バイトかい?.... 渋谷塔一

(04/5/17-04/6/9)


6月9日

BRAHMS
Ein Deutsches Requiem
Laurense Equilbey/
Choeur de Chambre Accentus
NAïVE/V4956
以前ご紹介した、室内合唱団アクサントゥス(ふらんす語だとアクサンチュスだそうです。なんだか焼肉が食べたくなりますね−それは「チマ・サンチュ」)の新譜です。前作、私はどうも今ひとつだったのですが、フランスでは大ベストセラー。もちろん、日本でもこの種のアルバムとしては異例の売上を記録したとかで、「何しろ、店頭でかけると反応が良いんですよ」とは、いつものお兄さんの弁。こういう「ゆるい」アンサンブルの方が聴いていて心地よいんだろう。と密かに思ったのでした。
そうなんです。今回の「ドイツ・レクイエム」もひたすらゆるい。その上これは“ロンドン版”による2台ピアノによる伴奏の録音なのです。荘厳な気持ちになりたい人には決してオススメできるアイテムではありません。以前、このヴァージョンでCDが出ていましたが、その時は「何だか練習風景を聴いているみたい」と一蹴してしまい、購入もしなかったものですから、誰の演奏だったかすらも忘れてしまいました。今回、アクサントゥスで聴いてもその印象は拭い去る事ができません。
第1楽章冒頭「〜Selig sind, die da Leid tragen: denn sie sollen getrostet werden. 悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう。(マタイによる福音書5-4)」この部分だけでも、やはりオーケストラ版を聴いて欲しいと思います。重い足取りを思わせる低弦の刻み。ここは、深く静かな心臓の拍動のような響きを期待するのですが、ピアノで奏されると何とあっけないことでしょう。私は本来、トランスプリクション物が大好きなのですが、こういう音を聴くと、一瞬「大嫌い」になってしまうんです。ほんの一瞬ですが。
そして残念なことに、合唱の響きが均一でないのが悔やまれます。その上、このアクサントゥスって全く悲しんでいないんですよね。本当に静かに歌われる「悲しんでいる人は幸いである」、それを包みこむかのように歌われる「彼らは慰められるであろう」。この対比が全く感じられないのは何故でしょうか。この言葉は何度も繰り返され、その都度響きを微妙に変えていき、次の「〜種を携え涙を流して出ていく者は、束を携え喜びの声をあげて帰ってくるであろう(詩篇126-5,6)」で、溢れ出るような光を感じさせるはずなのですが、ここらへんも全くメリハリがありません。「言葉を呪文のように歌っている」という表現がありましたが、まさにそんな感じ。
ただ、このアルバムを「究極の癒し」として捉えたいのであれば、この、ある意味平板な表現は理にかなっているのかもしれません。以前、あるレーベルから発売されたリラクゼーションアルバムの裏面には「このCDは、ゆったりと聴いていただきたいためにあえてダイナミックレンジを小さめに設定してあります」のようなことが書かれていましたっけ。何しろ、私の好きなウィンズバッハ少年合唱団によるこの曲のCDは、冒頭が聴こえるようなヴォリューム設定にしておくと、途中の「種を携え」の部分で、慌てて音を小さくしなくてはいけないのですよ。その点、このアクサントゥスは、最初から最後までそんなこと気にしなくてもいいのですから。

