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苦情ネギ。
それは、「第1研究部門」の「グレゴリオ聖歌」から始まって、最後は「第12研究部門」の「マンハイムとウィーン」まであるのですが、その中の最後の「Eシリーズ」というのが、「モーツァルト」なんですよ。バッハなどは「第9研究部門」になっていて、その中は「A」の「カンタータ」から「M」の「音楽の捧げものとフーガの技法」までの12(「J」を除く)のセクションに分かれています。 まあ、この時代ですから、バッハあたりの演奏にはまだモダン楽器が使われていて、それほど「学術的」ではなかったのですが、当時はマジで圧倒されましたね。ですから、そこに「モーツァルト」まで入っていたなんて、気づきませんでした。 おそらく、今でもこのレーベル自体は存在しているのでしょうが、もはや「研究部門」といった文字はどこにも見当たらない、DGと一緒のUNIVERSALの中の1レーベルになってしまっているようですね。 これは1955年12月2日に、ウィーンの聖シュテファン大聖堂で行われた、モーツァルトの命日(本当は12月5日)の礼拝で行われた演奏をライブ録音したものです。もちろんモノラルです。真面目なんですね(それは「モラル」。 なんと言っても、これは「典礼」のライブ録音ですから、ただ曲を演奏するだけではなく、その前後に典礼ならではのパフォーマンスが入っているのが、そのまま録音されています。 まずは、演奏が入る前の「客入れ」の段階から録音は始まっていて、かなり騒々しい入場者の話し声に交じって、オルガンが「レクイエム」の最初のテーマを演奏しているのが聴こえてきます。その間には、なにかの合図なのでしょうか、鐘の音も聴こえます。そして、「レクイエム」が始まります。前奏に続いて合唱が入ってくると、なんだか女声がかなり上ずった声で歌っているような不快感が募ります。なんか、力が入りすぎているような。そこに、ソプラノ・ソロのゼ―フリートが入ってくると、やっと「音楽」らしくなります。彼女の声はとてもまろやかで、安らぎに満ちていました。 それからも、合唱がやたらと乱暴な歌い方をしているのがかなり耳障りですが、それとは対照的にソリスト陣が充実しているので、救われます。キム・ボルイなどという、昔好きだったバス歌手なども、素敵でしたね。 曲の間には、グレゴリオ聖歌が入ります。さらに、真ん中あたりと、曲が全部終わった後に、オルガンの即興演奏も入っています。 オリジナルは2枚組のLPです。そして、その中にはこのレーベルの売り物、「カルテ」というデータ表が入っています。それがこの画像です。 ![]() ついでに、そのジャケットには、曲順が表記されています。その部分だけ拡大してみました。 ![]() ![]() ![]() Album Artwork © Deutsche Grammophone GmbH |
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2024年にリリースされていた2枚目については、こちらでご紹介してありますが、その時は「2番」と「3番」でしたね。こちらの録音は2022年と2021年に行われています。そして、2021年にリリースされていた1枚目では「1番」と「7番」が収録されているのですが、それは首席指揮者就任のシーズンに録音されていたのですね。まずは、この、どこのオーケストラにとっても重要なレパートリーであるベートーヴェンの交響曲の全曲録音を、彼女に託した、ということなのでしょう。 彼女のベートーヴェンの交響曲に対するスタンスは、もうこのツィクルスの開始時には確固たるものになっていたはずです。2枚目を聴いた時にまず感じたのが、徹底したピリオド・アプローチでした。たとえば、弦楽器は完全にノン・ビブラートで演奏されていましたが、普通のモダン楽器のシンフォニー・オーケストラでは、それを徹底させるのは結構難しいようですね。 ところが、このオーケストラがベートーヴェンを演奏している映像では、本当に全員がノン・ビブラートであることがはっきり分かります。もちろん、それは音を聴いただけでもよく分かります。ですから、例えば「5番」の冒頭のフレーズの最後のロングトーンなどは、本当にストレートで断定的な思いがしっかり伝わって来ます。 もちろん、木管楽器でも、極力ビブラートを抑えていることもはっきり分かります。