表装製作と修復   
  1.隈取 2.放屁合戦
 3.般若経修復 4.豊国神社拓本
  5.日の丸掛軸 6.裏打紙
. 7.世界の布思議

 top  仕立・修復  表装  道具  裂地  和紙  表装教室


7. 世界の布思議 インド

 漢瓦当拓本更紗仕立掛軸

漢瓦当(龍・鳳凰・虎)拓本更紗仕立掛軸
 古更紗

中世、茶道が隆盛すると、それに付随する掛軸や袱紗なども、今までにない斬新な美を追求し、その中で当時南蛮船で輸入されたインドやジャワの更紗が茶人に大いにうけて使われ、着物や帯にも取り入れられた。それは日本にない模様と華やかな色に異国情緒を見出したといえ、洋の東西に関わらず人間の持つ感性かもわかりません。
私もその模様と色に魅せられ、いくつか掛軸の表紙に使いました。また明治時代だと思われる更紗を蒐集した「古裂帖」を手に入れ折に触れて眺めて暮らしています。

左の掛軸作品の更紗は「絹更紗」で、圧倒的に木綿更紗の多い中で貴重なものです。軸に使った残りでシャツにして時々着ますが、最近は裂が弱ってきて着用が難しくなっています。
 世界は布思議wowow
TVのWOWOWでいま「世界は布思議」(洒落たネーミング)が放映され、一回目がインドの更紗。素敵な番組です。2回目は東アフリカ・カンガ。3回目はポーランド・ヤノフ村のタペストリ(いづれも6/25放映) 
 ブロックプリント花柄
布の模様は織るか染めるかで描き出します。日本の西陣織やヨーロッパの刺繍は織りですが、インドや東南アジアでは染色が主流になり、模様も色も独特のもので、東インド会社によって世界中に輸出されました。
 奈染
染め方は手描きもあったようですが、大量生産で捺染というプリントが主体となります。
 なせん
小さなウッドブロックに染料を塗り、どこで継いだかわからないように押していく方法です。
 染め 青色
染色は媒染という染料を組み合わせることによって、素晴らしい発色を出します。この方法が日本ではなかなか難しかった様です。
 乾燥 赤色
染めた布を水洗いした後は乾かします。タイトルの写真では屋上で平置きで、この写真では壁にかけて、インドの強烈な太陽で乾かします。
 ウッドブロックの彫り
ウッドブロックの模様を彫る。鑿に普通は金づちですが木の棒で彫っているところが独特。
 深彫
とっても彫が深いですね。木の種類は何なのでしょうか?
 ウッドブロック(夏秋所蔵)
私もいくつかウッドブロックを持っています。16㎝四方、厚みは4㎝、取っては3㎝、模様の彫の深さは5mm。
 ウッドブロック 横取って
重量は720gト思いです。色連れを防ぐために重くしてあるのでしょうか?
ウッドブロック拓本
ウッドブロックを採拓しました。詳細は「拓本」HPへ
 雅子様
インドネシアをご訪問された皇后・雅子さまがジャワ更紗(パティック)を付けられた楽しそうです。

   布や紙に模様を描く方法は、手描きか媒体を使うかに分かれます。手で描く日本画は手描き、版木を置き、その上に紙を載せる版画。
蝋を使って、色が混じらないように描く手描き友禅、模様を切った型紙を布に載せて色をそのカットした隙間から布に染料を流し込む型染めなど多岐にわたりますが、ウッドブロックを使って染める方法は特殊で今もインドでは生きています。そういえば襖紙に使われる唐紙は、版木に付けた染料を布に写して、それを紙に写すという手の込んだ方法で染めますね。
いずれにしても模様を彫った版木も型紙も色が付きますが、拓本は模様の上に紙を当て、湿してへこませて、その上に薄い紙を当ててタンポで墨をつけるという方法を採りますので、元のものは全く汚れません。素晴らしい技法ですね。拓本HPへ https://www.takuhon.com/


