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肉まん美味い....渋谷塔一

(01/8/29-01/9/16)


9月16日

R.STRAUSS
Friedenstag
Giuseppe Sinopoli/
Staatskapelle Dresden
DG/463 494-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1080(国内盤9月21日発売予定)
今週1週間は、テレビに釘付けだった方も多い事でしょう。次々と送られてくる衝撃的な映像、特にビルが崩壊する一瞬などは、「もしかしてこれもCGなのでは?」と現実逃避したくなるほどのあっけなさ。現実とフィクションとの交錯を感じ、深夜まで繰り返し見入ったものです。
いろいろな意味で、緊迫の度合いを深めている世相を反映したわけでもないでしょうが、あまりにもタイムリーなこのアルバムのリリース、あちらの世界からのシノポリのメッセージなのでしょうか?
シュトラウスのこのオペラ、「平和の日」の成立について語ろうと思ったら、原稿用紙20枚くらいは平気で使ってしまいそうですから、ここではそれは省かせて頂きます。
さて、このシノポリの演奏は、冒頭の部分、守備隊の絶望に満ちた嘆きから、迫真にみちた演奏です。緊迫感の中にも、30年も続く戦争に対する諦めの気持ち、一見、場違いにはさまれたようなピエスモンテ人のアリア、(これはイタリア語で歌われます)この2つが美しく融合している様は、かのサヴァリッシュの同曲の演奏には見当たらないものです。
町の人々が要塞になだれ込む場面の迫力の素晴らしさ。これも既存の演奏を完全に上回っています。
もともとツヴァイクの原案には、全く「愛」についての記述はありませんでした。そこはシュトラウス、「オペラにはやっぱり愛がないと」という事で再三、英雄性と愛のエピソードを結びつけるべく、ツヴァイクを説得したようですが、あいにく、自らの行く末を案じていたツヴァイクは最後まで、「このオペラには男女の愛は必要ない」という自説を曲げることなくこの2人の共同作業は終わりを告げます。その後、台本を引き継いだグレゴールは、シュトラウスの希望を汲んでこのオペラで唯一名前を与えられている、司令官の妻「マリア」の役割について多少なりともシュトラウスの要望に沿ったようですが、それでも、台本作家と作曲家の見解はかなり違っているのが面白いところです。とにかく彼女の登場場面ではシュトラウスらしい甘美な音楽を聴くことができます。
しかし、やはりこのオペラの真の主題は、平和主義者であるツヴァイクの「自由を脅かす悪に対して示したもっとも劇的な抵抗のひとつ」であるのでしょう。
今回の事件について、どちらが悪いなどと安易な考え述べることなど不可能ですが、このオペラに登場する民衆や、兵士の言葉を借りるまでもなく、一般の市民は平和と相互理解を求めているにちがいありません。
Wagt es zu denken, 勇気をもって考えよ、
wagt zu verrauen,  勇気をもって信じよ・・・。
私には、ツヴァイクのメッセージを真摯に受け止めることくらいしかできません。最後に、今回の犠牲になられた方々のご冥福、心からお祈り申し上げます・・・。