6月7日

MOZART
Requiem(Ed.Beyer)
Christine Schäfer(Sop), Bernarda Fink(Alt)
Kurt Streit(Ten), Gerald Finley(Bas)
Nikolaus Harnoncourt/
Arnold Schoenberg Chor
Concentus Musicus Wien
DHM/82876 58705 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCD-34018(国内盤 6月23日発売予定)
かなりの人が誤解をしているに違いないのですが、アーノンクールという指揮者は決して「オリジナル楽器」の演奏家などではありません。「モダンオーケストラも振っているのだから、もちろんオリジナル奏者と言う範疇には収まらないさ」と言うような次元の話ではありません。「オリジナル」の人たちが目指したものは、その曲が作られた当時の楽器を使い、当時の奏法を再現することによってなされる、作曲家が目指したものにより近いものの再現です。つまり、時代によって汚されてしまった音楽の埃をきれいに洗い去って、本来の作曲家のメッセージをクリアに伝えることこそが彼らの最大の使命なのです。ところが、アーノンクールが作り出す音楽からは、その作曲家のメッセージよりは、アーノンクール本人のメッセージが聞こえてくる瞬間の方がはるかに多いことに気付きはしませんか?そう、彼が目指しているものは彼の独自の世界観に基づく、音楽の再構築、自筆稿の研究や時代考証などを行ったところで、採用されるのは彼に都合の良い部分のみに過ぎません。基本的な楽譜の指示さえ無視するところから、彼の音楽作りは始まるのです。
そんな彼が1981年に録音したモーツァルトのレクイエムは、それなりに衝撃的なものでした。ことごとく期待を裏切られるいびつなフレーズたちは、まさにアーノンクールの面目躍如といったものがありました。それから20年以上経った2003年に録音されたものがこのCDです。この20年間に、彼はメジャーなモダンオケですら、彼の方法論で支配できる確かな手応えを得たことでしょう。彼の録音はことごとく絶賛をもって迎えられたのです。その自信に裏付けられたこの新録音、ここには、見事なまでの「アーノンクール節」の完成された姿があります。
なかでも、今回起用されたアルノルト・シェーンベルク合唱団は、そんなアーノンクールのわがままを形にするのにどれほどの貢献をしていることでしょう。例えば、「Kyrie」での特異なアーティキュレーション(「キ〜リエ〜、エレ〜イソ〜ン」ではなく、「キッリエッ、エッレッイソン」)など、良くこれだけ完璧に歌えるものだと感服してしまいます。確かに、そこからは、テキストの意味が恐ろしいほど伝わって来るという新鮮な体験は味わえますが、次の瞬間、これはモーツァルトが伝えたかったこととはかなりかけ離れた表現であることにも気付くことでしょう。こんなある意味力まかせな音楽よりも、もっと賢いものを聴きたいと、私の心は叫んでいます。少なくとも、フレージングにおぼれて基本的なビート感を失うことだけは、避けて欲しいと(バルトークがあれほどみっともなかったのは、そのせいです)。
そんな中で、ソプラノのシェーファーには、オケも含めた他のパートには見られない自然な息吹が宿っています。彼女の歌は、この演奏における唯一の良心なのかもしれません。髭も剃れますし(それはシェーバー)。

