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刃物野菜。
そして、それがリリースされた今年、2025年は、オルフが生まれて130年目になるのだそうです。つまり、彼が生まれたのは1895年。そして、この曲が初演されたのは1937年のことでした。ただ、なぜかこの曲は当時のナチスのお気に入りとなったために、何かと問題になって、ドイツでの演奏はあまり行われなかったようですね。 しかし、「戦後」になれば、1952年のオイゲン・ヨッフム指揮のバイエルン放送交響楽団のDG盤を皮切りに、多くの録音が登場することになります。このサイトでさえ、これまでに20枚ほどのアルバムを紹介してきましたね。 さらに、かなり前のことですが、実際にオーケストラの一員(1番フルート)として、この作品を演奏するという体験も持っているものですから、もう隅々までその音楽は沁みついています。ですから、新しい録音が出たとしても、それほど食指が動くようなことはなくなりました。 ただ、今回は、指揮者はドイツ人ですが、オーケストラと合唱がスペインのもの、ということで、少し興味がわきました。 しかし、実際に聴いてみると、そんな先入観は見事に消えてしまいました。そこには「スペイン風」なものは全くありませんでした。というより、指揮者の棒に忠実に従っていて、端正な演奏を行っているな、という気がしました。つまり、リープライヒのきっちりとした音楽が前面に出ている、ということなのでしょう。 そのような、あくまで作曲家の音楽をストレートに届かせようとする姿勢からは、逆に、その音楽の「限界」のようなものまで聴こえて来るのが、なかなか面白いことでした。まずは、この曲が持つ「分かりやすさ」です。それは、ひたすら同じリズムや音型を繰り返すという、言ってみれば「ミニマル」さから来ているのでしょう。一見複雑に見えて、一度聴いてしまうとやすやすと親密感を覚えてしまうという、それに惹かれるのは、人類の根源的な本能に訴える力があるからなのでしょうね。 おそらく、現在はほとんどの人が忘れているでしょうが、オルフにドイツで師事していた日本人の作曲家がいました。その方は石井歓。合唱関係者では、もしかしたらまだ覚えている人もいるかもしれない名前ですね。彼は、オルフの技法を忠実に継承していたようで、確かにその作品には、「師匠」の影響がいたるところに見られます。というか、全く同じメロディを自作に使っている、というようなことも行っています。最近ではあまり聴くことがなくなりましたが、かつては全国の男声合唱団が必ず演奏していた「枯れ木と太陽の歌」という作品がありました。その曲の最初の部分で、こんなメロディが現れます。 それは、「カルミナ・ブラーナ」の8曲目「Chramer, gip die varwe mir(小間物屋さん、紅をください)」、という、スレイベルの軽やかな音で始まる曲の後半に聴こえてきます。それが、このメロディ。「枯れ木」と全く同じですね。 まあ、それはどうでもいいことですが、今回の演奏では、録音にちょっとしたトラブルがあったようですね。最初から、合唱の女声パートが、あまり聴こえてこないのですよ。ここではかなり大人数の合唱のようなのですから、声は出ていたはずなので、これはおそらくマイクのトラブルだったのでしょう。さらに、22曲目の「Tempus est iocundum(今こそ愉悦の季節)」では、女声合唱だけが歌っている場所があるのですが、それがほとんど聴こえてきません。やはり、これは「事故」だったようですね。そもそもそのようなものを堂々と「商品」として販売していることに、怒りを覚えます。 CD Artwork © Accentus Music |
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何度も聴いている曲ですが、今回のキャストは、ユディットが1980年に生まれたイスラエルのオペラ歌手で、現時点での「カルメン」役では第一人者とされるリナート・シャハム、青髭公が、1974年にハンガリーで生まれ、現在は世界中のオペラハウスで活躍しているガボール・ブレッツです。この録音では「前口上」が語られていますが、特にクレジットはないので、ブレッツが語っているのでしょうか。 そして、うれしいことに録音スタッフが、「オケコン」の時と同じPOLYHYMNIAでした。 ベラ・バラージュによるこの「オペラ」の台本は、原作であるペローやメーテルランクの物語からはかなり逸脱した、なんともハードな展開を見せるものですが、その件に関しては、今回のブックレットに、バルトークの息子であるピーター・バルトークの言葉(最新の出版楽譜の前書き)が転載されていたので、それをまずご紹介します。 