国絵図で見る「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原




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江戸幕府は諸大名に対してそれぞれ「国絵図」を作成する命令を、慶長・正保・元禄・天保の4回出している。いずれも、「1里を1寸」(約21600分の1)の縮尺としている。
われわれは国立公文書館のデジタルアーカイブによって、元禄国絵図(1702年頃完成)のいくつかと、天保国絵図(1838年完成)の多くを利用することができる。拡大することが可能なので、国絵図に書き込まれた字を読むことができる。大和、伊勢、紀伊のいずれの国絵図も利用できる天保国絵図で、大台ヶ原がどのように扱われているかを確認する、というのがここの目標である。

まず、大和国の全体の絵図を見てみる(下図)。原図は東西343㎝×南北518㎝という大きなもので、それをごく小さく縮尺しているので、細部はまったく分からない。真上が北。郡ごとに色分けしてある。赤い点々が見えるのは吉野郡で、赤い点の一つづつは赤い楕円で、その中に村名と石高が書き込んである。別の郡は別の色の楕円になっているが村名と石高が書き込んであるのは同じことである。つまり、楕円が分布しているところは村があるところである。

周辺の国も色分けしてある。真上が山城国(水色)、左回りに河内国(紫色)、紀伊国(黄色)、伊勢国(茶色)、伊賀国(桃色)である。
紀伊国と伊勢国の国境[くにざかい]は、右側に水平から少し下がり気味に延びているが、もちろんそれは大和国の関与すべきことではないので、模式的に直線的に描いているのである。ともかくそこに、紀伊国(黄色)と伊勢国(茶色)が大和国と一点で交わっているところがあることは分かる。そこを「3重点」と呼ぶことにする。

その個所を拡大してみたのが、次図である。
この程度の拡大でも、まだ、字が読めないので、横書きで書き込んでおいた。
“3重点”のところには、地図の中に「東乃川山」と書き込んであり、地図外の注に「此の山峯を国境が通る。紀伊国にては、二之又山と唱え申候」と書いている。これは、大和国でいう東乃川山は紀伊国では二之又山と言っており、その山頂を国境が通ることは両国が認めている、という意味であろう。では、伊勢国がどう扱っているのかについては、大和国絵図は言及していない。

さらに、「この所より満ぶし峠迄の間は山国境相知られず」としている。つまり、東乃川山の山頂と満ぶし峠の2地点を国境が通ることは認識しあっているが、その間は「山国境」であって国境は定かではない、ということであろう(地図外の書き込みの多くはこのような内容である。国境が「山国境不相知」以外は、「川の中央」とか「道が通っている」などである)。

「大臺山」は大和国の、伊勢国との国境にあり、伊勢国ではこの山を「大代」と称している、という。しかも、興味深いことに、この大臺山の近くに、「志らくへ」(白崩、しらくえ)と、「ともへ嵩」(巴岳)が書き込んであり、また、池ないし湖と思われる青色も書いてある。
これらが現代の地名・山名のどれに相当するのか、などはここで決めつけない方がよいだろう。少なくとも、伊勢国や紀伊国の地図を参照してからにしよう(本稿最後で、触れている)。



伊勢国は現在の三重県とだいぶ様子が違うので、全体図をまず、よく見る必要がある。
図は、右が北。真下(東)の隣国が志摩国(白)で、志摩半島が伊勢国に入っていなかった。右下の尾張国(薄黄)から左回りに、美濃国(紫)、近江国(茶)、伊賀国(赤紫)、大和国(青)、紀伊国(紫)である。伊賀国は三重県となり、紀伊国は新宮までとなり、三重県は熊野川まで広がった。

さっそく、「大代」が書き込んである部分図を見る。伊勢国絵図は確かに大代であって、大代山ではない。大和国では「大臺山」と呼んでいることと、その山頂を両国国境が通るという記載があるだけである。その左(南)に「3重点」があるが、「堂倉山」としている。現代の地図にも堂倉山はある。そして、紀伊国では「二之又山」と呼んでいると、大和国絵図と同じ記述がある。だが、大和国では「東乃川山」と呼んでいるとは述べていない。



紀伊国の全図をみると、この国がいかにも広大な国であったことが分かる。
牟婁郡[むろぐん]が紀伊半島の南側の海岸線をすべて押さえており、東は尾鷲、長島にまで達していたのである。逆に言えば、この広大な地域は山間で人口がすくなく、農地にすべき平地があまりなかったことを示している。明治12年(1879)に牟婁郡が東・西・南・北に4分割され、東・西が和歌山県に、南・北が三重県となった。