9月15日

Voices 2001
Various Artists
UNIVERSAL/461 940-2
午前中のCD屋さんというのは、なかなか面白いものです。1週間前にたまたま居合わせた時などは、店員さんが「新譜をどこに並べるか」声高に話していましたっけ。その話を総合すると、一番いい場所は、エレベータを降りてすぐのレジの前だって。当然ですね。一番最初に目につくのですから。そこに素敵なモノが置いてあると、こうなります。
いかにも、デビューしたてという初々しさで、別仕立ての棚の中に並んでいたのが、きのうのことのように思い出されます。まず、その重厚なパッケージという外見ですっかり気に入ってしまった私は、その場で2、3枚、カートの中に誘い入れたのでした。「一緒におうちまで行こうね。」(「ニューフィル日記」9月14日)
そう、原文を一文字変えただけで通用する(使いまわせる)普遍的な文章をお書きになるマスターの才覚。今回はこれを褒め称えたい・・・のではありません。
その時「おうちにつれてきた」のが、「Voices 2001」というユニヴァーサル系の1枚です。何しろ690円と言う値段にひかれた私。思わず手に取って眺めていると、いつものお店の人がにこにこしながらストアプレイしてくれました。これが素晴らしくいいのですね。
例えば、いつか紹介したゲルネの「夕星の歌」も入ってますし、シャイーのロッシーニのカンタータからも2曲。(それも一番いいところ)他にも、フレミングの「夜の歌」からは「月の光」、ボニーのダウランド・・・。
お店で聴いたのは、この中のアルバレスのアリアでして、あまりにも素晴らしい。これがもう一度聴きたくて690円出して買ってしまったのです。(良く考えたら、私、シャイーの全曲盤持っていたのでした。しまった!)そう、おやぢで取り上げたばかりのアルバムから、美味しいところだけ取り出したダイジェスト盤なのです。殆ど全曲盤で持っている私でさえも買いたくなるぐらいなのですから、初めて手にする人にとっては驚きの連続なのは、想像にかたくありません。
このようなアルバムの良さといえば、メーカーとしては、新しく録音する必要もありませんし、結果的に良いプロモーションにもなるということ。聴く側としては、アルバムを買う時の参考にもなりますし、もちろん、一枚のオムニバスとして、またカタログとして聴くのも、自由自在です。おまけに、スタイルも良くなって(それはプロポーション)。提供する側、聴く側の双方が喜ぶ1枚と言えるでしょう。もちろん、どのアルバムも最高水準の出来栄えだからこそ、出来る技なのでしょうけど。
見かけたら買っておいたほうがいい1枚です。少し経つと、ブラジンのように姿を消すのは間違いありません。2001年限定発売のようですからね。

9月13日

クラシック批評こてんぱん
鈴木敦史著
洋泉社刊(
ISBN4-89691-556-9
高名な音楽評論家、志鳥栄八郎さんがお亡くなりになりました。びっくりしたのは、その訃報が掲載されている同じ紙面に、志鳥さんしどり(訛ってます)だけではなく、門馬直美さんの、やはり死亡記事が載っていたこと。日本における、クラシック音楽の道案内人として、ある時期にはかけがえのなかった人たちが時を同じくして亡くなったということに、何か因縁めいたものを感じるのは、私だけでしょうか。
そう言えば、最近のクラシックシーンでは、声高に「音楽評論家」と自称する人が少なくなってしまったことに気がついたのは、いつ頃だったのでしょう。かつて「音楽評論」と呼ばれていた範疇の仕事、演奏会やレコード(もちろん、今ではCD)の批評を専門に行っている人たちは、最近では自らを「〜ライター」と呼ぶことが、いつの間にか一般的になってしまっているのではないでしょうか。
その辺の「謎」を解き明かすのに、格好の本が出版されました。著者自身「売文業」などとへりくだっていますが、この著書の第3章「音楽批評から時代の気配を読む−日本音楽批評史私観」を読むと、この国の音楽批評がたどってきた道を体系的にたどることが出来ます。時代時代を象徴する人物によって実際に書かれたものを提示する豊富な用例からは、著者の該博振りを垣間見ることが出来ます。
もちろん、この本の内容は、そのような些末な記述だけにはとどまりません。核をなしていると私に感じられたのは、批評のアナリーゼ(第2章「音楽批評をとことん面白がる−音楽批評の仕組みの考察」)と、それを応用して、実際に音楽批評の書き方を指南している部分(第4章「サルだと書けない音楽批評−音楽批評実践講座」)です。後者で著者が披露している実例などは、思わず、この「おやぢの部屋」にも使えそうだと、ほくそえんでしまいました。黒田恭一さんの文体模写が全然似て無くても、そんなことは全く問題にならない小さな疵です。
そんなことよりも、この本の最大の疵というか、落とし穴は、もっと別なところに存在しているのです。それは、先ほどご紹介した第3章の最後の部分に、最先端の批評メディアとして紹介されている「2ちゃんねる」。この箇所での著者のこのサイト持ち上げ方は、どうひいきめに見てもかなり常軌を逸していることがはっきり見て取れます。マスターの言葉を借りれば、「『恥』という言葉を知っている人は決して近づかない、まして、書き込んだりすれば、それは『人間をやめる』ことに等しい」とされているこのサイトを、「これほど真っ当なところはない」と感じられる感性の持ち主は、いかに立派なことを書いていても、もはやだれからも相手にされなくなってしまうという認識を学ぶことが出来なかったこの著者の不幸を、心から嘆かずにはいられません。
そう言えば、この方、「音友」、「レコ芸」などのメジャーなメディアでお目にかかったことは、ありませんでしたね。