そんな、ある意味ストイックなアプローチで、かなり早めのテンポでの演奏は、とても輪郭がはっきりしていてすがすがしい感じがします。このテンポに関しては、指揮者のポスカはブックレットの中で、「ベートーヴェン自身の書いたメトロノームの値を具現化した」みたいなことを言っていましたね。確かに、このテンポからは、とてもエネルギッシュな音楽を感じることができます。特に、「5番」の第2楽章あたりは、ちょっと速すぎるのではないか、という気もしなくはないのですが、それが妙に納得できるのは、彼女がそのような自信をもって演奏しているからなのではないでしょうか。 第3楽章では、版によっては最後の部分からトリオをもう1回リピートする、という解釈もあるようですが、ここではそれはなく、そのままフィナーレにと続いていましたね。 「8番」では、やはりそのテンポの速さによって、この曲に抱いていたイメージが大幅に塗り替えられてしまったような気がします。第1楽章の圧倒的なテンポ感からは、それまで感じたことのなかったようなエネルギッシュなものが発散されていましたね。第2楽章も、それこそシンドラーが改竄した会話帳のようなほのぼのとしたものではなく、もっと強い意志のようなものが感じられます。 3楽章のトリオでは、ホルンが、これはモダン楽器でとてもソフトに演奏していましたね。おそらく、ここをナチュラルホルンで演奏したら、ちょっとギスギスしたものになってしまっていたことでしょう。 終楽章では、やはり攻撃的な面が強調されていたような気がします。そして、エンディングが、まさに「5番」と同じほどのしつこさでアコードのパルスが繰り返されるのですが、それが全く唐突には感じられなかったのは、それまでの演奏がそれに見合うだけのまるで若人のようなエネルギーを持っていたという証なのではないでしょうか。 いずれの曲でも、ティンパニがとても積極的に音楽を引っ張っていましたね。 これで、残りは「4番」、「6番」、「9番」の3曲になりました。CDだったらおそらく「4番+6番」と「9番」という2つのアルバムとしてリリースされるのでしょうが、1枚目はCDも発売されていたものの、2枚目以降はデジタル・オンリーになっていまたから、もしかしたら残りの3曲もまとめて1つのアルバムになるのかもしれませんね。早く「9番」を聴いてみたいです。 Album Artwork © Outhere Music |
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![]() もちろん、レーベルが違えばエンジニアも違います。この頃のEMIのエンジニアはヴォルフガング・ギューリヒという人で、DGはギュンター・ヘルマンス、その二人のレコーディングのやり方は、全く異なっていましたから、その音も聴いてはっきりわかる違いがありました。EMIはあまりマイクを立てないでナチュラルな音場を目指していたのに対して、DGは多くのマイクを使って、マルチトラックで録音を行ったものをミキシングによってバランスを決めていたようですね。 そして、その時のEMIのプロデューサーは、ミシェル・グロッツというフランス人でした。危ない人ではありません(それは「ゴロツキ」)。彼は、これ以前、1967年に出来たばかりのオーケストラで、翌年に音楽監督だったシャルル・ミュンシュの急逝によって、1969年からカラヤンが音楽顧問を務めていた「パリ管弦楽団」との録音から、カラヤンのお気に入りになっていたようですね。カラヤンはグロッツのもとでパリ管とのアルバムを3枚作ったあと、ベルリン・フィルとの録音もEMIで作るようになりました。 さらにグロッツは、1974年からは「ディレクター」(実質的には「プロデューサー」)という肩書でDGでのカラヤンの録音に参加するようになります。これ以降、彼はカラヤンが1989年に亡くなるまで、そのアルバムを作り続けています。 今回の、モーツァルトを代表する2曲の交響曲は、いかにもカラヤンらしい疾走感にあふれる演奏でした。ベートーヴェンなどでは、ちょっと軽すぎるように思えてしまうレガートを多用した独特のフレージングも、モーツァルトではとてもチャーミングなものとして楽しめます。最近のモーツァルト界隈では、もっと切り詰められた、切迫感のある演奏が主流になっているようですから、もちろんこのようなスタイルはほとんどなくなっています。