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丸投げ製麺。 佐久間學
そして、今回のアルバムのように声楽が必要な時には、フリーランスのシンガーたちが加わります。その中には、ドミニク・ヴェルナーのような、やはり「バッハ・コレギウム・ジャパン」とは数々のソロを録音している大物シンガーもいます。 音楽作りに関しても、先ほどのステーンブリンク姉妹がイニシアティブをとっています。ここでは、まず アルバムのコンセプト作りと選曲から始まり、その古い楽譜の再構築を行って、演奏する楽譜を作ります。もちろん、演奏の時は全体の指揮を行います。 今回の彼女たちのアルバムのタイトルは、「ブラバント 1653」という謎めいたものでした。吹奏楽なのでしょうか(それは「ブラバン」)。そして、ジャケットの写真には、その「1653」という数字が入り口の扉の上に掲げられた建物が写っています。それは、その年にオランダのブラバント地方、ボクスメールに建てられたカルメル派修道院の写真です。そして、その修道院で聖職者を務め、同時にオルガニスト・作曲家としても活躍したベネディクトゥス・ア・サンクト・ヨゼフォという人の作品が、このアルバムのメインとなっているのです。この名前は彼の聖職者としての呼び名で、生まれた時の名前は「Buns(ブンス)」だったのだそうです。ファースト・ネームは分かっていません。 そのヨゼフォは、1642年に生まれて1716年に亡くなっていますから、ドイツ・バロックの作曲家ではシュッツ(1585年生まれ)とバッハ(1685年生まれ)のちょうど真ん中あたりにその生涯を送っていたことになりますね。 彼の作品は1666年から1701年までの間に、Op.IからOp.IXという9編の曲集として出版されました。その中のOp.VIIIには、トリオ・ソナタなどの器楽曲だけが収められていますが、それ以外には、全てミサやモテットなどの宗教曲が収められています。それらの作品は、全部で200曲以上になるのだそうですが、あいにく、完全な形で残っているのは9編のうちの7編だけなのだそうです。それでも、119曲は残っています。さらに、それ以外にグレゴリオ聖歌を編曲したものも残されています。 このSACDでは、14のトラックのうち8つまでが、この作曲家の作品と編曲で占められています。すべて初めて聴く曲ですが、シンガーもアンサンブルも極上の音色でとても魅力的なサウンドを聴かせてくれています。特に、最初の「Magnificato」で印象的に聴こえてくるソプラノのソリストのユリー・タヤーナ・ロゼットの伸びやかな声には、思わず引き込まれてしまいます。それは、かつてエマ・カークビーに代表される禁欲的な歌い方に慣れた耳には、まさに新しい時代にふさわしい、暖かみを存分に備えた声に聴こえます。 先ほどの、バスのヴェルナーも、とても澄んだ声で惹かれます。彼がソロを歌っているモテット「Quis me territat?(誰が私を驚かせるのだ?)」はとてもダイナミック。 1曲だけ、ブラバントのバロック音楽ではない、オランダの現代作曲家(コメディアン!)ヘルマン・フィンケルスが作った「Ave Maria」が演奏されています。それは、バロックとは無縁の「ネオ・クラシカル」な曲なのですが、ロゼットが歌うとなぜかまったく違和感がありません。粋なことをやったものです。 もっと粋なことも見られます。ヨゼフォが編曲したグレゴリオ聖歌の「Media vita」では、なんとステーンブリンク姉妹を始めとする楽器担当のメンバーの女性6人がコーラスを担当しているのですよ。北御門さんのオルガン伴奏で録音している写真がブックレットにあるのですが、それはとても楽しそう。そんな楽しさがアルバム全体にあふれています。掘り出し物でした。 SACD Artwork © Pentatone Music B.V. |
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ですから、普通だったら演奏時間はこの2曲を合わせても70分ちょっとですから、それで1枚のCDを作りますよね。でも、やはり、これだけの「人気指揮者」となると、リリースのタイミングなども企業ぐるみで「戦略」がめぐらされるのでしょうか。微妙に「切り売り」をして、話題を長持ちさせようという魂胆、というか「浅知恵」なのかもしれませんね。それにしても、「5番」だけと「7番」だけがそれぞれCD1枚ずつになっていて、しっかりフル・プライスで売られているというのは、普通に考えれば「ぼったくり」です。 