9月12日

Swingin' The Opera
Antti Sarpila & Opera Big Band
FINLANDIA/8573-89428-2
日頃から勘違いが多いことで、その筋では有名な私です。先日も、ある事についての大きな勘違いが露見して、さんざん嘲笑のネタにされてしまい、穴があったら入りたい・・・。
今日も、マスターが執筆された「まちがい音楽用語辞典パート8」を見てて、またまたびっくりしたことが。そうです。私も吸盤とキューバンを取り違えていた・・・のではなく、ビッグバンドの概念について。マスターの文章によると、「『バンド』というのは、リズムセクション(ドラムス、ベース、ピアノ、ギター)にトランペット、トロンボーン、サックスがそれぞれ3本以上入ったものを示す言葉になります。さらに、この場合は念をいれて、『ビッグバンド』と言ったりもします。」
なんだ、大きい人が演奏してて、それにびっくりするから「ビックバンド」じゃないのか。ま、そこまでひどい思い込みはなかったのですが、トリオに対抗して大きな編成でジャズを演奏する団体なのだろうくらいの認識でした。
さてさて、そんなことを考えたのは、ちょうど手元にこの1枚があったからです。このバンドは、実はフィンランド国立歌劇場オーケストラのメンバーにより、1996年結成されたもの。当然オペラ・ハウスのオーケストラにはサックス・セクションはありませんから、ここだけは外部のいわゆる「ジャズの本職」をエキストラとして雇ってますが、他はみな、クラシックが本業の人たちばかり(そりゃそうだ)。あのフレミングが趣味でジャズを歌っていたのと状況は似てるのかも。
どうせ、リズムや即興は本職のジャズ・プレーヤーにはかなわないのだから、それなら自分達の「本職」で勝負しようじゃないかと、念入りに選ばれたのが、今回のオペラアリアの数々です。編曲はサックス&クラリネット奏者で、ここの指揮者でもあるサルピラの手に拠るもので、どの曲もおしゃれでモダンなオペラ・ジャズに仕上がっています。
とはいえ、一緒に聴いていた女の子(もちろん職場で聴いてただけで、いくら雰囲気がいいからといって、下心はありません)は、「元ネタは全くわかりません」と言ってた程で、やはり、原曲とは似ても似つかない、全く違うたたずまいではありますが。
ジャズ専門家の方がお聞きになれば、もしかしたら「こんなのは邪道だ」と放り投げるかもしれません。そう、がちがちのクラシックマニアが、ジャズ畑の人たちは絶賛しているキース・ジャレットのバッハやモーツァルトを拒否するように。しかし幸いなことに、私は、ジャズの良し悪しなんてわかりません。そのせいか、とても楽しい74分でした。普段の聞き方と違って、とてもゆっくりした時間の流れを感じながら、いい気分になれるなんて久し振りの体験。もちろん、「溢れるような歌心」も満載です。
秋の夜長、ブランデーでも片手にジャス(仙台地区限定おやぢ)を着てくつろぎたくなる・・・。そんな1枚です。