そんな時代にカラヤンを聴くということは、単なるノスタルジーでは済まされない、なにか根源的な音楽の在り方まで問われるものなのではないでしょうか。 「40番」では、当時の首席フルーティストのジェームズ・ゴールウェイの演奏を聴くことが出来ます。その、まさに唯一無二の彼のフルートの音は、この曲全体のいたるところで、くっきりと際立って聴こえてきます。特に、ゆっくりとした第2楽章で頻繁に出てくるソロのフレーズは、磨き抜かれたビブラートが、まるでオペラ歌手のように華麗に響き渡り、至福の時が訪れます。 これもカラヤン同様に、今のオーケストラのフルート奏者ではまずありえない「目立ちすぎる」演奏なのかもしれませんね。しかし、これもまた、音楽を極限まで美しいものに磨き上げたものとして、後世に伝えられていくべきものとなっているはずです。 「41番」の方は、フルートはもう一人の首席奏者、アンドレアス・ブラウが吹いていました。その終楽章だけは、こちらで聴いていましたね。これはこれで、「普通の」首席フルーティストのスタンダードとして、存在価値を誇れるものには違いありません。 現在のベルリン・フィルの首席フルーティストは、30年以上前からいるエマニュエル・パユと、最近就任した、以前はMETとシカゴ交響楽団の首席だったステファン・ラグナー・ホスクルドソンというアイスランド人の方です。 ![]() Album Artwork © Parlophone Records Limited |
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2014年から8年間は、神奈川フィルのソロ・コンサートマスターを務めていましたが、現在は2006年に結成されたウェールズ弦楽四重奏団のファースト・ヴァイオリン奏者や、石田泰尚とのヴァイオリンユニット「DOS DEL FIDDLES」で活躍の傍ら、全国のオーケストラにソリストや客演コンサートマスターとして参加しています。N響のゲスト・コンマスもなさっていましたね。 弦楽四重奏団としては、FONTECレーベルから10枚ほどのアルバムをリリースしていますし、2023年には自身のレーベル、「kKy records(キーレコード)」を創設し、現在までに3枚のアルバムをリリースしています。 そのレーベルの第1作、「Re: Vivaldi」のストリーミングが最近始まったようなので、聴いてみました。これは、ヴィヴァルディの「四季」全曲を、クラシックの弦楽器奏者の他に、エレキベース、ドラムス、キーボードを加えた編成で演奏する、という、かなりエキサイティングな試みです。もちろん、指揮者はいません。そこでは、セッション・ベーシストとして、多くのアーティトのサポートを務めている、1974年生まれの山田章典さんが、アレンジャーとしても参加しています。 なにしろ、この「四季」に関しては、オリジナルの演奏だけでも山ほどのアルバムが作られています。さらに、それをアレンジしたカバー物などは、楽器の種類もジャンルも様々で、いったいどのぐらいあるのか見当もつかないほどです。CMに使われたこともありますしね(「?にっしんめんしょくにん」)。 ただ、メインの共演者がベースギター、というのは、これまでに全く聴いたことがありませんから、これはちょっと気になりますね。 「春」の第1楽章では、まずごく普通に弦楽合奏(通奏低音なし)でオリジナル通りに始まります。それが、ソリの部分に入ると、ピアノ、ドラムス、エレキベースが加わって、リズムが強調されます。そこでは、エレキベースまで、高い音で独特のフレーズを入れたりしていますね。 第2楽章では、最近のピリオド楽器での演奏の影響でしょうか、ハイハットシンバルのかなり早めのテンポに乗って、前半は普通の弦楽合奏ですが、後半にはそこにピアノが入ると、同じリズムが即座にスウィングになって、ソロ・ヴァイオリンのテーマも少しフェイクが入ってきます。ただ、それがジャズのフェイクほどは崩れていない、あくまでクラシックの範疇での「装飾」にとどまっているのが、やはり、ですね。 第3楽章は、スネアドラムが主導権を握ってリズミカルに進みます。これは逆になんか日本の「盆踊り」のようなユルいリズムなのが面白いですね。 これが「夏」になると、第1楽章ではやはり最初のゆっくりした部分はオリジナル通りに(キーボードはチェンバロ)始まるのですが、その後の速い部分でいきなりチョッパー・ベースが現れて、俄然ファンキーな音楽に変わります。