トップページへBook Review 著者別あいうえお順 INDEXへ
全読書履歴とその雑感へBook Review タイトル別あいうえお順 INDEXへ


読書記録2003年8月


『考えることで楽になろう』
藤野美奈子・西研(メディアファクトリー)2003.3/★★★★

−紹介−

著者の藤野美奈子さんは四〇歳の独身女性、悩みがモラトリアム的というか
青年のよう。その思考は著者のマンガを交えながら日常に即した用語法で
平易に進められるので、読書を趣味にしていない青年でも気楽に読み通せる。
というか、そういう若者が対象だ。西研さんが彼女の思考をさらに押し進め、
明瞭な指針を与える。

−要約−

日常の捉えがたい曖昧な感情や心の動きを言語化することで明瞭に意識し、
それによって精神の安定とさらなる発展、展開を可能とする。
要するに、明朗に気持ちよく元気に生きるためのスキルの提供。

西さんが度々挙げてゆく、よりよく生きるための思考を進めるうえでの
「定理」を以下に抜粋する。

●定理その一
気持ちを最後まで見つめることができたら、「どうしたらよいのか」
も決められる。
●定理その二
"言えた−受け取ってもらえた"の積み重ねが、愛と信頼を育む。
●定理その三
何も仲立ちをするもの(共通の関心事なり仕事なり)がないと、
相手を妙に意識して自意識過剰になりやすい。仲立ちするものがあると、
相手との関係はとりやすい。
●定理その四
「私はできる・やれる」という感覚は人生にとって極めて大切な
基本感覚であって、これが失われると、世界は悪意に満ちて自分を
嘲弄するかのように感じられる。
●定理その五
「こうした条件の下に生まれついてしまった」ということを、
何とか自分の中で受け入れて、「肯定」までできなくとも
「容認」することができなくては、前向きな力が出てこない。
●定理その六
友達や恋人の中で「愛され受け入れられていると思えること」、
何かの"ゲーム"の中で「きちんとした仕事ぶりをまわりから認められること」、
この二つは、人が生きていく上で欠かせない基本事項である。
●定理その七
私たちは、普段から小さく挫折したり関係上の傷を負ったりしながら、
その傷を他者との関係の中で修復している。
●定理その八
「自分のものにしたい」という自己中心性、「相手を愛おしみ大切にしたい」
という愛の気持ち。この二つのベクトルの中で、愛のドラマは成り立っている。

−感想−

上に抜き書きした「定理」をもとに個人的な所感を記録する。

定理その一は至極当然だ。
要するに、心理的葛藤を納得いくよう処理すればいい。

定理その四だが、冗談抜きの大真面目に考えれば考えるほど、僕にできる
ことややれることは、ない。せいぜいのところ、読書をしたりこうして
何かを書いたり、あるいはぼんやり瞑想して、独りよがりの空想や妄想に
耽るのが関の山だ。孤独な中、こんなことをいくら積み重ねようが
「私はできる・やれる」という感覚はまず回復してこない。
さらなる憂いの深みにはまり込むだけだ。ゆえに悪しき世界感情は
解消されない。けれど僕は世界に反感を持たない、いや、持てない。
だって具体的他者への働きかけを「私はできない・やれない」
のだから当然の報いだ。

こんな状態だから定理その二もあり得ない。いや、正確には現実空間では
あり得ないであって、ネット空間でならあり得なくもない。しかしそこで得た
少々の刹那的な愛と信頼では、現実空間で生きる栄養にはならないんだなあ。

定理その三は自意識過剰に関しての言葉だが、人間関係を円滑にこなすうえで、
互いに共通の媒介が何もなければ、そもそも関係自体が成り立たない。
自意識過剰、僕自身が慢性的で病的な尋常ならざるそれだが、
解消するに西さんは「どう思われているのかを実際に訪ねてみる以外に、
安心を得る方法はない」と仰る(笑)。しかし僕ほど重度になると、
他人への猜疑心や不信感はそれはもう巨大に膨れ上がり、信頼感は徹底的に
欠如しているわけで、何を言われようがまず素直に頷けない。
「露骨な侮辱だ」「所詮は同情だ」と、自分の意識外から、勝手に変換
されてしまうのだ。肯定的な言葉も、僕を無性に悲しく惨めな気持ちに
させる。これが重要、最後にちゃんとまとめる。

