石丸 寛さん、そして第41回定期演奏会の思い出

          
1984年卒業 Tuba.   花本康二氏



 まずは選曲に遡ります。
 この年のサマコンのメインは「新世界より」だったのですが、この曲でやり甲斐(*注)を感じたパートはどこなのだろう・・・・、と考えてもすぐには思いつきません。そんな中途半端(ドボルザークさん、失礼!)な曲をやったこと、そして前年の第40回定期では「チャイ5」をやったということもあって、第41回定期の選曲のためのPL会議では、特に弦楽器のPLの間に「ブラームス禁断症状」がはっきりと見て取れました。

 一方で、金管セクションは大体においてブラームスが大嫌い(Hn.はともかく、それ以外のパートはとにかく難しいばかりでやり甲斐はあまりない)であるため何とか他の曲になってほしいと願っていました。この時も、確かTp.の山腰さんがPL会議に特別参加してそのあたりを訴えた記憶があります。そして、喧喧諤諤の議論の末に、コンミスの宮崎(旧姓:現在は越田)理恵さんが泣き出すというハプニングがありました。まあそれはともかく、このようにいろいろないきさつがありまして、定演のメインは最終的に「シベ2」に決着したわけです。当時、学生指揮でメインの下棒が決まっていた私も、ブラームスはちょっと苦手でしたので「シベ2」になってホッとしたというのがその時の正直な気持ちでした。(その罰が当たったか、次のサマコンでは「ブラ1」と格闘することになってしまうのですが)



 次に石丸 寛さん(以降、まるかんさん)に関する想い出を・・・・。

石丸寛氏 最初に「まるかんさん」とお会いした時の記憶は、残念ながら不確かです。ちょっと緊張していたのかもしれません。でも、練習の後で飲みに行った時のことは良く憶えています。まるかんさんは本当に庶民的な方で、我々貧乏学生の行くような飲み屋がお好みでした。「秋吉」へ飲みに行った時にも「僕は、日本酒とごはんだけでいい。」とおっしゃっていたのが印象に残っています。また、最初誰かが、「石丸先生」と呼びかけたのに対し、「僕はねえ、先生と呼ばれるのがいやなんだよ。全国にいろいろ知り合い(我々と同じアマチュアオケの方々)がいるけど、みんな僕のことを『親方』と呼んでいるよ。」とのことでした。まるかんさんが誰からも慕われていたことがよくわかるエピソードですね。

 まるかんさんの音楽作りの特徴を一言でいうならば、「テクニックよりも心」でしょう。HPにも「パッション」という単語がよく出てきますが、これはまるかんさんを語る上では欠かせない言葉です。心を込めて演奏する、という至極単純で基本的なことを本当に大切にした方だったと思います。第41回定期ではチャイコフスキーとシベリウスの作品が並び、「肉料理ばかりだね」とおっしゃっていましたが、ある意味ではパッションを大事にするまるかんさんにピッタリの選曲だったともいえるでしょう。

 さて、下棒としての私が「シベ2」に関して注意していた点といえば、「透明感のあるStrings」と「重厚できらびやかなBrass」といったところでしょうか。弦楽器の響きが濁っていては北欧の暗くて寒いイメージは出せません。また、金管セクションの輝かしい響きは曲全体のコントラストを高める上で重要な役割を果たしています。幸いにも、当時隆盛を誇ったアカデミアブラスアンサンブルの主力メンバーがずらりと揃った金管セクションは棒振りにとって頼もしい限りで、練習もそして本番もとても良い音でした。

 もうひとつ、指揮者として「シベ2」が難しいと感じたのは、拍子・テンポ・調子がしょっちゅう変わる点です。古典派の曲ではまずこのようなことはありません。従って、その場その場の雰囲気をいかにして作り出すかが重要になってきます。その一方で、とても楽だったのはダイナミックスの設定でした。シベリウスは、「フィンランディア」などでもそうですが楽器ごとに非常に細やかに音量の指定をしているのが特徴的です。ベートーベンのように「みんなf」「みんなp」というような書き方はほとんどせず、それぞれが相対的にどのような音量で聴こえるべきかの設計図をちゃんと楽譜に残してくれています。これは、ある意味では演奏者の独創性を奪うというデメリットなのかもしれませんが、私のような青二才にとってはとてもわかりやすい目印となりました。



 第41回定期が行なわれた1981年1月は、ちょうど「56豪雪」に重なります。本番の時もかなりの積雪だったように思いますが、確か本番前日の練習の後に、まるかんさんが雪道で滑って足首を捻挫してしまったと記憶しています。そういえば、痛みをこらえ足を引きずりながらゲネプロに登場したまるかんさんに、皆ドキッとしましたね。

 本番はとても良い出来栄えでした。客席で聴いている時、下棒で苦労したことが次々と頭に浮かんできてはいましたが、一方で、私の手からはすっかり離れて別の曲になってしまったというような何ともいえぬ感慨がありました。「娘を嫁に出す父親の気持ち」ってこうなのかもしれませんね。20歳の若さでそれを経験させてもらいました。

 そして演奏会の後、舞台の上で記念写真を撮る直前、コンミスの宮崎さんが私の隣で「終わったねえ」とつぶやいていらっしゃいました。努力家で、普段弱みをほとんど見せなかった宮崎さんが、肩の荷を降ろしたという実感と共に心の底からホッとした様子で語ったその一言が何故か今でも強烈に印象に残っています。



注:当時、団員数が急増して、選曲にあたってのパート間の利害関係?の摩擦が表面化してきた時期でした。そこで、キーワードとなったのが選曲候補曲の「やり甲斐」でした。例えば、・・・・は弦楽器には「やり甲斐」がない!・・といった具合です。編者


更新 2001/2/8