トップページへBook Review 著者別あいうえお順 INDEXへ
全読書履歴とその雑感へBook Review タイトル別あいうえお順 INDEXへ


読書記録2003年2月
(2003年8月に再読しての感想)


『哲学ってなんだ−自分と社会を知る』
竹田青嗣(岩波ジュニア新書)2002.11

−紹介−

一章から三章は哲学そのものの紹介。
四章「近代の哲学者たち」では、人間の規定が、神の被造物からその本質を
自由に変更されたことを紹介し、中世キリスト教的社会観からどのように
現在の社会の仕組みが考案されたか、その成り立ちと市民社会原理を示す
ことに力点が置かれる。
五章はそこまでの流れを踏まえながら竹田現象学による自己論の展開と、
それを社会=広範囲の他者関係と接続させる試み。

−要約−

著者はHPで「ヘーゲルの「自己意識」の哲学とフロイトの「深層心理学」
という、人間についての二つの根本的な考え方を接合するとどうなるか、
という観点で「自己」論を再構成すること」が狙いである、
と仰っているので、それを中心に要約してみる。

ヘーゲルの考えた人間の本質は「自己意識の自由」である。
私への欲望(=自己欲望)、つまりは自己アイデンティティの追求。
それは突き詰めれば最終的には「他者の承認」を通してしか実現しないので、
必然的に「社会という承認ゲーム」に参加せざるを得ない。
その過程で人間は、「「自己価値」を求めつつそのことが「他者との関係」
と矛盾しないような社会のあり方」を自覚してゆく。つまり、
自己中心性を前提とし、それを鍛えてゆくことで「善きもの」へと向かう。
「この了解こそが、ほんとうの意味で人間を内的に「善きこと」
に向かわせる動機となる。・・・p.143」

フロイトは意識に無意識(人間関係の中でいつの間にか織り上げられた、
欲望や感受性や情動の全体=幻想的身体、身体性)を対置し、意識を規定
している無意識こそが本当の主体だと考え、独創的な理論を構築した。
このことの最大の功績は「人間にとって動かしがたい「自然」であった
「無意識」と「身体」を、動かしうるものに変えたことにある。・・・p.152」、
つまり、欲望や感受性は生まれつきの絶対のものではなく関係的な構造であり、
必要に応じて一定の仕方でそれは把握でき、ある態度をとることができる、
という了解を作り出した点が、画期的な核心である。

そしていよいよヘーゲルとフロイトの思想を統合すると、
「人間の「自己」の本質は、「自己意識」と自己の「無意識=身体性」
との間の耐えざる了解関係にある。・・・p.156」という定理が導き出せる。
人間は「自己意識」と「無意識」の絶えざる関係であり、常によりよい
自己の「ありうる」をめがけるような、可能存在である。
そしてまた、人間の欲望は最も底には生理的、身体的欲求があるが、
むしろその上にある「自己欲望(善−悪)」「エロス的欲望(美−醜)」
「超越欲望(ほんとう−うそ)」といった、他者との関係性によって
成り立つ欲望が本質的である。

このように人間は「真−善−美」についての自己ルールを無意識的な
幻想的身体として持ち、常にそれに動かされて実存しており、その意味では
真の「主体」はこの幻想的身体であるが、やはり「自己意識」を主体と
考えたほうがよい。なぜなら「人間だけが、自分自身の潜在的主体である
《身体性》に意識的に(=主体的に)関係する存在だからである。・・・p.165」
のだから。

自分の欲望となすべき行為を確定すべく足掻き、自己自身たろう、
自己を自己たらしめようと欲し、悩む、まさしくこのことが人間が
自由な存在であることの根拠であり、人間が実存することの所以である。

この後この関係性を重視した自己論を踏まえながら、社会論へと接続される。

「他人の声の中で常に自己のあり方を配慮しつつ進むということが人間の
「承認ゲーム」の内実であり、したがってそこに「関係のエロス」の
源泉がある・・・p.174」、世界を生き、享受するとはこういうことだ。

四章で示されたように近代以降の市民社会の正当性は、人間の自由
を実現するための条件である、「自由の相互承認(ヘーゲル)」
と「一般意志(ルソー)」のふたつの原理によって裏づけられている。
この社会では唯一絶対の生き方や正しさ、真理、という考え方は無効に
なっているので「誰でもが、自分なりの「生のほんとう」を自分自身の
納得において自由に捜し求めることができる・・・p.190」。
社会の関係性の中で自分自身を了解し直し続けること、またそうやって
得た自分自身を他者に"表現"することを通じて自己の「自由」を世界の中で
試し続けること、ここに近代以後の人間の存在本質がある。

このように、社会と人間に関する根本原理は、
「自由」と「相互承認」という概念においてその本質を共有している。

−感想−

竹田現象学による自我論は、以前『エロスの世界像』を読んだときに強烈な
印象と感銘を受けた。どんなものでも発生学は「物語」の形式をとらずには
できないし、仮説を超えることはできないが、しかし著者の説以上の説得力
を持つものを僕は知らない。この本で再構成される自己論も十分な説得力を
持ち、またこれを社会論と繋げる、そういった大変な試みを、
ここまで平易な表現で伝えられる著者の力量には驚かずにはいられない。

ドストエフスキー著『地下室の手記』藤野美奈子×西研著『考えることで楽になろう』
の感想文など、その他の文章を読めばわかるように、僕はもうずっと関係性
を疎かにして自分を腐らせている。が、やはり著者の言うとおり、
習慣的に形成された固定的な自己ルールだけで生きていると、開かれた
自由な関係の中で自己自身を刷新してゆくことなどできやしない。
それはとっても憂いに満ちた、だらだら続く憂鬱な日々だ。はあ。
また反省猿、というわけだ。僕ほど重度になると容易に修正は効かないが、
上に要約したことや、哲学のモラルとして挙げられるふたつの言葉、
「常に一般的な理由ではなく自分の生の理由の中で考えよ」
「そしてまた、単に自分を支えるためだけでなく、自分が属している関係
自体を支えるために考えよ」、これを頭に焼き付けておくこととしようか。


トップページへBook Review 著者別あいうえお順 INDEXへ
全読書履歴とその雑感へBook Review タイトル別あいうえお順 INDEXへ