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野口晴哉先生語録

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気の通いあいと心の通いあい 

野口晴哉 「潜在意識教育 人間の行動原理としての〈気〉」
『月刊全生』昭和44年2月号 より

   

 教育ということも同じです。生きているものの中にある気の通いあいが根本なのですから、まずそういう心が出てこなくてはならない。おもしろいことにラポールとかテレパシーとかの言葉はみな片仮名なのです。それは、日本ではこういうことをわざわざ言う必要がない。あたりまえのことだからです。

 日本では誰でもそういう言葉を普段使っていますね。例えばラポールは「そんな気がした」、テレパシーは「虫が知らせた」と言っている。天気でも「湿り気がある」といい「気配がする」と言う。株の言葉に「買い気」とか「売り気」とかいうのがありますが、そういうように気という言葉を使っている。「気嫌がいい」から始まって「気まりが悪い」「気にしない」など何にでも使っている。これは言葉以前、心が働く以前を表現しているのです。ところが西洋ではそうでなく、形になって始めてそれが心なのです。しかし西洋でも「アイラブユー」と口に出して言わなくても通じあっていますね。藪から棒にそんなこと言われても通じないけれども、先に気が通い合い、そして言うから相手にも判るのです。

 日本語には、ほんとに気を使った言葉が多い。気にしているとかしていないとか、そんな気がした、やる気がしない、その気になればやれる、気が付かない、気遣いとかいうように、しょっちゅう使っているのです。だからラポールとかテレパシーとかいう難かしい言葉を、わざわざ珍らし気に使うことは要らないのです。けれどもそういう普段使っている言葉では学問にならない。おかしなものですが、講義をしても「ああそうか」ということで通ってしまうからです。それを西洋流の片仮名を並べると、何か珍しいことのように覚えてしまうのです。けれどもそういう難しい言葉を珍らし気に使う人に限って、決まってそういう勘が働かないのは皮肉なことです。日本の言葉には、心の働きださない前にそのまま感じてしまう心、それに関する言葉が多いのです。それらを総じて勘ということもありますが、ラポールといってもテレパシーといっても、或いは勘といっても気といっても、どれも言葉にならない前に初めから解ってしまうことなのです。

 この間、湯川さんの本を読んだら、湯川さんは全部、勘で行動するのだということを言っていた。勘だけが心の働きの基だというようなことが書いてあったので、物理学者にしてはなかなか良い観方をしているなと思った。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て引力を発見したと言うことだが、リンゴが熟したということは見逃している。生物学者だったら引力よりも成熟ということの方を見つけたに相違ない。湯川さんは物理学者なのに、そういうふうに物事の心を掴まえていることは非常におもしろいと思いました。