一 野口整体とは 二 野口整体の行法 三 「風邪の効用」という思想 《四 野口整体の目的》

  

禅文化としての野口整体 V24
― 気の思想 ―  

   

四 野口整体の目的 ― 禅的な身体を育てる―

   

1 整体指導とは

 整体操法という他動的な手技を行なうことを、野口整体では、「治療」ではなく「整体(個人)指導」と呼びます。
 これは、「体を整える」とは「生きる姿勢を正す」こと、という「身を先立てる」生き方によるもので、道元禅師の「身心学道」の教えに通ずる思想です。
 他動的に「丹田」を中心とする瞑想的な身体に導くことで、心身は統一し、「無心」となって頭は「ポカン」とします。すると自ずから然るの働き「自然治癒力」が滞りなく動き出すのです。
 師野口晴哉は「
私達は心の中から健康になるものを取り出そう、或いは健康に必要な心の状態を導き出そうという工夫をしているのです。(月刊全生 1976年4月号)と述べていますが、身体を正すことで心を正し、心身を統一して生きることができれば自ずから健康である、というのが野口整体の目指すところなのです。このため整体指導では身体のみならず、心理療法的な「対話」も重要な役割を持っています。
 そして整体指導の他に、自律的な「活元運動」という行法があるのが野口整体の特長です。
 師野口晴哉の「全生」思想の「全生」とは、全力を発揮して生きることですが、「全生」するには「裡の要求」に順うことが必要で、「要求」を行動につなげる働きを高める「活元運動」を行ずることが「整体である」ための中心です。

  

2 無心となってぽかんとする(天心)ための行「活元運動」

 活元運動とは欠伸や寝相といった、体がひとりでに動いてしまう、生理学で言う「錐体外路系(すいたいがいろけい)運動」を訓練する運動なのですが、別名「密教的易行道(いぎょうどう)」と呼ばれ、「禅定」に近づくを容易にする行なのです。
 師のことを今様空海とも呼ぶ人がいましたが、野口整体は密教同様、「身体性」を重視し、言語では表現しきれない教えなのです。

  

動く坐禅

野口晴哉
『風声明語』より

  

 活元運動をしている人を見ていた人が、「動く禅」だと言いました。坐禅がだまって坐って、動かないものと決めている人が多いので、動く禅と言ったのでしょう。
 道元禅師の『普勧坐禅儀』には、体を動かし乍
(なが)ら統一に入る禅の方法が説かれております。人間の心は余分なエネルギーを蓄(たくわ)えている限り、そのイライラはなくなりません。体を動かし乍ら統一する方が自然です。そういう意味で、活元運動を入定に至る方法として使うことは良き考えです。
  
 活元運動を行なっていると、いつの間にか心は統一してきます。統一しようとか、入定しようとか余分な考えは捨てて、ただ活元運動を行なうことがその秘訣です。裡の要求で無心に動く、その自然の動きの中に統一への道があるのです。
 心は心のはたらきで動く他に、筋緊張によって自動的に働いてしまう性質を持っているのです。それ故歩き乍ら考えたり、考え乍ら話をしていると、手や体をいろいろと動かしてしまうのです。それ故筋の張弛を無視して心を静めようとしても、逆現象を生ずることが多いのです。寧
(むし)ろ余分に硬直している筋を弛め、過度緊張の筋を柔らげる方が心は静かになり易いのです。
 そう考えると、活元運動によって心を澄ませてゆくということは間違っておりません。意識して動かすことより、無意識に動く活元運動の方が適していると申せましょう。

   

 こうして、個々人が「無心」「天心」の身心に至ることができるよう身体行(活元運動・正坐・行気=呼吸法)を積み重ね、身体の働き(自然治癒力)についての正しい教養を身につけ、病症や人生上の試練を乗り越えていく力を養い、闊達に生きる「全生」思想を実現していくことを目的としています。

   

3「東洋宗教」修行の現代的意義と情動

 「禅」における瞑想を「東洋宗教」を代表するものとして取り上げ、現代におけるその心理学的意味を明らかにした人として湯浅泰雄氏を取り上げます。

  

湯浅泰雄
身体論  東洋的心身論と現代』
講談社学術文庫 1990年

第三章 東洋的心身論の現代的意義

(2)心理療法と修行の共通点と差異点(283頁)