6月5日

STRAUSS
Die Fledermaus
Pamela Armstrong, Lyubov Petrova(Sop)
Thomas Allen, Håkan Hagegård(Bar)
Vladimir Jurowski/
London Philharmonic Orchestra
OPUS ARTE/OA 0890 D(DVD)
2003年8月のグラインドボーン歌劇場での公演が、1年も経たないのにもうDVDで発売になりました。もっとも、映像自体は例によってBBCが収録したもので、NHKも制作にかかわっていたので、すでにテレビでは放送されていますから、ご覧になった方もいらっしゃることでしょう。このDVD、もちろん内容はそれと全く同じものなのですが、これには放送では付いていた日本語字幕が付いていないことは、しっかり注意しておく必要があるでしょう。このレーベルを輸入している業者は、ARTHOUSあたりではきちんと日本語字幕を付けているのに、これは困ったことです。特にこの「こうもり」のような、地のセリフが演出によって大きく変わるものでは致命的な欠陥になりかねません。とりあえず英語とスペイン語は付いていますが、これではフツーの人では細かい言い回しなどとても理解できないことでしょう。
もっとも、以前ご紹介したノイエンフェルスのぶっ飛んだ演出に比べれば、今回のスティーヴン・ローレスの演出は至極まっとうなものではあります。しかし、この演目の上演にあたっては、演出家は「ノイエンフェルス以後」を意識しないわけにはいかなくなってしまったことは、想像に難くありません。まるで「指輪」における「パトリス・シェロー以後」のように。この、一見豪華な回り舞台を駆使した演出にも、最後の最後でアッと驚く仕掛けが披露されるという趣向が込められているのです。中央の階段を回転させることによって、アイゼンシュタインの屋敷、オルロフスキーの別荘、そしてフランクの刑務所と、すべての場面を使い回すという、斬新ではあるがちょっと無理もあるプランなのですが、終幕でアイゼンシュタインがロザリンデに許しを請うた瞬間、舞台が回って、なんとそこは前の幕の舞踏会の場面。これが、「すべてはシャンパンの泡のせい」という、このオペレッタのテーマを、見事に具現化したものであるのは、男装していたオルロフスキーが、わざわざ付け髭を外し、カツラを取ってプロンドの髪をなびかせるという「ネタバレ」を披露していたことでも明らかでしょう。そういえば、オケピットとステージの間には、無数の酒瓶が並べられていましたね。
演出共々、音楽面でもかなり力が入っているのはよく分かります。指揮のユロフスキという日本食マニアの人(それは「湯豆腐好き」)は、ロンドン・フィルの首席客演指揮者、オペラの分野で着実に頭角をあらわしはじめている若手です。その精悍なマスクと、きびきびした指揮ぶりはなかなかのもの、オペラマダムのアイドルとなる日も近いことでしょう。もちろん、その演奏からウィーン風の粋な軽妙さを感じ取るには、少し無理なものがあるのは、仕方ありません。出演者の中で、容姿、存在感ともピカイチだと感じられたアデーレ役のペトロヴァが、「私は小間使いではなくて、女優なのよ!」と歌うクープレー「侯爵様のような方は」のあまりの重厚さを聴いてしまうと、その印象はさらに強くなります。アームストロングの、およそ「ハンガリーの貴婦人」とは程遠い野暮ったいロザリンデぶりも、アイゼンシュタインならぜひ持っていて欲しい「色気」の全く欠如したアレン(しかし、年を取ったものです)の起用も、おそらく最初から意図したものなのでしょう。

6月2日

プライド
一条ゆかり
集英社クイーンズコミックス

(ISBN4-08-865198-7)
最近、「冬のソナタ」を始めとした韓国ドラマが大人気です。私の友人もはまってますが、とにかく「新鮮」なんだそうです。何しろ昨今の日本のドラマはあまりにも設定が安易で、俳優も使いまわしする他ない状態です。(2時間ドラマなどは、新聞を見ただけで犯人がわかってしまいます)これは、一時期流行った「トレンディ・ドラマ」の悪影響も多分にありますね。バブルの時期に、当時の平均的な若者や主婦たちよりも、ちょっとだけハイクラスの人物を主人公にすることにより、視聴者の憧れを具現化したもの。この流れを引きずって、現在に至っても「等身大の若者、主婦」を描いていたのでは、ドラマ自体が軟弱になるのは致し方ないと「おやぢ」は憂えてしまうのです。で、先ほどの韓国ドラマには、今の日本人にはない「清潔感」が満ち溢れているせいで人気を博したと新聞評に載ってて、思わず「ふ〜ん」と頷いてしまったのです。もう一つ、最近視聴者の心を捉えているジャンルに、「どろどろの愛憎劇、もしくは根性物」があります。これも最近の軟弱なドラマを見飽きていた視聴者には賞賛を持って迎えられたのでしょう。例の「たわしコロッケ」もそうですし、「エースをねらえ」もその傾向でしょうか。やはり、人の不幸は蜜の味・・・なんですよね。
さてさて、前置きが長くなりました。今回は久々にコミックの紹介です。タイトルは「プライド」。著者は少女マンガ界の大御所、一条ゆかり氏です。その昔、「デザイナー」という作品で男と女の愛憎劇をフランスというオシャレなオブラートにくるんで華麗に、かつカッコよく描いて当時の女の子をくらくらさせた氏の新作です。今回はオペラ歌手を夢見る2人の女子大生が主人公。アリアのビブラートが響き渡る中、彼女たちの凄絶な戦いを描くという、まさに「少女マンガの王道」ともいえる作品です。設定からすると、例の超長編「ガラスの仮面」を彷彿させるものがありますが、「ガラかめ」の場合、マヤと姫川亜弓はお互いを陥れようとはせず、あくまでも正々堂々と「紅天女」への道を目指します。しかし、こちらは違います。主人公の一人は、裕福で大オペラ歌手の娘でもある史緒(とは言え、ふとしたことで逆境に陥るのですが)。そして、もう一人、逆境に育ったが故に、恵まれた史緒のことを最初から敵視し、「ライバル」であると認識して、成功への道のためなら人を陥れることも厭わない萌。お嬢様育ちのせいか、人に素直に感謝することすら「プライドが許さない」と言ってのける史緒。のしあがるためなら「くだらないプライドなんてとっくに捨てた」と言い放つ萌。もし同じくらいの才能があったら、どちらに音楽の女神は微笑むのだろう・・・・と最初からはらはらの展開で読者をひきつけるのは、本当に「大御所」ならではの筆致です。
いささかどぎつくもありますが、こんなのを読んでしまうと、「近所にひたすら美味しい洋菓子の店があることすら、チェックしてない世間知らずの女の子」を主人公にしたドラマなんて、まるで見る気が失せてしまうのは私だけではないでしょう。