9月9日

Gala au Metropolitan Opera de New York
〜en hommage a Rudolf Bing〜
Montserrat Caballé(Sop)
Plácido Domingo(Ten)
Leontyne Price(Sop)
Birgit Nilsson(Sop)
DG/459 201-2
某有名誌の輸入盤紹介のコーナーって、このところ、あまり普通の店頭で見かける事のないCDばかり紹介されているように思いませんか?
今月号にもそういう1枚があって、そのセンセイはインターネットを通じて購入したのだとか。それを読むと、もう聴いてみたくてたまらなくなりましたが、ネットで通販もちょっとな・・・・。と思ってた矢先、行きつけの例のお店の店頭に、「ビング入荷予定!予約も可」なんて張り紙が出てたのには大感激。どうも先日のムーティのように、秘密のルートを使って入手したようですが、ま、それは私にとってどうでもいい話です。
で、この1枚。タイトルを見ただけでは、良く判らない方もいるでしょうが、このルドルフ・ビングとは大戦後の1950年から22年間、メトロポリタン歌劇場(メト)の第二次黄金期を築いたジェネラル・マネージャー。このコンサートは72年、彼がその職を引退するにあたって、盛大に開かれたものなのです。
一口にメトの支配人といいますが、22年の長きに渡り、その職にあるという事は、(例えばウィーンの歌劇場を持ち出すまでもなく、)とても大変でしょう。確かに「ビングはメトをリンカーンセンターに移転したのと、パヴァロッティとレヴァインをデビューさせただけ」なんて語る口の悪い人もいたようですが、実際の彼の功績は計り知れないほど大きなものなのです。
まず、「黒人歌手を初めてメトのステージで歌わせた事」。ここら辺のいきさつについては、きちんとした文献もありますので、ここではふれませんが、その功績はちゃんとこのコンサートにも受け継がれています。それは、かのレオンティン・プライスをデビューさせた因縁のトロヴァトーレのレオノーラのアリアを、当時上り調子の黒人ソプラノ、マルティナ・アーロヨに歌わせる事によって、見事に花開いたのです。
もう一つの功績は、当時のアメリカの経済力にモノを言わせ、専属歌手の数を飛躍的に増やした事(そのためとんでもないギャラの高騰を招くことにもなってしまうのですが)。当夜は指揮者だけでも5人、歌手に至っては40人も集結したのですから、これは、やはりビングの偉大なる人脈を見せ付けられる思いがするものです。かなり政治的な策略もあったようですが、興味のある方は、秋の夜長、文献なぞを紐解いてみるのもよろしいのでは。
このCDの中で圧巻なのは、ニルソン&ベームの「サロメ終景」。まだ、曲が終わらぬうちから、観客が熱狂の嵐!何しろ、歌もすごいけど、オケがすごい。ここぞとばかりに吹きまくる金管、うねる弦。何と言う迫力でしょう。80年代には穏健の代表株になってしまうベームの、意外な一面を見ることも出来ます。
レズニクの歌う、オルロフスキー公のアリア(これはビングのための替え歌)で大うけしている観客の笑い声を聞くと、確かにこの場に居合わせた人は、「世界で一番幸せ」だったのだろうな。と、とても羨ましくなったおやぢでした。

9月7日

MACHAUT
La Messe de Notre Dame
René Clemencic/
Clemencic Consort etc.
ARTE NOVA/74321 85289 2
このレーベルは、毎度お馴染み「アルテ・ノヴァ」。で、今回のCDは「アルス・ノヴァ」の代表的な作曲家、ギョーム・ド・マショーの「ノートル・ダム・ミサ」という、そのままでおやぢになってしまう展開です。もちろん、こんな低次元なことをやっていたのでは、ジュラシック・ページの面汚し。「オルガン→エアコン」のレベルに達しないことには、マスターは使ってはくれません。
さて、このCDのセッションを芸術監督として仕切っているのは、ルネ・クレマンシック。彼のこれまでの仕事を見てきた人は先刻ご承知のとおり、この、リコーダー奏者であり、指揮者でもある音楽学者は、今までだれも聴いたことのない古い音楽を現代に蘇らせることに異常な熱意を注いできていました。はっきり言ってしまえば、中世の音楽でも、教会以外の場所で行われていたものなどは、きちんと記録すらもされておらず、もちろん実際に音を聴いた人などいるはずはありません。ですから、ほとんど「やったもん勝ち」が通用する世界なのですね。
クレマンシックは、その創造性を最大限に発揮して、そのような今では聴くことができない世界を、まるで見てきたように活き活きと再現して見せてくれたのです。もちろん、それはあくまでクレマンシックが作った世界、熱烈な支持者と同じ数だけ、容認できない人がいてもおかしくはありません。
そのような人が、音楽史上最初の多声部ミサ曲として知られている「ノートルダム・ミサ」を録音したとしても、彼にとっては、そのような位置付けはあまり重要ではありません。このCDで展開されているのは、中世のとある街でのとあるイヴェントの様子を再現したもの、ミサ曲は単なるバックグラウンドミュージックに過ぎません。
ミサがとりおこなわれようとしている教会の前の、ストリートミュージシャンたちの喧騒から、CDは始まります。ハーディー・ガーディー(のようなもの)を従えた物乞いまでが、ダミ声で歌いだす始末。
サンタマリアの聖歌に導かれて、教会内に入った人々は、最初はマショーが作ったミサ曲を神妙に聴いていますが、そのうちに飽きてきたのか、太鼓を打ち鳴らして踊り始めましたよ。一体このミサは、無事に終わることができるのでしょうか。
と、まあ、多少誇張は入っていますが、まずそんなCDです。この曲のまっとうな演奏を聴きたいという人には絶対にお勧めはできませんが、ギョーム・ド・マショーの「ノートル・ダム・ミサ」を肴に人生を楽しみたいというへそ曲がりにはうってつけの逸品です。何しろ、クレマンシックというのは、業務上過失笑害の常習犯なのですから。

