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読書記録2001年1月


『「自分」と「他人」をどうみるか−新しい哲学入門』
滝浦静雄(NHK出版)/哲学/★★★

自我、他我、その関わりについて、の哲学的考察。副題が「新しい哲学入門」だが、ウィトゲンシュタインやフッサールの自我論など出てきたりしてかなり難解な内容。

感想など書けたものではないが、自分なりにまとめておく。

自我とは…世界に対して意味付けをし、それを意識的にその都度捉え直して統合し、自己に帰属させながら、自分自身を振り返るもの。これは世界に中心点、座標軸を持つ必要があるから肉体を持つ必要があり、意識だけの「我」はあり得ない。「在る」ものではない、「なる」もの。

他我とは…その全てを知ることができない自我と同じもの。

他我との関わり…他者とのコミュニケーションは相互信頼が前提に成り立っているのだから「誠実」(他者を傷つけないように自分の意見をまげるとかそういうことではなく、自分の態度や言葉に責任を持つこと、自己の自己に対する誠実さ)であるべし。他者の幸福を手伝うことは不可能、だからより実体的な「痛み」に敏感になるべし。

そう、カント哲学(道徳についてなど)がコテンパンにされるのはなんだか残念だったが、その問題を認識できて良かった。

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2001/7 追記
『現象学入門』で武田青嗣さんは、自我=内在、疑い確かめの根拠、はたらき自体、と書いているが、しかし滝浦さんの言うとおり、動物や生まれたての幼児もそれを持っているはずなのに、自我を他我と区別した自我と認識できない。主観の根拠があるから自我が持てることは間違いないが、両者は別物のようだ。


『トニオ・クレーゲル』
トーマス・マン,訳:福田宏年(中央公論社・世界の文学コレクション36『トーマス・マン』)/小説・ドイツ/★★★

自伝的な小説。どうあるべきか、どんな方向を進むか、文学者の悩みが描かれる。

俗世間の世界、価値観を軽蔑しながらも憧れを抱くトニオ…そこへ入りたい、でもできない、ならば自分に引き寄せたい、いやそうなってはいけない…。平凡で俗な幸せの世界と芸術の世界、この間での葛藤の苦しみが伝わってくる。

「認識の嘔吐」という表現があるが、これはサルトルの感じた「嘔吐」の味と近いもの(サルトルは「存在」に対してだったが)だろうか。全然違うだろうか。あの、味がない、なんとも言えない不安な不安な味…。文学者が自分の仕事である芸術に対してあれを感じてしまったら深刻だ。

画家の友人の言葉…あんな言葉で「片付け」られるものだろうか。それとも皆若き時期にこの道を通るのだろうか…。

中盤からの旅にはスタートから胸が詰まった。「ある事件」での反応は全て、実にトニオらしい。読み進み…さぁトニオ、どうする、とラストではホントにドキドキした。

この後もう一度北杜夫著『木霊』の後半を読み返して、さらなる感動が味わえた。


『実存主義とは何か−実存主義とはヒューマニズムである』
ジャン・ポール・サルトル,訳:伊吹武彦(人文書院)/哲学・実存主義/★★★★★

1945年の講演とその後の討論。講演だから哲学書とはいえ比較的読みやすい。

副題が「実存主義とはヒューマニズムである」、小説『嘔吐』では登場人物のヒューマニストの男を貶め、ヒューマニズムを批判していたので、どういうことだ?と不思議に思ったが、それについてもきちんと語られる。サルトルの説くヒューマニズムは、人間中心主義を柱として絶対的な道徳、価値観を押しつけるものではない。

以下、本文を私なりに解釈しながら要約。

人間はふいに存在し、自己を主体的に選択してゆく。自己の選択は自分を含めた全人類をアンガジェ(拘束)する、だから自分の行為には責任を持たねばならない。自己を自分自身でつくりあげる=自由だ。孤独と不安の自由の中、アンガジュマン(社会参加)によって自分自身をつくり上げてゆかねばならない。人間とはその選択、行為、生涯以外のなにものでもない。人間に本性などない。「実存は本質に先立つ」。責任ある、積極的な、自由な行動あるのみ!