目を閉じて、物語の舞台を思い浮かべると、そこには青鬚の姿を見出すことができることでしょう。彼の城、すなわち彼の人生は、彼が夜明け、正午、日没に出会ったそれぞれの「妻たち」によって豊かに彩られています。その3人は、青年期、成人期、晩年と置き換えることも出来ます。人生は私たちにただ一度の青春、たった一度の壮年、たった一度の老年しか与えません。一日たりとも繰り返されることはなく、二度目のチャンスもありません。このように、それぞれの妻は、私たちの人生のある段階、彼女自身のものとなった唯一の段階のすべてを占めているのです。私たちの人生は私たちだけの領域ではありません。それは他の人々によっても影響を受け、形作られ、恩恵を受けるのです。それぞれの出会いは、経験、学び、そして幸福によって私たち(私たちの城)を豊かにし、私たちの広大な財産となる記憶の蓄積へと導きます。 確かに、このオペラでのユディットの挙動には、なにか一貫性がないような気がしていましたが、視点を変えるとこのような解釈も成り立つのですね。 それも踏まえて、今回は、しっかり対訳を読みながら聴いてみました。そして、青髭の視点から物語をたどって行くと、先ほどのピーターの言葉の意味がよく分かるようになっていました。彼がユディットを心から愛していたことに間違いはないのですが、彼の性が結局彼女をこのような目に遭わせることになってしまったのですね。 そして、そんな「性(さが)」が、音楽によって見事に語られていたことにも気づきました。繰り返し現れてくるライトモティーフの意味も、すんなり耳から入ってきます。 それを可能にした演奏と、そして録音にも感心させられます。前回の「オケコン」同様、ここでのオーケストラの響きは、派手さはないものの、じんわりと心に沁み込んでくる魅力を持っています。それは、例えば5番目の扉で青髭の広大な領地が描写される壮大なオーケストレーションでも、金管の咆哮とともに、弦楽器の渋い輝きがその響きに大きく貢献していることが分かります。というか、これこそは、スピーカーから放出される音を体全体で受け止めて聴くべき音楽なのでしょうね。 ハンガリー語が母国語のブレッツは当然ですが、アメリカなどで活躍しているシャハムの発音も、まさにネイティヴと変わらないもののように思えました。 CD Artwork © Pentatone Music BV |
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最近は、ポップ・ミュージックの世界では、この「EP」という言葉はよく使われるようになっています。ご存じの通り、その言葉が最初に使われたのは、1952年のことでした。アメリカのレコード会社RCAが、それまで出していた直径7インチ、回転数45RPMのレコード「シングル盤」の改良品、つまり、同じサイズで演奏時間を延長したものに対して「Extended Play」、略して「EP」という名前を付けて売り出したのでした。 具体的には、「シングル盤」では文字通り、片面に5分ぐらいで、短い曲を「1曲」しか収められなかったので、もっぱらポップスの曲が1曲、そして、裏側(B面)におまけでもう1曲収録されていました。ですから、それはもっぱらポップスの曲のためのレコードでした。クラシックでは、5分では本当に短い序曲程度しか入りませんからね。 ですから、RCAとしては、最初はそんなクラシックの曲でもなんとか入れられるようにと、録音時間を8分程度までに拡張されたフォーマットを開発したのですね。もちろん、それは、すでに長時間のクラシックでも楽々入れられる直径12インチ、回転数33.3RPMのサイズの「LP」を売り出していた競争相手のCOLUMBIAに対抗してのものでした。 その新しいフォーマットは、ある程度の支持が得られたようで、クラシックでもポップスでもかなりの「EP」がリリースされたようですね。クラシックに関しては、主にヨーロッパでかなりの長期間、これが作られることになりました。 しかし、やがて、「アルバム」はLP、「シングル」はシングル盤という棲み分けが出来るようになると、この「EP」は姿を消し、その、「シングル以上、LP未満」というコンセプトのみが残ることになり、時が経ってCD、さらにデジタルコンテンツに形を変えて、商品化されるようになったのです。 お気づきでしょうが、フォーマットとしては、これは、かつては「ミニアルバム」と言われていたものと全く同じものです。特にポップスの分野で、それを「EP」と呼ぶ習慣が早い時期からあったようですが、クラシックでもこんなEPが作られるようになったのですね。 