9月5日

CHOPIN
The Complete Nocturnes
遠山慶子(Pf)
CAMERATA/20CM 634-5
今年の春でしたか、いつものCD屋さんでの事です。大型店とは言え、金曜日の午前中はまだ客もちらほら。みんな、のんびりと思い思いの棚の前で思索にふけっています。
ふと、レジのところで軽やかな笑い声が。「ねえ、モーツァルトのCDおいていらっしゃらないの?」と品のいいご婦人が尋ねていらっしゃるのです。レジにいた女の子が困ったような顔をしてたら、いつもの私の顔見知りの店員さんが現れて二言三言。そのまま、なんだか話し込んだ様子。「これは面白い」と興味本位に眺めていました。
そう、そのご婦人というのが、今回の遠山慶子さんご本人というわけです。ちょうどその前月モーツァルトの協奏曲がリリースされたばかりでしたが、レコ芸でも好意的な評だったとかで、そのお店ではあいにく売りきれ。話を引き継いだ店員さんは遠山さんのファンだったようで、いろいろと楽しそうに話をしているのがとても印象的な風景でした。
ショパンのノクターンといえば、大方の人がルービンシュタインの演奏を思い浮かべるかもしれません。彼の演奏は、とてもメリハリの濃いもので、ノクターンの中でも、131415番あたりの、迫力ある、かつ劇的な表現は、もうすでに既存のショパン像を打ち砕くほどの説得力のある演奏でした。しかしながら、この遠山さんの演奏にそれを求めるのは、いささか場違いです。日本料理にバターや食パンの味を求めるようなモノ。といったら語弊があるかな。
今回のショパンを聴いて、あの美しい笑い声を思い出しました。春の淡い光の中で、そこだけ白く浮かび上がるような不思議な存在感、このノクターンの中にも、そんな光が溢れてます。この全集、実は第1集と第2集(これは作品番号順ではありません)の録音のあいだに、17年もの隔たりがあり、音質面では若干の隔たりが見受けられますが、基本的なアプローチはいつ何時も変わることありません。どこもかしこも、限りなく優しい眼差しに満ち溢れた味わい深い演奏です。その上、メロディの歌わせ方にも、何ともいえない気品が漂ってます。さすがモーツァルトを大の得意にされている方ですね。装飾音の処理など、モーツァルトを意識している部分もあるようですし。
確かに第12番などの、右手のメロディーが常に重音になってて、(これは、ゴンドラに乗った恋人の二重唱である。なんて書いた本もあったな)2つの音を完璧にバランスよく演奏しなくてはいけない曲なんてのには、少しばかり不満もあります・・・何しろベーゼンドルファーの粒立ちの良い響きの前には、音のバランスの乱れが顕わになってしまうのですね。しかし、この曲の持つ揺蕩うような幸福感は余すことなく伝わってきます。
大切にしまっておいて、疲れたときにそっと取り出して聴きたい1枚です。