7. ミツマタと徳川園

 ミツマタ  
先日、名古屋アサヒカルチャー表装教室の前に、徳川美術館に行きました。お雛様展は二度見ているので、初めて庭園を見学しました。
想像よりはるかに立派な庭園。特に地形の高低差を利用した池と瀧は豪快でした!
そこで発見したのがミツマタ(三椏)です。花が満開になっていました。写真のように枝が三つに分かれています。
ミツマタは和紙の原料になります。用途としては日本紙幣に使われているので、日本人にとって最もなじみ深い和紙ではないでしょうか。でもほとんどの方は和紙?とは認識していないでしょうね。江戸時代の小判や銅銭から、明治維新になり、近代化のために作られたの紙幣、その原料の中で強く艶のあるミツマタが選ばれたのです。それは今でも世界でも有数な紙幣として使われています。

和紙の原料には、ミツマタ以外に楮と雁皮があります。特に楮はもっともよく使われる原料で、和紙のほとんどは楮と言って良いでしょう。
表具の世界でも裏打ちは楮紙を使いますし、襖や障子にも楮紙が活躍しています。強くて廉価で製紙しやすい特徴があります。
雁皮は薄くて艶のある紙になります。これもいろいろな場面に使われています。
日本の和紙のなかで楮紙(本美濃紙・細川紙・石州紙)が世界無形文化遺産に登録されています。
本当は奈良の宇陀紙や美栖紙、吉野紙、ミツマタから作られる箔合紙や鳥の子紙も遺産に早く入れてほしいものです!
(2023.03.28)
 ミツマタ花  大曾根瀧
龍仙湖 
   


6. 裏打紙 美濃・美栖・宇陀  2022年 戻る  和紙

  表装・表具では和紙は最も重要な役割を担います。千代紙や壁紙と違い、表に出ない影の存在、いやいや裏の存在です。実は表具そのものもアートや家具、修復の影の存在で、掛軸を製作しても、誰それの製作とは書きません。私も掛軸の上部の半月状の八双といわれる木の隅っこに小さくサインするだけです。100年後その軸が痛んで修復されたとき、日の目を見るのが少し楽しみです。
それはさておきその表具用の和紙・裏打用の紙について少し載せます。ここでは例として掛軸の裏打紙の話です。(2022.3.15)
 裏打

掛軸は作品(書画など本紙)とその周りを飾る表紙に分かれます。本紙には紙(紙本)や布(絹本など)作品、表紙も和紙と裂地があります。そのいずれも裏打をしなければなりません。もともと掛軸はかけて飾って、巻いて収納するという機能から、巻ける柔らかさと、掛ける平面性が求められます。そのためには本紙が柔軟であることと平面であることが基本です。書画の多くが薄い紙(画仙紙など)にかかれるので、薄く皺もあり、折り目や破れもあるかもわかりません。ということで本紙にまず肌裏をします。
美濃

肌裏は薄手の楮紙を使います。代表的なのは美濃紙で、特に薄美濃紙と呼ばれる非常に薄い紙です。薄いが丈夫です。私は特に手すきの純楮の手すきの薄美濃紙の薄口か中厚を使います。肌裏をした後、仮張り台(柿渋を塗った襖地状の板)で何日か乾かします。

 薄美濃紙の薄口。美濃判は横三尺丈二尺(98×65㎝)なので、ほとんどつないで使います。そのつなぎ目を喰裂(ちぎる)してつなぎます。上部簾目が繊維が長く、横の糸目が繊維が短いことがわかります。継ぐときは長い繊維の方をつなぎます。
 美須

乾燥後、必要に応じて増裏をします。これはもう一枚和紙を貼ることで丈夫さと伸縮性を防ぎます。そのため紙は美栖という特殊な紙を使います。肌裏の美濃は繊維が長く丈夫ですが、伸縮性があるので、表紙との同調性が難しいので、楮の中に胡粉を混ぜた、奈良の吉野の国栖でしか産しない美栖を使うのです。これは小判で、つないでつないで使うので難しく、一般には美濃判の美須をつかいます。
美須(美濃と同寸)は繊維が粗く、喰裂も短いですね。増裏の場合は、肌裏と同じところで繋がないようにします。
 宇陀 

最後にするのが総裏といいます。ここで宇陀紙を使います。宇陀紙は楮の中に奈良県吉野川上流でとれる白土を混ぜて、薄くて強くて伸びない紙
使うことで、掛りの良い掛軸が生れます。宇陀紙は横幅は広いのですが丈は30㎝ほどしかないので、必ず喰裂して繋いでいきます。これが掛軸が反らない工夫にもなります。肌裏、増裏、中裏は滑面に糊をつけますが総裏は裏に糊をつけます。
 和紙