 さてわれわれにとって問題なのは、心理療法と修行の関係である。ヨーガや禅に代表される東洋宗教の修行法は治療を目的としたものではないから、それが心理療法に応用される場合には当然いろんな工夫が加えられるであろうが、それにしても、そういう臨床医学的応用が可能であるのはなぜなのか。それはさしあたり、瞑想の方法が情動不安定を解消する効果をもつからである。瞑想は皮質機能と結びついた意識活動を低下させることによって、無意識領域に沈んでいるコンプレックスや情動を表面化させ、解放し、さらには解消させる作用をもち得るであろう。原理的にはこれは、催眠や臨床心理学者が用いる各種の治療法と同じ意味をもっている。

     

湯浅 泰雄
気・修行・身体
平河出版社 1986年

第一章 東洋的心身論と現代

5 修行と芸道(46頁)

 仏教の修行論は、日本の文化史に大きい影響をのこしています。それは、平安時代の終わりごろから芸術の領域に取り入れられ、鎌倉時代から室町時代にかけて、和歌・能楽・茶道などといった分野で、いわゆる芸道論の形をとってきます。さらに、戦国時代から江戸時代初期にかけて、修行論は武術の領域に影響を及ぼし、いわゆる武道論というものが成立します。(中略)

    

6 日本武道の特質(53頁)

(55頁)武道の場合も芸道と同じように、仏教の修行の考え方から深い影響を受けています。これには、密教と禅の影響がみられます。武道の理論が生まれてくるのは、戦国時代から江戸時代初期にかけてです。
 では、武道では、心と身体の関係はどのようにとらえられているのでしょうか。私の考えるところでは、その基本はやはり、仏教の修行法である運動的瞑想(常行三昧)の考え方をついでいるようです。つまり、身体運動の訓練を通じて、瞑想が深まったときにひらけてくるような三昧あるいは「無心」の状態に達するのが、武道一般に見出される目標だといえるように思います。ですから、身体の「動」の状態の中心には、いつも三昧とか無心とよばれる静かな「不動」の中心が見出されます。
(中略)

(58頁)柳生流の『兵法家伝書』では、人間の心を「本心」と「妄心」の二つに分け、両者の関係をつぎのように説明しています。「本心」は仏教でいう「仏性」、禅では「本来の面目」とよんでいるような、すべての人間にそなわった真の自己ともいうべきものです。これに対して「妄心」というのは、「血気」であり「私(ワタクシ)」である、といわれます。「血気」とは激しやすい心、「私」とは自分中心に動きやすい感情です。

血がうごきて上ヘあがり、顔の色変じ怒りを出す。又、わが愛する所を人憎めば、怒り恨み、或は又わが憎む所を人同じ心に憎めば、悦びをなし、非をまげて理をなす。

 このように、愛憎にとらわれて自分本位の感情の動きから脱しえない状態が「妄心」とよばれています。このような妄心がはたらくと、剣をとっても弓をとっても、馬に乗っても、すべてうまくいかない。武道の稽古は、そういう妄心の動きを克服し、本心のはたらきを実現していく努力である、というのです。

妄心は心の病(やまひ)なり。此の妄心を去るを、病気を去るといふ也。此の病気を去れば、無病の心なり。此の無病の心を本心と言ふ。本心にかなはば、兵法は名人なるべし。

 つまり武道の名人は、禅の達人と同じように、無意識から起こる情動にふりまわされず、それをコントロールできる人間であると考えられています。武道の究極の目的は、禅の修行と同じように、人間としての人格の円熟した発達に求められています。
 このように日本の武道は、仏教の修行論の影響を受けることによって、自己の精神を鍛練し、向上させる技術という性質をもつものになっていきました。
剣とは元来、武器です。護身あるいは殺傷のための道具です。それは他人と対立し、対抗し、他人に勝つことを目的としてつくられたものです。ところが、剣技の訓練の究極の目的は、他人に勝つためではなく、いわば自分に勝つための方法に変わってしまったのです。『兵法家伝書』は、この変化を「殺人剣」から「活人剣」への変化としてとらえています。近代の合気道などは、このような考え方をつきつめたところに生まれたものといえるでしょう。
 合気道では、試合をして相手に勝つとか、勝負を争うということは目的にはされません。「合気」とは相手と気を合わせるという意味です。それは、相手の心身の動きと自分の心身の動きを合わせることですが、より一般的にいえば、相手と調和し、一体になり、他者を包容した自他一体の状態に至ることが目標であるわけです。このように、他人と対立し他人に勝つことを目標として生まれた武術が、自分自身に勝つ技術に変わり、さらに他人と和し、他人と一体になる技術にまで変わっていったところに、日本の武道というものの重要な思想史的意義があると思います。

