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〔091〕 中国映画制作陣と日本映画技術陣を結びつけた池小寧、死す
【2007/07/23】

  「秋菊の物語」「遥か、西夏へ」「走向共和」「横空出世」など、映画やテレビドラマの撮影を担当してきた中国人カメラマン池小寧が、7月11日午後11時38分、横浜市内の病院で他界した。52歳の若さだった。

 6月中旬、病室で「だいじょうぶか」と声をかけると、「だいじょうぶじゃないよー」。
 ちょっと語尾を伸ばす、いつもの日本語で答え、すぐに「很至Q」(きつい)と付け加えた。弱音を吐くような人ではなかったが、肺ガンと診断されて2年、ガンは全身に転移していた。

 北京市内中心部にある、太平胡同の四合院で育った。西太后が頤和園を再建するさい、その資材が横流しされて作られたという噂が残る建物。北京電影制片廠(北京映画撮影所)の宿舎(社宅)として使われていた。

映画最後の現場は、日本となった
池小寧(右)。田壮壮監督(左)と。

 隣には陳凱歌、近くの胡同には田壮壮監督、俳優の葛優が住み、皆から「猫頭」と呼ばれ兄弟のようにして育った。いずれの父親も監督や俳優など映画関係者で、「北影的孩子」(北京映画撮影所の子供)だった。

 小寧の父、池寧は映画や舞台美術における大家として知られていた。浙江省温州出身、共産党員として抗日戦争中は魯迅文芸学院で、国共内戦時には上海芸術劇団などで活動した。その後、ソ連に留学。1956年以降は、北京映画撮影所で「祝福」「林家鋪子」「早春二月」などの名作にかかわる一方、北京電影学院美術部主任として教壇にも立った。

 映画界における革命幹部の一家として、幼少時には何不自由なく育ったが、文化大革命時に父と母を相次いで亡くし、境遇が一変。旋盤工などいくつもの職を経ながら、妹と二人で生き抜いた。

 少ない楽しみの一つが、「父が残していった美術書を、妹と眺めること」だった。クリッとした目と美的センス、誠実さを受け継ぎ、映画カメラマンを志した。妹は画家となり、現在、アメリカのボストン郊外で、創作活動に専念する。

 1985年2月、日本大学芸術学部に留学するため来日。北京空港まで見送ったのは、陳凱歌、張芸謀の両監督だった。在学中、皿洗いなど、さまざまなアルバイトをこなした。飲食店で働いていたときには、客の食べ残しをその日の食事として生活費をうかし、学費へまわした。この時期の生活で、「刺身が好物になった」。

 卒業後、帰国すべきかどうかかなり迷ったが、日本で映画制作に携わるようになる。この選択により、日本と中国の映画制作に大きな功績を残すことになった。

 張芸謀「菊豆」をきっかけに、陳凱歌「覇王別姫〜さらば、わが愛」、田壮壮「青い凧」などの現像や録音編集が、日本の映画技術陣に託されるようになる。日本の高い技術力に対する信頼に基づくものだが、映画制作専門家として日本側と意思疎通をこなせる小寧が日本に在住している意義の方がはるかに大きかった。

 また、やる気と才能のある若い中国映画人を見つけ出し、日本の現場で映画技術を学ばせる機会をせっせと与えた。その数、10人を超え、後輩たちは帰国後、著名な映画監督たちに引き上げられ、第一線で活躍する。

 私利私欲とは無縁の小寧が日本にいなかったら、日中間の映画制作の結びつきはここまで強まらなかった。中国の映画制作陣と日本の映画技術陣は、小寧を仲立ちとして仕事抜きの付き合いにまで広がり、今も受け継がれる。

 訃報は、中国国内で速報された。現地紙は小寧を「為人忠厚、老実」(正直で温厚、まじめ)と評した。

 この性格を利用し、小寧にあえて恩を売り、中国映画界や芸能界に進出をたくらむ日本の輩が何人も近づいた。そんな魂胆を知っていながら、助けてもらったからといって対応した。小寧はそういう人物だった。

 病室から去ろうとしたとき、点滴が打たれた腕をベッドから伸ばしてきた。映画カメラを担ぐために鍛えてきた腕の力は、衰えていなかった。何度も何度も固く握りしめてきて、手をはなそうとしない。ときどき意識がかすみそうになる中、目を見開いてじっと見つめてきた。

 遠方にいる気心を許せる友人とは、電話で話をすることができた。内気な小寧が、最後となってしまった電話で、秘めていた本心を初めて口にした。電話を切ったとき、目元がうっすら光っていた。彼は、運命をすでに悟っていた。

 「また、来るから」と声をかけると、「はい」と、いつもの礼儀正しい返事を返してきた。小寧の声を聞いた最後だった。

 一つ、やり残したことが、彼にはある。子どもの頃、父から聞いた。日本映画の制作に父が関わったことがあるという。だが手がかりは何もなく、ついに作品を見つけ出すことができなかった。

 「他的離去使我万分悲痛」
 「真是傷心、失去了一個很好的朋友」
 訃報を聞いた中国の複数の友人から、小寧に語りかけてほしいというメールが何通も届いた。

 18日、都内でひらかれた告別式。寝不足の顔、せわしない動き、資料がつまった重いカバン、浅黒い肌。小寧を特徴づける姿から、すっかり解き放たれていた。寝姿は、やけに小さかった。

 1970年代後半以降、当局の監視や妨害を受けながらも、自由な表現を模索した北京の若い小説家、詩人、画家、美術家、映画監督、脚本家、カメラマンたちと交わった。危険を承知で、貴重な場を提供するとともに、自身も新しい映像表現と中国の生の姿、とりわけ、自由を求める中国人の叫びを映し出すことに打ち込んだ活動する芸術家だった。

 20日に北京に戻り、22日には現地で追悼会が開催された。北京で生まれ育った小寧と、日本で知り合って約20年。交流できたことを幸せだと痛感させる人物だった。小寧の死により、日本では偽物が跋扈する、いやな時代になりそうだ。

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