美濃判と美栖判 大きさの違いがわかります。大きな軸の場合、総裏前に美栖で中裏することがあります。


5 日の丸掛軸の修復  2021年 戻る

日の丸 一面にビニールで覆って裏の掛軸の方でテープで接着。端の旗を止める紐が残っています。  6月末、千葉の生徒さんから、今年亡くなられた父の形見のものを、ちゃんと掛けられるようにしてほしいという依頼を受けました。それも新盆に飾りたいという依頼、あまりのすごい日の丸に、つい引き受けてしまいました。
お父様は第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)学徒出征(大学等に在籍する20歳以上の文科系などの学生を在学途中で徴兵)で東北大学三年生の21歳のとき、中国に出征。その時卒業した神奈川県立横須賀明徳中学校有志の日の丸をもらって戦地に赴きました。持っていかれたかどうかはわかりません。敗戦後シベリアに抑留され、バイカル湖近くの捕虜収容所に囚われ、やっと帰還されました。

その旗を家にたまたまあった掛軸の裏に粘着紙に張って、それをビニールで覆って寝室の壁に終生掲げられて、日々眺めておられ、先月98歳でお亡くなりになったとか。どういう思いで飾られ見ておられたか?詳しいことはわかりません。
大学で勉学に励んでおられたのに、一瞬で満足な訓練もなく戦地で戦わされた思い?楽しかった中学校の仲間の励ましを心に、無事帰れたことへの思いなど、いろいろ推測できますが、わたしはただただ終戦記念日にこの旗を修復し納めることが、第二次大戦で多くの亡くなられた方への鎮魂だと思い仕上げました。
 修復1
表面はすべて粘着紙に直接旗が張られています。これを剥すには薬品がいったり、多くの時間、手間がかかります。納期はひと月、裏を剥すと結構薄くなりましたのでこの状態のまま、薄美濃紙で裏打をしました。表の接着紙の部分は、表面から剥がれた屑粉で粘着性が無くなりました。それでもねちゃねちゃする部分は補修用の染紙を千切って埋め込みました。
 修復した掛け軸
本来は表から一度薄ノリで止めるべきなのでしょうが、乾かす時間や糊をつけての反応がわからなかったので、そのままにしました。修復に関しては再度挑戦したいと思い、とりあえず新盆に間に合わせることとしました。出来上がりを見ると白くなった分、文字とかの墨が粉末化しカスレも出ました。残念です。また仮張りが三日という、納得できない作業でした。なので少し反っています。しかし依頼主から、無事法要ができたというお礼の電話いただきとりあえずほっとした15日でした!
 日の丸の裏
どなたかの掛軸です。裏になっていたので比較的奇麗です。テープも粘着が弱っていてそれほど傷めずに剥せました。 厚い紙は粘着紙を利用して少しずつ剥します。


4 豊国神社社号標拓本掛軸 2020年 戻る  Stone Rubbing  採拓記

 豊国神社碑 豊国神社碑採拓 
 京都京セラ美術館開館記念展に合わせて、京都の明治大正にかけての著名な書家・山本享山が書いた「豊国神社社号標」の拓本と掛軸を依頼され完成!10月10日から12月6日まで本館入口の旧建物壁面に飾られました。

石標本体だけで4m以上あり、六尺画仙紙6枚で採拓後、「豊国」と「神社」に分けて裏打から総裏まで、また天地も「天」と「地」に分けて総裏し、四点を仮貼後、KBS教室を借りて継ぎました。分割された一枚ずつは喰い裂きでわからないように繋ぎ、また上下の総裏した本紙のつなぎ目もわからないようにし、あたかも一枚の巨大な紙で拓本したように工夫しました。上下の二枚とも長さが2m以上、幅1m以上あったので、こちらの工房の一番大きな仮貼り板で乾燥。その前に別の処からの依頼の拓本掛軸八本の製作していて、それは幅はあまり大きくなかったのですが、やはり超長で、大きな仮貼り台三枚、大忙しとなりました。なお表装布は幅広を使いましたが、それでも足りず、真ん中で繋ぐこととし、中央の裂地にたまたま持っていた西陣の緞子で、瓢箪柄のものを使い、豊臣秀吉を偲ぶ形としました。
この大きさの掛軸なら、もっと太い軸棒を、中をくり抜いて重さを軽くして使うのですが、予算の関係上、径1寸3分にして、収納時には太巻きに巻いて保存するように工夫しました。