とか言ってますが、この、とても情報量の多いクレンツィスの演奏で、ベートーヴェンの交響曲を2曲まとめて聴くなどということは、ちょっと刺激が強すぎるので、やはり1枚ずつ、ある程度の時間を置いて体験する方が体に優しいのかもしれません。そんな親切感あふれるレーベルの配慮だ、と思っておきましょう。 このCDを聴くと、まず、予想していたものとはずいぶん違っていたので、ちょっと意外に感じました。つまり、誰とは言いませんが、かなりぶっ飛んだスタイルで名をはせた指揮者などは、どの曲を聴いても彼の個性がいかんなく発揮されていて、正直、演奏を聴く前にそれがどんなものかわかってしまうようなところがあったのですが、クレンツィスの場合、今回の「7番」の演奏スタイルは、以前の「5番」からはちょっと予想できないものでしたからね。おそらく彼は、あくまで個々の作品にふさわしいアプローチを行っていて、いわば作品の数だけスタイルがある、という推測すら可能になってきます。 具体的には、「5番」では、終始「疾走感」がありました。それは、その作品が短調であったことと、メインのテーマが非常に切り詰められたものであったことと無関係ではなかったはずです。それに対してこの「7番」では、そのような疾走感のようなものはほとんど感じられません。それは、この曲が長調で出来ていること、さらに、テーマもかなり息の長いものであることが関係しているのでしょう。 ですから、ここでのクレンツィスは、テンポも第3楽章以外では意外とも思われるほどのゆったりとしたものでした。そんなテンポの中で、彼は楽譜には指定されていないようなとても細かい表情付けを行っています。それは、全く同じことを繰り返すところでも、完璧に同じ表現に徹していますから、決して即興的に行っているのではなく、徹底したリハーサルでその細かい表現をメンバー全員にしみこませた結果なのでしょう。そしてそこからは、勢いだけでは決して得られない、確かな高揚感が湧き上がってくるのです。 さらに、その表現の究極の形を、2楽章で聴くことができます。冒頭の管楽器によるイ短調のアコードに導かれて出てくる弦楽器の足を引きずるようなテーマが、もうほとんど聴こえないほどの超ピアニシモなんですよ。もしかしたら、これまで聴いてきたこの曲の中で、最も小さな音、それはほとんど「気配」でしかありません。ですから、この曲を知っている人はかろうじて頭の中でその音を想像できますが、初めて聴く人にとってはただの「無音状態」にしか思えないのでは、というぐらいのものでした。これは緊張しますね。 そして終楽章は、普通の演奏だと、なにか、一気呵成に終わらせる、みたいな印象が強くありますが、クレンツィスはあくまでガイドとなるリズムを際立たせつつ、とても細やかな表情をつけて、魅力的に仕上げています。 とは言っても、何度も繰り返して聴きたくなるものではありません。 CD Artwork © Sony Music Entertainment |
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今回のラインナップは、彼のほとんど最初のオーケストラ曲、「Emanacje(放射)/1959年」から、「Fluorescencje(蛍光)/1961年」、「Polymorphia(多くの様式)/1961年」、「De natura sonoris I(音の性格についてI)/1966年」、「De natura sonoris II(同II)/1971年」まで、初期の作品が5曲、総演奏時間が46分37秒という、お手頃なものでした。 まずは、2つの弦楽合奏のための「Emanacje」から聴いてみます。やはり、これはEMI盤とは別の録音であることは、すぐに分かります。残響の乗りが全然違いますからね。なんでも、その2つのグループのピッチをわずかにずらしてあるのだそうで、一緒に音を出したときには微妙な「うねり」が発生することになるのでしょう。ただ、実際はそのような「変な」響きはほとんど感じられません。それよりも、改めて聴いてみると、作風がその当時の主流であったドデカフォニックに近いものであったことに、ちょっと驚いてしまいました。つまり、きっちりと旋律線が聴こえてくるのですよね。途中で出てくるチェロのソロなどは、どでかい音で朗々とビブラートまでかけていますし。 ですから、いかにもペンデレツキ、という、そのようなメロディアスなものを廃したスタイルは、その次のフル・オーケストラのための「Fluorescencje」から、ということになります。ここでは、作風以前にサイレンやミュージカル・ソーといった異色な「楽器」を使っているのも特徴です。