随想集 (川畑) of 機友会福岡支部


思い出


 昭和28年、機械工学科講師として赴任した当時の校舎は、45連隊の兵舎跡で頑丈な木造であった。壁には所々穴が開いて居りそこを大きな鼠がちょろちょろ出入りしているのには驚いた。校庭は一面青々とした芝生で、その一角に吾々の水力実験室があったが、中にはポンプが一台しか無かった。学内ものんびりしていて人と話す事もあまり無く、時間の経つのも長く感じ誰とも話をしないで帰宅する日もあった。
 教官も学生も殆んど県内出身者で気心も通じ合い、学生は真面目で良く勉強した。
 やがて、大学の国立移管が問題になったとき機械工学科を廃止するという話も聞いたが、皆の熱意のお陰で昭和30年7月無事国立に移管された。然し、当初はまだ一般の認識も浅く学生の就職も難しかった。学校指定の会社も多く最初の学生を送り込むのに苦労した。
 国立移管になるまでは、教職員組合が中心で教官の給与もここで決めていた。然し、移管後は組合の必要性も小さくなり、教官の待遇改善の要求も難しくなったので、全国大学教官待遇改善懇談会が別に設置され自分が鹿大の委員長に選ばれた。文部省や人事院は懇談会代表とは会ったが組合代表とは会わなかった。人事院を訪問した際、総裁が「大学の先生はおとなし過ぎる、裁判官のようにもっと強くなり、座り込みでもやったらどうですか」ということだった。懇談会もかなり長期間続いたが、その効果もあったものと信じている。後日人事院勧告が出るようになり会も廃止された。その頃、鹿大の教職員組合長に推されたが、当時工学部は組合に加入していない事もあり何とか断る事が出来た。
 町野、中村両学長の時代、全国で学園紛争が流行し、鹿大でも大変だったが、工学部の学生は参加しなかったのは幸いであった。然し、教職員一同エネルギーを消耗したのは事実である。
 日本機械学会主催の国際会議で、日本の大学を代表して討論者に選ばれたことがあるが、会終了後は迎賓館で盛大な懇親会が開かれた。また、機械工学系の教官一同で毎年一泊旅行に出掛けたのも楽しい思い出である。


随想

昨年8月6日の豪雨により自分も大きな被害を受けた。朝夕眺めてきた稲荷橋が埋没し撤去された事は複雑な思いだが、撮り続けた写真が今回の南日本写真展に入選し良かったと思っている。
 河川の洪水や崖崩れの原因の一つに都市開発がある。もともと、鹿児島市は土地が狭く、交通事情は発達しているが、これ以上人口を増やせば、交通事故の増加や隣の音がうるさいといった苦情も生じてくる。
 総合治水の立場から色々と研究がなされている。その一例として模型実験があるが実際の水流は慣性も大きく模型では判らない大きな破壊力を呈する事もあるので注意を要する。
 次に、最近の世相について所感の一端を述べる。先ず、国会議員の選出にあたっては、議員は政治のプロでなければならないという見地から、政治と無関係な職業の人や世襲制度の人は原則として除外すべきであろう。
 また、日本人の中には、日本古来の美徳である礼儀正しさや敬いの心を忘れた人が多いが、最近では一部青少年の風紀の乱れも目に付く。幼少の頃からもっと厳正な教育が必要であり、テレビ、ビデオや雑誌等の内容も検討すべきであろう。
 月日の経つのは早いもので、自分も81歳を迎えた。脚が弱くなったが妻と二人暮らしで無事過ごしている。趣味は写真と碁であるが碁はボケ防止に良いとのことである。
 終わりに、明年、工学部創立50周年を迎えることはご同慶に堪えず今後益々の発展を祈ると共に皆様方のご多幸を祈ってやまない。