このEPで、ヴェガが演奏しているのは4曲、まさにEPの標準的な仕様ですね。それは、少し前にリリースされていたアルバムから、ドビュッシーの曲だけを集めたものになっていました。いずれの曲も、オリジナルはオーケストラやピアノのために作られた曲ですが、ここでは彼女自身がフルートとピアノのために編曲した楽譜が使われています。 1曲目は、ドビュッシーの初期の作品で、「オラトリオ『放蕩息子』」の「プロローグ」です。山梨県の名産品ではありません(それは「ほうとう」)。オーケストラ版では、主にオーボエが牧歌的なメロディを奏でていますが、その部分がフルートに置き換えられていますし、中間部になってホルンが演奏する印象的なメロディも、やはりフルートで吹かれています。録音が少しオフマイク気味になっているので、フルートもピアノも間接音が多く聴こえてきますが、それが、この鄙びたたたずまいの曲にはよく合っているように感じられます。 3曲目は、最初は4手連弾のために作られた「小組曲」の3曲目の「メヌエット」です。のちにアンリ・ビュッセルがオーケストラに編曲したものの方がよく演奏されていますね。ここでも、オーボエや弦楽器、さらにはファゴットなどで演奏されているメロディをフルートで置き換えています。この組曲の1曲目はフルートが大活躍だというのに。 あとの2曲、「月の光」と「亜麻色の髪の乙女」は、あまりにも有名ですね。 端正なフルートを、ピアノのパートが細かいニュアンスで支えています。 EP Artwork © Pentatone Music BV |
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![]() 先ほどのWIKIによると、日本で初演されたのは1989年だったようですね。そして、2016年には、仙台フィルによって仙台と東京(サントリーホール)でも演奏されています(その時、合唱で参加してました)。 レイボヴィッツは、作曲家でもあり、その作風はシェーンベルクの技法を頑なに守っていたもののようでした。そして、先ほどのブーレーズは彼の弟子でしたから、おそらくこの録音も聴いていたのではないでしょうか。 指揮者としてのレイボヴィッツは、シェーンベルクの作品は少しありますが、レパートリーはもっと広範囲の古典派やロマン派の作品が多かったようです。 1953年と言えば、もうすでにLPは出来ていましたが、まだステレオのレコードは作られてはいませんでしたから、この音源も当然モノラルです。しかも、マスターテープの劣化はひどく、もう音は歪みっぱなしです。特に、ソロや合唱の声楽陣は悲惨なことになっていますね。まともに聴けるのはナレーションだけでした。 ところが、そのナレーション、もちろんオリジナルのフランス語で語られていますが、手元にあったヴォーカルスコアを見ながら聴いていると、そのテキストが大幅にカットされていることが分かります。初出のLPには、英語との対訳が付いていたようですが、それもカットされたものが掲載されているように見えます。まあ、このナレーションはかなり長いものですから、全部入れると全曲の演奏時間が1時間近くになってしまい、初期のLPでは1枚にカッティングが出来なかったのかもしれませんね。それだったら、いっそのこと、コリン・デイヴィスのPHILIPS盤のように、ナレーションをすべてカットした方が潔かったような気もしますけど。 さらに不可解なのが、フランス語で歌われるはずの最初のテノールのアリアが、ドイツ語で歌われていることです。その他の曲は楽譜の指定通りにフランス語と、終曲はイタリア語で歌われているのに、なぜこの曲だけがドイツ語なのでしょう。もう一つのテノールのアリアでは、普通にフランス語で歌っているというのに。それは、とてもきれいなフランス語で歌われていましたから、別にこの人がフランス語を苦手としていたということもないはずなんですけどね。 合唱はフランスの団体のようですから、なんの問題もなくフランス語と、そしてイタリア語で歌っていました。ただ、とにかく歪みがあまりにひどくて、サウンド的に全く楽しめないのが残念ですね。それだけではなく、合唱団の資質にも問題がありました。なんと言うか、歌い方がとてもだらしないのですよ。歌いだしの音が、その音よりも低い音から始まってその音にたどり着く、みたいな変な癖があって、もう最初からハーモニーには期待が出来ないな、という気になってしまいます。最後の曲などでも、リズムがかなり難しいので、音の入りが必ず遅れてしまっていますから、リズム感がとんでもないことになっています。バランスも悪いですしね。 オーケストラも、そういう音では何の期待もできません。ティンパニなどが入ろうものなら、もうそれだけでその部分が雑音になってしまいます。ですから、最後の曲などは、もう耳をふさぎたくなるような雑音の嵐でした。 そんなひどい音の中からも、レイボヴィッツが作ろうとしていたドラマティックでエネルギッシュな音楽だけははっきり聴きとることが出来ました。 CD Artwork © Naxos Rights(Europe) Ltd |
