塾生 水野隆末が語る活元運動

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活元運動が進歩するには心が大切

    

啓哲塾塾生 水野隆末
(静岡県静岡市在住)

2004年7月30日

活元運動がつまらなくなる

 金井先生と出会い、本物の活元運動を体験した私でしたが、その後の二年間ほど、ある問題に直面していました。
私は愉気を受け、誘導された時の運動は良いのですが、独りでの活元運動ではスッキリとした状態にはなれませんでした。「頭がポカンとしていないからだ」と思い、三つの準備運動を丁寧にやってみましたが、活元運動中気分が悪くなったり、運動後眠くなったりと、パッとしない状態が続きました。これは頭の緊張やミゾオチが弛んでいくことの経過的反応でもあるわけですが、スッキリとした状態になれないために、独りでの活元運動がつまらなく感じ、本気で取り組めないところがありました。(2001年7月〜2003年6月)

    

何のために活元運動をするのか

 そんなある日、自分の目的や目標に向かって、全力を尽くすための手段として活元運動に取り組んでないこと、積極性に欠けていたことに気づいたのです。「何のために活元運動をするのか?」という方向性が、私の中ではっきりとしていなかったのです。
 それまでの私は、今日の体の疲れや不調を取るためであるとか、心のモヤモヤを吹き飛ばすために活元運動をするなど、後始末的、その日暮し的なやり方だったのです。もちろん、一日の疲れをとり体の手入れをすることは必要なことです。ただ私の場合は、明日も全力を尽くすためといったものではなく、大変に受け身な状態だったのです。
 今でいうと活元会でよい愉気をするために私は活元運動をしているのです。不思議なもので、人生に目標を持ち、心が前向きになると活元運動が楽しくなっていきました。すると活元運動にも変化が現われ、眠くなったり気分が悪くなったりを抜けて、その先のスッキリとした状態まで活元運動が進むようになっていきました。(2003年7月)

     

心のあり方

 私はこれまで、他人にしてもらうことばかりで、自分の力で何かをするという面が欠けていました。そのために、愉気をされたいという面が強く、誘導される時は良いのですが自分でやる活元運動となると力のないものでした。
 また、これまでに音楽や武術など、好きなことはやってきたつもりでしたが、これらをどれだけ本気で取り組んでいただろうか? 本気になって取り組んだ時期はあっても、それを続けることや、そこから学ぶということが、どれだけあっただろうか? 自分の血となり肉となるものがどれだけあっただろうか? そう考えた時に、どれも中途半端であったと思えたのです。
 登山でいうと、いろいろな山には行ったけれど、どれも頂上まで登らずに、七合目や八合目あたりで降りていたようなものです。それぞれの山に行き、そこの様子を他人に語ることはできるけれども、本当の達成感や満足感はなく、中途半端な生き方をしてきたと思いました。こうした自分の心のあり方も活元運動でスッキリとした状態に進めなかった原因のひとつであったと思います。(2003年7月)

     

活元運動で充たされる

 体が弛むことで心も弛む。これは体が満足したということであり、心が充たされたということです。充ちるということが、どれだけ行動や思いに影響を与えるものかを、私は活元運動を通して実感してきました。
 充ちた状態というのはとても心地良い幸せな状態です。また心に余裕があるのです。そのため、物事に対して落ち着いて行動ができる。相手の気持ちを理解してあげたくなったり、手を貸してあげたくなる。反対に充ちていない時は、相手のことなどおかまいなしで自分のことばかり優先してしまう。
 充ちるということは、自分も相手も愉快な状態へと導く働きが自然に起こるのだと思いました。(2003年7月)

     

体で感じる

 活元運動をすると身体感覚が高まってきます。そのため、普段の何気ない人とのやり取りで、ふと「首がこった」とか「我慢している」など、身体や内面の動きが早く捉えられるようになってきました。これまでは、こうしたことを体で気づくことはありませんでした。仕事を終えて家に帰っても「今日のあの人はイヤだった」という感情が残っていれば、やはり気持ちは晴れないものであり、こうした状態ではしっかりと人に愉気することなど出来ません。些細なことではあるけれど発散されなかった心の働きがスッキリとしていた体の状態を曇らせるのだと体験的に分かってきました。練成会ではこうしたことを初めから学んでいましたが、こういったことがどれだけ大事なことかを体で理解するまでには年月がかかりました。
 また、活元運動をすることで体の状態を感じられるようになっていく中、「体が敏感であるから自分で自分の体を保つことができるのだ」ということの理解が深くなりました。
(2004年1月)

    

正座と活元運動

 私は活元運動で腰や骨盤が動くようになった頃から正座がしやすくなりました。そして、しっかりと正座ができる時ほど質の良い活元運動がでる。正座の良し悪しが活元運動の高まりを決定づけているといえます。正座に慣れていない人は、初めのうち、立った状態やイスに座っての活元運動でもかまわない訳ですが、身体がこなれていくにつれて正座で行うようにして、自分の活元運動を良い状態へと進めていって欲しいと思います。
 正座は心と体の状態を現わすものであり、心身のあり様を知るにはとても優れた姿勢です。頭がイライラしている、気持ちが落ち着かないなど、頭や胸に気が上がり、腰・腹(下半身)に力が降りない時は、きちんと正座をすることなど出来ません。そのため、私にとって正座は自分の状態を観るバロメーターとなっています。
 例えば、朝目覚めたら、まずフトンの上で正座をする。この時にしっかりと座れる時は、朝から調子良く動くことができます。きちんとした正座が取れない時は、脊髄行気法や深息法で調子を整える。時間があれば活元運動をする。少しでも良い状態へと改善する気持ちが大切だと思います。外出中は正座ができる所など無いため、正座に近い跪座や蹲踞で調子を取ることが多くなりますが、正座を通して自分をみつめる時間を作ることで、新たな気持ちでのぞむことができ、心と体をよい状態で使うことが出来るのです。
 そして、調子の良い状態とは、たんに体が軽くてよく動けるとか、気持ちが良いというだけではなく、「気くばりができる」「よく気がきく」など、気がよくまわり、気がよく使えるということです。こうした「気」がスラスラと使えている時は、心が晴れ晴れとして、スッキリとした状態を保っていることが多いことに気づきました。こうした「気づかい」の心とは、活元運動だけでなく、日本の身体文化の要である正座を通して養われていくものだと思います。
 私は日本の身体文化を伝えていく人間でありたいと思っています。そのためにも、正座という型を身につけることは私にとって必修科目であり、大切な目標です。

 私にとって野口整体はとても高い山です。登ることは苦しいけれど、これを乗り越える力を呼び起してくれるものが活元運動であり、その楽しさを教えてくれるのもまた活元運動です。