毎日グラフ1981
1・25
オーケストラの仲間たち


石丸氏と練習後に 「毎日グラフ」1981
1・25号 特集「魅力の周辺」 石丸寛さん
 全国で取材ひと味違う
  「オーケストラの仲間たち」


 現在は「アミューズ」という形で続いているが、当時「毎日グラフ」として発売されていたB4サイズの写真週刊誌である。写真週刊誌といっても、昨今の低級写真週刊誌とは異なり、隔週発売、読みものも充実している。
 第41回定期演奏会(1981.1.24)と前後して発売された1/25号における、この特集記事で、金大フィルがひと味違う地方オーケストラの一つとして紹介された。石丸氏の全国での活動と氏の人間像を軸に、ドキュメンタリー風なレポートを見ることが出来る。

 この記事は、毎日新聞社「アミューズ」編集部様の御厚意により掲載を許可いただいた。20年前のアマチュアオーケストラ界の様子を窺い知ることが出来る。
 同記事では、金大フィルを含む5つのアマチュアが紹介された。下の石丸氏記事の後に、各オーケストラが紹介された。

 左の写真は、石丸氏記事中より。クレジットはないが、金大フィルとの練習後の宴会の様子。手前から、コンミス宮崎氏、石丸氏、西川氏(次年度団長)、花本氏(正学生指揮者)が見える。


「アマチュアの意識を変えるところから
始めなければならなかった」

東奔西走という言葉は、まさにこの人のためにあるのではないかと思う 一年のうち三百日は旅の空で過ごし 北は札幌から南は沖縄まで飛び回り 八年間で延べ八十のアマチュ・オーケストラを一から指揮した。





 その町の音楽を育てたい

 「地方の音楽を育てなくては」石丸寛さんは戦後福岡で軍服を脱いで、頼まれ仕事で指揮を始めたころから、一貫してそう思い続けてきた。
 「なぜみんな東京へ行ってしまうのか。この地に何かを創らなければ・・・」。中央指向型の日本の音楽文化を嘆いていた。
 ヨ−ロッパではどんな小さな市にも市立の歌劇場があって、オーケストラも組織されている。音楽が市の文化行政の主流を占めているからだ。その町の文化水準を知りたかったら、オーケストラを聴けば分かるとさえ言われているほどだ。
 日本では東京に九つのプロのオーケストラが集中していても、その周辺の千葉県や埼玉県には一つもない。
 「その町に美術館があり、図書館があり、美しい公園があるのと同じように″音楽″があってしかるべきだと思うんです」
そんな願いが叶って、石丸さんの地方オーケストラの育成のための日本縦断は、四十八年から始まった。スポンサーは「ネッスル日本」。主催は、各地方の放送局である。
ちょうどその頃、四日市のたれ流しに始まる一連の公害問題が起きて、大企業が社会に還元する事業を探していたやさきだった。
 条件は個人や固有の団体の育成ではなく、その地域のオーケストラを育てること。核になるオーケストラを中心に公募でその周辺にいるプロ、アマの演奏者を募ってその都度オーケストラが結成された。
 初年度の第一回は「福岡ゴールドブレンドコンサート」。石丸さんが戦後初めて指揮をした九州交響楽団が核になった。
 「渋いアマチュアのオーケストラを育成するといったってどうなるものだろうと、スポンサーも同じ気持ちでしたね。一年目は薄氷を踏む思いでした。もう一年続けてみようかと二年目になると初回は何も分からなかったメンバーが目を輝かせて集まってきたんですね。それは聴衆の側にも手応えがあり、三年目にはかなり勇気をもって入っていけるようになりました。四年目からはそういう心配はいっさいなくなり、スポンサーも永久的に続けたいと言い出すようになりました。」  レコードでは鑑賞していても地方の放送局もオーケストラの練習とはどんなことをするのか分からない。演奏以前にアマチュアの意識を変えるところから始めなければならなかった。昨年まで唯一八年連続してコンサートを開いている新潟にしたって、第一回目の時は七、八人しか集まらなかった。練習会場は競技場のスタンドの下だった。譜面を持って帰った人が休んでしまったので演奏できなかったりしたこともあった。アマチュアだから、こんなもんでいいだろうという甘えがいたるところでみられた。音にはプロもアマもない。石丸さんは忍耐強くオーケストラを育てていった。
 「ボクの仕事はプロセスです。一晩の演奏会も大切ですが、来年までにこのオーケストラに何を考えさせねばならないかということです」
 すばらしい表現ができたとき、指揮者みょうりに尽きるという。
 一つのオーケストラを半年前から特訓する。この八年間で延べ八十のオーケストラを育てた。
 札幌から沖縄まで全国各地をほとんど回った。一年のうち三百日以上を旅の空で過ごす。




