禅文化としての野口整体 V25
― 気の思想 ―  

  野口整体 身体文化教育         
気・自然健康保持会 主宰    
金井 省蒼

2011年6月9日

(2011年5月19日 V1)
(5月23日 V2 改題・改訂版)
(5月24日 V2 修正版)
(5月26日 V2の1 推敲版)
(6月3日 V2の2 推敲版)
(6月9日 V2の3 推敲版)
(6月21日 V2の4 推敲版)
(2012年 8月28日 V2の5 推敲版)

一 野口整体とは ― 成立とその時代背景 ―
   

1 日本近代において「気の思想」を確立した野口晴哉

 創始者・野口晴哉は、明治44(1911)年に生れ、大正時代に育ちましたが、近代西洋医学が急速に普及した時代に、「西洋近代文明に代替する智」を思想として掲げ、昭和の初めから活躍した「気の世界」の達人でした。
 師は、自身の活動の基盤として「全生」思想を唱えましたが、その一端は次のようなものです。

  

『野口晴哉著作全集 一』
全生論
全生について 一

(昭和5−6年)

 全生 ―― 生を全うするの道を示すものである。生命力の強い現はれである。すなわち寒暑に冒さるゝことなく、粗衣粗食を厭(いと)ふことなく、労して疲るゝことなき積極的の意味を有してゐる。寒暑を避け、飲食に怖れを懐きて、その質を選びその量を測るが如き、着るに暖衣を以てし、労するを憂ひて生を守るが如き消極的の意味を含まぬ。所謂衛生なるものとは、その性質を異にする。

 全生 ―― 生を全うするの道は、健体を創造し彊心を保持して、これを活用することである。

 然るに現今行なはれつゝあるところの体育、衛生、医術などは、果してこの意義に副えるや否や。思ふに真の目的に逆行して、却って心身を虚弱ならしむるの現象を呈してゐるではないか。之何故なるか、その誤り何処にありや。

 本誌『全生』は先づその欠点、欠陥を指摘して一般の誤りを正し、而して諸君の前に全生の大道を開示せんとする。

  

野口晴哉
『風声明語2』
全生社

 全生の詞

我在り、我は宇宙の中心なり。

我にいのち宿る。

いのちは無始より来たりて無終に至る。

我を通じて無限に拡がり、我を貫いて無窮に繋がる。

いのちは絶対無限なれば、我も亦絶対無限なり。

我動けば宇宙動き、宇宙動けば我亦動く。

我と宇宙は渾一不二、一体にして一心なり。円融無礙にして已に生死を離る。況んや老病をや。

我今、いのちを得て悠久無限の心境に安住す。

行住坐臥、狂うことなく冒されるることなし。

この心、金剛不壊にして永遠に破るることなし。

ウーム、大丈夫。
   

 日本近代において、「気」の世界を確立した人物として挙げられる他の一人は、「合気道」創始の植芝盛平(1883年生)翁ですが、植芝翁は、師野口晴哉の「気」に対する理解に絶大なる信頼を寄せていました。この両者の「気の世界」の特質として、「対立」がないことが何よりです
 江戸時代には、貝原益軒の『養生訓』という「気」の思想が人々に共有されたように、近代化以後の日本においては、「近代科学」の負の部分に対する「気」の思想が必要で、ここに存在したのが師野口晴哉でした。科学的に発展した西洋医学とは、死体解剖学を基としたものですが、「もの」としての体と「生きている」体は違うのです。「気」の思想とは、いかに生くべきかを教えるものです。
 そして、西洋において17世紀、宗教から分離して発達した科学には「生き方」はなく、科学である西洋医学のみによって生活することは、「養生」や「修養」という「生き方」を見失うものです。「東洋宗教」を基盤とする文化に生きてきた日本人にとって、明治期の「近代化」という激変がどれほどのものであったかを、師野口晴哉生誕百年という2011年に、一弟子である私は、今本気で考えることができます。
   
 2002年6月、絶版となっていた師の『整体入門(1968年初版)』が筑摩書房より文庫化され、半年後に同じく文庫化された『風邪の効用』とともに、現在までに合わせて40万部に迫ろうとしています。

  

