから日本で初めて発見した。

● 華道

いけばなは、室町期に京都で成立し、京都を中心をして全国へ伝播した。
明和・安永(1764〜81)頃には、上方から下がった人々が江戸に生花の流派を興し、また江戸や大阪に興った流派も京都の公家や本山寺院によって権威付けられて伝流した。
こうした気風は今も伝存し、京都は東京・大阪と並んでいけばなの先進地である。
池坊を筆頭として松月堂古流や五明流・専慶流・桑原専慶流・西阪専慶流・遠州流(正風遠州流)など江戸期からの流れを伝える流派、嵯峨御流・御室流など本山寺院を本拠とする流派、また明治以後に競って分派独立した流派も多い。
京都に家元がある約三十流のうち、京都未生、都未生など、未生流系の流派がその半数を占めるのも特徴的である。
京都で活動中の流派は約五十流で、そのうち四十流が昭和三十九年結成の京都いけばな協会に加入。
このほか京都府華道芸術協会。
京都女流京華会などがある。

● 門附

正月の松の内、各家の門で祝歌を歌い、簡単な芸能を演じ金品をうける大道芸。
民俗信仰に発し、もとは季節的なものとそうでないものとがあった。
代表的なものに、万歳・烏追い・懸想売文・春駒・大黒舞・徳助お福・大神楽・猿廻し・稲荷山の白狐・ちょろけん・節季候・婆等などがあった。
京都では万歳は主に大和万歳だが、幕末には三河万歳もきた。
烏追い・春駒・徳助お福・節季候・婆等などは祝詞を唱え、特に婆等は京都だけにみられた。
大黒舞・大神楽は祝歌を歌い舞い、稲荷山の白狐は縁起物、懸想文売は京阪京阪特有のもので、祈願成就の符札を売り歩いた。
ちょろけんは福禄寿姿で太鼓を打ち、小児を追いかけ、門附中最も人気があり今も伏見人形などにその姿をとどめる。
いずれも第二次大戦後はすたれ、現在では大神楽の獅子舞だけがのこる。
しかし手まり唄が大黒舞の祝歌の残存であるように、京の童べ唄としてのこるものもある。
また京舞にも伝承される。

● 鉄輪井

名水の一。
下京区堺町松原通下る鍛治屋町の西側露地にある。
夫に捨てられた女性が貴船神社の信託を得て、鉄輪を頭に戴き生霊と化して恨みに出るという謡曲「鉄輪」の主人公が使ったとされる。
鍛治屋町は慶安年間(1648〜52)まで鉄輪町と称した。
井戸の傍らには江戸期まで鉄輪塚があった。

● かにかくに祭

祇園を愛した歌人吉井勇を偲ぶ行事。
十一月八日。
祇園新地甲部組合が主催。
白川にかかる巽橋畔の吉井勇歌碑に芸舞妓が献花、のち抹茶・蕎麦の接待がある。
鞍馬の自然石を用いた歌碑は昭和三十年十一月八日、吉井勇の古希を祝い有志が建立したもの。
祭りの名は碑に彫られた勇の歌
 「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」による。

● 歌碑

京都市域に約四十基あり、清少納言・藤原定家など古代・中世の歌人から近・現代の歌人までと幅広いが、多くは昭和の建立。

● 歌舞伎

出雲阿国が、京都でかぶき踊を始めて人気を博したのは慶長八年(1603)。
当時、京都の代表的な興行地は、北野と五条河原で、その後、阿国を真似た女歌舞伎が四条河原で行われるようになる。
四条河原が京都最大の興行地として台頭するのは、元和年間(1615〜24)京都所司代板倉勝重が七ヵ所の櫓を許可して以降。
幕府は元和・寛永年間(1615〜44)数度にわたって遊女歌舞伎の興行を禁じ、最終的に遊女たちは廓に閉じ込められ、女歌舞伎は禁止され、若衆歌舞伎も承応元年(1652)禁止。
その後、一時歌舞伎興行は中断したが、寛文九年(1669)「名代」が再興され、元禄年間(1688〜1704)には最盛期を迎えた。
近松門左衛門と提供した坂田藤十郎の和事芸は、江戸・大坂を圧倒、京都の歌舞伎の最も華やかな時代でもあった。
当時、芝居小屋は四条通を挟んで北側に二軒、南側に三軒、大和大路上る西側に二軒、計七軒あった。
藤十郎が没し、近松が大坂へ去った頃から、京都劇壇は衰退期に入り、歌舞伎の主導権は大坂、ついで江戸へと移った。
最盛期には七軒あった芝居小屋も次々と減り、宝暦年間(1751〜64)には早くも南・北二座となり、明治二十六年、北座も廃され、南座を残すのみとなる。
宝暦五年の劇書に「近年、歌舞伎芝居は如何してか、京都ばかり不景気にて、別して此一両年、取替へ引換へ狂言出せど、諸人の愛敬すくなく、僅か二軒の芝居が替り目ごとに休」と不況を述べている。
四条芝居の衰退に反して、宮地芝居(神社境内の小劇場)や小芝居(永続的な興行を認められていない小劇場)が台頭。
また、一年のうち十一月の顔見世だけが繁盛するという傾向も江戸末期にはみられるようになった。
こうした劇界の不振は、京都の経済力の地盤沈下が根本的な要因と考えられる。
明治以後、松竹合名会社の設立によってやや劇界の新風が起こるが、東西合同歌舞伎が顔見世興行の呼び物として注目されるのは、大正期に入ってから。
この伝統は現在も続けられ、一種の年中行事となった。