人間として自己を実現するには、その目的を自己の外に求めることによってこそ可能だから、相互主体性としての人間的世界に積極的に関っていかねばならない。いや、好もうと好むまいと、実はすでに関わっている。自分自身を投企し、自分を自分の外へ失い、それを超越すること、人間的世界のなかに現存するという意味での主体性、この二つの結合が実存主義的ヒューマニズム。

画一化されてしまった人間の本来性の回復…。超越的で永遠不変な真理、道徳などない。道徳、真理はいくつもある。だからといってメチャクチャやっていいかといえば、自分の行為が他者をもアンガジェ拘束すると考えれば、誰もそんなことはできない。

さて。どうせま浅い理解しかできずにほとんどわかっていないのだろうが、それでも今までもやもやしていたものを一気に解消してくれた。またひとつ、素晴らしい啓示を与えてくれた一冊だった。

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2001/4 追記
茅野良男著『実存主義入門』を読んで。やはり最後の読みが浅かった。
自分の本質を自由に主体的に選択するということ…これを徹底して考えると実存こそ人間の本質と言える。その本質は作り上げられるべき普遍性を意味している。なぜか。境涯…人間の基本的な状況の下図、ないし諸限界の全体、を認める(人はここで選択決定を下している)ことによって生まれる普遍性…。人はその終わりのない課題を追い求め続け、実現すべき存在だ。それと相互主体性との結合、いつまでも未完結にとどまる全体化…「実存主義はマルクス主義の知の余白に寄生している体系」というサルトルの主張が理解できた。

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2002/1 追記
今このメモを読み返すと、なぜこんなに感動したのか不思議なくらいだ。この後読んできた本でサルトル哲学の問題点をいっぱい知ってしまったし、そもそも私はサルトルの説くような「立派な」人間として生きられるような、全人類に責任感を持ち、素晴らしきことのみ求めるような存在ではない。人は奥底にドロドロした闇の側面を抱えているし、真理や善を徹底して求めれば求めるほど、それは簡単に闇へとひっくり返る。


『もっとデッカイ世界があるぞ』
秋山仁(ポプラ社)/エッセイ/★★★

数学者秋山仁さんが、自然の魅力、受験に縛られるな、失敗を怖れるな、勉強の意味、個性的とは、将来の決め方、などを説く。

悩める中学生へのメッセージ、といった内容で、いい歳になってしまった私には「わかってるよ〜」と少々説教臭くも感じたが、自身の体験を語りながらの著者の言葉には不思議な説得力がある。

「自立」を語るあたりは耳が痛い話が多く、「自立をしていない者は、自己中心的で、わがままで、人を思う気持ちに欠ける傾向が強い。」の一文では落ち込んだ。

これを読んで改めて思ったが、やはり私の考えることや悩みなど、本質的には中学生レベルで止まっているかもしれないなぁ。

嫌々ながら、疑問を感じながら、大人の言いなりになっている「お利口さん」の中学生に是非読んで欲しい本だ。それすらも感じないで言いなりの子には、さらに強く勧めたい。言いなりになっていることすら自覚出来ない子には強制したい。これに当てはまらない、反骨精神旺盛な子にも是非。タイトルどおり、新しい価値観、ものの見方に触れられるだろう。


『そうだったのか!現代史』
池上彰(ホーム社)/歴史/★★★★

若者向け、現代史を読み物として楽しく教えてくれる本。写真、地図、注釈、索引、年表、推薦図書、参考文献、そして全体の文章構成、と、とにかく優しく親切。

全18章、それぞれのキーワードは…湾岸戦争、冷戦、東西ドイツ、スターリン批判、中国と台湾、朝鮮戦争、イスラエル、キューバ、文化大革命、ベトナム戦争、ポルポト、ソ連崩壊、ベルリンの壁崩壊、天安門事件、市場経済、石油ショック、EU、旧ユーゴ紛争。

歴史は現在も刻々と動いている…そして過ちを繰り返さないためにも、過去の歴史から学ばねばならない…それを実感させてくれた。

こうして世界の近代史を眺めた後、改めて日本を見てみる…。

ドイツや冷戦の代理戦争をした朝鮮、その他の国々を見ると、日本はアメリカの単独占領で本当に良かったと思う。東日本と西日本で分けられていたら、などと考えると恐ろしい。

民族や宗教、イデオロギーなど、悲惨な、また民衆が闘ったり主役になった歴史が、他国と比べると少ないように思う。あってもそこから学べているだろうか?唯一の被爆国なのに、核の恐ろしさを他国より甘く見ていると思う。米軍の核兵器持ち込みを容認していたことが明らかになっているし、先進国で最も原発を推進している。安保闘争も、開高健さんの著書を読む限り、最後はシュンとしぼんでしまったようだ。このことはよく知らないので、今後もっと詳しく知りたい。