9月3日

PÄRT
The Music for Organ
Kevin Bowyer(Org)
NIMBUS/NI 5675
タイトルは「ペルトのオルガン音楽」ですが、このCDに収録されているのは、そのアルヴォ・ペルトだけではありません。全9曲のうち、ペルトは4曲。残りはエイノユハニ・ラウタヴァーラが3曲、そしてソフィア・グバイドゥーリナとヘンリク・グレツキが1曲づつという構成です。いずれ劣らぬ現代音楽界のビッグネームが、オルガン曲というカテゴリーの中で、それぞれの個性を主張しあっているというのが、このアルバムのコンセプトなのでしょう。
1曲目に入っているのが、フィンランドの売れっ子ラウタヴァーラの「トッカータ」です。最近は交響曲第7番(BIS)がグラミー賞にノミネートされるなど着実に大衆性を獲得しつつある作曲家ですが、この曲を作った70年代には、まだまだとんがった部分が健在でした。しかし、いきなりのフルオルガンによる不協和音には一瞬のたじろぎを覚えるものの、よく聴いてみると、根本にあるのはもっと普遍的な感覚に由来したものであることがわかります。このアルバムの他の曲でも、一見前衛的な衣に覆われていても、実は深い「祈り」が創作の根源であることがはっきり分かるのです。
続いて2曲目が、おなじみのグバイドゥーリナ。細かい音符が紡ぎだす、調性感からは遠く隔たった音楽からは、まさに「非西欧」を聞くことができます。
この曲のすぐあとにペルトを配したという製作者のセンスには驚嘆すら覚えます。調性感のある音楽というものがなんと心地よいものであるかということが、理屈抜きに実感できた瞬間でした。なんの防備もせずに味わうことができる、まさに「官能」の世界がそこにあります。それが果たして良いことなのかという問いに対しては、聞いた人の数だけの答えが用意されているのでしょうが。
アルバムの最後、まさにトリという感じで入っているのが、グレツキの、演奏時間16分の大曲「カンタータ」です。「悲歌のシンフォニー」という大ヒット曲でインプットされた印象とのあまりの隔たりの大きさに衝撃すら覚える重い曲、第2次世界大戦の体験を悪夢として持ちつづけているポーランド人にしか作れない、訴えるものの多い作品です。
演奏しているのは、イギリスの若い世代のオルガニスト、ケヴィン・ボウイヤー。現代曲やあまり一般的ではないレパートリーを得意としている方です。アルバムタイトルからはペルトに寄せる一方ならぬ思い入れが見て取れますが、そのアプローチに対しては、今までペルトを聴いてきた人はちょっと違和感を抱くかもしれません。彼の演奏では、この作曲家から漠然とイメージされる「癒し」とか「瞑想」といった概念からはちょっと距離をおいた、ある種即物的な面が強調されてると、私には感じられるのです。それが端的に現われているのが、有名な「Annum per Annum」。ミサ通常文になぞらえた変奏で用いられるテーマが、これほど活き活きとリズミカルに演奏されたのを聴いたのは初めてです。

8月31日

BEL SOGNO
Itarian Arias and Scenes
Christina Gallardo-Domâs(Sop)
TELDEC/8573-86440
(輸入盤)
ワーナーミュージックジャパン
/WPCS-11069(国内盤9月27日発売予定)
秋も近付いてまいりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?私は相変わらず、音楽三昧の日々を送っています。
さて、またまた新しいプリマドンナの登場です。名前はクリスティーナ・ガイヤルド=ドマス。これまでも、パッパーノ指揮プッチーニ「3部作」で、修道女アンジェリカを歌ったアルバムが存在するのですが、このときは、例の夫婦ばかり注目されてしまって(ま、いつもの事ですが)、彼女の存在について語った人は、皆無に近い状態でした。こんな、ほとんど無名に近い彼女の、ソロアルバムがリリースされたのには、事情がありまして。
「発売前から、既に話題沸騰。あのアーノンクールがアイーダ?ヴェルディイヤー衝撃の問題作!」
これでは、どこかのCD屋の新譜発売のキャッチコピーですが、そう、そのアイーダのタイトルロールとして、アーノンクールが抜擢したのが、このガイヤルド=ドマスだったというわけです。そのため、急遽このアルバムを製作したのでしょうか。で、本来ならば、アイーダと、このアルバムが同時発売の予定でした。しかし諸般の事情により、アイーダの発売が延期になってしまったため、彼女は自らの力のみで、真価を問われる事になってしまったのですね。
で、聴いてみました。アイーダを歌うからには、かなりのドラマティック・ソプラノかと想像してたのですが、思ったよりも細くて繊細な声です。リリコの中でも軽めの声でしょう。ちょっと意外でした。アーノンクールのアイーダって、どんなだろう?って期待も膨らみます。
最初は、そんなこんなで少々物足りなく感じた彼女の声です。確かに、声もまだ安定してないところが多々ありますし、「椿姫」の花から花へのカヴァレッタの最後の所では「Esを出すのは当たり前。」という世間の常識を裏切ってくれたりもします。
しかし聞き進むうちに、多様な表現力に感心しました。何と、溢れるばかりの歌心を持っている人でしょうか!例えば、ベッリーニの「カプレッティとモンテッキ」の中のアリア、「私は今、婚礼の衣裳を着せられ・・・」での彼女の嘆きの深い事。「ロメオ、あなたは一体どこにいるの?」と風に問いかけ、一人悲しみに沈んで行く様は、聞いているこちらまで泣けてくる名唱です。この曲には美しいホルンのソロがありますが、こちらも情感溢れる名演奏。歌と混然一体となり、狂おしいほどまでの情景を伝えてくれます。
しかし、こうやって聴けば聴くほどますますアイーダのイメージからかけ離れていくのです(フランス物の方があってるみたい)。これは何としても、本編のアーノンクール盤を聴いてみたい。これが、メーカーの思惑なのでしょうか?
日頃から、アーノンクールとクーンの発掘した新人には全幅の信頼をよせている私です。きっと彼女も、名歌手の道を歩むのでしょうね。楽しみが一つ増えたおやぢでした。

