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読書記録2001年9月


『ベストセラーの構造』
中島梓(筑摩書房)/社会学・感情社会学・マスメディア/★★★★

若者は本を読まなくなったというが、10万部100万部を超えるベストセラーが毎週発表される。決して本が売れなくなったというわけではない、活字離れが必ずしも進んでいるわけではない。ではどういうことか?質の高い本が減った、ということだ。と、書籍、読者のレベルの低下、読書の意味の変化などが分析される。

その読書の意味の変化とは?ちょっとまとめる。

誰かとちょっとした知的なおしゃべりをするために、知的であることより知的に見えることを優先し、お手軽な親しみやすく書かれたベストセラーへと手を伸ばす。で、それを会話のネタにした空談で人並みに知的であるという安心感を得ている。準拠集団に自分は確かに帰属しているという安心感、人並みかちょっぴりそれ以上に知的であるという優越感が重要で、自分自身がどうなのかなどどうでもいいのだ。

はなしはベストセラーにとどまらず、中流階級のマスメディアを媒介にした共同幻想、個人と社会との関係が論じられる。

感想。
ちょっとなんというか…私の本質に当てはまることが数多くあるように思われ、私が私を失ってしまったというか、なにやらショックを受けて自信喪失状態に陥らされた。

* * * * * * * * * * * *

2002/2 追記
この後現象学、実存論の本などを読み返したりしてまた自分自身を取り戻したって感じだ。この本を読んだときの私は、生活世界と理念的世界の関係の転倒を起こしてしまったのだろうか。それともまさにここでの指摘が的中していたのだろうか。


『現代広告の読み方』
佐野山寛太(文藝春秋)/社会学・広告・消費文化批判/★★★★

大量消費社会、それを支える大量広告に反発心を抱いている。キチガイじみたCM、こんなCMを見て買う人がいるのか、効果はあるのか、と思ったりする。それを助長するメディアも多い。そんなCMやメディアが教えてくれる商品やサービスを消費し、飽きれば次を、もっともっと…なんて生活様式がカッコイイと思い込んで生きるなんてまっぴらだ。しかし現代社会では広告や広告料によって成り立つメディアの情報に触れないでいることは、影響を受けないでいることは、まず不可能だろう。広告、メディアに踊らされないように、と思いこの本を読んでみた。

「広告の構造」
「広告を読む」
「メディアメッセージの読み方」
の全三章。

一章では広告の構造を知ると同時に、その一部である自分自身の態度を考えさせられ、二章では具体的な広告分析に感心させられた。

以下個別に少々感想を。

二章の始め、タブーを全面に押し出したベネトンの広告制作者、オリビエロ・トスカーニ著『広告は私たちに微笑みかける死体』の引用文…まったくもって同感だ、と思ったが、現代の広告やそれをとりまく環境はそう単純でもない、とさらに読み進むうちにわかってくる。広告メッセージを読み解く眼力が必要だ。…それにしても、あまりにもトスカーニが批判するような広告が氾濫している、彼の広告は消えてしまった…。

日栄のCMについては著者の洞察力に恐れ入った。と同時に、メディアとはこういうものか、とその恐ろしさ、というか、汚らしい面を見せつけられた思いがした。

ビル・マッキベン著『情報喪失の時代』の実験について…これはソローが『森の生活』で語っていることと相通ずる。お喋りのための情報だけ追いかけていると失ってしまうものは大きい。一人静かに、「偉大なチャンネル」に目を向ける時間も必要だ。

ステータスシンボル、アイデンティティなどを消費に求めない。簡単なことだ、と思うがジュリエット・B・ショア著『浪費するアメリカ人』にあったとおりそうでもない。が、この手の本を読むとアホらしい消費をする気が失せる。本当に、あまりにバカバカしくなるのだ。多少の孤独は平気に思える強さも得られる。可能なことから徐々に行えばいい。


『自分を知るための哲学入門』
竹田青嗣(筑摩書房)/哲学/★★★★★

これまた素晴らしい。ただ哲学史をザザッと教えてくれるだけではない、もちろんそれも竹田さん流に語ってくれるが。じゃあなにかって?前書きから引用すると、筆者曰く、哲学とは…
 @ ものごとを自分で考える技術である。
 A 困ったとき、苦しいとき役に立つ。
 B 世界の何であるかを理解する方法ではなく自分が何であるかを了解する技術である。
このことじっくりと、特にBを、平易な言葉で教えてくれる。