エレキベースの本領発揮、というところですね。しかも、それが多重録音で右と左のチャンネルに分かれて、バトルまで始めるのですから、カッコいいのなんのって。このトラックが、一番気に入りました。 「秋」の第1楽章では、この軽やかなテーマが、途中でシンコペーションのリズムになってさらに軽やかになって現れます。ところどころで「ブルーノート」っぽいものまで出てきて、笑えます。 面白いのは「冬」の第2楽章。このメロディは歌にもなっている有名なものですが、それを最初からボサノバ風にアレンジしていました。ですから、メロディもしっかりシンコペーションを付けて、それらしく演奏しています。 まあ、なかなか頑張っているな、という感じでしたね。それがどうした、というところもありますが。 Album Artwork © Sana LLC |
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さらに、その「死者を悼む」という概念を拡大解釈して、すべて別な歌詞で、時には宗教的な意味すらも全くなくしてしまった作品もたくさんあります。もっと言えば、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」などでは、声楽のパートすらなくなっています。 ブラームスの「ドイツ・レクイエム」についても、正統的な「レクイエム」に慣れ親しんだものとしては、なにか世界が違う、という印象は免れませんでした。これまで幾度となくこの曲を聴いてきたにもかかわらず、そこにはちょっと入って行きづらい世界があったのですね。 確かに、ブラームス自身も、これが従来の「レクイエム」とは別物なのだ、という意識はあったのでしょう。そもそもタイトルからして「Ein deutsches Requiem」という、頭に定冠詞の「Das」ではなく不定冠詞の「Ein」を付けた、「いわゆる一つの、ドイツ語によるレクイエム」みたいな、あまり「断定」されていないような感じのする弱気なものなのですからね。 もちろん、そのテキストは、オリジナルのラテン語をそのままドイツ語に訳したものなどでは全くなく、ブラームス自身が聖書やそのほかの聖典から選んだフレーズを集めたものです。 そして、ブラームスは、これを作り上げるまでには構想から10年以上かかっていますから、それなりの苦労もあったのでしょうね。 ところが、これまでバッハやモーツァルト、そしてモンテヴェルディなどを聴いてすっかりファンになってしまったピションとピグマリオンのチームがこの曲を録音したというので聴いてみたのですが、予想通り、そこにはそのようなこれまでの先入観を完全に覆すものがあったのでした。 まずは、オーケストラの楽器がピリオド楽器だ、という点で、すでに曲全体の音色がガラリと変わっています。ヴァイオリンが参加しない1曲目の冒頭では、本当に聴こえるか聴こえないかというレベルで録音されているチェロの最初のフレーズが完璧なノン・ビブラートで歌われると、それだけで従来のこの曲の演奏とはガラリと異なる世界が広がります。そこにあったのは、静寂と同等の説得力を持つ音楽だったのです。 管楽器なども、ピションは独特のバランスで聴かせようとしていたのでしょう、今まではほとんど気が付かなかったようなフレーズが、とても雄弁なフレージングで語り掛けるところは数知れず。しかも、それが何とも朴訥な音色だというところにも惹かれます。 もちろん、合唱も素朴な発声で、恐るべき表現力を発揮してくれています。しかも、それが、曲によっての落差がとても大きいので、それぞれのキャラクターがよりくっきりと感じられるようになっているのですね。 この曲では、普通の「レクイエム」の中の「Dies irae」と同じような最後の審判の世界観が表現されている部分があります。それが最後から2番目、6曲目の「Denn wir haben hie keine bleibende Statt(われら地上に永遠の都を持たず)」です。ものの本によれば、これは従来の「怒りの日」とされていたものを「救いの日」に変えたものだ、ということなのですが、確かに激しく荒れ狂う金管楽器の咆哮の部分が終わると、なにか芳香が漂うホッとする音楽が現われて、まさに「救い」が感じられるのが、この演奏でははっきり分かります。 欲を言えば、そこで歌われるバリトンのソロが、ちょっとそのようなコンセプトからは離れた、かなり俗っぽい歌い方だったのが難点だったでしょうか。 ソリストはもう一人、5曲目にソプラノも登場します。この人は、とても可憐な歌い方で、この音楽にはマッチしていたようですね。 CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s. |