3 蓮開寺大般若経修復記録 2014年~2018年 戻る

  『大般若波羅蜜多経』唐代の玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義が書かれている「般若経典」を集大成したもの。通称は『大般若経』で、『般若経』とも略され、全16部(会)600巻に及ぶ膨大な経典群です。663年完成。この漢訳は広く日本にも伝えられ、現在日本国内各寺院に保存されています。今回の蓮開寺大般若経もその一つといえます。
 お経修復前 
 「蓮開寺大般若経」修復にあたって、まず現状把握から始めました。経巻は元は巻物状態で 伝わっているものと、本経のような折本(帖)のものがあります。読経の時は折本の方が扱いやすいので、現在はほとんどお経は折本として伝わり、使われています。 さて本経600巻、相当傷んでいる表紙もあり、変えた方がいいかなと思ったのですが、こういう柄の和紙は今全くないことと、これも文化財と思いそのまま使用しました。はがれたり汚れたものは少し修復しました。上左は170巻、266巻は比較的よく300巻は色あせています。これは積み上げられた状態のトップにあったのでしょうか。 
圧倒的に多いのが虫食いによる被害です。綺麗に円に食べて残った部分が一頁に残ている部分です。それ以外の部分は完全に穴が開いています。それを一つづつめくって、それぞれのページに移して裏打をしました。このように残紙がある場合はまだいいので、完全に消えている場合は、同じ紙がないので裏打紙だけで処理しました。本来は同じ紙を探すべきでしょうが、最近は古紙が不足で難しくなっています。
 お経虫食い  お経
 経函  経函新
第1巻は表紙の汚れもひどく、本体から外れ、裏表紙も剥がれています。そして表紙・裏表紙は薄い板(ヘギ・杉か檜)が使われていました。奥書の年号は寛政四年は1772年で杉田玄白や北斎の時代です。文化九年は1797年、広重が生まれた年です。文政五年は1822年シーボルトが来日、異国船打払令がでています。40年にわたり奥書が書かれています。
本体の虫食いが裏表紙の木片まで進んでいました。裏表紙に接する本体の部分には応急処理として障子紙が貼ってあります。左端はページが密着してしまったもの。これはほとんどの冊に見られました。紙の継ぎ目が剥がれたところを、濃いノリで止め、そしてすぐに畳んだのでしょうか、表にはみ出たノリで接着してしまったようです。中の写真はセロハンテープで剥がれを防いだものです。これも結構ありました。
セロハンテープは近代大発明のものでしょうが、文化財にとっては大敵です。剥がれにくく、字の墨をとってしまい、薄くしたり、なくしたりしてしまいます
  経
  新しく経箱を作り、すべて鍵がつけられました。箱には干支で子丑寅・・・戌亥と12箱あります。
 箱にはそれぞれ帙に経典を入れて保存しています。箱に五帙、一帙には10冊。一経箱に50冊、12箱で600巻となります。
帙は私の方で製作、厚紙に緞子張りです。こはぜは骨です。また内張りは金砂子の和紙を張りました。
経箱は指物師の方で製作。600巻ありましたが数点順序が逆になっていたり抜けていたりしていました。
 2月15日は城陽市近鉄久津川駅西隣にある平井神社の宮寺・蓮開寺春祭りがあり、大般若経転読が行われました。このお祭りがこのほど城陽市指定文化財となりました。この大般若経六百巻は江戸時代1831年に寄進されたもので、ほとんどが虫食いや汚れ、簡単な応急処理だけされた状態で伝わってきたのですが2014年から16年まで三年かけて、私の方で全巻修復し帙に入れ納めたものです。
小さな工房ですが貴重な文化財を修復できたことはうれしい限りです。転読は扇面の様に広げながら読経する宗教行事なので、丈夫さも求められます。博物館に収蔵し、時たま展示するものでなく、生きた文化財ですから、それなりの修復をしなければなりませんでした。これからまた何百年転読されていくと思うと修復の責任も感じています。