辛い、苦しい歴史が少ないのは良いこと…だけど…だからだろうか…。だからこそこれからももっともっと色々知っていきたい。

帯封にもあるが、歴史は知らないではすまされない。是非知りたい。新聞の国際欄のニュースなどを読んでも背景を知らないと浅い理解しかできない。しかしその背景を知ったり、それぞれつなぎ合わせるのは大変な作業だ。そんな私にピッタリの一冊、読んで良かった。これ、これからも頻繁に読むだろう。

先月読んだ著者の『まるごとわかる20世紀ブック』同様、わかりやすく現代史を教えてくれる、高校生以上の全ての人にお勧めできる一冊だ。


『浪費するアメリカ人−なぜ要らないものまで欲しがるのか』
ジュリエット・B・ショア,訳:盛岡孝二(岩波書店)/社会学・消費文化批判/★★★★

現代アメリカの大量消費社会がテーマの論説。タイトルの「アメリカ人」を「日本人」に置き換えてもほとんど違和感がない。

車、家、家電製品、服飾品、旅行先、外食、映画や音楽、子供への教育、贈り物…なにを基準に必要と思う?本当に自分が必要なものしか消費していないか?なぜいらないものまで欲しがるのか?

準拠集団内での他者との比較が消費を決定している、と著者は語る。その比較が昔はお隣さんや町内ですんでいたが、現代では仕事上で付き合う賃金格差のある人々、メディアの人々、と比較の対象が広くなり、欲望もさらに増していく…。ステータス、アイデンティティ、そして競争のための消費。消費するために働き、所得が増えればさらに上のシンボルを消費する。全ての人の所得が横並びになることはないし、新しいものが次々と眼に入る。欲望が満たされることはない。消費文化の終わりのない山登り…。

これから脱却するにはどうすればいいのか。実例や統計を交えながら現代の大量消費社会の問題、解決方が示される。

テレビや様々なメディアで煽られる、無駄な浪費生活には嫌気がさして、踊らされるものか、と日常気を配っている(つもりの)私にも当てはまる指摘は数多く、何度もギクリとさせられた。消費、生活基準は他者との比較で決定される、と聞くと反感を覚える人も多いだろうが、いかにそれが日常の根底に根付いていて無意識に従っているか、この本を読めば実感できる。その解決策が展開される第五章「隣のダウンシフター」と第六章「ディドロの教訓に学ぶ」はとてもためになった。

今まで物欲や消費欲は個人の問題が大きいと思っていた。しかしその欲を捨てるのを許さない社会がある。人間一人きりでは弱い。社会も変わる必要がある、そのために個々が自覚し、少しずつでもいい、抵抗しなければいけないようだ。

エピローグ「消費を減らせば経済は難破するか」も勉強になった。日本、不景気の今こそ価値観転換のチャンスじゃないか?と思うが、政府は消費促進なんて言ってるし、メーカー、ブランドものは大流行だし。

巻末の注、用語解説が異常なほど親切。ありがたやありがたや。


『ヨーロッパ人の描いた世界』
多木浩二(岩波書店)/歴史/★★★

大航海時代から始まる発見の歴史…当時出版された旅行記や航海記には、直接視覚に訴える、挿し絵が多く用いられたという。その多くは、まず、画家が実際現地で「ヨーロッパ特有の技法」で描き、それを出版にあたってまたもヨーロッパ特有の技法で書き直したり版画にする、その過程で演出や想像や解釈、脚色が加えられる。こうして完成された挿し絵を見ると、絵自体は異国の紹介なのに、おのずと当時のヨーロッパ人の「眼」が見えてくる…。

この「眼」の時代による変遷、「世界の事物」を「知」にする過程が、たくさんの図画から示される。

これは面白い。なるほどなるほどと感心し、納得しながら読み終えて…。ふと思った。このように、他を自文化の「枠」に収めたがることやその枠内でしか理解し辛いこと(少なからず私にも当てはまる)、マスコミの報道の仕方など、現代も根本はあまり違っていないでは…?異国をありのまま伝えること知ることは難しい。

このメインテーマも興味深かったが、ただただ当時の図画に感嘆!半分当時のヨーロッパの一読者になった気分で読んだ。当時の人々はこれを見て、どんなにか好奇心をかき立てられワクワクしたことだろう! 二重に楽しめた本だった。


『ネコでもわかる株入門の入門』
株の入門研究会,監修:秋本英明(中経出版)/経済/★★★

タイトルどおり。株とはなんぞや、どこで買う?から始まって、株以外の金融商品紹介、日経株式欄や会社四季報、チャートなど各データの読み方など、漫画や図などを利用してとってもわかりやすく解説してくれる。

後半ちょっと難しくなってくる。
初めて聞くような単語の数々(…ちなみに私はTOPIXの意味すら知らなかったし、日経平均も間違って覚えていたし、損益計算書、貸借対照表の意味もあやふやだった。そういう人間の感想文)、各データをもとにした様々な計算式の立て方など、世間に疎い自分にはやたら現実的なお勉強の話で頭が疲れた。でも、これで経済関連のニュースも、ほんの少しは理解できるようになったかも?