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その女性は、サスキア・ジョルジーニというピアニスト、これは彼女のソロ・アルバムのジャケットです。彼女はイタリア系のオランダ人で、1985年に生まれています。2016年のザルツブルク国際モーツァルトコンクールで優勝しているのだそうです。このPENTATONEレーベルからは、すでに6枚ほどのアルバムをリリースしているようで、その中にはイアン・ボストリッジとの共演による歌曲集も含まれています。 それ以外にも、PIANO CLASSICS、BRILLIANT CLASSICS、DANACORDといったレーベルからも、いくつかのアルバムが出ているようです。 そして、今年の5月に録音されたばかりの今回のアルバムでは、ノルウェーの有名な弦楽オーケストラ、トロンハイム・ソロイスツとの共演で、モーツァルト(12番)とショスタコーヴィチ(1番)のピアノ協奏曲と、ショスタコーヴィチのピアノ・ソナタ第2番が演奏されています。その録音風景の写真がこちらです。 ![]() もう一つ、この写真で面白いのが、手前に写っているセカンドヴァイオリンの1プルト目ではトップがタブレット、トップサイドがペーパーと、それぞれ1本ずつの譜面台を使っているのに、2プルト目では1本の譜面台に、タブレットが2台乗っていることです。最近は、オーケストラでもタブレットを使っていることがあるようですが、これは足元のスイッチでページをめくれますので、こんなことが出来るのですね。 まずは、モーツァルトのピアノ協奏曲第12番です。本来だと、この曲では弦楽器の他に2本のオーボエと2本のホルンが加わるのですが、ここではなぜかそれが入っていません。まあ、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番にも、トランペット以外の管楽器や打楽器は入っていませんから、そのような措置を取ったのでしょうね。 確かに、弦楽器だけでも、このオーケストラはしっかり成立していました。そこでは、最近の潮流に従って、ピリオド奏法が使われていますから、ビブラートはかけられてはいません。そこでは、とてもピュアなハーモニーが聴こえてくることになります。さらに、5.4.3.3.1という小さな編成ですから、もうコンサートマスターの細かい指示に的確に反応して、とても表情豊かな演奏を繰り広げています。それだけのことをやってくれれば、もしかしたら管楽器は邪魔になってくるのでは、という気にもなってきます。それほどの素晴らしいアンサンブルでした。 そして、その中でのピアノも、磨き抜かれたタッチで、粒の揃った音を軽やかに運ばせています。そこには、極上のモーツァルトがありました。トイレではありません(それは「ご不浄」)。 それが、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番になると、弦楽器はモーツァルトとは全く異なる音楽に豹変します。もちろん、ビブラートもたっぷりかけて、これでもか、というほどの「臭さ」をもって迫ってきます。そこにトランペットが加わるのですから、もう終楽章などはやんやの喝采ものですね。 そして、彼女自身のライナーノーツによると、ここには悲しみが込められているとされるピアノ・ソナタ第2番になるのですが、そこでは、終楽章の変奏曲に注目です。なんか、どこかで聞いたことがあるな、と思っていたら、それはジェフスキの「不屈の民変奏曲」でした。ただ、それと同時に、これはモーツァルトの「魔笛」の中の、パパゲーノのアリア「Ein Mädchen oder Weibchen」を短調にしたもののようにも聴こえてきます。もしかしたら、ジョルジーニはそこまでの「仕掛け」まで、このアルバムに施していたのかも。 CD Artwork © Pentatone Music BV |