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メンゲルベルクが1920年に創設したというこの音楽祭は、今回がなんと30年ぶり、3回目なのだそうですね。そのラインナップは、こんな感じでした。5つのオーケストラが2回ずつ演奏しています。 10日 1:30PM:交響曲第1番/クラウス・マケラ/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団毎日日替わりでマーラーの交響曲がきけるなんて、すごいですね。あ、こういうのを「ツィクルス」というんでしたっけ? そして、ご覧のように、ここでは、来年からシカゴ交響楽団の音楽監督とともにロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者にも就任するクラウス・マケラが、その地元のオーケストラを指揮して「1番」と「8番」という人気曲を演奏していましたね。今回のアルバムは、その「8番」のライブ録音です。 ただ、「ライブ」と言いながら、録音データでは、「録音時期:2025年5月15,16,18日」となっていますから、本番の16日の前後にも録音を行っていたのでしょう。それらの日の夜は別のオーケストラの本番がありますから、それは昼間に行われていたのでしょうね。なんせ、演奏者の人数がものすごい曲ですから、なにかと大変だったことでしょう。 そうして、ベスト・テイクを集めた「完成品」を聴くことになります。これも、CDで販売されるのはもはや日本と韓国だけなのだそうですね。 ジャケットにもあるように、コンセルトヘボウのオルガンの周りの客席は全て合唱団員で埋め尽くされ、ステージにもフルサイズのオーケストラが並んだところでの演奏ですから、その音圧はいかほどか、と、身構えて聴き始めたのですが、聴こえてきたのは結構コンパクトなサウンドだったので、ちょっとずっこけてしまいました。オーケストラも合唱も、マーラーのアクの強さがあまり感じられない、まるで新鮮な野菜のような瑞々しさだったのですよ。弦楽器はあくまで華麗に、管楽器はあくまでまろやかに、といった感じでしょうか。 合唱の方も、なにか余裕をもって歌っているな、という気がして仕方がありません。最初のトゥッティなどは、普通はいくらかの歪みが感じられるものですが、ここではそれは全くなく、あくまで澄み切った歌声が響き渡ります。 それと、児童合唱の声が、とても子供とは思えないように大人っぽく歌っているような感じもありました。まあ、それらの事象は、もちろん、音楽的なレベルがとても高い、ということにつながるのでしょうが、この曲に関しては、どうしてもそれを踏まえたうえでの破滅感のようなものを期待してしまうのですけどね。 いつも思うのですが、これだけ長い曲なのに、合唱の出番は結構短いようです。実際に歌ったことはないのですが、歌っていない時には結構ストレスがたまりそうですね。 Album Artwork © The Decca Record Company Limited |
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![]() (NIMBUS) ![]() (NIMBUS ALLIANCE) いずれにしても、このNUMBUSグループの製品は、一応フィジカルなディスクでも販売されているのですが、それが基本的に「CD-R」なんであーる。今回のアイテムは日本での国内盤だけ、別個にCDが作られている、という不思議な流通形態になっています。というか、普通のCDは大量にプレスできますが、CD-Rとなると1枚1枚「焼いて」製造するのでしょうから、生産量はごく限られていますよね。まあ、ネット配信ではきちんとハイレゾのファイルまで提供しているようなので、もはやフィジカルは「ついで」といったスタンスなのでしょうか。 ここで演奏されているのは、有名なヴェルディの「レクイエム」ですが、それはオリジナルのバンダまでが加わる大規模なオーケストラではなく、ピアノ2台とオルガン、そして打楽器という、たった4人のプレーヤーと、指定通りのソリストと混声合唱という編成です。