「地方の音楽を育てなくては」石丸寛さんは戦後福岡で軍服を脱いで、頼まれ仕事で指揮を始めたころから、一貫してそう思い続けてきた。
「なぜみんな東京へ行ってしまうのか。この地に何かを創らなければ・・・」。中央指向型の日本の音楽文化を嘆いていた。
ヨ−ロッパではどんな小さな市にも市立の歌劇場があって、オーケストラも組織されている。音楽が市の文化行政の主流を占めているからだ。その町の文化水準を知りたかったら、オーケストラを聴けば分かるとさえ言われているほどだ。
日本では東京に九つのプロのオーケストラが集中していても、その周辺の千葉県や埼玉県には一つもない。
「その町に美術館があり、図書館があり、美しい公園があるのと同じように″音楽″があってしかるべきだと思うんです」
そんな願いが叶って、石丸さんの地方オーケストラの育成のための日本縦断は、四十八年から始まった。スポンサーは「ネッスル日本」。主催は、各地方の放送局である。
ちょうどその頃、四日市のたれ流しに始まる一連の公害問題が起きて、大企業が社会に還元する事業を探していたやさきだった。
条件は個人や固有の団体の育成ではなく、その地域のオーケストラを育てること。核になるオーケストラを中心に公募でその周辺にいるプロ、アマの演奏者を募ってその都度オーケストラが結成された。
初年度の第一回は「福岡ゴールドブレンドコンサート」。石丸さんが戦後初めて指揮をした九州交響楽団が核になった。
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「渋いアマチュアのオーケストラを育成するといったってどうなるものだろうと、スポンサーも同じ気持ちでしたね。一年目は薄氷を踏む思いでした。もう一年続けてみようかと二年目になると初回は何も分からなかったメンバーが目を輝かせて集まってきたんですね。それは聴衆の側にも手応えがあり、三年目にはかなり勇気をもって入っていけるようになりました。四年目からはそういう心配はいっさいなくなり、スポンサーも永久的に続けたいと言い出すようになりました。」 レコードでは鑑賞していても地方の放送局もオーケストラの練習とはどんなことをするのか分からない。演奏以前にアマチュアの意識を変えるところから始めなければならなかった。昨年まで唯一八年連続してコンサートを開いている新潟にしたって、第一回目の時は七、八人しか集まらなかった。練習会場は競技場のスタンドの下だった。譜面を持って帰った人が休んでしまったので演奏できなかったりしたこともあった。アマチュアだから、こんなもんでいいだろうという甘えがいたるところでみられた。音にはプロもアマもない。石丸さんは忍耐強くオーケストラを育てていった。
「ボクの仕事はプロセスです。一晩の演奏会も大切ですが、来年までにこのオーケストラに何を考えさせねばならないかということです」
すばらしい表現ができたとき、指揮者みょうりに尽きるという。
一つのオーケストラを半年前から特訓する。この八年間で延べ八十のオーケストラを育てた。
札幌から沖縄まで全国各地をほとんど回った。一年のうち三百日以上を旅の空で過ごす。
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