ただ、基本的にクラスターの集まりなのですが、途中で完全なユニゾンの「C」のロングトーンが出てきたりしますから、このあたりも彼のさらに先のスタイルを予言しているようなところもあります。 3曲目の弦楽合奏のための「Polymorphia」は、なんと言っても「シャイニング」のサウンドトラックとして有名な作品ですね。もちろん、それはキューブリックがその映画のシーンにふさわしい部分だけを切り取って使っていたためであり、それによってこの曲のキャラを判断するのは間違っています。タイトルの通り、ここには多くの様式(スタイル)が混在していますが、正直、最初のあたりを聴いた時には、その素材のあまりの少なさに、もしかしたらこれは、当時はまだ存在していなかった「ミニマル・ミュージック」の萌芽だったのでは、とさえ感じてしまいました。さらに驚くべきことに、最後は「ハ長調」のアコードで終わるのですから、これはもう完璧なサプライズです。 そして、残りの2曲はオーケストラのための「De natura sonoris」の「1」と「2」です。これらも、そんな意外性のオンパレード、何回聴いても新しい発見があるという作品です。「1」では突然ベースが4ビートを刻み出しますよ。「2」では、冒頭に出てくるメロディアスなフレーズはEMI盤を聴いた時にはミュージカル・ソーだと思っていたのですが、今回の録音では紛れもなく口笛でした。「改訂」したのでしょうか。 ペンデレツキは、かつてはっきりと「アヴァン・ギャルドとは決別した」と語っていました。もちろん、それ以降彼の作品はその様相をガラリと変えるのですが、それはあくまで彼の創作のスタイルが変わったというだけのことで、自身の過去の作品を否定したことでは全くなかったことが、このように嬉々として演奏していることでも分かります。 そして、「指揮者」であるペンデレツキは、自作に対する立ち位置がこの半世紀の間に微妙に変わっていることも分かります。先ほどの「De natura sonoris II」では、使用楽器を変えただけではなく、EMI盤で見られた「お茶目さ」のようなものが、今回はきれいになくなっていましたからね。 CD Artwork © Poliskie Radio S.A. |
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という、いずれも10歳代から20歳代前半に作られた交響曲です。4曲のうちの2曲には作曲家の生前には出版されていなかったので、作品番号も与えられていません。その2曲は、1974年になって、初めて出版されました。 その「イ長調」と「首都ローマ」を出版直後にフランス国立放送管弦楽団を指揮してEMIに録音し、その前後に録音された他の交響曲と一緒に、1975年に最初に「交響曲全集」を作ったのは、ジャン・マルティノンでした。 その次にこれらの曲を録音したのが、おそらくジャン=ジャック・カントロフだったのではないでしょうか。彼は1996年に「首都ローマ」と「2番」、そして1998年に「イ長調」を含むサン=サーンス・アルバムを、タピオラ・シンフォニエッタを指揮してBISに録音します。ヴァイオリニストとして、世界中でソロやアンサンブルの活動を行っていたカントロフは、1980年代からは音楽的により広く、そして深く経験を積むために、指揮者としての活動も始めていたのですね。 それから20年以上経って、カントロフはやはりBISに、この珍しいサン=サーンスの初期の交響曲を録音しました。今回のオーケストラは、彼が客演指揮者を務める、フランス語圏ベルギーでの唯一のプロ・オーケストラ、リエージュ王立フィルです。このように、このレーベルでは看板指揮者のオスモ・ヴァンスカに、シベリウスの交響曲ツィクルスを2セット作らせるなど、同じ指揮者に同じ曲を何度も録音させるということをよくやっているようですね。 今回のカントロフは、前回は録音していなかった「1番」と、2回目となる「イ長調」、「2番」を録音しています。SACDでの曲順は、作曲年代に沿っています。まずは、神童と言われて13歳でパリのコンセルヴァトワールに入学していたサン=サーンスが15歳の時に作った「イ長調」です。 これは、やはり先人の交響曲を巧みに参考にしながら作っていたことがはっきり分かる、初々しい作品です。なんたって、ソナタ形式で作られた第1楽章では、提示部にあたる部分をきちんとそのまま繰り返すようにしていますからね。テーマにしても、固定ドで「ド・レ・ファ・ミ」という、それこそモーツァルトが最後の交響曲で使ったモティーフがそのまま使われていますし。第3楽章のスケルツォのテーマも、そのモーツァルトの「フィガロの結婚」の中のフィガロのアリア「Non più andrai」になんとなく似ています。 