覚えることや考慮しなければならない要素は多いが、ハマッたら株取引って楽しそうだ、やってみたいな、とド素人の自分にも思わせてくれる危険な本だった。儲けうんぬんだけに執着せず、株を通じての社会参加、その会社に夢を託す…こういう形は面白そうだ。世の中の眺め方も違ってきそうだし。

投資信託や株に興味があるけどけどさっぱりなんにもわからない…こんな方へ入門書としてお勧めの一冊だ。


『市民科学者として生きる』
高木仁三郎(岩波書店)/社会・原発問題/★★★★

核技術を軸に、現代科学、技術運営のあり方が論じられる。反原発の立場で活動した、著者自身の自伝でもある。

要約しながら雑感を。

原子力事業株式会社退社後、都立大などの研究機関で研究を続けながら、組織、体制の中での科学のあり方に疑問を感じる。核の利点も危険性も身近に見える環境で考え抜いた末、市民の立場から発言する「市民科学者」に。一人の「専門家、科学者」「市民、活動家」として両立の難しさに苦しむが、どちらも投げ出さず、最後まで貫いた著者は志の高い凄い人だ。

読み進むうちに、プルトニウムは「まだ」いや、もしかすると「永遠に」人間には扱いきれるものではないのかもしれない、と感じ出し…終章「希望をつなぐ」のインド・パキスタンの核兵器開発実験に対する科学者達の声明文を読んで、う〜ん、と考えさせられた。この章での著者の未来への提言は、自分の考えと一致することが多く嬉しかった。グローバリゼーションをアメリカの一極集中的支配、とモロに言うとこなんか特に。

核をめぐった問題は一体どこにあったのか?実用へ向けて、科学的裏付けも足りず、倫理的考察もなく、おかしいことにおかしいと言えるシステムもなし。まずそれらを検証、確立する必要があった。そのプロセス抜きに突っ走った原子力発電、そのツケが各地の原発事故の大惨事…。

核は特に際だった存在だが…これからも様々な科学的発見があることだろう、しかし新しい科学を技術として使うには安全性、倫理面など、それ相応の裏付けが必要だ。即ビジネスへ結びつけようとする現代、著者の警鐘は重く受け止めなければならないのではないか。いったんビジネスとして走り出してしまうと「これはマズいのでは…」と思うことがあっても、もう組織内部の人間は声をあげることができない。

科学者も研究機関で論文のみに追われてはダメ、と著者は語る。研究者だって木はよく見えても森が見渡せない。

個々の情報公開、そして社会を巻き込んだ幅広い議論。国や企業などの組織が、ではなく、市民一人一人がなにを望んでいるのか。科学者、専門知識に裏付けられたNGOなどの力を借りて、市民はどう考え、どう行動するのか。市民が動けば流れは変わる。「市民科学者」高木さんが遺した、これからの我々の課題だ。


『ツチヤの軽はずみ』
土屋賢二(文藝春秋)/ユーモアエッセイ/★★★★

先月読んだ『棚から哲学』と同じく『文芸春秋』に連載されているコラムをまとめた、哲学的?お笑いエッセイ。

初めて著者のエッセイを読んだときほどの強烈なインパクトはもう受けないが、今回も大いに笑わせてもらった。特に「涙の試験監督」には、あやうく飲んでいたコーヒーを吹き出すところで、ゴホゴホむせて苦しいのと、腹がよじれるほど可笑しくて苦しいのとで、大変な思いをした。

お笑いエッセイといえど、読者へ向けた皮肉も多く油断ならない。「死を思え」や「こんな本を読んできた」はまさに今の私への強烈な皮肉のようで、ウッ、と戸惑った。

著者の本音は一体どこにあるのか謎は尽きないが、私にとっての一番の謎は、なぜ巨人ファンなのか、ということだ。この方のことだから、少なくとも1000は理由があるのだろう。

著者のエッセイ集はまだたくさんある、いずれまた楽しもう。二十一世紀最初に読んで記録までつけてるのがこの本、ということが一番笑えるかもしれない、と思った。


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