随想集 (中嶋) of 機友会福岡支部


思い出


 私は、戦時中の繰上げ卒業にて、昭和20年9月大学を卒業、県の招きにより工専に赴任したのは、昭和21年2月末であった。当時は第一回生のみが在学していた。それ以来63年3月末、学部長で定年退官するまで、実に42年1ヶ月間在職したことになる。勤務先は変わらぬが県立工専、県大、鹿大と名称は変わった。場所は伊敷から郡元に移った。思い出はいろいろとあるが、印象の深いのは、やはり戦後の草創期の頃のことである。その中で、裏話めいたものを2,3書き記すことにする。

 〇大学昇格
 学制改革に伴い、専門学校は大学昇格か、廃止かの岐路に立たされた。学校は戦災にやられた上、県財政はどん底あった。県は苦慮し、いろいろな案を作った。機械工学科が実習設備が必要で、一番金がかかるとみて機械工学科を除いた3学科案を作り、文部省に打診したところ、何学部をお作りになるのですか、機械工学科が無ければ工芸学部ですよと云われた話もあった。
 大学昇格の審査の席上、好意を持ったN視学官の司会で、今日は南の方から審査を始めましょうということで、当時は現在のように東北の北海道から書く習慣は確立していなかった(郵便番号は東京から始まる)。鹿児島工専は一応合格として、これを基準にはじめられて、うまくいった訳で、これでも2、3の学校が廃止のうき目に会われたのは気の毒であった。

〇県大時代
 4学科15講座で発足した。機械と建築の材料講座は共通とし、これに数学を加えて基礎講座とした。したがって、機械と建築は3講座半、電気と応化は4講座ずつ、計15講座で、設備の関係上、学生定員は各学科25名で、計100名であった。
 第一回生は20名足らずで、教室で見渡すと誰が欠席かすぐわかったものである。第一回生は旧制と新制が同時に卒業したので、就職は大変困難であった。
 機械工学科の工作実習は設備などの関係上、西鹿児島の国鉄工場で行い、土曜日、丸一日費やした。よく頑張ったと思う。
 平和条約発効により、賠償に当てられていた工作機械が払い下げられるということで、当時小倉陸軍造兵廠の地下工場は大分県の山の中にあり、石神教授と歩き廻って探した。機械は鉄道線路近くの防空壕にあるのであるが、戦時中は軍の力で、貨車を濠の前で止めて入れたのであるが、平時ともなれば、駅まで運んで輸送せねばならず苦労した。結局、日通にお願いした。今なら、トラック輸送で簡単であろうが。おかげで、大分県の田舎の立石、山香などの駅名を覚えた。機械を40台近く貰って、実習工場をつくった。

〇鹿大時代
 県の財政上、国立移管が大課題であった。当時は、1学部の移管が通常で、2学部の移管は困難であった。ところが前年、岐阜県で医・工両学部の移管が実現した。これは新幹線の羽島駅を田んぼの中に作った自民党副総裁の力であった。これが先例となり、両学部の同時移管ができた。しかし、文部省の定員増の枠をほとんど食ったので、全国の大学から恨まれもした。
 その後はわが国の経済復興と高度成長期に入り、次々に学科増、講座増をなし、学生定員470名、別に大学院生105名となり、隔世の感がある。また、講座数も43を数えるに至った。
 卒業生も一万名を超え、産業界をはじめ、各界の発展に寄与している事は、まことに喜ばしいことである。
 今後のますますの発展を期待してやまない。