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〔080〕 執筆禁止20年、亡命16年、過酷な生を強いられた劉賓雁氏の死
【2005/12/07】

 中国を代表するノンフィクション作家の一人、劉賓雁氏が、アメリカ・ニュージャージー州の病院で12月5日(現地時間)、死去した(一部の報道では4日)。直腸癌とされる。80歳だった。

 「流亡作家劉賓雁5日零時25分去世」「劉賓雁逝世是中国文学界一大損失」「中国的良心、劉賓雁病逝」 の見出しで、欧米の中国語紙を始め台湾や香港で大きく報じられ、イギリスのBBCは「China dissident Liu 'dies in US' 」と題して死亡を伝えた。

 日本ではベタ記事扱いで、中国での報道は今のところ確認されず、主立ったインターネットサイトでも触れられていない。中国国内に死亡記事を送ったところ、ほとんど誰も知らなかった。伝え聞いていると答えた現地紙記者は、アメリカ在住の同僚から教えられたというだけだった。

(写真=天安門事件の翌90年9月、サンフランシスコで開催された民主中国陣線世界大会での劉賓雁氏。写真左の文書は、中国政府の弾圧に抗議する劉氏の一文)

 中国東北部出身の劉氏は人民日報の記者として報道に携わり、56年にルポルタージュ『橋梁工事現場にて』(在橋梁工地上)を発表し、中国の官僚主義や腐敗を批判して社会的反響を呼び起こした。この作品に怒った共産党は、翌年、劉氏を右派と断罪して厳しく批判、76年の文化大革命終了後の名誉回復まで20年間にわたって創作活動を禁じ、農村で重労働を強いた。

 「当初は批判にまったく動じることがなかったが、さまざまな機関から何年もかけて『お前は毒草だ』と批判され続けると、しだいに本当にダメな人間ではないかと自分自身で思うようになり始めた。その時が一番辛かった」
 90年、サンフランシスコで会ったとき、劉氏は苦難の時代をこう振り返った。

 名誉回復後、再び記者として取材活動を開始し、『人妖之間』(「人と妖怪の間」)を発表し、一党独裁支配による弾圧、人権無視、官僚主義、腐敗・堕落を批判。読者の支持を得てノンフィクション大賞を受賞するものの、危険人物として87年に党は劉氏を除名処分とする。

 「あの時点で、共産党に自浄作用はまったくないと悟った。淡い期待や幻想をきっぱりと捨てた」と、述懐する。

 89年にアメリカのハーバード大学に研究員として在籍していたとき北京で天安門事件が起き、中国へ帰国できないままアメリカに政治亡命。学生らの民主化運動を支持したが、その一方で各民主化要求グループの権力争いに対して、厳しい注文を付けていた。

 「団結こそが重要な時期に、民主化を求めるグループが党や政府と同じような権力闘争を引き起こしていては前に進めない。今は何が大切か、もっと真剣に討議すべきだ。中国で民主化を実現させることは、けっして容易ではない。このままでは民主化組織は大同団結できない」

 劉氏のこの言葉通り、組織統一を目的として91年、ワシントンDCで開催された会議にもかかわらず、主導権争いで紛糾。統一は実現せず、その後、各組織とも急速に弱体化していった。

 以後、劉氏は言論活動に専念するかのように、「China Watch(「中国観察」)」(後に「China Focus」と変更)と題する英語によるニューズレターを創刊。主幹として、政府や党幹部の動向、農民や労働者の実情など、中国国内事情を中心とする記事を発表し、世界各国に中国の実情を訴え続けた。

 「圧倒的な権力を持ち強権によって支配し続ける党や政府に対し、私たちはあまりにも無力すぎる。まずは言論による活動を始めるべきだ。時間はかかるだろうが、最後に勝利するのは私たちだ」
 ニューズレター創刊時、劉氏はこのような一文を添えてきた。

 癌と判明した後、中国への帰国を願ったと伝えられる劉氏だが、党や政府はその意向をいっさい無視したという。



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