それが、その3年後の「1番」になると、もはや第1楽章の繰り返しはなくなり、もっと自由な展開がみられるようになります。というか、全く性格の異なる2つのテーマを交互に何度も繰り返す、といういわば循環形式の萌芽のようなスタイルをとるようになっています。その2つ目のテーマの最後に現れる「タタタ・ター」というモティーフが、とても印象的にくり返されるのは、もしかしたらベートーヴェンの影響? 最後の第4楽章の後半に「フガート」が登場するのも、まあモーツァルトの影響と言えなくもありませんが、逆に新鮮さが感じられます。そしてそのエンディングは、まるで将来の「3番」を彷彿とさせるようなきらびやかなものになっています。 ただ、その後の「2番」では、逆になんだか守りに入っているような気がします。第1楽章のテーマはなんとも散漫です。とは言っても、第3楽章の生き生きとしたシンコペーションには、ちょっと惹かれます。 いずれの曲も木管楽器が大活躍ですが、このオーケストラのメンバーはかなりのハイレベルで対応していました。 SACD Artwork © BIS Records AB |
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そんな最新リリースのアルバムは、1990年に生まれたという若いノルウェーのピアニスト、クリスチャン・グローヴレンが演奏した、ノルウェーの4人の作曲家たちによる「おとぎ話」の世界が集められたものでした。 このレーベルのオーナーでエンジニアのリンドベリは、響きのよい教会などを使って録音を行っていますが、ピアノの録音に関しては、常に今回使われているオスロのソフィエンベルグ教会を愛用しているようです。 この写真のように、ピアノの下の床の上に薪を無造作にまき散らす、というのが、ここでのピアノ録音の定石なのでしょうね。さらに、楽器の屋根が、通常より大きく開いています。そのために、突上棒は楽器に付属しているものではなく、もっと長い洗濯竿のような伸縮できる棒を使っています。 ![]() ![]() ![]() 音楽は、ハープの描写でしょうか、細かい音符によるアルペジオで始まりますが、その心地よいハーモニーが一瞬とても異質なクラスターで遮られる、というようなスリリングな光景がとても印象的です。そこには、ほのかにフランスの印象派の技法が見え隠れしています。 次は、1856年生まれ、グリーグの次の世代の作曲家、シンディングの「ピアノ・ソナタ」です。3つの楽章からできている、とても高い技術が要求されるパワフルな作品ですが、それぞれの楽章のテーマには民族色が豊かに表れています。 3曲目は、1882年のアルフ・フールムという人の「おとぎ話の国」という、このアルバムのタイトルそのものの作品です。6つの小さな曲には、それぞれかわいらしいタイトルが付けられていて、まるでアニメーションのBGMのように具体的なイメージがわいてくる魅力的な音楽です。技法的には、やはりフランス印象派の影響が大きいようですね。 そして、最後はグリーグの「バラード」です。これは長大な変奏曲で、そのテーマは「北の国の農夫」という民謡から取られているのだそうです。 そんな様々なノルウェーのピアノ音楽を、まるで浴びるように味わったのですが、聴き終わると、なにかこのレーベルにしては物足りないものを感じてしまいました。高音が、もっと澄んでいてほしいのに、ほんの少し濁りが感じられるのですよね。それは、おそらく今回のアルバムではSACDしか聴くことが出来なかったからなのではないでしょうか。 たとえば、同じレーベルのこちらのアルバムでは、同じ教会で録音されたピアノ曲を、SACDとBD-Aとで聴き比べることができるのですが、その差は歴然たるものでした。SACDでは、高音に何か甲高いものが感じられるのですが、BD-Aではそんなことはなく、とても落ち着いた余裕の高音を楽しむことができます。そもそも、SACDの規格のDSDは、特性的にもBD-Aの最高スペックである24/192のPCM(あるいは、その可逆圧縮音源)には到底太刀打ちできませんからね。 今回も、しっかりBD-Aで聴きたかったものです。 SACD Artwork © Lindberg Lyd AS |