● 歌舞伎図屏風

慶長八年(1603)に始まる阿国歌舞伎以下、遊女歌舞伎・若衆歌舞伎・野郎歌舞伎を描いた屏風。
最も初期的様相を示す出光美術館本には、北野の森における出雲阿国の「茶屋遊び」の舞台を描く。
遊女歌舞伎は四条河原で興行することが多く、MOA美術館本などのように清水寺を描くこともある。
若衆・野郎歌舞伎を描く屏風の伝存品は少ない。

● 甲塚古墳

右京区嵯峨甲塚町にある古墳時代後期の大型円墳。
別名を大塚ともいい、有栖川にかかる安堵橋の西南に位置する。
現在は石室の奥に祠があり信仰の対象となる。

● 南瓜供養

左京区鹿ケ谷安楽寺の中風除け供養。
七月二十四日に供養した南瓜を二十五日に煮付け、参拝者に接待する。
江戸期の当寺住職真空益随が、土用に鹿ケ谷南瓜を食べると中風にならぬという霊夢を得て始めたと伝える。
当日、開山住蓮・安楽房、後鳥羽上皇の女房松虫・鈴虫の肖像画などの寺宝を一般公開。

● 溝

南北朝以降に特にあらわれた洛中洛外の防御施設。
応仁の乱以後、多くみられ、田中溝・賀茂溝・壬生溝などの名が知られる。
武士が構築した戦闘用のもの、貴族による防御用のもの、庶民が設けたものに分類できるが、中には建仁寺惣溝のように寺院が構築したものもある。
堀と杭列によって築いたとみられ、近年、壬生溝と推定される遺構を発掘。

● 釜ヶ淵

南区東九条の鴨川と高瀬川が合流するあたりの淵。
盗賊石川五右衛門が捕らえられ、三条河原で釜ゆでの刑に処せられ、その後洪水の際、釜が流れついたところと伝える。
一説に栄西が河原院の鐘を引きあげたため鐘ケ淵と呼んだのが、のちに釜ヶ淵となったともいう。

●上賀茂遺跡

北区上賀茂本山町にある縄文時代後期前半頃の集落遺跡。
上賀茂神社を中心に丘陵一帯に広がる。
ササン朝ペルシャのガラス製切子碗が採集されたことは注目される。

● 上賀茂の町並み

上賀茂神社周辺に広がる同社 社家の住宅および農家・町家が混在する町並み。
集落の形成は中世の賀茂六郷にさかのぼり、以後社家町として発展、その伝統的なたたずまいを今日に伝える。
特に藤木通りは明神川沿いに社家の住宅が連続し、川に架かる小橋、瓦葺の薬医門、腕木門、土塀越の木々の緑がすぐれた歴史的景観を構成する。
川沿いの家々では流れを屋敷内に引き入れて表庭に池を設け、また禊の水に用いる。
主屋は格式ある玄関構えをもち大戸口上部に冠木をうつ。
市内では珍しく妻入りのものが多く、妻飾りには豕扠首を組む形式と、束と貫を縦横に組む形式がある。
かつては神社の鳥居より高くならないよう二階建てが禁じられたという。

● 上賀茂民芸協団

日本最初の民芸運動実践団体。
民芸運動の創始者柳宗悦が関東大震災後京都へ移り、左京区吉田に居を構えて河井寛治郎・浜田庄司と日本民芸館設立構想を立て、運動を展開、昭和二年北区上賀茂の社家を借りて協団を結成し、織の青田五良、染めの鈴木実、金工の青田七良、木工の黒田辰秋らが製作活動を行った。
白樺派の理想主義に基づく「新しき村」の構想に匹敵する運動だったが、一回展覧会を開いただけに終わり、昭和四年柳の渡米中に解散。