5月30日

VERDI
Il Trovatore
Bocelli(Ten),Villarroel(Sop),Zaremba(MS)
Steven Mercurio/
Orchestra e Coro del Teatro Massimo Bellini di Catania
DECCA/475 366-2
以前、「何があっても私はオペラを歌いたい」と公言したのが、かのアンドレア・ボチェッリでした。とにかく彼は「自分はオペラ歌手である」と信じています。ですが、もとはポップス歌手として名を挙げた彼のこと、いくらヴェルディを歌ってはみても、ポッペラ歌手(誰もこんな呼び方しないな)としてしか認知されません。CD店で「テノールのボチェッリのCDありますか」と店員に聞くと、即座に「彼はテノールではありません」と冷たくあしらわれたこともあったそうです。
その最初に出たヴェルディのアリア集は、まるで素人のど自慢大会。美声ではありますが、それ以上のものではありませんでした。しかし彼はめげません。ついにオペラ全曲「ボエーム」をリリース。こちらも当然の如く非難轟々(ファンは買っていきましたけどね)。次はトスカ。しかしこの頃には、よくしたもので彼の声自体に聴き手も慣れてきましたし、何よりカヴァラドッシの軟弱さと線の細めの声がマッチして、なかなか良い仕上がりだったことは認めましょう。
さてそんなボチェッリ、今回は「トロヴァトーレ」、行列の出来るお寿司屋さんの話ですね(それは「トロは売り切れ」)。このマンリーコ、美声自慢が挙って歌いたがる役としても知られています。クライマックスの「見よ、恐ろしい炎」、この曲こそテノールの醍醐味。これを歌うことは、まさしく頭のてっぺんから声を出すような気持ち良さだとさえ言われています。歌うことが大好きでたまらないボチェッリのこと、この全曲にも喜びが満ち溢れています。そう、彼が歌うとどの役も幸せ一杯になってしまうのです。
そんな幸せ一杯のボチェッリをサポートすべく、今回も芸達者な共演者達がフィーチャーされていて、こちらを聴く楽しみもいつもの通りです。アズチェーナ役のザレンバは、ARTE NOVAから以前アリア集がでていて、かなり期待したのですが、今回は残念ながらちょっと音程が定まらず、不安定さが目立ちました。しかし情感はたっぷりで、執念に取り付かれたジプシー女を見事に歌いきっています。レオノーラ役のソプラノ、ヴィッラロエル。無名の新人でしょうか。私は全く名前を知りませんでしたが、なかなか存在感のある歌声です。ちょっと舌足らずで甘えたような歌い方が独特で、一時期のコトルバシュを思い起こさせます。グエルフィのルーナ伯爵は貫禄たっぷり。絶対レオノーラは伯爵を選んだ方が後悔しないと思われます。余計なお世話ですが。とにかく、みんなでマンリーコを必死で支えています。今放送中の某NHKのドラマみたいで、見ている(聴いている)方が恥ずかしくなるくらいに。
ところでこのCD、驚くことにどの部分にもボチェッリの写真しか載っていません。かろうじて指揮者の写真は小さく載っていますが、レオノーラもアズチェーナも写真なし。最近流行の「対訳はパソコンで」の省資源型のライナーですから、ROMのライナーには他の歌手の写真も載っているのでしょうが、少なくとも普通に見る限りはボチェッリの独演会です。まあ、こういうCDが発売されるうちは、まだまだクラシックの世界にも余裕があるのかも、とおやぢは妙に安心してしまったのでした。