2 放屁合戦絵巻  2016年 戻る

 放屁巻物
 おならの合戦を描いた絵巻があります。世に放屁合戦絵巻と言われるものです。鳥獣戯画絵巻を描いた鳥羽僧正筆?の「勝得絵巻」 で、 三井記念美術館蔵 紙本着色 1巻 室町時代(15世紀)模写が残っています。勝得絵巻とは前半が陽物(男性器)比べ、後半が放屁合戦となります。
修復した絵巻は奥付きによると、今から350年ほど前、寛文ハ年(1669)に目黒の大園寺雅聲写す・・・とあります。ご覧のようにとっても絵が上手です。また用紙も古く、よくできた作品ではないでしょうか。三井さんのと比較したいですね。
さて絵巻といってもまくり状態ですが、巻物に仕立てました。生麩糊を使い、いつでもし直しを出来るように簡素な仕立てとしました。また巻物は折れが出やすいので太巻きとし、大きめの桐箱に納めました。
2013年に英国タブロイド紙『Daily Mail』で紹介された早稲田大学所蔵の200年前の放屁合戦絵巻を見て、世界が日本のユーモアセンスにビックリしたとか。それよりもこちらの方が出来がいいと思います。 
  
  放屁合戦
 修復前  修復
 巻物
さて奥書にある目黒「大圓寺」は雅叙園のとなりで、幾度となく寄せてもらってお参りしていたのです。偶然今回、千葉の方からの依頼で修復、仕立てましたが、これも仏縁でしょうか。
大圓寺は東京都目黒区下目黒にある天台宗の寺院。山号は松林山。本尊は釈迦如来。大黒天を祀り、元祖山手七福神のひとつ。寛永年間(1624-1644)湯殿山修験道の行者大海が創建。このことから巻物の奥書も信憑性があります。(2017.8.8) 
 巻物中

1 歌舞伎・土蜘蛛隈取掛軸  2000年 戻る
隈取   本紙は歌舞伎不世出の名優と言われた六代目尾上菊五郎(六代目といえばこの人を指す・1885-1949)の歌舞伎演目「土蜘蛛(土蜘)」の隈取(くまどり)です。
「土蜘蛛」は能から採られた明治期のもので河竹黙阿弥の作品で、それを演じたのが六代目の父五代目菊五郎です。話は山中に巣くう土蜘蛛を源頼光が退治する話です。蜘蛛が手から放つ蜘蛛の糸はダイナミックで歌舞伎や能で一番の見せ場です。
隈取は演技が終わった直後、布に移しとります。汗をかいているのでうまくとれるようです。普通赤が多いのですが土蜘蛛は茶色で隈を描く特殊な例です。

さてなぜこの隈取が我が家にあったかと言えば、祖母が祇園で三味線の師匠をしていて、六代目からその技を褒められご贔屓いただいた仲から頂戴した掛軸です。それを今回仕立て直ししました。
祖母は私が物心ついたころには三味線は弾いていませんでしたが、レコードがあって聞いた記憶があります。最近現役のころのハガキが見つかり読んでみると、 祖母の計らいで東京の歌舞伎座に行かせてもらった芸妓や舞妓のお礼状が沢山ありました。娯楽の少ない当時、喜々として楽しんだ風情がしたためられています。私の7歳上の姉が六代目に抱かれている写真もありました。残念ながら私が生まれた頃は祇園から今の地に移っていて、祖母も現役引退し、ただのこわーいおばあちゃんになっていました。死ぬまで凛とした姿だったので子供心に怖かったです。
現在尾上菊五郎は七代目、奥さんは富司純子、長女は寺島しのぶ、長男は五代目菊之助。 
 土蜘蛛六代目菊五郎
 隈取 土蜘蛛 
 蜘蛛の糸
土蜘蛛の舞台のような蜘蛛の巣でなく、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」角川文庫版からイメージを得ました。

シケ(紬風の絹織物)をパーツに切って青色の和紙を沈めとしたあと、その上に青の露糸を嵌めこみ、中心から一本の赤い露糸をのばし、地の軸したから板(床の間や畳)すれすれまで赤糸をたらしました。本の表紙のように蜘蛛形をぶら下げてもよかったのですが、ちょっとやりすぎなのでやめました。 (2015.11.11)
 

戻る