この曲を演奏したいけど、とてもオーケストラは雇えない、という多くの合唱団にとっては、ありがたい編成なのでしょう。というか、この合唱団の音楽監督を1998年から務めている(それ以前はウェストミンスター大聖堂、ウィンチェスター大聖堂、そしてケンブリッジ・ジョンズ・カレッジの音楽監督)デイヴィッド・ヒルが編曲を依頼した、作曲家のリチャード・ブラックフォードは、「ヴェルディのオリジナルを薄めたものではなく、独自の音世界を持つ編曲」を目指していたのでした。 そして、それは確かな結果を見せていました。そこからは、もしかしたらオーケストラ版ではほとんど伝えられなかったような部分が、見事に聴こえてきて驚かされる、という場面が頻繁に体験できたのですから。 この合唱団は、もちろんアマチュアの団体ですが、メンバーは250人もいるのだそうです。今回の録音でその全員が参加していたかどうかは分かりませんが、確かにそのぐらいの人数でなければ、と思われるようなサウンドになっていました。 まずは、冒頭の、超ピアニッシモで演奏されたオルガンが、本当に耳をそばだてなければ聴こえないほどのかすかな音で始まった後、この合唱団が、やはりとても小さな声で歌い始めるところでの緊張感が、とんでもないものになっていました。これは、100人以上のメンバーそれぞれが気持ちを一つにして歌わなければ絶対に出てこない、究極の緊張感のように思えました。 そして彼らは、フォルテの場面になっても、その緊張感を保ったうえで、ダイナミック・レンジだけを変えるということをやっていました。ですから、その時には、まさに合唱全体が一つの塊となって、迫ってきます。それはもう、細部まできっちりと磨き抜かれた、素晴らしいものでした。 伴奏の方は、2台のピアノできっちり細かい音は再現していて、いますし、そこに少し足らないところはオルガンで補っていますから、音符的には何の遜色もありません。そして、すごいのが打楽器です。かつて、フィルハーモニア管弦楽団のメンバーだったというこのピーター・フライという人は、一人でティンパニとバスドラムを両方演奏していたのですよ。あの「Dies irae」の冒頭部分では、バスドラムをたたいた次の小節では、ティンパニを叩いていましたからね。 4人のソリストたちも、圧倒的な声量で輝いていました。ソプラノなどは、最後の低音の「C」まで、見事に響かせていましたね。 ブラックフォードが作ったスコアはNOVELLOから出版されていますが、それはこちらで見ることができます。すでに、イギリスとアメリカの多くの合唱団が、この楽譜を使って演奏を行っているようですね。 CD Artwork © Wyastone Estate Limited |
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![]() その時に録音を行っていたのが、オットー・クレンペラーとその手兵のニュー・フィルハーモニア管弦楽団、曲目はクレンペラーその人の交響曲や弦楽四重奏曲などでした。 そこで録音された「交響曲第2番」と、「弦楽四重奏曲第7番」というカップリングのLPは翌1970年にリリースされました。同じころに交響曲第3番と4番、そして弦楽四重奏曲第3番も録音されていますがそれらはいつリリースされたかは不明です。そしてごく最近、クレンペラーのボックスセットで、それらの作品がすべてCD化され、さらに、これらがデジタル・アルバムとなっていたのですね。 なんでも、クレンペラーは若いころにハンス・プフィッツナーに師事していて、作曲家として交響曲は6曲、さらに9つの弦楽四重奏曲、ミサ曲、オペラ、リートなども残しているそうです。しかし、おそらくそれらは現在ではほとんど顧みられることはないのでしょうね。 そんな「貴重」なアルバムから、とりあえず「交響曲第2番」を聴いてみました。古典的な4つの楽章から出来ていますが、演奏時間は25分ほどです。第2楽章だけ10分ほど、それ以外の楽章はそれぞれ5分程度です。 第1楽章は、なんとも退廃的な、それこそ新即物主義かと思えるような刺激的なテーマが弦楽器で提示されます。かなりのインパクトはありますが、それが何度もクライマックスを迎えるので、かなりのしつこさが感じられます。何の意味もなく銅鑼が鳴って大見得を切る、などという瞬間もあります。