5月28日

BARTÓK
Musique pour Cordes, Percussion, et Célesta
Divertiment pour Orchestre à Cordes
Emmanuel Leducq-Barome/
Baltic Chamber Orchestra
CALIOPE/CAL 9335
バルトークの作品、特にこの「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」に特別の思いを抱いているおやぢとしては、その演奏に対してはひとかたならぬこだわりを持っています。すき焼きはこれが命(それは「割り下」)。基本的な姿勢は、いつも醒めた目で見つめているようなある種の冷徹さ、そして、背景に研ぎ澄まされた刃物のような雰囲気が漂っていれば、聴いていて幸せな気分になれるのです。その意味で、先日ご紹介したアーノンクール盤ほど、作為的な表現が表に出てきて不快にさせられるものはありませんでした。何とかして口直しにもっとさっぱりしたものを聴いてみたいと思っていた矢先、店頭で見かけたのがこの荒涼たる風景のジャケットです。指揮者も演奏家も全く聞いたことのない人たちばかり、しかし、どう転んでもアーノンクールより失望させられることはないだろうというその一点だけで、購入してしまいました。
確かに、指揮者のリュドゥック・バロムという若い(1971年生まれ)フランス人は全く聞いたことのない人でしたが、バルティック室内管弦楽団というのは、サンクト・ペテルブルク・フィル、つまり、かつてのレニングラード・フィルのトップ奏者が集まったものだというのが分かりました。最近「バルト海」関係のCDを聴いたばかりで、バルト三国とかスカンジナビア諸国しか頭にありませんでしたが、確かにサンクト・ペテルブルクはバルト海に面した港町、そういえば「バルティック艦隊」というのも、かつてロシアにありましたね。この室内オケ、音を聴いた限りでは人数はあまり多くなさそう、というのは、フォルテになった時に奏者の生の音がかなり飛び出して聞こえるからです。しかし、ピアニシモの時の緊張感のある響きはなかなかのもの、決して生命力が失われていない音には、惹きつけられるものがあります。そういう、極限のピアニシモで始まった第1楽章は、小細工の一切ないひたすら息の長いクレッシェンドを作り出そうという意識が、非常に好ましく感じられます。そう、このように忠実に楽譜に従って演奏してさえいれば、そこからは自然とバルトークのめざしたものが現れてくるのです。最高潮に達した時こそ、響きの荒さが気になりますが、それから今度はディミヌエンドが始まると、その行き着いた先は、またしても豊かな緊張感に裏付けられたため息の出るようなピアニシモです。これが聴けさえすれば、「口直し」には十分すぎるものがありました。
その先も、幾分正確さには欠けるものの軽やかなリズム感は伝わってくる第2楽章、たっぷり「祈り」の込められた、そして打楽器奏者のうまさが光る第3楽章、チェロ奏者のソロが聴きものの第4楽章と、なかなか楽しめました。指揮者のキャラクターなのでしょうか、「冷徹さ」には程遠い仕上がりなのは、我慢することにしましょうか。
カップリングが、アーノンクール盤と同じ「ディヴェルティメント」。こちらは、ヴァイオリン・ソロのうまさを堪能しましょう。