   密度が濃くて、息がつまる

 大正十一年中国の青島(チンタオ)生まれ。父は貿易商。三、四歳ころ両親に連れられて活動写真へ。そのころは無声映画で弁士と楽団が付いている。映画のストーリーには興味がなかったが、オーケストラ・ポックスに感心。上からのぞいて楽士さんたちにキャラメルをもらっていた。最初の音楽の出合いは単独の楽器ではなくてオーケストラだった。
「いま考えてみれば、子供心にも共同作業のすばらしさに魅せられていたいたんでしょうかね。」
 映画監督になるつもりはなかった。そのころ映画はまだ芸術ではなかったから。画家か音楽家になりたかった。青島中学ニ年の時に夏の甲子園へ補欠で出場。一回戦で負けた。
 日支事変が始まって一家は東京に引き揚げる。早くから絵の才能に恵まれ、文化学院大学美術科に進む。国展に最年少で入選して新聞でも紹介された。学生時代から指揮者の山田一雄氏に指揮法と管弦楽法を学ぷ。
 戦争中は睦軍歩兵部隊で満州へ。戦後は福岡へ復員。アマチュア音楽家の指導にあたる。
「なぜ東京にみんな集まってしまうのか」と石丸さんが嘆いたのはそのころだった。
 「大学のオーケストラや合唱団、NKHからも頼まれて棒を振っていましたが、九州でテングになっていてはと、プロの荒波にもまれるために、二十九年に東京でデビューコンサートをしました。」日比谷公金堂で東京交響楽団を指揮した。
 新進指揮者は老かいな団員との接触で「イバラの道」を歩む。そのころから毎晩のように酒を欠かしたことがない。
 結婚して長男が生まれたのは三十一年。「音楽家だけにしなければ産んでもいい」と奥さんに言った。
 「ネコもシャクシもピアノを習わせているという、ママゴンへの反発もあったんです。ボクは音楽家にするのには超一流でなければという持論があったから」子供が生まれる前から奥さんと約束した。
 その後、テレビで「題名のない音楽会」を黛敏郎氏、藤田敏雄氏と始めたが、いつのまにかブラウン管から石丸さんの姿が消えていた。 地方オーケストラ育成のために全国を駆け巡っていたのだった。
 「カがみなぎってはダメ。本当に澄み切った青空のように、ハイニ〜と」。指を鳴らして拍子をとりながらファゴットに注意する。ベートーベン「フィデリオ」序曲を指揮しながらの練習風景だ。「絹のハンカチを空に投げて落ちてくる感じで」と、両手を抱え込む動作。「パートごとに別々の気持ちではダメ。全員が一つのことをやっている気持ちで」とバイオリンの指導。「消極的にならないように、気持ちは積極的に、ハイ三、四・・・・」。
指揮台の上から言葉と動作が休みなくついて出てくる。
 「石丸先生の指導は厳しいが、ツボをこころえている」「密度濃くて、息がつまるようだ」と、石丸さんに教えられた団員は、語っていた。
 「技術的に高いアマもいれば、低いプロもいる。」音にはアマもプロもない。本物の音を要求する。石丸さんが福岡時代に初めて手掛けたオーケストラは、九州交響楽団としてプロになった。「この地に何かを創らなければ」という気概は見事に花を咲かせている。


石丸氏、毎日グラフ1981より
 アマチュアを一から育てる特訓は厳しい 「密度が濃くて息が詰まりそうだ」 と団員は語っていた




 外に向けて広がってほしい

 −−−日本のアマチュア音楽家の特徴は

 「音楽をやっている人は自分が自分がという人が多いですから、皆でやろうとか社会に向かって広がろうという感覚がないんですね。その町に別の楽団があっても、あの指導者はよくないからとか理由をつけて、少人数でもいいから自分たちだけでやろうとたえず内側に向かってしまうんです。
 そのくせその人たちは定期演奏会という名目で公衆の前でやるんですね。客の入ることを願っているわけです。その感覚をつきつめてくれたらと思うわけです。
 日本では、音楽はまだ趣味なんですね。しかし音楽というのは植木に水をやるのとは違うわけなんですけどね。」