● 上京焼打ち

元亀四年(1573)四月三日の織田信長の軍による上京地域への放火。
武田信玄と意を通じた室町将軍足利義昭が信長に反抗したため信長は同四年三月上洛して知恩院に陣を張り、京都を囲むように部下を配し、いったん義昭に和平を申し入れた。
義昭には和解の意思がないため、信長は義昭への威嚇と、義昭を支持し信長に反抗の姿勢をもっていた上京の住民に対する報復として火を放った。
ポルトガルの宣教師フロイスの手紙によれば焼失家屋六千七百戸に及んだという。

● 上久世遺跡

久世橋近く、桂川右岸に立地する弥生時代後期の集落跡。
南区久世上久世町から中久世町一帯に広がる。
桂川流域の稲作伝播の系路、集落分布を知る貴重な資料を提供した。

● 上鳥羽遺跡

南区上鳥羽鴨田町にある縄文遺跡。
鴨川と桂川が合流する標高約十五メートルの低地帯に立地する。

● 紙屋

宮廷・寺院などが多量の紙を消費する京都では平安期から官営の製紙所紙屋院で宿紙などの生産が行われたが、近世に入り、美濃紙・杉原紙・奉書紙など地方産の紙が大量に流入し、明暦三年(1657)には美濃紙の移入が一時停止されるまでに至った。
京都の紙漉師の中には扇の地紙などこれら地方紙の加工に転ずる者もあらわれ、また紙問屋も登場した。
元禄二年(1689)刊の「京羽二重織留」は万紙問屋として柳馬場御池下がる町で奉書・丈長・美濃紙を扱う越前屋市郎兵衛ほか四軒をあげ、また紙屋として、三条通東洞院の永原屋・大和屋・七文字屋・丸屋など九軒を記す。
明治九年パピール・ファブリクで洋紙の生産が始まるが、府はこの販売にあたり、三条東洞院中井三郎兵衛・五条東洞院大森次郎兵衛・寺町通松原上る石角伊助らの紙問屋を製紙売捌人に命じた。

● 亀井

名水の一。
1. 室町通竹屋町上るの民家内にあり、豊臣秀吉が茶の湯に用いたと伝える。
2. 下京区柿本町本圀寺本堂跡西にあった。
  織田有楽が茶の湯に用いたと伝え、同寺塔頭多門院の庫裏にあった亀井と一双とされた。
  現在、本圀寺は山科区御陵大岩に移転、多門院は廃寺となる。
3. 西京区嵐山町松尾大社社殿背後の霊水。
  酒が腐らない水と伝え、醸造元が持ち帰り、酒水に混ぜる風習があった。
4. 山科区日ノ岡ホッパラ町の木食寺跡の泉。
  量救水ともいう。

● 亀石

祭石の一。
嵯峨愛宕町、愛宕神社の参道内にあった。
石垣をめぐらせ、役行者が置いたと伝える。
同様の石が山麓の鳥居本にもあり、一対をなした。
上京区の北野天満宮、宇治市興聖寺付近の宇治川にも亀石と呼ぶ石がある。

● 鴨川をどり

先斗町花街の舞芸妓の舞踊公演。
先斗町歌舞練場で年二回行う。
春は五月一日から二十四日、秋は十月十五日から十一月七日まで。
明治五年、裏寺町大龍寺横にあった千代の家で始まり、同八年第四回京都博覧会に付博覧として参加、同十八年まで続いたが一時中絶、同二十八年、平安奠都千百年祭を記念し、現在地に新築された歌舞練場を翠紅館と名付け、同所で再開。
昭和二十六年より春秋二回開催となる。

● 賀茂競馬図屏風

上賀茂神社の神事である競馬行事を描いた屏風。
室町期には月次風俗図屏風(東京国立博物館蔵)や月次風俗扇流図屏風(光円寺蔵)にみられるが、単一の主題として六曲屏風などの大画面に描かれるのは桃山期に入ってから。
これらには社殿の描写はほとんどなく、神事の要素は希薄となり、見物衆の姿態など風俗の面白さが中心となる。

● 賀茂七石

賀茂川(鴨川)に産し、水石として珍重される石の総称。
周辺の山地から流れ込んだもので、七種に限らず、八背真黒石・賤機糸掛石・鞍馬石・貴船石・畚下石・雲ケ畑石・紅加茂・古道真黒などがある。
鞍馬石は花崗岩質の深成岩であるが、ほかは堆積岩またはその変成岩、および海底火山類。
これらは高野川にも産する。