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ただ、彼は生涯に15曲のオペラを完成させるのですが、現在では「カヴァレリア」以外はほとんど演奏されることはありません。ですから、彼が、なんと日本を舞台にしたオペラを作っていた、なんてことは、かなりのマニアでなければ知らないのではないでしょうか。それが、この「イリス」という1898年にローマで初演された彼の7番目のオペラです。同じく日本が舞台のイタリア・オペラとしては、プッチーニの「蝶々夫人」があまりにも有名ですが、こちらは1904年の初演ですから、「イリス」の方が先に作られています。 というか、この2つのオペラは、台本作家が同じ人なのですよ。それはルイージ・イッリカという、それまでにプッチーニの「ラ・ボエーム」(1896年)やジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」(1896年)などの台本も書いていた人です。 「イリス」は、それまでマスカーニのオペラを出版していたソンツォーニョの商売敵のリコルディのプロデュースによって作られました。その際に台本作家としてイッリカを指名してきたのですね。そして、イッリカは当時ヨーロッパで流行していた日本趣味をフィーチャーしたオペラを作ることを提案し、作曲家もそれに従ったのでした。 その結果出来上がったものは、「蝶々夫人」でもお分かりになるように我々日本人にはとても奇異に映るものでした。そもそも、日本ブームとは言っても、それはかなり表面的なものでしたから、作者たちの知識は単なるファッションでしかありませんでした。ですから、キャストの名前も、タイトルロールこそ「イリス(アイリス=あやめ)」と、可憐なものですが、その相手役の名前が「オーサカ(大阪)」と「キョート(京都)」というのですから、たまったものではありませんね。 その「大阪」さんは、金持ちの放蕩息子、なぜか、富士山が見える村に名物の「ほうとう」を食べに来たところで(ウソですよ)、無垢な少女イリスを見初めます。そして、知り合いの吉原の置屋の経営者「京都」と共謀して、彼女を誘拐します。あとに残されたのは、イリスが面倒を見ていた盲目の父親。彼は、娘に裏切られたと怒り、単身吉原へ向かいます。シーンは吉原に変わり、夢見る少女イリスは、「京都」の置屋に幽閉されています。そこへ「大阪」がやってきて彼女に迫りますが、なびかないので花魁にしてしまおうと、着飾らせて格子部屋へ押し込みます。すると、その美しさに、人々は驚き、大評判となります。その噂を聴いて「大阪」はイリスの許にやってきますが、もはや相手にはされません。そこに現れたのが、イリスの父親、彼は娘を激しくののしるので、彼女は耐えきれず窓から身を投げてしまいます。 そんな荒唐無稽なお話ですが、実はこれらは大した意味を持ってはおらず、本当のテーマは最後に合唱によって歌われる太陽への賛歌なのだと言われています。イリスが誘拐される前には、「大阪」たちがたくらんだ人形芝居が上演されているのですが(いったい、どんな段取りなのでしょう)その中に哀れな少女を救う太陽の神「ヨール」が登場して、その声を「大阪」が演じていたので、彼女は感動してしまったのです。 ですから、音楽的には、「蝶々夫人」のような「日本的」な要素はまずありません。それよりも、マスカーニならではの甘美なメロディのオンパレードにこそ、酔うべき作品なのでしょう。 ただ、このコンサート上演のライブ録音では、肝心の合唱のレベルが著しく低く、イリス役も必ずしも適役とは言えないので、それほどは楽しめません。オーケストラはとても上手なのに。 CD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH |
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今回のニューアルバムでは、ベリオの声楽のための作品、それも、ソロ・ヴォイスのための作品と、合唱のための作品が両方集められていて、とてもバラエティに富んでいます。 ソロの曲は、なんと言ってもベリオの公私ともに渡るパートナーだったキャシー・バーベリアンのために作られたものは外せません。こうして、ピリオド楽器の団体との共演などで幅広く活躍している、メゾ・ソプラノのルシール・リシャルドーがキャスティングされることになりました。 まずは、「名刺代わり」に、キャシーの超絶技巧を前提にして作られた一人の声だけのための作品「Sequenza III」です。もちろん、これはフルートから始まって様々な独奏楽器で演奏されるように作ったシリーズの中の1曲ですので、声、というか、口の中のすべての器官を使って出せるありとあらゆる「音」を総動員して作られています。今回のリシャルドーの演奏では、倍音唱法が見事に決まっていましたね。 そして、続いては合唱のコーナーへと移ります。まずは8人の合唱団員が無伴奏で歌う「Cries of London」です。