随想集 (布施) of 機友会福岡支部


在勤25年の思い出

昭和40年40歳の時に、石神・富両教授より、大学院設立のための応援を依頼された。当時日立造船の研究所で「急速に変化するガス温度の測定と、そのディーゼル機関への応用」で、京大の長尾先生より学位が授与されていた。この研究は、動圧式排気タービン過給の研究に重要な資料を提供するものであった。昭和41年4月大学に赴任したが、機械工学科の建物は、古い鉄筋で、実験室は、はるか後に点在するみすぼらしい木造であった。赴任後最大の問題は、これからの研究テーマの選定であって、比較的若く赴任したため、大きく内容の深いテーマをと考えた。ガス温度測定の時に疑問に思った円柱周りの流れと、熱伝達に、未知の問題の多い事が分かった。そこで実験装置も高速を含む風洞の設計の準備にかかった。丁度この頃、東工大の森教授の特別講演でも、これが重大な関心事と分かり、一層挑戦の意欲を固めた。風洞の設計は、経験が無い上に、高速であり、2/100mmの細線の熱電対の検定も考え、200度Cまでの可変温度であったので困難な問題が多く、特に高速のための、高圧遠心ブロアーの使用は、乱れと流速分布の制御を一層困難なものにした。また最初の頃の木造実験室では、高音のため、相当周囲に迷惑をかけ、実験も制約された。その他大きい直径のための風洞も準備にかかったが、すべて設備費がなく、毎年の研究費から捻出したので、年月もかかり改造にも苦労した。昭和53年には、防音や計測を考慮し、かなり充実した新実験室が出来た事はタイムリーであり、実験は著しく進展した。ただしこの実験のもう一つの難関は、表面温度の測定で、その精度が問題となり、直流増幅器の入力部分に相当高度な技術を必要としたが、日立造船時代の計測技術が役に立った。これで今までの未知であった高速を含む熱流束一定条件での表面温度の決定が可能となった。したがって本題の剥離流と円柱背面伝熱の問題に入ることになるが、最初は手製の風洞のため、多くの因子が乱れ、原因の究明は難航した。しかし欠点がかえって問題をとくかぎとなった。偶然にも発見された高周波は、円柱背面の熱伝達を著しく発達させることが分かった。このためそれ以前に発表した論文に対する東大平田研の五十嵐氏等との論争は一挙に解決した。これで流れと円柱背面の伝熱についての種々な関係論文は大きな抵抗もなく認められることになった。但し途中からは、森教授もその正統性は認められていた様である。その結果は、国際会議でも発表した。
 以上の研究の思い出の外に、私が担当して特に印象に残ったことは、機械工学科新築工事の件で、当時主任であった関係上、色々な問題に遭遇した。それまでの機械工学科は、建築科と同居していたが、建築と電気科の新築により建築科が立ち退き、あいた場所には、基準面積の関係から、木造実験室の諸設備を移さざるを得なくなった。しかしこれは、現実に困難な問題が二つあり、その一つは建物の老朽化による危険性の点であり、第二は二階以上にも重量物の機械を置かねばならない事であった。これは明らかに不可能で、私は危険建築物指定への運動を起こした。種々の測定の結果、機械工学科の新築工事が認められた。
 以上は研究と主任時代の思い出であるが、講義については、基礎と考え方を重視し、新しい時代の変化に対応できる能力の養成に力を注いだ。この考えは、拙者「熱力学」(共立出版)にも現れており、長尾・森両先生も認められたように、自分としては、かなり満足した著書になったと思っている。
 以上苦労したが、楽しく熱中した思い出であり、今から見れば、常に青春時代のような感があった。ただ私の場合は、着任1年目の胃潰瘍の早期快ゆや、研究における混乱した因子の研究等、障害を乗り越えた底流には、常に信仰の実践(創価学会)があったことを付記しておく。