● 賀茂社家ことば

上賀茂神社に奉仕する社家が使用したことば。
1. 賀茂十六流の命名法は、各流の氏・平・清・能・久・俊・直・成・重・幸・季・保・宗・弘・顕・兼を付ける。
2. 各家を示す異名がある。
  職名を示すハフリサン・ウネメサン、国名で呼ぶシモツケサン・オウミサン、場所を示すイケノハタサン、その他。
3. 御所ことばのオデエサン(父)・マツ(松茸)など。
4. 書院の忌詞であるナオル(死ぬ)・ヤスム(病む)・シオタル(泣く)・アセ(血)・宍クサビラ(獣肉)・ナズ(打つ)・ツチクレ(墓)のほか、仏教  関係後を忌む。

● 賀茂茄子

美味礼賛の【京野菜】を参照のこと

● 加茂人形

柳の木を彫ってつくる木目込み人形。
柳人形ともいう。
衣裳は木に直接張り、裂の端を木に彫った溝に押し込む。
元文年間(1736〜41)加茂神社の雑掌高橋忠重が祭礼の柳筥の余材でつくったのに始まるといい、孫の大八郎は名手として知られ、その作品は大八人形と呼ばれた。
木の肌をそのまま生かし、裂地には縮緬を多用。
テーマは雛・公家から庶民の姿、動物など広範囲にわたる。

● 高陽院

摂関家の邸宅の一。
中御門(椹木町通)南・西洞院西・堀川東・大炊御門(竹屋町通)北に位置。
もとは桓武天皇の皇子賀陽親王の御所であったといわれるが、延喜五年(905)に火災の記事がみえるほか概略は不詳。
その後藤原頼通が伝領、拡張し、治安元年(1021)造営をほぼ終えた。
その豪華さは「世のことともみえず」ともいわれ、中でも庭園は「四季は四方に見ゆれ」と称され、また寝殿の東西南北に池を配置した名園であった。
頼通以後、師実と摂関家が代々継承したが、天喜元年(1053)後冷泉の天皇里内裏となって以後、後三条・白河天皇などが里内裏として使用。
また、鎌倉期には後鳥羽院の院御所となった。

● 高陽院馬場

藤原頼通が造営した高陽院の馬場。
高陽院の壮大さは有名であるが、それに付随した馬場も広大なものであったらしく、東対を馬場殿にして、その前を北南に馬場を設け競馬などを行ったという。
当馬場では度々、行幸駒競を行っているが、万寿元年(1024)九月十九日、後一条天皇を迎えての行幸駒競は特に著名で、「栄華物語」にも描かれ、また駒競行幸絵巻としてその様子がのこる。

● 河陽離宮

現在の乙訓郡大山崎町離宮八幡宮付近にあった。
嵯峨天皇の離宮。
摂津水無瀬・河内交野への遊猟が多かった嵯峨天皇が、便利のためか、弘仁五年(814)それまでの宿舎としていた山崎駅を離宮としたもの。
景勝地としても有名で、「文華秀麗集」「凌雲集」には当地の景勝を賞でた詩を多数収載。
河陽とは川の北岸を意味し、当地が淀川の北岸にあたるための呼称か。
嵯峨・淳和天皇期にはしばしば行幸もあり、離宮の任を充分果たしたが、貞観三年(861)には相当荒廃、山崎国司が離宮名をのこしたままで国府とすることを奏上して許可され、長岡の地より山城国府が移転。

● 何有荘庭園

南禅寺福地町にある築山林泉回遊式の庭園。
同邸はもと稲畑勝太郎の別邸で、面積約一万五千五百十平方メートルの庭は明治二十八年小川治兵衛(植治)の作。

● 唐板

上御霊神社の神饌菓子。
小麦粉に卵と砂糖を加え、薄くのばして板状に切り、両面を鉄板で焼いた干菓子。
貞観五年(863)に疫病が流行し、御霊会を神泉苑で修した際、疫除けの煎餅を庶民に授与したのが最初とされる。
文明九年(1477)上御霊神社前の茶店で売るようになり、天保年間(1830〜44)水田玉雲堂が現在の唐板を始めたという。