1975年に作られた時は、キングズ・シンガーズが歌うことを想定していたので6つのパートで、楽章は4つでしたが、翌年にスウィングルIIのために、パートを8つに増やし、楽章も7つに拡大した改訂版を作ります。キングズ・シンガーズのバージョンの録音はあいにく残っていませんが、こちらは1976年にDECCAに録音、同じ年に「A-Ronne」とのカップリングでLPがリリースされ、1990年にはCD化もされています。これが長い間この曲の唯一の録音だったのですが、2018年にノルウェー・ソリスト合唱団によってBISに録音されたと思っていたら、その直後の2020年にはこのジョフロワ・ジュルダン指揮のレ・クリ・ド・パリの録音が生まれていました。こうしてそれらの録音を比べてみると、今回のものは、BIS盤ではちょっと格調が高くなりすぎたものを、DECCA盤が持っていた少し粗野なところが残っているテイストに戻したな、という感じでしょうか。それと、6曲目の冒頭で「Money,money...」とささやいているのがDECCA盤ではきちんと聴こえるのに、他の盤ではそれが聴こえません。 そして、またソロのコーナーに戻って、今度は5人の楽器(Fl、Cl、Vn、Vc、Pf)が加わった、1968年の作品「O King」です。これは、その年に暗殺されたマルティン・ルーサー・キングへの追悼の意味で作られました。声はほとんど楽器のアンサンブルの一部となっていて、のちに「シンフォニア」の中に転用されます。 そのあと、世界各国の伝承歌を11曲、ソロと7人の楽器(Fl、Cl、Va、Vc、Hp、Perc×2)のために編曲した「Falk Songs」(1964年)に続きます。これは以前、アップショーのソロで聴いていました。歌は元のメロディを素直に歌っているのに、アンサンブルはとても個性的なのがいいですね。楽器は今回のほうがはるかに上手(特にフルート)なのですが、ソロは前回のほうがよりネイティヴに迫っていたような気がします。 同じようなプランで1965年から1967年の間に作られた「Beatles Songs」からの「Michelle II」(編成はFl、Cl、Vn、Va、Vc、Cb、Hp)では、アンサンブルの編曲はもっとぶっ飛んでます。この曲集には、この他に「Michelle I」、「Ticket to Ride」、「Yesterday」が入っています。全て1965年にオリジナルがリリースされていますから、ほぼリアルタイムに編曲されたのですね。 アンコールのように、晩年に作られたア・カペラの合唱曲「There is no tune」(1994年)と「E si fussi pisci」(2002年)が演奏されています。シチリアのラブソングで「もし彼が魚だったら、海を越えて彼女に会いに行くだろう」と歌う最後の曲は、とてもシンプルで親しみやすい作品です。 CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s. |
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その楽譜はすぐに出版され、各地での演奏も行われるというヒット作だったのですが、やがて忘れ去られてしまいます。それが復活上演されるのは、20世紀になってからの事でした。もちろん、そのころはまだモンテヴェルディの時代の楽器などは一般的ではありませんでしたから、モダン楽器のための編曲が行われての上演でした。そこではヴァンサン・ダンディやカール・オルフ、さらにパウル・ヒンデミットなどのエディションが使われていたのだそうです。 それが、しっかりピリオド楽器によって上演されるようになるのは、20世紀も後半です。最初に録音されたのは、おそらくニコラウス・アーノンクールの指揮によるもので、その時にはキャシー・バーベリアンなども参加していましたね。確かに彼女は、現代音楽だけではなく、モンテヴェルディの作品も数多く手がけていました。 それ以後は、オリジナルの形での演奏は数多くの指揮者、団体によって行われるようになります。それは現代のオペラハウス、例えばミラノのスカラ座などでも、しっかりレパートリーとして上演されるようになっているのですから。 とは言っても、個人的には、その黎明期に撮影されたアーノンクールのビデオなどを見た時には、正直そのとてもゴチャゴチャした演奏に不快感を抱いたものでした。おそらくそこには、このあたりの人たちのパイオニアとしての「力み」、あるいは「使命感」のようなものが、そのまま演奏に反映されていたからなのでしょう。 それから半世紀ほど経つと、この時代の音楽も肩ひじを張らずに聴くことができるような成熟した演奏にも出会えるようになってきました。