なぜ僕はこれほどに屈折し、精神を腐敗させてしまったのかと考えるに、
生得的な性格もあるのだろうが、定理その六の基本事項を著しく
欠いているのが大きいだろう。その、定理その六は愛情関係と役割関係の
重要性だが、しかし僕ほどに何度も何度もその喜びを得ようと藻掻いて挫折し、
失敗を重ね続けると、もう絶望と諦念、そして甘く苦い夢想しか残らない。
こうして愛情関係はもちろん、役割関係、仕事も、僕の場合相手側の
慈善活動で雇われているに過ぎないし。何時切られるかわからない。
また、資本の欺瞞を厳しく批判するような社会学の知識を囓ったおかげで、
労働は苦痛にしか感じない。深く傷心、意気消沈。
定理その七でみんなそうなんだ、それでもその傷は関係の中で修復できる、
と説かれても、リアリティないんだよなあ。

さらに屈折した性格の原因…やはり、思春期に何一つ自分でできないような
重度の障害を負った、ということが、大きな契機となったのはのは否めない。
そこで定理その五の「こうした条件の下に生まれついてしまった」という
ことを「容認」すると、前向きな力が出てくるどころか、投げやりな気分に
浸される。大袈裟な泣き言でなく、ほんとうに文字通り何もできない、
というのが、どういうことかわかっているのか?僕なんかまだいい方だ、
こうしてキーボードが打てるのだから…。

西さんは「しるし付き」なうえにここまで性格のいじけきった生き物を、
相手にしてくれる人間がいると本気でお思いか?ドストエフスキー著
『地下室の手記』
の、あの地下の住人並みの自意識過剰を真に理解し治癒
できる人間が、この地上のどこにいるんだ?しかもこの僕、自意識の怪物は、
「しるし付き」の異形の生き物でもある。きっとどこかにいるのだろう、
そういう心の清く美しい、慈愛に満ちたキリストの如き理解者も、
しかし僕はそういう方と出合う機会はないだろう。

いつもいじけず感じよくったって、僕はこの卑屈に媚びた、引きつった
薄笑いを浮かべるのは大嫌いなんだ。見る方も気持ち悪いだけだろう。
『孤独な散歩者の夢想』でジャン・ジャック・ルソーも自意識過剰の奈落へ
堕ちた、混乱した思考を晒していたが、無駄な足掻きはやめるのが最も賢明
であり魂の沈静にもよろしい、と書いていたっけ。今の僕もそう思う。
拙くとも演技的で仮面舞踏会的な、表面的な交流ならできるかもしれない。
関係を志向するにあたって、僕はそういう姿勢で臨むだろう。
こういう態度は西さんの勧めるあり方とはかけ離れた姿勢だ。

定理その八。竹田青嗣さんは『恋愛論』で、スタンダールの恋愛の範型に
おける情熱恋愛においては、そのエロティシズムとプラトニズムが奇跡の
ように一致し、また、このうえなく「よきこと」として感じられる、
と論じられていた。まあ、自己価値を極端に低く措定していると、
まずそうは感じられない。結局相手を毒で害する結果になるのだから、
愛するならば深く関わるべきでない、となってしまうんだなあ。

さて、最後に、こういう自意識過剰、悪しき世界感情、他者への病的な
猜疑心や不信感、というのは、所詮は僕が勝手に思い描く世界像であり、
自我像であり、他我像にすぎない。今、僕は"像"という言葉を使った。
要するに僕の勝手な思い込みだ。しかし、僕の意識上でこうした確信が
成立するには、それなりに積み重ねられた数々の事例という"条件"がある。
また、それを日々強化する出来事ばかりに出会う。僕の胸奥には、
こうした条件が覆されるのを望んでいる心の動きが見て取れる。
しかしそれはあまりに困難だ。いつかそういう予期せぬ事態が訪れる
のだろうか…。まずない、としか、今は思えない。


トップページへBook Review 著者別あいうえお順 INDEXへ
全読書履歴とその雑感へBook Review タイトル別あいうえお順 INDEXへ