8月29日

Original und Fälschung(?)
Hermann Prey(Bar)
Florian Uhlig(Pf)
BAUER/HMT97001
いきつけのCD屋さんの店頭に、さりげなく並べられていた1枚です。先日、ゲルハーエルを購入した時も目にしてたのですが、「ああ、プライのシューベルトね」と通り過ぎてしまいました。何しろ、あの人のシューベルトは、それこそ星の数ほどありますからね。
今日は、そのCDにコメントが一言付いてました。これに惚れました。「どっちが本物?シューベルトの歌曲とその編曲」おお。これは!そう、私の好きなトランスクリプションCDだったのです。それは、1997年9月30日のコンサートのライヴ盤。内容は、原曲と、その曲を基にした編曲を交互に歌うもので、編曲したのは、リストかゴドフスキーという、マニア垂涎ものの1枚ですね。
とはいえ、97年といえば、プライが亡くなる1年前の演奏です。最初に歌われる、「おやすみ」なども、プライの歌は、先日のゲルハーエルや、ゲルネなどの伸びやかな歌声に比べると、あまりにも疲れ果ててます。音程もふわふわ。
それこそデビューしたての新人さんなら、すでに「ダメ」の一言で片付けられてしまうでしょう。しかし、そこはさすがプライです。一言一言語りかけるかのような歌い口。音程の正確さや、発音の上手さを超えた、何かがひしひしと伝わってくるではありませんか。そう。確かにここには人生の重みと、歌手としてのプライドがあります。
もちろん聴き所はそこだけではありません。このCD本来の目的である、「原曲と編曲の聞き比べ」も味わいましょうか。「菩提樹」や、(私の好きな)「焦燥」などは、さざめくようなピアノの前奏が特徴的な曲ですが、これが驚異的にゆっくりなのです。何故?と思いましたが、歌の部分が終わり、ピアノソロになると納得。どうやら、このピアニスト、リストの恐ろしく難しい編曲版を、通常聴きなれたテンポで演奏するまでの技術は持ち合わせていないようです。ですから、リストやゴドフスキーの編曲の凄さまでは充分伝わってはきません。しかし結果的に、これが良い効果を生んでいるのが不思議なところ。例えば、あのアムランのようにバリバリと弾いてしまったら、プライが取り残されてしまう危険性がありますし、その逆でも、かっこ悪いでしょう。もし、技巧に長けたシューベルトのトランスクリプションを聴きたい方には、ギンジンなんかの1枚をオススメしますね。
でも、ここには、単なる上手さを超えた何かがあります。多分、歌手もピアニストも、とても楽しんで演奏してるのでしょう。「ねえ、聴いて。この曲すごいでしょう」そんな思いがひしひしを伝わってくるのですね。一番プライの素晴らしさを実感したのは「野ばら」でした。この味わいの深さは一朝一夕で出てくるものではありません。
全体的に、とてもアットホームな雰囲気です。何しろ、会場の音響状態も極めてアバウトで、プライがしみじみ「おやすみ」を歌っているところに、聴こえてくるのはなんと救急車のサイレン。(それも2台続けて)これにも笑えました。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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