5月26日

HOWELLS/Requiem
MARTIN/Mass
Jeremy Backhouse/
Vasari Singers
SIGNUM/SIGCD503
イギリスの作曲家ハウエルズと、スイスの作曲家マルタンが作った無伴奏の混声合唱による宗教曲を集めたというちょっと渋めのアルバム、しかし、一見ヒーリング風のこのジャケットを見てたいした内容などないような印象を受けてしまって、手に取ることをやめてしまったとしたら、あなたは極めて実りの多い音楽を味わう体験を自ら放棄するという、愚かな道を選ぶことになるのです。・・・ぐらい言っても構わないほど、これは素晴らしいアルバムです。
ハーバート・ハウエルズは、1892年生まれ、ヴォーン・ウィリアムズの次の世代にあたる中堅作曲家です。合唱のための作品がよく知られていますが、その中でもオーケストラと合唱のための「楽園賛歌」(1938)は、彼の代表作とされています。これは、9歳で亡くなってしまった彼の息子のために作られたものなのですが、実はこの曲の習作として1935年に作られていたのが、ここに収められている「レクイエム」です。作曲家が亡くなる3年前の1980年にやっと出版されたこの曲は、以来、アマチュアの合唱団のレパートリーとしても定着します。通常の「レクイエム」とは異なり、ラテン語や英語による詩編などをテキストに用い、その間に2回、例の「Requiem aeternam」という歌詞のナンバーが入るというユニークな構成、詩編の部分ではソリストが入って、教会旋法風のレシタティーヴォが聴かれます。
今まで愛聴していたのは、コリドン・シンガーズ盤(HYPERION)。素朴な味わいで、それなりの美しさを持った名演でしたが、このヴァサリ・シンガーズが聴かせてくれる絶妙のハーモニー感には、到底太刀打ちできません。特に、2つの「Requiem〜」での、まるで空気のようにさりげない純正調の響きには、まさに天国的な美しさが宿っています。それを可能にした高度のアンサンブル能力には、感服です。男声はあくまで品のある深みのある響き、女声は聖歌隊的な禁欲的な肌合いではなく、もっと艶やかで雄弁な語り口、「セクシー」などという言葉があるいは似合う場面も見られます。
一方のフランク・マルタンの「ミサ」は、やはり合唱界では有名な曲ですが、複雑な対位法、技巧的なメリスマ、テンション・コードの多用と、きちんと仕上げるためにはなかなか侮れないハードルが幾つもある難曲。これも、名演とされていたエリクソン盤(EMI)の影が薄くなってしまうほどの、ものすごい演奏が繰り広げられています。特筆すべきは、各パートの表現の方向性に、完全に統一したものが見られること。ですから、「Gloria」や「Credo」のテキストが、まるで物語のように生々しく聴いているものに伝わってくるのです。時には激しく、そしてしっとりと歌い上げる「Agnus Dei」も見事としか言いようがありません。時としてソプラノがむき出しの音色になることがありますが、それすらも表現の一部として容認できるほどの凄さが、ここにはあるのです。

5月22日

ぼくらのリサイタル
荒谷俊治、岩城宏之/
NHK東京児童合唱団
キングレコード
/KICG 8250-51
2003年に今の名前に改称した東京放送児童合唱団は、1960年代にはNHKの専属の合唱団として、「みんなのうた」という番組を舞台に、おびただしい数の合唱曲を電波に乗せていました。視聴者は女性に限られていましたが(それは「おんなのうた」)今のような、公然とヒット曲のプロモーションの片棒をかつぐというような商業的な目論見など存在すらしていなかった時代、これらの歌は白黒画面のテレビを通じて、殆ど全国民の「愛唱歌」となったのです。同時期に放送されていた「歌のメリーゴーラウンド」とともに、確かに、この時代、この合唱団とこのメディアが果たした役割には多大なものがあったはず、おそらくそんな番組を懐かしく思い出す世代の方々も多いことでしょう。
このCDは、1965年と1966年に録音されたこの合唱団のアルバムの完全復刻版です。指揮は荒谷俊治と岩城宏之、特に、66年の「第2集」を指揮した岩城のこのアルバムに寄せる思いはなかなかものだったらしく、今回のCD化にあたっては彼の尽力が大きくかかわっていたということです(そのようなことが、某大新聞で記事になりました)。それだけでなく、この時代のものを懐かしむ人たちにとってはこれはかけがえのないものであるためなのか、かなり地味なアイテムにもかかわらず、売れ行きはなかなか好調であるようなことを聞いています。
確かに、どの曲を聴いても懐かしさがこみ上げてくるものばかり、良質の歌を、ハイレベルの演奏で多くの人に聴いてもらいたいという当時の制作者の思いは、40年近く経った今でも、しっかり受け止めることが出来ることでしょう。特に演奏のレベルという点では、もしかしたら現在ではこれほどのものを聴ける機会はそうそうはないだろうと思わせられるほどの、極めて高水準のものがあります。訓練の行き届いた発声、パートとしてのまとまり、見事なハーモニー感、どれを取ってみても第1級のものばかりです。しかし、敢えて言わせてもらうならば、そのような「きちんと」した演奏は、歌われている曲にとってはもしかしたら必要以上の資質ではないかという思いに駆られる場面にたびたび遭遇させられたことも事実です。大中恵の「おとなマーチ」などは、もっと軽快なテンポではじけて欲しいものですし、林光の「ぼくらの町は川っぷち」もいかにも重く暗い仕上がりです。
ただ、そのような資質は、第2集のB面でのア・カペラによるわらべうたや日本民謡では最大限に発揮されて、確かな感動を与えてくれます。児童合唱の定番、小倉朗の「ほたるこい」や、「コンポジション」と同じ素材の、間宮芳生の「お手玉うた」などはまさに絶品、したがって、このサイドの最後のトラックで、山本直純が「金比羅船々」で、当時はやっていた「ドドンパ」風のしょうもない編曲を施そうが、「まあ許してやろう」という気にもなれるのでしょう(編曲という点では、越部信義の「地球を七回半まわれ」での伴奏など、今聴くと爆笑ものです)。