● 花洛細見図

京都の地誌。
金屋平右衛門編。
元禄十七年(1704)序。
十五巻十五帖。
書名の上に「宝永」の角書があり、宝永花洛細見書ともいう。

● 花洛名勝図会

地誌。
木村明啓・川喜多真彦撰。
四巻。
文久二年(1862)成立。

● 烏ケ嶽古墳群

長岡京市粟生烏ケ嶽山頂にある三基からなる古墳群。
昭和初年の盗掘で、一・二墳の主体部が破壊された。

● 烏相撲

上賀茂神社の重陽の神事に行う奉納相撲。
九月九日。
平安期からの伝承がある。
社伝では祭神の祖父賀茂建角身命が神武東征を先導したとき、天皇の弓先に八咫烏がとまった故事から鴨県主族を烏族と呼ぶようになったといい、命が相撲を神に上覧したのが起源と伝える。
本殿での重陽の神事後、細殿前の土俵で相撲が始まる。
左右から弓矢を手にした刀祢が横飛びしながら土俵の盛り砂の前に出て「カー、カー、カー」と鳴き、そのあと、氏子の子供二十人が三回ずつ取り組み、この勝負で作物の豊凶を占う。

● 烏丸綾小路遺跡

烏丸綾小路二帖半敷町にある弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての竪穴住居遺跡。
昭和五十四年、地下鉄烏丸線の建設工事に先立って実施された発掘調査により発見された。
すでに市街化され、遺跡の範囲を推定することは難しいが、地形を考慮すると五万平方メートルに及ぶと想定される。

● 烏丸物

安土桃山・江戸初期に烏丸二条付近に産した蒔絵漆器。
確たる遺品はない。
烏丸通の夷川から二条までの東西両側には蒔絵師が多く、すでに寛永(1624〜44)頃から蒔絵屋町の名があった。
製品については、桃山期の技術的には粗雑な高台寺蒔絵様式のものとする説、寛永・正保(1624〜48)頃の高度な技法を用いた調度とする説がある。

● 烏丸家

公家
藤原北家日野家の分流。
日野資康の三男豊光(1378〜1429)が祖。
代々、芸道に秀で、特に多くの歌人を輩出。
光宣(1549〜1611)は歌道・茶の湯を通して千利休と親交をもち、その子光広も歌・書・茶の湯にすぐれた。
光胤(1723〜70)は宝暦事件で永蟄居処分となった。
江戸期の家禄は千五百石。
明治に至って伯爵。
菩提寺の右京区太秦の法雲寺には烏丸家の文書類が多くのこる。

● カラネ岳二号墳

長岡京市井ノ内中山にある大型円墳。
粟生カラネ岳の尾根に墳頂分だけが残存。
内部主体は不明。
古墳時代中期初頭の古墳とみられ、乙訓地方での古墳時代前期以来の首長墓(前方後円墳)の系譜にはつながらない、新たな被葬者の出現を想定させる。

● 唐橋遺跡

南区唐橋および吉祥院にわたって所在する弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡。
地形を考慮すれば、遺跡の範囲は十五万平方メートル以上に及ぶと思われる。

● 唐橋家

公家
1. 菅原姓
  家祖は菅原道真の子孫文章博士定義の子在良(1122年没)。
  その八世の孫在雅(1357年没)から唐橋と称した。
  儒学を家業とし、家禄は百八十二石。
  明治になって子爵。
2. 村上源氏久我流。
  内大臣久我雅経の次男の子通時が唐橋を称したが、数代で断絶。

● かるた

遊戯または博奕の道具。
語源はポルトガル語の Carta(紙札)。
安土桃山期、南蛮文化の一つとして請来。
安土桃山期のものを大正かるた、江戸初期のものを、うんすんかるたという。
主産地は京都。
江戸初期の「雍州府志」に六条坊門でつくるとみえ、また金銀箔で飾ったものを箔賀留多と称し、絵草子屋がつくるとある。
坊門かるたの名はこれによる。
ほかに建仁寺かるたの名も知られる。
この頃から小倉百人一首を書く歌かるたが普及し、漢詩や「万葉集」なども題材とされた。
賭博に使われたため製造が禁止されたが、ひそかに製造販売は続いた。
明治に入り製造販売が官許制となり、公業として認可され発展。

● かるた忌

右京区嵯峨二尊院のかるた法要。
五月二十七日に最も近い日曜日に行う。
日本かるた院の主催。
寺伝に二十七日は藤原定家が「小倉百人一首」を選んだ日といい、昭和四十三年から始まった。
本堂内で法要のあと有段者による奉納試合、続いて王朝衣裳を着たかるた姫が古式歌かるたを披露する。
同日には上京区本隆寺でも京都かるた協会主催のかるた忌がある。