2 野口整体の成立と時代背景 ― 明治の欧化政策と関東大震災 ―

 「野口整体」の起源は、関東大震災(1923年・大正12年)の折、十二歳の野口少年が「手当て」を行ったことでした。
 震災後の当時、焼け野原の東京では、赤痢や腸チフスの患者が続出していたのです。
 彼が可愛がってもらっていた近所の「煮豆屋のおばさん」が、腹痛に苦しんでいたのに対して、お腹に手を当てる
(愉気をする)とおばさんは眠ってしまったそうです。
 しばらくして眠りから醒めるとすっかり良くなっていました。こうして、このおばさんを癒したのが「野口整体」の始まりでした。この評判が伝わり、多くの病人が野口少年の周りに集まるようになりました。この時から彼の神童と呼ばれる活躍が始まったのです。
 関東大震災は日本の近代化においても象徴的な大事件でしたが、維新以来の近代化の中で、明治・大正時代は、外国船が運ぶコレラなどさまざまな感染症が蔓延していたのです。
 こうしたことが端緒となり、師野口晴哉は十五歳にして東京入谷に道場を開くことになりました
(昭和元年)
   
 こうして「野口整体」は創始されましたが、その時代背景には、明治以来の政府による近代西洋医学の急激な普及がありました。
 明治政府は、明治7年
(1874年)に医制を発布し、西洋近代医学を正式に採用することとしました。そして医学教育の範をドイツ医学に求めることになり、今日の東京大学医学部を中心とした医学教育体制が敷かれていきました。
 中国での医療における近代化は、日本と違い「中西
(ちゅうせい)医学」と呼ばれ、伝統的な中(ちゅう)医学(東洋医学・漢方医学)と西洋近代医学が統合されています。しかし当時の日本は、極端に低い国際的地位に危機感を抱いた明治政府による欧化政策の一環として、西洋医学だけを国家の正統医学と認めることになったのです。
 日本の近代化と民間療法の関係について述べた『癒しを生きた人々』では、当時の西洋医療について、次のように述べられています。
  

癒しを生きた人々 近代知のオルタナティブ』
 専修大学出版部 1999年
田邉信太郎・島薗進・弓山達也
終章 癒

二 近代保健医療と〈癒し〉

(271頁)病んだ身体は、手術や薬物により修復や改造を施されていった。そして、基礎医学におけるさまざまな病原菌の発見や、医科学的技術の進展が、健康の獲得や病いの克服に、明るい将来像を提供するかに見えた。
 しかし、基礎医学的知見は大量に蓄積されていったものの、医学の臨床的現場においては、それが病いの克服という成果には、必ずしも連動していかなかった。診断と治療とは別の行為であった。病いが人間の現象であり、人間関係の現象であり、人間生活の現象であるという観点は、いわゆる物質医学の観点からは、程遠いものであった。
 また、近代医学の普及による恩恵が広く施されるにつれて、逆に、そのような治療ではうまく回復せずに、非近代医学的な癒しの知や技法により病を克服したという体験が人々の間に蓄積されたり、口伝えやマスメディアを通して、徐々に知られるようになっていった。
   

 西洋哲学では、古代ギリシャの哲学者プラトン以来、テオーリア(理論)とプラクシス(実践)が分かれ、「理論」的探求を行なう者が神に近いものとされ、技術者は下位に置かれてきました。このような思想の歴史の上に近代科学があり、科学的に発展したのが西洋医学なのです。このため、当時においては、診断による治療法と、その治療効果はより離れていたのです。そんな中、師野口晴哉は当時の近代医学では救われない人々のために活動を始めたのです。
 そして「野口整体」が創始された昭和初期、日本は植民地の覇権争いに行き詰まり、不況と社会不安の中、勝ち目のない戦争へと突き動かされていた暗い時代でもありました。十代から一門を成した師ですが、その背景には、路頭に迷い、不安におびえる多くの人々の無意識的な「要求」が存在していたのです。時代と一人一人の身体は切っても切れない関係にあり、常に師はそこを見つめていました。
 師の行法と思想は、一般の人々から、次第に、政財界、学者、芸術家などの著名人に至るまで絶大なる信頼を寄せられるようになりました。しかし世の大勢としては、「野口整体」が創始された当時から最近までは、近代医学一辺倒で、「気」など「非科学的」なものと扱う人が多かったのです。

  

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