5月19日

PENDERECKI
Piano Concerto"Resurrectionen"
Barry Douglas(Pf)
Krzysztof Penderecki/
National Polish Radio Symphony Orchestra in Katowice
POLSKIE RADIO/PRCD 040
ペンデレツキが、2002年に完成した、彼にとっては初めてのピアノ協奏曲です。意外なことに、この作曲家には、ピアノをメインにした作品が殆どありませんでした。ライナーによれば、ピアノというのは、彼にとっての「エイリアン」だというのです。それはともかく、「復活」というサブタイトルを持つこのピアノ協奏曲、あの「9・11」の悲劇によって、当初の構想が大きく変わってしまったと言われています。今まで広島(もっとも、これはあとづけとも言われていますが)やアウシュヴィッツに触発されて歴史に残る名曲を世に送った彼のことですから、この21世紀初頭の大惨事からも、どれほどの感動的な作品を生み出してくれたのか、期待はいやが上にも高まります。ただ、いささか気になるのは、最近の彼の作風。「広島の犠牲者に捧げる哀歌」や、「ルカ受難曲」を作った頃とはまるで別人のように、洗練された技法の使い手となってしまった彼、果たして、あのような、心をえぐり取られるような体験は味わえるのでしょうか。
実は、このCDをすでに聴いていた友人の友人がいました。その人の感想は「昔の作風に戻っている」というもの、うん、これは期待して良いのかも知れません。なんと言っても、全世界を震撼させた「9・11」です。そもそも、生半可なロマンティック趣味などで曲を作ったとあっては、良識を疑われてしまいますし。
しかし、曲の冒頭、低弦がまるで「ヴァルキューレ」の前奏曲のような脳天気なモチーフを演奏し始めた時、そんな期待はもろくも崩れ去りました。この曲のいったいどのあたりから「9・11」を感じ取れというのでしょうか。そこにあったのは、まさにハリウッドの映画音楽の世界、有無を言わせず感動をもぎ取ろうとするマニュアル通りの音楽ですし、華やかできらびやかなピアノのパッセージは、まるでラフマニノフのように屈託のないものです。
意味深なコール・アングレのソロで情景が変わると、おそらく、タイトルである「復活」をイメージしているであろう、どこからか引用してきたような甘ったるい聖歌(これが「引用」ではなく、「創作」だとしたら、怒りますよ)のモチーフが現れます。これは、最初出てきた時には、なにやら粗暴を装っている音楽によって打ち消されます。しかし、私あたりがこういう場面で望むのは、こんな軟弱なものではなく、もっと暴力的なもの、それでこそ「9・11」です(意味不明)。そして、エンディング近くでその聖歌が堂々とした形で高らかに鳴り響いた時、なぜか感動と言うよりは大笑いしたい衝動に駆られたのは、いけないことなのでしょうか。同時に無数の教会の鐘がこれ見よがしに打ち鳴らされるというこんなミエミエの演出に対するリアクションとしては、それ以外にはあり得ないと思うのですが。
そして、カップリングは、2001年にデュトワとN響によって初演された極めつけの駄作「3つのチェロのためのコンチェルト・グロッソ」。なんの訴えかけもないこの曲を聴いて、もはやこの作曲家は完全に終わっていると感じたあの時を、まざまざと思い出してしまいました。なんたってオカシラツキなのですから、「腐っても鯛」と言ってみたいものです。