● かるた始

八坂神社で行うかるた会。
一月三日。
同社の祭神素戔嗚尊が和歌の祖神とされるのにちなみ、昭和四十六年から始まった。
同社および日本かるた院の共催。
神前へのかるた奉納、玉串奉奠のあと王朝衣装を着たかるた姫による奉納手合わせがある。

● 河上事件

京都帝国大学経済学部教授河上肇の辞職事件。
昭和三年三月京都帝大に対して当時の文部大臣水野錬太郎が「左傾教授」として指弾、その処置を要求したことにより、同年四月十七日に辞表を提出するに至ったもの。
日本が昭和の金融恐慌から戦時体制に向かう時期、東京帝国大学に比べて自由な学風にあった京都帝大が、その体制下に組み込まれていく過程で、二月に行われた初の普通選挙後の左翼弾圧の一環として発生。
すでに前年「マルクス主義講座」に対する河上教授の監修などに関連して、時の経済学部長神戸正雄の辞任があった。

● 川越藩邸

川越藩は武蔵国入間郡川越に置かれた藩で、藩主は家門松井松平氏。
京屋敷は幕末期、柳馬場二条下がるに所在。

● 河村能舞台

烏丸通上立売上る西側にある観世流能楽師河村家の能舞台。
禎二・晴夫・隆司三兄弟が昭和三十一年三月設立。
河村家は職分家でないため正式には能楽堂と称さない。
西本願寺の南・北能舞台を模した本格的な舞台で、客席は畳敷、二階も含めて定員三百五十名。

● 土器師

神事・祭事に用いる素焼きの土器(かわらけ)の作り手。
多くは農家の副業。
土器は、古くは雄略天皇の時代に伏見でつくった記録がのこり、洛西嵯峨の野々宮の土器製作に端を発するという幡枝土器は現在も続く。
江戸中期の「京都御役所向大概覚書」には土器師として、上嵯峨八軒村に九軒四十九人、幡枝村内木野村に四十軒百人、内細工は六十人の女性が行うと記し、また深草村の百五十軒の農家が、七月に七日、十二月に十日の計十七日間だけ土器の製作を行うとある。

● 河原者

古代・中世社会の底辺部にあり、主に非課税地である河原に居住した人々。
川原者・河原物・瓦物とも書き、死牛馬の処理・皮細工・清目・造庭など雑多な仕事に従事。
多くは特定の領主をもたず触穢思想から社会的隷属民として差別されたが、細工や造庭の練達者もあらわれ、又四郎などは天下第一(「鹿苑日録」)と称された。
河原者・河原乞食といった差別的呼称は近世に至ってもなお受け継がれ、権力者による民衆分断支配に利用された。

● 閑院宮家

江戸期の四天王家の一。
東山天皇の皇子直仁親王を祖とする。
宝永七年(1710)新井白石が将軍徳川家宣に建白して創設。
家領一千石。
直仁親王の孫、兼仁親王が安永八年(1779)桃園天皇のあと践祚して光格天皇となる。
光格天皇は父の典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたが幕府に拒否された(尊号一件)。
五代愛仁親王に後嗣がなく絶えたが、明治五年伏見宮家の載仁親王が再興。
昭和二十二年、春仁王の代に皇族籍を離れ、閑院家となる。

● 寛永の三筆

寛永期(1624〜44)能書家として知られた近衛信尹・本阿弥光悦・松花堂昭乗をさす。
後の三筆ともいう。
元禄五年(1692)滝幽伝が昭乗の弟子小塩幽照に与えた「筆道秘伝抄」に初見。
しかし信尹は慶長十九年(1614)にはすでに没しており、「本阿弥行状記」は当時の能書家として、信尹の代わりに近衛信尋の名をあげ、また、神沢貞幹の「翁草」も信尋・光悦・昭乗を「当世の三筆」と呼ぶ。
江戸末期から明治になって初めて現在の三者の組合せを「寛永の三筆」と称するようになった。
三者はいずれも単に能筆であるにとどまらず、当時の屏風・色紙・手本などの流行に応じた装飾性豊かな書風を創始した。

● 考える人

京都国立博物館の中庭にある銅像。
フランスの彫刻家ロダン(1840〜1917)の作品。
「地獄の門」の構想からできたもので、原作は1880年の作という。
大正末期にフランス人デルスニスが輸入、昭和二十五年に神戸の松浦家から同館に寄贈、のち同館所蔵となった。

● 勧学院

藤原氏子弟の大学寮学生のための寄宿寮(別曹)
弘仁十二年(821)藤原冬嗣が創設。
大学寮(現在の二条城の西南隅付近)の南、三条北・壬生西にあり、弘文院・奨学院の両別曹と並んでいた。
平安中期には職員と学生合わせて八十名がいたという(「宇津保物語」)。
安元年間(1175〜77)には衰退した大学寮とともに同院がのこっていたが、安元三年の大火(太郎焼亡)で類焼、廃絶した。