ついでに、北山川沿いの3村、上北山村、下北山村(この2つは奈良県)、北山村(これは和歌山県の飛び地)を確認しておく。これら3村は北山川の作る太平洋側斜面にあり、地勢的には紀伊国であっても不思議はないのだが、いずれかの時代に(室町時代か)大和国へ所属した。この問題を『紀伊続風土記』は「北山郷」のところで述べている。昔は紀州北山郷と和州北山荘とはひとつだったが、“紀州と和州が境界を争ったことがあって、紀州四分で和州六分に分割されてしまった”という。
今地形を以てこれを考ふれは、古紀州の境、北の方祖母峯及大臺山に至りしなるへし。 臨川書店版『紀伊続風土記』第三集p227
この問題は、小論「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原でも扱ったので、参照して欲しい。

つぎに、大台ヶ原の「3重点」を紀伊国がどのように記載しているかを見る。
紀伊国では「3重点」のある山名を「二之又山」と呼んでいる。この山名は、大和国絵図、伊勢国絵図が言及しているのと一致している。しかも、紀伊国は、大和国ではこの山を「東之川山」と呼び、伊勢国では「堂倉山」と呼んでいるということをきちんと書いている。大和国も伊勢国も紀伊国については言及しているが、大和は伊勢を、伊勢は大和を言及していない。

結局、紀伊国絵図がもっとも几帳面に「3重点」を記載していたことになる。その山は、堂倉山=東之川山=二之又山であった。
既述のように、この堂倉山は現代の地図にも載っている(下図はGoogleマップからいただきました)。

現代の堂倉山は、天保絵図の堂倉山と同一の山を指していると考えてよいと考えられる。堂倉山から東に延びる尾根にそって紀北町(南側)と大台町(北側)の町境が延びているが、それがかつての紀伊国と伊勢国の国境である。堂倉山を通って南北に走るのは奈良県(西側)と三重県(東側)の県境である。黄色い道路が西北西方向から入ってきているが、大台ヶ原ドライブウエイである。このドライブウエイは伯母峯-経ヶ岳-三津河落さんづこうち山-日出ひでヶ岳の尾根づたいに大峰山系から大台ヶ原へ入る歴史の古い道に沿って切りひらいたもので、こういう開発手法に賛否両論がある(言うまでもなく、わたしは反対。登山路を整備し、大台ヶ原へは徒歩でしか入れないようにすべきであることは論を待たない)。
松浦武四郎「乙酉紀行」は、最初、この古い道で大台ヶ原へ入ることを考えていたようで、伯母嶺に登り、経ヶ峯に登っている。そのさきの道が消えていて、経ヶ峯から右方の谷へ降り、ワサビ谷や開拓場(明治四年頃京都興正寺の関係者が畑地を開くべく、ここへ入ったことがあった。その跡)に達している。
「熊野から吉野に越る街道」という説明をしているところを引いておく(明治18年(1885)5月17日)。
伯母嶺。地蔵やしきに到る。此処両三年前までは地蔵堂一宇有て宿るによろしかりしが、今は崩れて何もなし。大なる杉の木五六株立たる処の下陰にて湯をわかし昼飯す(より天ヶ瀬凡八十丁と云。従河合村三里八丁)。山腰は晴て有に、峯すじ皆雲に封ぜられ少々雨ふる。此脈は峯中国見岳より栃すじ、新茶屋峠と是に続くと。この脈また大台に到るなり。此の処の辻堂、新道出来迄は熊野より吉野に越る街道なりし故に泊るよろしく、人も住しと。また此地蔵尊を狼地蔵と云て、狼の巣窟なる此峠を狼は通り得ざりしと言い伝えたり。また一本足の変化者も住みしと沙汰せり。 (「乙酉紀行」、『松浦武四郎大台紀行集』松浦武四郎記念館発行p31)
ここでいう「新道」というのは、どの道を指しているのか分からないが、熊野側から水系を登りつめてきた「街道」が伯母嶺峠で分水嶺を越えて吉野側に通じる。そこに宿泊所ともなる「地蔵堂」があった、ということか。そして、その地蔵堂を通る尾根道が西へ延びて「峯中国見岳」方面へ到るし、東へ延びて「大台に到る」ということのように読める。松浦武四郎は「脈」という表現をしている。