今回の、スウェーデンの合唱指揮者、フレードリク・マルムベリが指揮をしたSACDでは、そんな、最新の「オルフェオ」が体験出来るのではないでしょうか。 ここでは、スウェーデンの3つのグループが演奏に参加しています。ソロからコーラスまで、すべてのキャストを担当しているのが「アンサンブル・ルンダバロック」。弦楽器や木管楽器、そして打楽器と低音楽器は、「ホール・バロック」。さらに、金管楽器で盛り上げるのが「アンサンブル・アルタプンタ」です。 まずは、序曲として、その金管アンサンブルによって「トッカータ」というファンファーレが演奏されます。これは、もともとはこの作品のためのものではなかったそうなのですが、今ではこのオペラの代名詞として欠かせないものになっています。 物語は、ソロ、二重唱、合唱といった声楽パートの間に、楽器だけで演奏される「リトルネッロ」が挟まって進行されます。それはある種の変奏曲、というか、おそらく楽譜にはシンプルなメロディしか記されていないものを、演奏家が即興的に装飾を加えているのでしょう。 一方の声楽の方は、ソロはほとんど抑揚のないメロディラインなのに、歌詞に対応した情感がストレートに伝わってくるという、不思議なものです。それが二重唱になると、とてもきれいなハーモニーが生まれてきます。それに対して合唱は、もっと生命力にあふれた「マドリガル」そのものです。そんな、次々と登場する様々な音楽は、最後まで退屈さとは無縁です。 一番ウケたのは、オルフェオが冥府の入り口で船頭のカロンテと遭遇するシーンでした。そこでは、いきなりそれまで使われていなかった「レガール」という、手動のふいごが付いたリードオルガンがその突拍子もない音を響かせるとともに、カロンテの粗野な歌が始まります。それに応えるオルフェオの、装飾たっぷりのアリア(?)も素晴らしいですね。 最後のシーンのオルフェオとアポロの対話も、サラウンドを駆使して立体的に表現されていました。 SACD Artwork © BIS Records AB |
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現在はイギリスやフランスのみならず、世界中で演奏活動を行っています。 録音は、これまでに、HYPERIONから「ロマン派のピアノ協奏曲」シリーズのアルバムを1枚、そしてSIGNUMからはサン=サーンスのピアノ協奏曲と、ショパンの前奏曲の2枚のアルバムをリリースしています。 今回は、SIGNUMからの3枚目となるアルバムです。タイトルの「SPIRA, SPERA」というのは、彼自身の言葉によるとヴィクトル・ユゴーの「ノートルダム・ド・パリ」からの引用なのだそうです。意味は「息をする、望む」なのだそうですが、彼はここから、まずパリのノートルダム大聖堂が焼け落ちる光景を思い浮かべたのだそうです。そして、その次に思い浮かべたのは、子どもの頃の思い出として、大聖堂でバッハのオルガン曲を聴いた時に受けた衝撃だということです。 そんなバッハの作品は、多くの人によってピアノ・ソロのために編曲されてきました。ここでは、フランツ・リスト、カミーユ・サン=サーンス、フェルッチョ・ブゾーニ、マイラ・ヘス、アレクサンドル・ジロティといったお馴染みの物から、1887年生まれのハンガリーのピアニスト/作曲家のテオドール・サーントーの珍しい編曲までも聴くことができます。 ブゾーニが編曲した大曲の「シャコンヌ」は聴きごたえがありました。このオリジナルはソロ・ヴァイオリンですが、そこからオーケストラ用の編曲までも作られているように、非常にスケールの大きな曲です。このブゾーニ版も、モダン・ピアノの可能性を存分に追及したものになっています。そんな、ある意味聴きなれたこの曲をデスパの演奏で聴くと、その音色とダイナミクスの多彩さに驚かされます。彼が使っているピアノは、イタリアのファツォリという、わりと最近名前が聴かれるようになった楽器です。このピアノには、普通のスタインウェイなどの楽器と違って、ペダルが4本使えるようになっています。 ![]() おそらく、そんな影響もあるのでしょう、「シャコンヌ」の中に出てくる超ピアニシモは、信じられないほどの柔らかさを持っていました。ですから、この作品自体が、とても豊かな表現力をもって演奏されているのです。 そして、サーントーが編曲したのが、オルガン曲としてはとても有名な「パッサカリアとフーガハ短調(BWV582)」と、「幻想曲とフーガト短調(BWV542)」です。オリジナルはペダルと手鍵盤ですから本当は腕が3本ないと弾けないところを2本で弾くことになるので、とても難しいのでしょうが、デスパはこともなげに弾いていて、オルガンの壮大さを原寸大で表現してくれています。「幻想曲」はカツァリスとアムランの録音があるようですが、「パッサカリア」はこれが初録音かもしれませんね。ただ、「幻想曲」の冒頭で、オルガン版にはある装飾がないのが、ちょっと物足りません。 CD Artwork © Signum Records |