● 勧業場

明治前期、京都府の勧業事業を担った中心機関。
明治四十二年二月十日、河原町二条下がる一之船入町の旧長州藩邸に府勧業課出張所として開場。
同場内に勧業課も移り、産業基立金・勧業基立金を活用し、殖産興業策を積極的に進めた。
中でも明石博高が中心となり、欧米の先進技術を導入した各種生産・製造施設の設置による勧業策が注目される。
すでに前年末、同敷地内に仮局が設置された舎密局をはじめ、製糸場・織殿・染殿・栽培試験場などが同場周辺に設置されたほか、明治四年から数年の間に伏水製作所・梅津製紙場(パピール・ファブリク)、さらに女紅場など多方面にわたる勧業施設が設置された。
これらの多くは、実験的役割を果たして明治十四年に民間に払い下げられ、翌年十月には同場から勧業課も引き揚げ、のち廃止された。

● 観月橋

伏見区にあり、宇治川に架かる橋。
明治六年の再建以前は豊後橋と呼ばれた。
豊後橋は文禄三年(1594)豊臣秀吉の伏見城および城下町の建設開始にともなって建造。
現在の橋は昭和十一年の建造で、全長百七十九メートル。
併行して高架式の車両専用橋を昭和五十年に架橋。
全長五百三十七メートル。

● 観行舎

心学講舎の一。
文化五、六年(1808、09)頃、沢井智明が縄手通三条下がるに開設。
諸国から上洛した心学教師の寄宿所として有名になった。

● 関西図案会

明治末・大正期の友禅図案家の団体。
明治四十二年、京都図案会から脱退した田村春暁らの結成した如月会と、同じく福岡玉僊らの無名会とが合併して発足。
一時は有力な友禅図案家を集めたが、のち図案研精会などが分立し、大正八年解散。

● 関西美術院

左京区岡崎南御所町にある洋画研究所。
明治三十年代の洋画隆盛にともない、同三十九年現在地に設立。
毎年、京都府立文化芸術会館で作品発表展を開く。

● 寛算石

南区西九条蔵王町、伏見稲荷大社御旅所の南方の小堂にある石。
高さ約三十センチ、長径約百六十センチ、短径約百センチ。
歯神様ともいう。
伝説に、菅原道真が左遷され、藤原氏への恨みをはらすため雷となった時、筑紫安楽寺の僧寛算供養が一緒に雷と化して祟りをなしたが、藤原氏の衰退後、落ちて石となったものという。
歯痛平癒の信仰があり、社前に供えた箸で食事をすると歯痛が治るという。

● 官女事件

慶長十四年(1609)七月、宮中の女官が公家衆と密通し処分を受けた事件。
北野や清水などで密会を重ねていたことが後陽成天皇の耳に達し、天皇は死罪の意向を示したが、幕府は流罪を主張し、女官五人は伊豆新島に、烏丸光広・飛鳥井雅賢など七名の公家衆は蝦夷・薩摩・伊豆などに流された。

● 寛政三奇人

江戸後期、寛政期(1789〜1801)の三人の奇人。
高山彦九郎正之・林子平友直・蒲生君平秀実。
三人とも京都の人ではないが、旅行中京都に滞在した。

● 観世稲荷神社

大宮通今出川上る桃園小学校内にある小祠。
祭神は一足稲荷・観世龍王。
観世弥清次・世阿弥元清父子が足利義満から拝領した屋敷地内に、観世家の鎮守社として創祀。
社殿の傍らに観世水と呼ぶ井戸がある。

● 観世家

能楽シテ方の家。
大和猿楽四座の一。
貞治二年(1363)頃、観阿弥清次が大和結崎で結座。
応安五年(1372)京都に進出、醍醐寺で演能し名声を得た。
のち足利義満に見出され、二代世阿弥元清より京都に住む。
その後、七代元忠が徳川家康に接近、江戸に移るが、京都の観世家屋敷はそのままのこった。
初世・二世の供養塔は大徳寺の塔頭真珠庵、三世の墓は田辺の酬恩庵、四世から二十二世までの墓は上京区の報恩寺にある。