−−−−音楽に県民性はありますか
 
 「ポクはその土地で県民性など絶対にないって言っているんですけど、あるんだよね。太平洋側は太陽がさんさんとしているから良い意味でも悪い意味でも反応が早い。北国でも寒さの厳しい青森県や岩手県は荒々しいところがある。北陸から山陰に掛けての日本海側は表現に達するまでに時間がかかりますね」
−−クラシック音楽というと”高尚”というイメージが強いが。

 「やっばりありますね。一般市民や聴衆の隅にあるのか、プレーヤー自身にあるのかといったら両方にあるんですが、少なくともポクの立場ではお客さんがクラシックとは難しくて分からないものだと言うのに対しては、まずボクらの音楽がそういうものをなくしていかなければならないと思うんです。プレーヤーの発する音の方がね、そうすればいつの日にかそういう考えはなくなると思います。
 しかしまだプレーヤーの方に、私はクラシックをやってますという一種の”選民”意識っていうのがありますね。ヨーロッパの連中にはまったくありませんよ。サラリ−マンも靴屋さんも”バイオリン屋”って感覚ですからね。
 日本は音大を出て、それを職業としている人は、ヨーロッパ文化を身につけてオレはそれで飯を食っているんだという意識が生まれるのでしょうね。
 アマチュアの場合は自分の出す音が余りにもひどいので、そんな意識は全くない。(笑)だから客席で聴いている側にオレはクラッシックファンで、ブラームスでもブルックナーでも何でも分かるんだぞという、”選民”意識があるんじゃないかな」





 −−外国の演奏家が来日すると日本人はすぐに熱狂するが。

 「このごろは段々なくなってきたけど、最初は髪の毛が茶色で鼻さえ高ければ誰でも飛びついた。(笑)カナ文字ってポクらは言うんですが、外人さえ来ればよかった時代がありましたね。
 日本ぐらい彼らにとっていいマーケットはないわけです。外国の場合は何回のコンサートでいくらと契約して、契約金には旅費や滞在費など全部含まれている。しかし日本では契約金の他にアゴ・アシ付きで、夜は芸者の大接待(笑)。だんだん気がついて日本人もズルクなりましたが、まだマーケットとしては最高にいいようですね」

 −−ピアノの普及率が世界一こということですが。

 「どうなんでしょうね、分からないなポクなんか。お父さんもお母さんも楽器一ついじれない、歌一つ歌えない、せめて娘にだけは”教養”としてピアノを与えたいという、自分のコンプレックスから娘にだけはという感覚も一つでしょうね。
 それに団地感覚というんでしようか、あちらでピアノ習わせているからウチでもしようという、ゴーイング・マイ・ウエーではなくファッションみたいに受けとっちやうところが日本人にはありますよね。

 それと楽器業者の宣伝がうまいのも確かですね。世界で日本だけでしょう、ピアノ作っているだでなく音楽コンクールまで主催しているのは。音楽人口の底辺拡大という意味では、よしというふうに理解しておいた方がいいのでしょうが・・・・」

 −−毎年五千人以上の音楽家の卵が世に出ているということですが。

 「音大の数も世界一でしょう。音大行ってみると分かりますが、ほとんど女の子ですよね。ビアノなんていい加減なもんですよ。で卒業したって音楽家になるわけじゃない。花嫁道具の生け花やお茶と同じですよ。それに実際に需要がないですからね。プロやオーケストラではそんなに女の子のバイオリニストって必要ありませんから。学校の教師になるしかないが、席が合いていない状況です。」

 −−男が少ない理由は

 「世界的な傾向ですが、特に日本は著しい。男は一流企業に入ってという考え方で、女みたいにバイオリンなんかやってられないんじゃないですか」





 子供たちの誇れるオケを

 −−日本のオーケストラの将釆について

 「ヨーロッパの音楽は貴族社会の中で培われて、十九世紀になっで社会に出て育ってきたわけです。アメリカというのはある日出来た大陸で、二百年前になんとか音楽を創らなければと始まったわけです。状況からすれば日本はアメリカに非常に似ている。アメリカでもアマチュアみたいなところから試行錯誤で、町にオーケストラが出来ていったのだろうと思うんです。
 かつて日本でも今のNKH交響楽団であれ、大阪フィルハーモニーであれアマチュアみたいなところからスタートして、長い時間かけてあれだけのオケに育ったわけですから、同じようなことが松江とか高松、熊本、長崎で起こりうると思いますね」