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ところが、この最新のアルバムには、絶対に佐渡ではありえない、なんともセクシーなイケメンの写真がありました。やはり、佐渡は「顔」の魅力としてはいまいちだったので、ついに音楽監督を「クビ」になってしまったのでしょうか。 さらに、そこにある指揮者の名前であろうテキストを見て「チェクナヴォリアン」とあるのにも驚いてしまいました。確かにこういう名前の有名な指揮者がいましたが、今はもう目立った活躍していないはずですし、そもそもこんなに若いわけはありません。 そんな、様々な憶測を呼ぶこのジャケットです。きちんと見てみたら、この方のフルネームはエマニュエル・チェクナヴォリアン、先ほどの、ハチャトゥリアンの権威として知られ、多くの録音を残しているアルメニア人の指揮者、ロリス・チェクナヴォリアンの息子さんなのでした。 1995年にウィーンで生まれたエマニュエルくんは、すでに人気若手ヴァイオリニストとして世界中で活躍しています。5歳の時からヴァイオリンを始め、7歳の時にはオーケストラとともにコンサートを開いたという、いわば「神童」でした。ウィーンで元アルバン・ベルク弦楽四重奏団のゲルハルト・シュルツのもとで学んでいて、現在では、ウェルザー=メストの指揮するライプツィヒで・ゲヴァントハウス管弦楽団など、多くの世界的なオーケストラとの共演も予定されています。2019年には日本でのリサイタルも行われていました。 そんな彼が指揮者としてデビューしたのは2018年、ウィーンのコンツェルトハウスで、ウィーン室内管弦楽団を指揮していました。さらに、これまでに今回のトーンキュンストラー管弦楽団の他にも、ウィーン・コンツェルト・フェライン、カメラータ・ザルツブルク、バーゼル交響楽団などの指揮も行っています。しかし、彼自身は5歳の頃には、すでに指揮者になりたいと思っていたのだそうです。彼の回想では、そのころ家族が住んでいたアパートには、レコードプレーヤーの横に指揮台が置いてありました。そこで彼は、まだ誰も起きていない朝早くに、父親がロンドン交響楽団と録音した「シェエラザード」のレコードを聴きながら、その指揮台の上で「シェエラザード」の指揮をしていたのだそうです。 それから15年後に、彼は本物のオーケストラの前でこの曲を演奏するという願いをかなえたのですね。 今回の、エマニュエルくんの指揮者としてのデビューアルバムは、メインの「シェエラザード」の前に、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲で始まりす。これは、いかにも若者らしい颯爽としたテンポの中で走り回る第1テーマで圧倒されます。ちょっと無鉄砲な、細かいところはごまかしても構わないと言った感じのやんちゃさです。それが、第2テーマの朗々とした音楽になると、オーケストラをとてもよく歌わせています。 「シェエラザード」でも、彼の音楽作りは同じような感じでした。早い楽章はとても生きが良いのですが、オーケストラ全体で盛り上げて圧倒的なクライマックスを作る、といった作業は、まだちょっと苦労しているように見えます。今の段階では、とりあえず勢いで押して行こう、という感じです。 それが、第3楽章のメロディアスな音楽になると、俄然彼の持ち味が発揮できてきます。そこには、とても懐の深い、伸び伸びとした音楽がありました。 最後にアンコールでしょうか、ボロディンの「ポロヴェツ人の踊り」が演奏されます。これも、リズミカルに押し切るというスタイルはいいのですが、例えば3拍子になったところでの頭のチューバが常に出遅れているのを注意するような細かいところまでは、気が回らないようです。 これからどのように育っていくのか、楽しみです。 CD Artwork © Niederösterreische Tonkünstler Betriebsgesellschaft m.b.H. |
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さきおとといのおやぢに会える、か。
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