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指揮者のカネラキスは、ギリシャ人のような名前ですが、音楽家の父母から1981年にアメリカで生まれています。3歳からヴァイオリンを始め、12歳の時には指揮者を目指していたそうですね。カーティス音楽院ではヴァイオリンを学び、2005年にベルリン・フィルのカラヤン・アカデミーに参加しますが、その時にサイモン・ラトルから指揮者になるよう勧められて、ジュリアード音楽院に入学します。そして、2013年にはプロの指揮者としてデビューします。 現在のポストは、2019年から就任している、ここで演奏しているオランダ放送フィルの首席指揮者です。さらに、2021年からは、ロンドン・フィルの首席客演指揮者も務めています。すでに、どちらのオーケストラとも、アルバムを作っています。今年の7月には東京都交響楽団とマーラーの交響曲第1番で日本デビューも果たしていますね。 タイトルにはバルトークの「オケコン」しかありませんが、ここではそれに先立って、同じ作曲家の「4つの管弦楽曲」が演奏されています。まだ聴いたことがない曲ですが、作られたのはオペラ「青髭公の城」と同じ頃で、なにかそれと共通したところがたびたび現れて、初めて聴いた気がしません。それぞれにキャラクターが異なる4つの楽章の「交響曲」のようにも感じられますね。 第1楽章は、神秘的なハープとチェレスタの音色で始まりますが、そのサウンドはまさにPOLYHYMNIA、つまりはPHILIPSの録音と共通するポリシーが感じられて、うれしくなります。それぞれの楽器はくっきり聴こえてきますが、それはあくまで全体の中、という、ちょっと乾いたクールなサウンドです。そこから、まるで武満徹のような雰囲気が感じられるのは、指揮者の感性でしょうか。 第2楽章はとても元気のある曲です。もちろん、それはあくまで上品なサウンドの中で響いています。 第3楽章ではおそらく弱音器を付けた弦楽器が醸し出すサウンドが魅力的、後半では少しアグレッシヴな面を見せてくれます。 終楽章は「葬送行進曲」というタイトル、最初にまさにバルトーク、という感じで何度も出てくる咆哮が印象的ですね。 そして、聴き慣れた「オケコン」です。まずは、そのハイレベルでセンスの良い録音にはとても引き付けられます。「オケコン」と言えば、なにかギラギラしたような感じがあるのですが、ここではもっと奥の方で光り輝いているものが感じられるのですね。 そして、その演奏です。第1楽章には、大げさな振る舞いが全くなく、まるで各パートが自発的に演奏しているかのように、それぞれの思いが伝わって来ます。 第2楽章では、そのテンポに驚かされます。具体的には、この楽章は普通の指揮者では演奏時間6分台、それも後半の方が圧倒的の多いのですが、今回は5分52秒という、超快速です。そこには、とてもあっさりとした清潔感がありました。 第3楽章「エレジー」は、タイトルとは裏腹にメリハリがきいた演奏で、とても場面転換が早く感じられます。 第4楽章はまず頭のフレーズの最後が、とてもスマートな切り方でしたね。力を入れて見栄を張るというところが全くなくて、好感が持てます。ヴィオラのテーマが、あまり臭くなくていいですね。 終楽章は、冒頭のファンファーレの後の忙しい部分が、ものすごいピアノから始まって、とてつもないクレッシェンドができていました。アンサンブルの管理がとてつもなく上手、という感じです。 この曲のイメージがかなり変わってしまった素晴らしい演奏でしたよ。(ひとりごと)I先生とこの曲をやりたかったな〜。 CD Artwork © Pentatone Music BV |
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そんな、初めてサラウンドで聴けるようになった音源は、とても興味深いものでしたから、かなりの枚数のSACDを購入していました。 その後、このレーベルはスタッフも変わり、そのような古い音源ではなく、新しい録音も行うことになります。その頃に出たオペラのアルバムなどは、サラウンドで聴くと何とも不自然なバランスに聴こえるという「欠陥品」が続出していたので、このレーベルからは距離を置くようになったのですが、やがて、そのSACDまでやめてしまって、2020年ごろにはすべて普通のCDでのリリースとなっていって、何の変哲もない普通のレーベルになってしまったようですね。 なんでも、ごく最近、さらにスタッフが変わってしまったようで、レーベル自体もサンフランシスコ音楽院に買収されてしまったそうですね。これから一体、どうなっていくのでしょう。 その、最近の録音の中で、こんな面白そうなものがありました。ジャズでもクラシックでも演奏できるアメリカのトランペット奏者、ウィントン・マルサリスは、作曲も行っていますが、その彼が2009年に作った「ブルース・シンフォニー」という作品を2023年に世界で初めて録音したものなのだそうです。 