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野口晴哉先生語録

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心の動きの基には〈気〉の動きがある 

野口晴哉 「潜在意識教育 人間の行動原理としての〈気〉」
『月刊全生』昭和44年2月号 より

   

 そのように物事の理解の下には必らず、テレパシーとかラポールとかの、心本来の働きがあるのです。好きだと言っても嫌いだと言っても、それを言葉で説明することは不可能です。不可能なのは心そのものが始めにそのままテレパシー的、ラポール的にぶつかりあっているからで、後で理由を考えても大抵は訳が判らない。自分の好きな条件を全部叶えているといっても、他所にそういう条件を全部叶えた人がいたら、同じように好きになるかといっても、そうはならない。

 ところが心の研究をしている人達でもラポールとかテレパシーとかいうものを、見えないという理由で研究対象から外している。心の理解にはフロイトなどの精神分析的な角度もいりますが、それ以前にもっと大切な問題がある。〈ツーと言えばカーと通じる〉というような、言葉以前の心の通じあいがあるということをなおざりにしたのでは、いくら言葉の工夫をしても、お互いの理解も、お互いに協力し、より良くするように導きあうということも難しい。

 「良いことをしなければならない」ということは三歳になれば皆判る。しかし七十歳になってもできない。言葉の上でいくらこれが良いこと、これが悪いことと教えてもできない。「朋友相和すべし」など判りきったことですが、人間同士というものは、近づけば近づく程アラ捜しが烈しくなる。遠ざかっていればそんなに嫌がられずに済むものを、親しくなった途端にその人の嫌味だけがクローズアップされるということはよくあることです。だから「君子の交り淡きこと水の如し」というのが賢明な交際術となっているです。

 そういうことは日常生活でよくあることですが、それも一番の基には、心における〈気〉といったような存在とか、心がまだ形としての動きを成す前の心そのものの動きといったものが無視されている為に、心のいろいろな学問が実際の生活を利するに至らないということが言えます。「そんなことをしてはいけないのだ」と言いながら自分でもやっているのです。

 汚職が悪いことは誰でも知っています。だからお金を受け取っても隠しているのです。「こういう罰になるぞ」と言ってもやはり止めない。ところがそれも、心の通い合いというものを除いてしまったらやれないのです。「こういう利益があるからどうだ、やらないか」言われてもやれない。「こうやればうまくゆくじゃないか、黙っていれば誰にもバレないよ」と言ってそそのかしてもやれない。その基に心の通い合いがないと、どこかで裏切られるんじゃないだろうか、どこかで告げ口されるんじゃないだろうかと気になってやれない。だから悪いことを人に頼むのでも、頼む人、頼まれる人同士の心の通い合いがないと出来ないのです。通い合いがなければ物騒でしようがない。だからやるという行動に直接結びつくのは、良いとか悪いとかの考えでなくて、心が通じあうかどうかという気の問題です。

 体においても気の存在は無視できない。同様に心というものを説明する場合でも気の存在は重要な要因になる。形として捉え得る心、表現された心というものもありますが、そういうものだけでは説明できないものがあるからです。親と子の間、またその他の何にしても、最初にラポールが行なわれているかどうかということで、話がどの程度通じるかということも決まってくるのです。兄弟で恋人同士でもそうで、双方にラポール的な心があれば何も言わないでもお互いの心が感じあえる。そしてそうなって始めて話も通じる。いや、話さなくてもピンと判りあえるということです。そうならない内は人間同士の気が繋がったとは言えない。意志表示をしなければ相手に心が伝わらない、説明しなけらば伝わらないと思っている人々は、ラポール的、テレパシー的な心の本質を知らないのです。やはり心を物と同じに扱っていると思えるのです。

 西洋医学では人間の体を物として扱っています。死体保存の技術から人間の体に関する知識が出てきている。最初のボタンをかけ違えると最後までかけ違える。生きている人を切り刻んで除き取ったりして片輪にすることが治療なのだとやっているけれども、そういう源を尋ねると、やはり死体保存的な考えがある。もし生きものを丁寧に見てきたのなら、生きているものの中にある気というものを最初に感じる筈だと思うのです。