そして、エンディングがトニカではなくドミナントで終わる、というのもとにかくユニークですね。 第2楽章は、打って変わってロマンティックなメロディが登場します。それは、不必要と思えるほどの半音階進行が使われているので、ちょっと引きますね。新しいテーマが何の脈絡もなく表れるということが何度も繰り返されます。 第3楽章は弦楽器のピチカートで軽やかなスケルツォのような雰囲気が醸し出されます。そのリズムに乗って、いきなりバッハの「音楽の捧げもの」のテーマのようなものが出てきてびっくりしますが、やはり脈絡なく様々なテーマが出没します。 終楽章はおどろおどろしいテーマによるフーガで始まります。そこにオーボエのひょうきんなテーマが加わったりしますが、やはり脈絡のなさは続きます。エンディングは、超ロングトーンの後の、しつこいアコードの繰り返しです。 まあ、無条件に圧倒される曲ではありますが、正直好きにはなれませんね。それと、演奏しているメンバーも、なんだかとても真剣に弾いているとは思えないようないい加減なところがあって、ほほえましくなります。フィナーレの終わり近くでは、おそらくクレンペラーが発したと思われる大声が聴こえてきますし。 不思議なのは、カップリングの「交響曲第4番」と聴き比べてみると、第3楽章が全く同じものだということ。さらに、第2楽章も、最初のあたりは全く同じですし。 Album Artwork © Parlophone Records Limited |
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つまり、「冷戦」のさなかに、ソ連のソリストと「西側」だったドイツのオーケストラが一緒にレコーディングを行うということは、まさに「歴史的」な「事件」だったのでした。 実際の録音は、ベルリンでEMIのエンジニアによって行われ、ソ連ではMELODYA、ドイツではEMI(ELECTROLA)という、別々のレーベルからリリースされています。日本の場合は、当時のEMIの窓口だった東芝音楽工業ではなく、MELODYAのレコードを販売していた新世界レーベル(ディストリビューターはビクターエンタテインメント)から発売されていました。 もちろん、現在では東芝も新世界も、そしてEMIもなくなってしまいましたから、このようにWARNERからリリースされています。そして、この音源はLPでもSACDでもなく、デジタル配信です。 ということで、今回またこのアイテムを取り上げたのは、まず、その音質の確認をしたかったからです。以前のSACDでは、部分的にはLPをしのぐ音が聴けていましたが、それにAACがどれだけ迫れるか、ということですね。結果としては、やはりSACDに比べれば、音の繊細さや輝きに関してはいくらか劣っている面はありますが、これだけを聴いた時には、まず鑑賞の妨げにはほとんどならないのでは、という感じですね。 というか、そもそも、今ではSACDなどもほぼ絶滅していることからも分かるように、「オーディオ」というものに対する興味は、ほとんどの人が失っているのが現状でしょうから、もはやそれほどのものを求める人もいなくなっているのですよ。となれば、コスパの見地からも、ネット配信が優勢になるのは必然なのでしょう。 もう一つ、今回注目しているのは、この録音は、あのゴールウェイがベルリン・フィルに入団して初めてそのセッションに加わったものだ、ということです。これが録音されたのは1969年9月15日から17日にかけてです。こちらに、ゴールウェイが参加しているすべての録音をリストアップしたページがありますが、彼が入団したのはこの年の9月となっていますね。そして、リストでその月を検索すると、これ以前にベルリン・フィルで録音しているものはありません。 ![]() ただ、スコアを見ると、木管は2管編成ですが、フルートだけは1つのパートしかありません。ところが、この写真ではゴールウェイの脇にもう一人フルート奏者がいますね。さらに、その後ろの列では、どうやらクラリネットのパートが3人以上になっているように見えませんか? おそらく、この時期のカラヤンは、「倍管」でコンサートやレコーディングを行っていたのではないでしょうか。 今では考えられないことですが、カラヤンの場合はベートーヴェンでも弦楽器は16型、管楽器は倍管、というのが彼の中でのスタンダードだったのではないでしょうか。そんなスケール感までもが、この音源でもしっかり伝わってきますよ。 ただ、今回気が付いたのですが、ソリストの定位が、この写真の通りではありませんでした。つまり、客席から聴いた時には、チェロが上手、ヴァイオリンが真ん中、ピアノが下手から聴こえて来るのです。そもそも、ピアノの蓋がオーケストラの方に開いているのもコンサートではありえないので、ミキシングで定位を変えていたのでしょうね。 Album Artwork © Parlophone Records Limited |