 −−石丸さんの仕事はプロのオーケストラを創ることですか。

 プロという言葉が何を意味するのか、プロとアマチュアの線が、どこにあるのかボクには分からないんですが、少なくともその町にいい音楽が育っていくと、それは明らかに自分の町の音楽だというものですね。例えば東京からなんとか交響楽団が演奏旅行に来るというのとは意味が違うと思うんですよね。そういう、コミュニティー感覚というものが日本人にはないでしょう。
 東北地方にも、一つあってもいいんですよね。今は文化庁が東京フィルハモニーなどを派遣していますが、予算に限度がある。東北地方に一つ出来れば、何よりも潤うのは東北地方の子供たちだと思うんです。
子供たちも東京から来たオーケストラというよりも、ボクたちのオーケストラというように誇りを持つ子もいるでしょう。そういう意味では九州に一つ、四国に一つ、中国地方に一つと、とりあえずそういうふうにスタートしてもいいと思うんです」

 −−指揮者志願の学生が増えていると聞きましたが。

 「本当に指揮は多いね。どうしてこうなったんでしょうかね。
 やっばり日本の西洋音楽が国際的に通用しはじめたのはピアノの園田高弘あたりからで、そのあとにバイオリンの巌本真理がきて、今の小沢征爾の指揮でしょう。そういう意味で今指揮者が多いのでしょうね。
 芸大や桐朋学園だけでなくて指揮科というのは学生も多く、横にも広がっているし、縦の線もいい所をまでいっている。しかし需要がないわけです。今のオーケストラでは平均して四人の指揮者がついていますからね。音楽監督がいて主席指揮者の下の専属指揮者が二人いて、新しい指揮者の卵が出てきても入る場所がないわけです。
 そこで、外国のコンクールに出て拾ってもらおうと海外に行くが、一つのコンクールに受かったくらいではダメなんですね。ヨーロッパにもマーケットがないんです。例えば、カラヤン・コンクールで受賞した人でも出る場所がないんですね。
 ピアニストはたとえ下手でも、ホール借り切って、リサイタルでもやれますが、指揮者の場合はオーケストラを借り切るわけにはいきませんから、非常に厳しい世界です」






 −−−演歌はお好きですか。

 「ボクは音楽のジャンルでの好き嫌いはないんです。一級品になればどれも同じで、あとは好みの問題ですからね。いいジャズとか、いい演歌となればそれぞれいいですから。
 ただプレーヤーの卵を比べたら演歌の卵が一番うまいですね。クラシックの声楽家の卵、同じようなレベルのフォークシンガー、ロックシンガー、ジャズシンガーとジャンル別に挙げてみると、一番下手なのがフォークでしょうね。素人そのままでどうしようもないのが多いですね。しかしそれでいいと思います。フォークというのは三、四人が集まってやるもので、大広場やホールで歌うべきものではいから下手な方が愛嬌があると思います。音大を出た歌うたいというのは下の方から二番目か三番目くらいですね。音程が悪い、エスプレッション(表現)がない。クラシックというのはレコードにならないで、劇場とでオペラとか独唱会とかで格好がよければ、多少音程が悪くても分からないわけです。
ところが演歌とかポピュラーの歌手はステージで歌う前にレコードがヒットしなければならないから、先生がマンツーマンで叩き込む。レコードという記録された音では音程のいい悪いが素人でもわかりますからね。
 だからクラシックのシンガーよりも演歌歌手の方が絶対的に音程がいいですね。それとハートがこもっていないと、自分のフィーリングで歌わないと、大衆に分かるような節まわしでないとガンガンやられますでしょ。
クラシックの場合はプラームスを歌おうがシューベルトを歌おうが、お客に分かろうが分かるまいがですからね。しかし、行きつくところは同じだと思います」




 オーケストラは共同作業、絵は個人作業。「ホンネとタテマエの関係」という。一人になりたい時には絵を描いていたが、東奔西走で描けなくなった。CFに出てくる絵は昨年四月から描き始めてやっと暮れに完成した。「棒を振るまでの作業が大変なように、絵の具を出すまで時間がかかる」
 七年前に二度目の離婚をした。「当時でも一年のうち二百七十日は地方にいたから、それも原因の一つ」だった。「ゴールドプレンドコンサート」よりも前に始めたアマチュア合唱団の指導も、昨年暮に辞めさせてもらった。音楽の熱気を地方に増殖させることにすべてを傾ける。
 洒はコップで冷をやる。水割りは嫌い。ウイスキーはオンザロックに限る。だから、コーヒーもアメリカンは飲まない。薄めたものに本物の味がないから。アマチュアにも本物の音を要求する違いの分かる五十八歳。


 転載をご許可いただいた、毎日新聞社様に感謝いたします。(文:山田国雄、撮影:藤田国之)
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