恩師随想記 of 機友会福岡支部


命ありて 「もうけ人生」を、ふりかえる


いくさの日々が終わって、長い年月がたった。いくさの庭に命を散らすのが男の本懐と信じた、一途の青春時代の感傷が懐かしい。
赴任途上での魚雷攻撃による15時間漂流、炎上する飛行機よりの脱出、幾多の作戦への参加等、紙一重の生と死の間を彷徨い、南方戦線ブーゲンビル島(終戦時はラバウル出張中)より復員し、半年後の昭和22年3月、創立3年目の旧制鹿児島工業専門学校に奉職することになった。
 人の前に立つことや、喋るのは軍隊での経験で些かの不安もなかったが、何分数年間の不勉強のブランクを埋めるのは、専門書や資料の皆無のさ中では大変なことで、終日机に噛り付いた緊張の連続であった。戦地へは岩波全書の歯車工学等専門書の数冊は携行し、折をみては読み耽っていた・・・・・、時折当時を夢見て、愕然として目覚める事があるのは、今後を如何にして生きてゆくかの不安と緊張の連続であったのだろう、我が身が愛おしくなる純情な青春の一時である。
 教師になる為の手引きや心構えを伺うべく、先輩教師の末永先生宅にお尋ねしたのも、ついこの前のような気がする。10年一昔とは云うものの、50年の歳月は余りにも短く、年老いたるを感ずるのは小生のみだろうか。
 命ながらえたことから、死んだつもりでやれば出来ない事はないとの些かの信念のお陰で、社会人一年生としてのスタートを切った。今日まで50年の間、常に深い愛情と強い絆で私を支えて下さった先輩、同僚、教え子の方々で、現在があることを常に感謝しながら、「日々是好日」で過ごしております。
 機友会より、思い出と随想の寄稿依頼を受け、久しぶり過ぎし日々の50年を振り返る機会を得ましたが、先ず瞼に浮かぶのは初勤務の18部隊兵舎跡の校舎と諸先生並びに弊衣破帽の学問に飢えた澄んだ目の在校生諸君でした。
 初代機械科長は学生を見上げる程の短駆ながら、あらゆる科目をこなされる実力抜群、風格ある講義で学生を魅了される山下菊二先生で先任教官としては、末永、中島両先生、非常勤の小原貞敏先生で、同時勤務の松下、米倉先生、更に半年後来られた石神先生、後年茨城大学長となられた黒木剛四郎先生で昭和22年度の機械科が運営されました。
 その後、教育学部から移籍の後藤隆三先生や八浜康和先生と多士済々の気力満々たる教育一筋の先生方で基盤が固められたと思います。
 ある日、科長の山下先生より思いもかけぬ「経営学」を三年生に講義されたい云われ、戸惑いながら、やっと借りた種本で講義したのだが、三回目ごろ、教卓の直下の机に着席のS君が、ニヤニヤしながら、してやったりの顔つきで小生を見上げ、種本と全く同じ本を拡げているのを見て、こりゃ教師は務まらんと思った一瞬もありました。勤めて初めての夏休みの8月、これまた、元気者豪傑の3年生のK君等数名と中嶋先生一緒に屋久島登山に出掛け、若々しい学生諸君と行動し、生きる喜びを味わったのが教師としての腹がためであったように思います。
 県大移籍、国立大学への移籍と学制改革には大きく翻弄されたが、未来を夢見て着々と実力を蓄えてゆく学生諸君には深い敬愛の念も禁じ得なかった。敗戦のどん底より雄々しく立ち上がり祖国復興に最も寄与したのが工業技術とすれば、よく頑張ってくれて有難うと声を大にして叫びたい。50年の歳月の重さが強く胸に響いてくる。卒業生諸君、いつまでも健在で、力一杯頑張って、多幸な人生を享受してください。終わりに何等恩返しも出来ずまま鬼籍に入られた諸先生方並びにもちょっと生きて働いてもらいたかった教え子達の冥福を切にお祈り申し上げます。