アルバムに収録されているのは、その1曲だけ。それは7つの楽章を持つ「交響曲」で、演奏時間は1時間を超えていました。 とは言っても、例えば「ソナタ形式」などという昔の交響曲には必須の音楽ではなく、主にジャズのイディオムを用いて、クラシックの大オーケストラで演奏するために作られたものです。 第1楽章では、ピッコロのソロだけで始まります。それに、だんだん他の楽器も加わってくるのですが、ここでは「ブルース・コード」が用いられていましたね。それは、まさにジャズ(やロック)のための「ソナタ形式」のようなもので、例えば「C」のキーで始まれば、C/C/C/C/F/F/C/C/G/F/C/Cという12小節のコード進行の繰り返しで出来ている音楽です。高度なことはやっていません。 その、12小節ごとに、楽器編成もメロディもリズムも全く変わりますから、それが繰り返されるたびに、この単純なコード進行から、様々な情景が描かれるということになります。これは、なかなか贅沢な体験です。 第2楽章の最初は、まるでガーシュウィンのような物憂く、ある意味退廃的な音楽で始まりますが、やがて4ビートの軽快なフォックス・トロットに変わります。 第3楽章はまず3拍子のワルツで始まり、その後はスコット・ジョプリン風のラグタイムに変わります。ここでもブルース・コードが登場しますが、オーケストレーションはまるでルロイ・アンダーソンのようで、打楽器がユーモアを誘います。 第4楽章もガーシュウィン風。かと思うと、まるでバーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」の中の体育館のダンスのような音楽が繰り広げられます。 第5楽章は、まさに浮き立つようなビッグバンド・ジャズ。演奏時間は最も短く、学校のブラスバンドがコンクールなんかで演奏したくなるような曲です。 第6楽章は、やはりオーケストラの曲だ、ということで、弦楽器が全面にフィーチャーされて、クラシカルに迫ります。ただ、サウンドはクラシカルでも、リズムはラテン音楽、最後はアップテンポのサンバで大騒ぎです。 最後の楽章は、まさに無窮動。どのパートも忙しい音符を追いかけ、交響曲は終わります。 CD Artwork © Pentatone Music BV |
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そんな、カラヤン/グロッツ/ベルリン・フィルという3者によるモーツァルトのコンピレーションが、サブスクでアルバムとなっていました。なんでも、カラヤンは、1964年から1972年までのザルツブルク音楽祭の間に、彼の別荘のあるスイスのサン・モリッツにベルリン・フィルの団員を連れて行って、そこでコンサートや録音を行っていたそうなのですね。その中で、1971年8月にサン・モリッツの教会でグロッツによって録音されたものが、このアルバムには収録されています。 実際に録音されたのは、ここで聴けるフルートとハープのための協奏曲(ゴールウェイとヘルミス)、フルート協奏曲第1番(ブラウ)、管楽器のための合奏協奏曲(シュタインス、シュタール、ブラウン、ハウプトマン)の他に、オーボエ協奏曲(ローター・コッホ)、クラリネット協奏曲(カール・ライスター)、ファゴット協奏曲(ギュンター・ピースク)です。 これらの曲は、カップリングを変えて何度もリリースされてるのでしょうが、今回のアートワークは、最初の2曲が入っているLPのものです。 そして、今回は、おまけ、でしょうか、その前の年の9月に、ベルリンのイエス・キリスト教会で行われたモーツァルトの後期交響曲集の録音の中の、「41番」の終楽章が入っています。 まずは、もう何回も聴いているゴールウェイ(とヘルミス)による「フルートとハープのための協奏曲」です。今までは、なんたってもの凄いゴールウェイのソロに驚いていただけでしたが、今回はオーケストラもきちんと聴いてみました。それほどの大きな編成ではないようですが、弦楽器の音はとてもふくよかに聴こえて来るのは、やはり録音のせいなのでしょうか。とにかく「官能的」と言っても構わないようなソフトでゴージャスな響きは、まさにカラヤンの求めていたサウンドなのでしょうね。 そして、そんなサウンドよりもはるかに存在感を誇っているのが、ゴールウェイのフルートです。もう一音一音に生き生きとしたビブラートがかかっている上に、極上の音色には圧倒されます。さらには、低音の響きの充実度がものすごいことになっていますから、もう全音域に渡って音が響き渡っています。ですから、本来ならハープとのデュエットも楽しめる曲なのでしょうが、ここのハープは完全なわき役になっています。 