      

 仏教の修行が、舞踊にも大きな影響を与えてきた日本の文化史を知ることができます。武術も、舞踊と同様でしたが、これら全て「身心一元」性の追求であったと思います。
 野口整体は、このような文化史の上に、日本近代において医療的な必要性に端を発し、現代的な要請(臨床心理・教育など)の上に進化した「身心一元論・目的論的生命観」の哲学を基盤とする生き方を教えるものと考えて来ました。

      

『月刊全生』
1964年7月号 4頁
整体協会

全生訓

師野口晴哉 十七歳

  

眠ることより起きていることに魅力を感ずるよう生くること第一也

眠るも醒むるも快き呼吸つゞけること全生の道也

 

溌剌と生くる者にのみ深い眠りがある。生ききつた者にだけ、安らかな死がある。

  

生死自然也

生ありて死あり、死ありて生あり

生死別ならず

生死ともに自然に順(したが)

之全生の心也

生は苦也

死は楽也

生々と生くる者に苦多く、楽つゞけば眠る也、たゞ生々と生くる者、苦を苦とせずそこに潜む快を身につける也

人に自己保存の要求あり、種族保存の要求あり、その要求凝りて、人産れ、育ち、生く。

もとより何の為に自己保存を為すか、種族保全を為すか知らず、たゞ裡の要求によって行動するのみ・・・・・・

  

何の為に産れ、何の為に生き、何の為に死するか人知らず。只裡の要求によって行動するのみ。

  

人ありて言う。国家を隆盛ならしむる為人は生くると。果たして然るか。

人ありて言う。人類の繁栄に貢献せんが為に働くと。果たして然るか。

人ありて言う。この学問を完成する為に吾は生くると。果たして然るか。

之らは、自分で産まれてから考え、つくった目的であって、本来あるものに非ず。されど、この目的のうちに種族保存の要求あることは確か也。その要求によって生の目的を樹てたる也、良きこと也。しかし何の為に産れ、何の為に死するか。その要求を知らざる限り、生の目標見定め難き也。

しかも目的なくも、たゞたゞ生ききんと人は努めている也。

人の生きんとするは人にあるに非ず、自然の生、人になり生きる也。

それ故、人に目的なくも生きんとし、産まんとし、人のつくった目的が成就しても尚生きていることあり、目的途中にでも、死する人あり。自然の生の案配、人のつくりし目的によらざる也。

 

自然、人を通じて生く

生死、命にあり

自然に順(したが)うこと、之生の自然也

  

人の生くること、生くる為也

その生を十全に発揮し生くること人の目的也

その為、人健康を快とし、いつも快く動く。その動きの鈍れる体を重しとし、その不調の体を自づと調律し、いつも健康への道に動きつづける也。

  

しかも、死あり快く動きて人は死に至る之自然也、生ありて不快、体ありて動かず之生の自然に非る也。

(中略)

 これは私が十七才の時に記した「全生訓」の一節です。
 こういうことが、全生の要旨であり、健康に生くることが人間自然順応の姿であるということが、私の感じて来た人間の生き方であり、之だけが、人の生くる目的なのです。十二才の時
(関東大震災の年)に気づいてから以来少しも迷いません。40年、いろいろのことを丁寧に見て来ましたが、このことを少しも変えることなく生きて来ました。安心立命こそ、天の道です。之に至るのも、天の道を大手をふつて歩くだけで良い。工夫し才覚し、頭を熱くしなければ安心立命できないと考えている人もありますが、それは間違いです。反つて、そういうことを抛り出してこの道は開かれるのです。方法も何も要らないのです。しかし、自分の体の動きを鈍くしている人が多いのでその無意運動の訓練方法を教えているのです。之が行われれば、誰も、自づから健康に至るのであります。

  

《おわり》

     

     

   

一 野口整体とは 二 野口整体の行法 三 「風邪の効用」という思想 《四 野口整体の目的》