5月17日

A Musical Journey Around the Baltic Sea
Pasi Hyökki/
Talla Vocal Ensemble
FINLANDIA/2564-61482-2
「バルト海を巡る音楽の旅」というタイトル通り、フィンランド、スウェーデン、そしてエストニアの民謡などを集めたアルバムです。この地域の合唱音楽の水準は非常に高いものがあり、まさに「合唱王国」の様相を呈していて、世界的に有名な合唱団もたくさん存在しています。それらは、このFINLANDIAレーベルでも数多く聴くことが出来ます。深いバスの響きと、しっとりとした音色の高音部は、独特の落ち着いた雰囲気を持って、私たちを北欧の世界に誘ってくれたものでした。
このアルバムに登場するフィンランドの「タッラ・ヴォーカル・アンサンブル」は、そんな北欧の合唱団のイメージとは、ちょっと異なった肌合いが感じられるものです。男声ばかり8人で(この録音では、バスを2人加えた10人編成になっています)結成されたこの声楽アンサンブルは、創設者でもあり、音楽監督でもあるパシ・ヒョッキの魅力に大きく支配されたキャラクターを持っているのです。写真では、サロネンの若い時のような「かわいい」顔立ちですが、彼の声は、いわゆる「ソプラニスタ」、ファルセットを使わないで女声の音域をカバーできるものです。例えてみればアメリカの「シャンティクリア」のようなもの、男声だけでしっかり混声合唱のレパートリーも歌えるようになっています。しかも、ヒョッキの声には、あのドミニク・ヴィスのようななまめかしい雰囲気も備わっていますから、これは一度聴いたらやみつきになってしまう人も出てくることでしょう。
正直、私はいきなりそのヒョッキ君のソロで始まる1曲目のスウェーデン民謡を聴いただけで、もはやこのアルバムの虜になってしまいました。確かに先ほどのヴィスを思わせるような主張のある声ではありますが、決して合唱の中で遊離することはない「賢い」歌い方は、独特の魅力を持って迫ってきたのです。このソロをきちんと聴かせようとする編曲も、なかなかのものです。その編曲陣も、トルミス、マンティヤルヴィなどのクラシック畑の人からジャズ畑のミュージシャンまで、名だたる作曲家が顔を揃えて、バラエティに富んだ高レベルのものを提供してくれています。もちろん、編曲だけではなく、オリジナルもあります。その中で最も衝撃的だったのは、以前にもこちらでご紹介したマンティヤルヴィの「Pseudo-Yoik」。それまで、いかにもヒーリングっぽい民謡が続いたあといきなりその曲は地声丸出しの本来の「民族的」な響きで驚かせてくれました。さらに、これはその「タピオラ」の演奏よりさらに突っ込んだ表現となっているのにも注目です(もっとも、こういう作風の曲は、これ1曲だけですが)。
アルバムの最後に収録されている、リンコラというジャズのフィールドの作曲家の曲は、複雑なリズムで楽しませてくれます。ただ、彼らはそんなリズムも軽々と歌い上げる力はあるのですが、ハーモニーに関しては若干「ゆるい」ところもなくはありません。テナーあたりのメンバーにも、必ずしも基準を満たしてはいない人が見られたりはします。しかし、そんなことも全く気にならないほど、ヒョッキ君の声にはとことん魅力があるのです。(人間的な魅力はどうでしょう。名前通り「ひょうきん」だったりして。)

おとといのおやぢに会える、か。


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