それに続くのが、もう一人のベルリン・フィルの首席フルート奏者のアンドレアス・ブラウのソロによる、ト長調の協奏曲です。彼は、ゴールウェイと同じ時期、1969年にベルリン・フィルに入団していますが、ゴールウェイよりも10歳年下で、まだ「若造」という感じだったのでしょうね。その演奏は、端正ではありますが、存在感と言ったらゴールウェイの足元にも及びません。それが端的に表れているのが、この曲の第2楽章です。この楽章だけ、オーケストラの2人のオーボエ奏者がフルートに持ち替えて演奏するようになっているのですが、現代ではここはフルート奏者が吹いています。そこでのフルートがゴールウェイだったのですよ。ここでは、まずオーケストラのフルートがテーマを吹いているのですが、その後に出てくるソリストの同じフレーズが、もう、なんとも情けなく聴こえてしまいます。 「おまけ」では、ブラウがフルートを吹いていました。それは、十分に存在感がある演奏ですので、そういう場ではこの人も何の問題もないのでしょうね(どんなもんだい)」。 Album Artwork © Parlophone Records Limited |
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彼は、現在はリヨン国立歌劇場のオーケストラの首席奏者ですが、一時期、そこを離れて、アメリカのロスアンジェルス・フィルの首席奏者を務めていたこともありました。結局数年後にリヨンに戻ることになるのですが、その理由が彼の病気だったのですね。以前も書きましたが、彼は慢性の腎臓炎で、腎移植が必要でしたが、アメリカよりもフランスの方が早く手術が受けられるということで、前の職場に戻ったのですね。そして、現在は手術も終わり、元気になって幅広い活動を続けているのだそうです。なんたって、大事なのは体ですね。 今回は、タイトルの通り、ラヴェルの曲を演奏しているアルバムです。とは言っても、ラヴェルには最初からフルートのために作られた「ソナタ」のようなものはありません。でも、彼はフルートという楽器には愛情があったようで、彼のオーケストラの作品では、その楽器が大活躍しています。最も有名なのは、「ダフニスとクロエ」の最後近くに出てくる、長大なソロでしょう。このソロは、アマチュアのオーケストラでも、フルーティストが「吹かせてちょうだい」と頼みたくなるような、一生に一度は吹いてみたい音楽ですからね。 ボーディマンも、もう、小さな時からラヴェルの音楽にはずっと惹かれていたそうですね。その「ラヴェル愛」の結晶と言えるのが、このアルバムです。彼は、そんなラヴェルの音楽を、ぜひ自分の楽器で聴いてほしい、という情熱から、この企画を実現させたのです。それは、フルートとピアノだけで、ラヴェルのオーケストラ曲を演奏する、という企てでした。 そもそも、ラヴェルのオーケストラ曲は、もともとはピアノ曲だったものを自らオーケストレーションを施したものが多いですから、その楽器編成には一理あります。最初に演奏された「道化師の朝の歌」も、そのようなものですから、何の違和感もなく味わえました。何よりも、彼のフルートの音が、とても粒立ちがよく、軽やかですから、このリズミカルな曲にはぴったりです。さらに、細かい音符をダブルタンギングで演奏する時の切れ味のよさは、ちょっと他に人にはまねのできないほどの精密さがありますから、圧倒されます。 そして、その次に聴こえて来るのが、なんと、「ダフニスとクロエ」の第2組曲を、丸ごと、この編成で演奏するという、おそらくこれまでに誰もやったことがないはずの荒業への挑戦です。 そうなってくると、曲の冒頭はまずは細かいフルートの音で攻めてくるはずだな、と思っていると、そこではフルートはなくて、ピアノで、その夜明けのきらめきを完璧に描写していました。そして、フルートの出番は、しばらく経ってからの鳥の鳴き声、という、かっこよさです。これだけで、十分にこの曲の世界を味わうことができるほどの、センスの良さですね。もちろん、その後のピッコロ・ソロも、フルートで演奏しています。そして、その「夜明け」の部分の最後にまた出てくる冒頭の細かい音符の部分で、ここぞ、とばかりにフルートが本来のきらめきを与えてくれます。 「パントマイム」では、当然、あの大ソロになるのですが、大オーケストラではなく、ピアノだけのバックでこれを演奏するのはほとんどストレスがないのでしょうか、なんの力みもない、軽やかなソロが聴こえてきました。そして、この部分の最後を締めるアルトフルートのパートも、朗々とした低音で吹いていました。 そして、最後の「全員の踊り」の部分では、もうアクロバットのような細かい高音のフレーズを一気に吹ききってくれます。そして、本当に、あのオーケストラのトゥッティの迫力を、フルートとピアノだけで作り上げたのですから、もう信じられないほどの世界が見えました。機会があれば、ぜひご一聴を。 CD Artwork c Aparté, a label of Little Tribeca |