現象学、実存論、そして著者のエロス論、を軸に、タイトルどおり「自分を知るための」哲学、が語られる。

目次は…
「哲学"平らげ"研究会」
「わたしの哲学入門」
「ギリシャ哲学の思考」
「近代哲学の道」
「近代哲学の新しい展開」
「現代社会と哲学」
の全六章。

今まで読んだ本で竹田さんの著作に触れ感銘を受けていたが、簡単な言葉で語られた本に触れてみて、モヤモヤ感がよりハッキリし、理解が深まった気がする。一,二章の、著者自身の青年期の体験談、心の変遷、哲学への姿勢、ロマンとリアルの対立、独我論をうち破る方法、などなど、ここでの記述には改めて本当に目が覚める思いだった。

一時期「主観−客観」「主体−構造」で、とっても浅いもんだが悩んだことがある。今もそうか。なぜこれほど多くの相反する価値観があるのだろう、なにが正しい?とか、なぜ世の中はこうも矛盾だらけなんだろう?この、あの現状はオカシイとしか思えないが、なぜみんな流されている?とか、なんて自分は無力なんだ、なにをやっても無駄さ、とか、所詮自分にはなにも知り得ない、知ったフリした他者だってなにも知り得ていない、とか。そんなこと考えてると、他者がヒジョ〜に脳天気に見えたり、私自身がどうあるべきかもわからなくなったりして、自分自身を見失ってしまうんだな。

これは要するに、ここでの記述を自分なりにまとめてみると…
「主観=ロマン=青年期的な独我論、幻想←→客観=リアル=世間一般の、他者の価値観、社会」
「主体=構造に規定されたちっぽけな自分←→構造=途方もなく巨大な、手のつけようのないシステム」
…これらを上手く処理できない、だから懐疑的になったり、ただただ反動的になったり、極端な無力感に襲われたりする、ということなのだろう。この「主観−客観」は現象学で、「主体−構造」は実存、エロス論で、先への道を示してくれる。

私はかなり「ロマン」に固執している。ルサンチマン、頽落、騙取…こんな形でしか自己を保持できないような人間にはなりたくないのだ。しかし固執しすぎて幻想に溺れても仕方がない。かといってロマンを捨てる必要など微塵もない、常に編み変えつつ持っていなくてはいけない。そのロマンとリアルのバランスの取り方、関わり方、自分を捉え直す方法、を竹田さんは見事に語ってくれるのだ。リアルにもろに迎合せず、ロマンも持っていたっていい、いや、そうあるべきなのだ。

難しくはないので、高校生以上の若い方に是非是非読んで欲しいなぁ。ホントにお勧め。けれど、現代社会の多くの若者はどういう「ロマン」を持っているのか、不安でもあったりする…。


『立花隆のすべて』
(文庫で上・下)立花隆、他大勢、記録しない(文藝春秋)/人物/★★★★

タイトルのとおり。

文庫上巻は
「「好奇心」と「探究心」」
「ぼくはこんな風に生きてきた」
「「立花隆」とはなにか?」
「週刊文春特集記事傑作選」
の一〜四章、下巻は
「立花隆を読む」
「幻の『たちばなしんぶん』」
「月刊誌特集記事傑作選」
の五〜七章。

一章は立花さんの姿勢を表す言葉と学生時代のエネルギッシュな活動について、二章は各テーマに沿った話題(ロッキード、宇宙と脳、インターネットなど)についてそれぞれの聞き手が立花さんにインタビュー、三章は立花さんを知る様々な立場の方たちが彼について語る。五章は立花さんの著作について、様々な人の書評、六章は家族で作成していたしんぶんについて。う〜ん、わかりにくい説明だ。

テーマがもの凄い多岐にわたるうえに、それぞれの話題についていける知識もないので、ひととおり読み終えただけで疲れ果てた。感想など書けたものではないが、とりあえず思ったことを少しだけ記録。

ロッキード事件は表面の一部しか知らない、いや全く知らないと言っていい。残念。せっかくの話が勿体ない…。が、立花さんはドエライことをやってのけたんだな、と漠然と知った。立花さんをさらに凄いと思うわけは、ほぼ同時期に、逆の位置にいる共産党の闇の面も暴いたというところ。特定の陣営からものを言わない。かといって反動的ではない。どこまでも冷静に事実を分析して、そして意見をシッカリ持っている。

なぜか独身だと思い込んでいたので、下巻の「幻の『たちばなしんぶん』」などでは意外な一面、家庭での顔、を知ることができた。しかし文庫だとたちばなしんぶんの細かい文字がよく見えない。ハードカバーを買うべきだった。

下巻七章、最初の三つの論稿では、全共闘に身を投じた学生の、思想ではない、ナマの、ありのままの姿を知ることができた。「『少年マガジン』は現代最高の総合雑誌か」は、論理というものにコンプレックスを抱いている私を少しホッとさせてくれた分析だった。この第七章のラスト三つの論稿は、日本の総合商社について。これはスケールがあまりに大きい話で…気が遠くなった。