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そんな中で、この、イスラエルの作曲家パウル・ベン=ハイムの「交響曲第2番」をこのオーケストラが演奏したアルバムが、DGというメジャー・レーベルからリリースされました。指揮者は、2020年から音楽監督を務めているイスラエル人のラハル・シャニです。 実は、彼らは2022年にも、同じ作曲家の「交響曲第1番」を、やはりDGからリリースしていますから、これは「第2弾」ということになるのですね。もちろん、いずれもデジタルのみです。ただ、不思議なことに、いずれも録音された日時のデータが、どこを探しても見つかりません。これらのアルバムは、ある意味プロパガンダ的な意味も持っているのでしょうから、いつ録音されたか、というデータは必須だと思うのですが。 パウル・ベン=ハイムは、1879年にミュンヘンで生まれました。その時は、ドイツ人としてパウル・フランケンブルガーという名前だったのだそうです。彼は1933年にパレスチナに移住し、その時に今の名前を名乗るようになりました。ヘブライ語で「ベン=ハイム」というのは、バウムクーヘンではなく(それは「ユーハイム」)「生命の息子」という意味なのだそうです。ドイツ時代はブルーノ・ワルターとハンス・クナッパーツブッシュのアシスタントを務め、指揮者として活躍しましたが、イスラエルでは作曲に専念するようになったようですね。彼は、そこで多くの作曲家を育てています。 彼の作品は多岐にわたっていますが、交響曲は2曲しか作っていないようですね。「1番」は1940年、この「2番」は1945年に作られています。彼の作風は、この頃の「現代音楽」とは無縁の、古典的な伝統を継承しているようですが、随所に民族的な要素も加味している、といった所でしょうか。今回の交響曲でも、楽章は古典的な4楽章の形を取っていますし、最初の楽章などはしっかりソナタ形式になっていますからね。 第1楽章は、冒頭からフルートのソロで第1主題が提示されます。それは穏やかなメロディで、どこかオリエンタルな雰囲気も漂っています。そこに弦楽器が加わってくると、音楽は活発になり、ちょっと勇ましい第2主題が登場します。そのままクライマックスを迎えると、一旦落ち着いて展開部となります。そこでは、金管楽器によってファンファーレが響き渡り、さらなるクライマックスとなります。それが静まると再現部、そこではフルートとソロ・ヴァイオリンでテーマが現れます、やがてとても静かなエンディングを迎えます。 第2楽章はスケルツォです。ほとんどワルツかと思えるようなダンス音楽のように聴こえます。中間部はトリオに相当する部分で、荘厳なコラールが静かに響き渡ります。 第3楽章はヘブライ風のモードによる悲しみが込められているようにも聴こえるテーマが、弦楽器で奏されます。そこに、コールアングレやクラリネットの、やはり悲しげなソロが加わります。後半に、フルートとヴァイオリンのソロが、ちょっとかみ合わない2重奏を披露していますが、これは何かのメタファーなのでしょうか。 終楽章は、いきなりショッキングな音楽で始まりますが、やがてノリノリのダンス音楽が始まります。それはどんどん盛り上がって行って、盛大に終わりを迎えます。 そんな感じの、とても分かりやすい曲でした。終楽章などは、もう頭が空っぽになってしまうほどの爽快感がありましたね。でも、「だからどうした」という気にもなるのですが。 Album Artwork © Deutsche Grammophone GmbH |
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きのうのおやぢに会える、か。
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