なお、このドライブウエイ計画は古いもので、田村義彦「大台ヶ原の現状から先人の踏み跡を顧みる(2)」(ここ)は、この計画のために大正11年(1922)9月に内務技手・中越延豊が伯母峰峠から大台ヶ原に登り、大杉谷に下っていると述べている。その際、天然林の中は歩きやすいが、「北村家の植林地に入ってから雑草荊棘の繁茂が甚だしく実に歩き難く時間を要すること夥しい」とのべているそうである。北村家というのは「北村産業」で、この一帯の山林の所有者で明治後半に山中にトロッコ軌道を引き、大量の天然林伐採をし材木を出荷した(その跡を歩く登山記の「ヤブ漕ぎ日誌」が興味深い。たとえば尾鷲と上北山村を繋ぐ『道』(1))。田村義彦は、明治18年にすでに松浦武四郎が「荊棘」のために道がふさがれていると述べているのをとらえて、「北村家」が明治初期から植林をしていた可能性を推論している。
『吉野郡名山圖譜』には「すゝ竹」とある。ところが、明治18年に松浦武四郎が初めて登ったときは「荊棘」で難儀している。荊棘は勿論自生するが、植林地では特に繁茂をしてまともには歩けない。一方「北村家」とは北村林業であろう。現在でもこのあたり一帯を所有している。とすれば、松浦が登山する前、明治初年に伯母峰道周辺は植林されていたのであろうか。そして、この「荊棘」の繁茂が伯母峰道廃道化の一因になったのであろうか。
ここで言及されている『吉野郡名山圖譜』は、畔田翠山『和州吉野郡群山記』の写本の一つで、平井良朋 編『日本名所風俗図絵 9 奈良の巻』(角川書店1984)に収められている。小論『和州吉野郡群山記』の「正木はげ」を参照していただきたい。

ついでに、上の現代の地図で、牛石が原の南に「白崩谷」[しろくえだに]とあるが、これは、大和国絵図に「志らくへ」とあり崩落している崖の絵があるところと対応していると考えられる。その絵図の「大臺山」は、東乃川山(堂倉山)の北にある大台地域を代表する山とすれば、日出ヶ岳と考えられるが、もしそうなら「志らくへ」は北に書かれすぎており、東乃川山のすこし下の位置であるべきだった。
また、その大臺山(日出ヶ岳)の北側に「ともへが嵩」とあり、近くにかなり大きく池が描いてあるが、松浦武四郎「乙酉紀行」に次のように解説が入っていることで、事情が判明する。
塩辛谷の上を)日の出が岳と云。一名巴が岳なり。古くなりし絵図には、日出が岳と巴が岳と一名別物の様にしるせども、巴が岳とて別になし。日出が岳の麓に巴が淵有る故に巴が岳とも云を別物の様にしるせしなり。(前掲書p36)
ただし、この松浦の見解が、この国絵図に対して「古くなりし絵図」といっているのかどうかはわからない。松浦の見解はひとつの合理性を感じられる見解ではあるが、実地に大台ヶ原の地を踏んだ上で書き残している仁井田長群「登大台山記」や畔田翠山『和州吉野郡群山記』が「巴ヶ嶽」を明記していることからすれば、異なる見解もあり得ると思う。この点については、拙稿「「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原」(ここ)や「『和州吉野郡群山記』の「正木はげ」」(ここ)において論じた。

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最後に、この3国の国絵図が相互にどれくらい正確な仕上がりになっているのかを確かめてみようと、重ねてみた。一番大きな紀伊国をまず置き、その上に大和国を持ってきたが、縮尺も方位も変更せずに、かなりスムーズに重なるようであった。(もっと精度を上げて重ねるためには、ダウンロードした大和国絵図から国境沿いに切り抜く作業を、精密にやる必要がある。しかしダウンロードした広域地図の画素数は決まっているので、精度を上げることが出来ない。結局、下に示す程度のことしかできなかった。
その上に、伊勢国を重ねようとする。ただし、大台ヶ原の「3重点」を基準に重ねようとしている。縮尺はすこし縮める必要があり、方位についても調節してみたのだが、だいぶスキマが空いてしまう。下図を見ていただきたい。縮尺・方位・平行移動の3つの要素があるので、“最良の”重ね方を見つけるのは容易でない。決して、下図が最良であると考えているわけではないが、これら3つの国絵図がうまく重なりそうもないことは確認できた。そして、紀伊-大和は比較的うまく重なるが、伊勢はうまくいかない、という印象だった。
大台ヶ原の「3重点」辺りは最も地図測地の精度の落ちるところであろうから、海岸線が連続するように重ねて、「山国境不相知」の辺境部は無視するという地図の重ね方が意味のあることかもしれない。しかし、それは、本稿の意図とは離れるので、別の機会にゆずる。






国絵図で見る「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原  ・・・  終

8/6-2010
最終更新 3/9-2012


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