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でも、それと同じ内容の音源が、サブスクでもリリースされましたので、そちらを聴いてみました。カラヤンが指揮をしたシュトラウスの「こうもり」全曲です。DECCAレーベルによって録音されたのは1960年。この頃のカラヤンは、自身のアルバムのアメリカでの販売に興味を持っていましたが、このレーベルはアメリカのRCAとの間に提携関係があったので、何枚かのアルバムを作ることになったようですね。ですから、いずれもプロデューサーがジョン・カルショウ、エンジニアがゴードン・パリー、そしてオーケストラがウィーン・フィルという、あのワーグナーの「指環」の最初のステレオ全曲録音を成し遂げたチームによって作られたものですが、最初からRCAレーベルでリリースされたものもありますからね。たとえば、「カルメン」とか。 ですから、その時代の一連のDECCA盤は録音も卓越したもので、よく耳にしていました。なんたって、「ツァラ」が「2001年」のサントラに使われていたぐらいですからね。 ただ、この「こうもり」は、序曲だけはよく聴いていましたが、その全曲はおそらくまだ聴いたことはなかったはずです。ここには、ちょっとした「お遊び」があって、このオペレッタの第2幕の最後の部分に、原曲にはない「ガラ・パフォーマンス」のパートが入っているのですよ。その噂は聞いたことがあって、その中の、例えばビルギット・ニルソンが歌っている、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の中のナンバー「踊りあかそう」などは、どこかで聴いたような気がします。 この「ガラ・パフォーマンス」が加えられた経緯については、カルショウ自身の著書「Putting the Record Straight」で詳しく語られています。余談ですが、このタイトルはそのままだと「記録を正す」という意味で、おそらくカルショウが当時の仕事の詳細を「正しく」記録したのだ、という意味が込められていて、そこに、「レコード」というその仕事の内容を絡ませたダブルミーニングをもったものなのだ、と思っています。それを「レコードはまっすぐに」というアホなタイトルに訳してしまった翻訳家には、憤りを禁じ得ません。 いずれにしても、その内容は、DECCAのお偉いさんからの指示で、なにか特別な魅力を持ったアルバムを作ることになったため、そこに「ガラ」を挿入したというのですね。ただ、そこでは、DECCAとRCAで起用できる大歌手を集めなければいけませんが、彼らをすぐにウィーンに集めることは不可能だったので、それぞれの都合の良い土地で、都合の良いオーケストラと指揮者によって録音し、その音源を最終的に編集する、という方法を取ったのだそうです。もしかしたら、オケの部分は前もって録音してあったとか(それは「ガラオケ」)。ですから、公式には、この部分にカラヤンとウィーン・フィルは関与してはいないということになっています。この部分は、まずはパーティ客の拍手と歓声で始まり、そこにオルロフスキー役のレジーナ・レズニクが登場して、出演者を紹介する、という趣向になっています。 このアルバムが最初に発売されたときは、「ガラあり」と「ガラなし」の2種類のバージョンがあったのだそうです。ただ、しばらくすると「ガラ」のおまけは外されるようになったようですね。そして、CD時代には、また「ガラ」が復活しています。 ただ、今聴いてみると、やはりその部分のバックのオーケストラの録音は、それまでのものに比べると明らかにしょぼく聴こえますね。まあ、それでいいんですよ。改めてニルソンの歌を聴いてみると、完全にミュージカル歌手になり切っていますからね。それが、最後の音だけオペラティックなハイ・ヴォイスになる、というのが、いいですね。 SACD Artwork © Decca Music Group Limited |
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おとといのおやぢに会える、か。
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