…この人はホントにバケモノだと思う。勉強が好きで好きでたまらないのだろうなぁ。信じられない。


『現代史の争点』
秦郁彦(文藝春秋)/現代史/★★★★

タイトルに関連する、著者の論稿をまとめた本。

「南京事件と慰安婦問題」
「家永裁判と教科書論争」
「太平洋戦争と歴史認識」
「情報公開とプライバシー」
の四部に分類されている。

左右どちらにも偏らない、第三者的な公平の視点…だと思うが、私にそれを判断する能力はない。が、記述から、著者は特定の思想に惑わされない、事実に誠実な方のようだ、という印象を受けた。意見の異なる他者への批判は容赦ないが。

まとまりがないが雑感を。

最近歴史に対して疑念を抱いている。私のような一庶民が歴史的事実を知り、適切な?解釈をすることは可能か?これは非常に難しいことのように思う。過去の出来事全てを頭に入れるなんて不可能だし、その状態で解釈などできようものか。人間どうしてもある出来事になんらかの意味付けをしたがるものだが、語る人によって、示される事実や解釈がそれぞれ見事なほどに違うのだ。なぜ専門家からでさえ正反対の見解が示される?深い見識ある専門の研究者のあいだでさえどうして論争が絶えないのか?『正義・戦争・国家論』に続き、これを読んでその謎が少しはわかった気がする。

以下個別に少々。

南京大虐殺…田原総一郎さんは『日本の戦争』で、この本の著者、秦さんのおよそ四万人説を支持していた。
従軍慰安婦…今までなんの疑いも持たずに朝日新聞、その他左寄りの論調を信じ込んで同調していたのだが、先月読んだ『正義・戦争・国家論』とこの本でその考えは崩れた。そう簡単なハナシではない、と。
家永裁判…この裏話?を読んで…『歴史教科書何が問題か 徹底検証Q&A』ではその一面しか示してくれていなかったことに気付いた。今思えばあの本はこの他の例もところどころそうとう偏っていたのではないか?
東条英機…田原総一郎著『日本の戦争』を読んだとき、中国へはともかく、アメリカへの、太平洋戦争の開戦責任なぞ、彼に対して問えるのか、と思った。秦さんは開戦責任ではなく、敗戦責任に焦点を当てている。

あ〜あ…歴史ってなんなんだろう?よくわからなくなってきたが…研究者の方々にはイデオロギー抜きの歴史を示してもらい、庶民は未来への指針としてとらえる…。私が望むひとつの形はそんなとこかなぁ?


『ものぐさ精神分析』
岸田秀(青土社)/哲学/★★★★

我々の慣習や世界観、国家、家族、恋愛、などなど、ありとあらゆることがらは共通の幻想によって成立していて、個人は私的幻想を共同化することによって正常な個人となる。共同幻想から極端に外れた私的幻想を持つ者は、精神病患者、異常犯罪者などである…唯幻論…思いっきり大雑把にはこんな解釈でいいだろうか?

心理学、精神分析の手法を歴史(近代日本を黒船のショックによる精神分裂病とする…史的唯幻論)、恋愛、人間、自己など、様々な事柄に応用して考察される。

この手の考え方は、虚構にすぎないにも関わらず実体化されがちな、あるいは権威を振りかざす、幻想の一切を無力にする強烈なパワーを持っている。読者はあらゆる価値基準、優劣、善悪、倫理、常識、社会制度など…ヘタをすると自我すら破壊される…かもしれない。そういう内容に相応しく?表紙にはドクロマークが描いてある。読んでいるとなにが幻想でなにが現実なのか頭がモヤモヤしてくる。そこのところ、著者がどこで線引きしているのかは読解力不足で読みとれない。

…他者との関係においてなにが最も実体的かを考えると…苦痛ではないかと思う。誰かが目の前でアイスピックで滅多刺しにされ血が吹き出て苦しんでいるのを見て、あいつが痛がっているのは嘘ではないか?とか、あいつの痛みなど所詮幻想にすぎない、などと心底思うことはちょっとまず不可能だから。飢え、渇き、凍えなども同様。が、出世できずに苦しんでいるのを見てもアホらしいとしか思わない。ここら辺の線引きが自分でも未だにハッキリとわからないところである。確信成立の条件…また混乱してきた。観念的な話は興味はあるが苦手だ。待てよ。岸田さんの説は、これ自体も幻想にすぎない、というドグマに陥ってしまうのでは…。

はぁ…なにやら精神的打撃、悪影響を受けた。人は無の境地でも辿り着かない限り幻想を持たずには生きられないと思うのだが、その幻想を束ねる前向きな考え方を示してくれない(読みとれない?個々人は幻想を絶対化するな、だけ?)ので、夢も希望も奪われる救いのない一冊、と思ったが、この「共同幻想」という考え方は重要だ。傑作。


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