● 観世水

観世稲荷社の傍らにある。
この地はもと能楽観世家の邸地。
観世流の紋はこの井戸の水面にできる波紋によるという。

●閑窓自語

随筆。
柳原紀光著。
三巻二冊。
寛政九年(1797)頃成立。
上巻・中巻は各百話、下巻は三十三話を収載。
紀光は当時博識をもって世に聞こえた公家で、正二位権大納言に昇り、後桜町・後桃園・光格天皇に仕えた。
本書の執筆は寛政五年から同九年の間。
前記三帝に関する逸話が多くみられるほか、後水尾天皇・霊元天皇・東福門院などをめぐる話、当時の雲上人の生活に関する話などが記述される。
また「宇治橋再造事」「六月寒き事」など一般社会の情勢を記すものもあり、本草関係などの記述も豊富。
「中山大納言愛親卿密帯勅書語」の類の記述は、当時の朝廷と江戸幕府の関わり方を示す。

● 上林家

江戸期、宇治郷をはじめ近隣幕府領の代官となり、宇治茶師の頭取をつとめた一族。
丹波上林郷の出身と伝えるが不詳。
茶どころとなり始める十六世紀の宇治郷には、有力な土豪でもあり茶業者でもあった森家・堀家などがいたが、この時期にあらわれる上林家は、天正元年(1573)の槇島合戦以後、久重・久茂父子が豊臣秀吉の知遇をうけて宇治郷支配の一端に関わり、また宇治茶業界にも森家と並ぶ地位を確保して宇治茶の名声を高めた。
ついで関が原合戦の際の伏見城の戦いで、久重の四男政重(竹庵)が討死、その軍功によって徳川幕府は久茂系の六郎家と政重系の又兵衛家に家禄を与え、代官として宇治郷などの幕府領の支配と宇治茶業界の統括をゆだねた。
以後、上林家は多くの分家を興して一門の勢力を拡大し、近世を通じて茶業地宇治の歴史に深く関わった。

● 官務家

小槻氏をいう。
官務とは古代令制の太政官の左・右弁官局のこと。
太政官ではこの両弁官局と少納言局の三局が庶務を分掌、弁官局では長官のもとに左・右大史が実務にあたった。
平安末期、左大史の小槻氏が右大史をも兼ね官務と称したので、代々その職を世襲した同氏を官務家と呼び、江戸期に及んだ。
小槻氏の子孫は四条南・壬生西の地に住し、壬生官務家ともいう。
少納言局では大外記中原・清原二氏が局務家と呼ばれた。

● 冠石

名石の一。
安楽寿院境内にある。
鳥羽天皇が離宮を定めるに際し、この石の上に冠を置き、これを中心に造営したと伝える。
このほか西院の高山寺の庭、北区小野郷にもあり、前者は桓武天皇、後者は惟喬親王が冠を置いた石と伝える。
また八幡市の水月庵の庭には橘諸兄が愛玩したという冠形石があり、これは形態から名付けられたもの。

● 冠師

神官が用いる冠・烏帽子をつくる職人。
大化の改新で位階による冠が定まって以来、冠は位階と結びついて発展。
江戸期には冠・烏帽子・扇子づくりは京の三職として保護を受け、「京羽二重」に御冠ならびに烏帽子折として、油小路通上立売下る木村筑後、油小路通一条下る木村庄兵衛、室町通一条上る杉本美作。、室町通三条下る三宅近江の名をあげる。
明治五年礼冠の制が改正され、以来需要を失い衰退。
現在京都にのこる四軒が、装束司を通して全国の需要をまかなう。
製法は和紙で形をつくり、漆を塗り、紗を張って仕上げる。

● 看聞御記

後崇光院伏見宮貞成親王の日記。
「看聞日記」ともいう。
記載は応永二十三年〜文安五年(1416〜48)の三十三年間に及ぶ。
後花園天皇即位前後の宮廷の動向や伏見宮家の盛衰など宮廷・皇室関係の記事を中心に、将軍足利義教の政治、嘉吉の乱(1441)など室町幕府の政治史が記される。
また親王の御所は伏見にあり、伏見住民の生活や景観の変化なども記される。
さらに上京・下京に加え、中京という区域概念があらわれ、京都の市井の記事も多い。
中世の京都研究に重要な資料。

● 甘露寺家

公家。
藤原北家勧修寺流。
内大臣藤原高藤の曾孫為輔(986年没)が初めて甘露寺を称した。
松崎ともいう。
子孫は坊門・吉田などを称し、南北朝期の藤長(1361年没)以後は甘露寺となった。
儒学をもって仕え、笛でも知られる。
分流に堤家がある。
室町期の親長(1500年没)は「親長卿記」を著わす。
江戸期の家禄は二百石。
明治に至り伯爵。


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