私のピアノ練習は尋常ではなかった。幼稚園時代から一日3時間はやっていた。なので、当たり前のことだが幼稚園時代にもうソナタなどを弾いていた。この子は将来ピアニストになる、それが母の夢だったようだ。少なくとも、高校生の途中まではその夢をかなえつつあった。私も小さいときには言われるがまま、当たり前のように練習をしていた。うまく出来なくてひっぱたかれながらの練習、たまには顔を思いっきり叩かれて鼻血が出たこともある。足でけ飛ばされたこともある。それを父が見て“怒るのはやめろ。”と母に言っていたのも記憶がある。私自身は父に怒られた記憶はない。“まだやってるのか??もうやめて寝ろ”はよく言われた。勉強にしろピアノにしろ、とことんやらないとだめな私に忠告していたのだろう。高校の時手を悪くしてピアノがダメになった。いや、簡単なものとかピアノでなくとも音楽に関することなどに転向することも出来たろう。でも、その時はピアニストやピアノの先生でなかったら、もしくは目指していた某国立音大でなかったら音楽をやる意味がない、とまで思っていた。あの頃はほんとに上手に弾けていたと思う、少なくともピアノを弾く技術という意味では。感情を入れるとかそういうメンタルなところは疑問に思うが。それ以降、10年以上のブランクがあったため、いまはとてもあんなに弾くことは出来ない。いや、練習しまくれば出来るかもしれない。でも、あの苦しみをもう一回味わうかというと、そんな気もない。最近では楽しくやる、それが一番だと思っているから。ピアノがダメ、となったその時、どの方向に行くか真っ暗やみの中をさまよっていると、父が一言、“おまえは理系が向いてるよ”とアドバイスをした。これで目覚めたのが今の道である。その後もいろいろ苦労した。しかし、常に後ろに父が見ている感じがした。大学を受けに行く、といってあの頃の地方の二期校を見に行くのも父がついてきた。遠いから、と。私が国立の東京工業大学に受かったときも、普段は帰りが遅いのに何故か早く帰ってきてしみじみと入学手続きの書類を見たのだった。“ほんとに受かったんだね”という父の言葉、忘れない。心底うれしそうだった。顔中に喜びがあふれていた。後で職場の方に聞いたのだが、家にいた弟にtelで私が受かったかを聞いて、職場の人に“あのさ、信じられないけど娘がね・・・・”と同僚にうれしそうに語っていたらしい。優しかった。そんな父が病床に伏して病気が発覚してあと三ヶ月の命とわかったとき、私は一時期いろいろと反抗したのを反省し、出来るだけベッドサイドに付き添うようにした。その時である。ある時、“もうピアノは弾かないのか??”と寂しそうに聞いたのだ。母にも弟にも今まで言ってなかった。でも父はそう聞いた。あの時、理系が向いている、とピアノが弾けなくて自暴自棄になった私を救ってくれた父でもやはりピアノを弾いていて欲しいのかと思ったものだ。亡くなったとき、私はたまたま病院にいなかった。大学に行って疲れ切って早く帰ろうとしていた。Telを受け、慌てて病院に駆けつけた。同級生が危ないからと車を運転してくれた。感謝感激である。母が遺体にすがって泣いていた。今でも光景を忘れない。なんで側ににいなかったのかと思う。そんなことを思っても仕方ないが、あの時はそう思った。亡くなった後も、ふとしたときに後ろに何かを感じることがある。周りの人は気のせいだという。しかし、私自身はほんとに感じるのだ。それは父であると思っている。今、バンド活動をしたりエレクトーンをやったり、ビッグバンドでピアノを弾いたりしているのを喜んでみてくれているのだろうか。いや、喜んでみていると思う。あんなにきつい練習を娘に強いたくはなかったのだろう、優しい父だから。でも、ピアノの先生に才能がある、と誉められたらしい幼少時代(先生がいってたんだよ〜〜〜)、そんな娘に期待をすることもあったのかもしれない。今のような音楽の関わり方が出来ていたら、もしかして私は音楽をやっていたかもしれない。ピアノをやめていなかったら今もっとうまく弾けるのかもしれない。あの時のような血のにじむ練習はしないが、もう一回真剣にクラシックもやってみようか、と最近になって思うのであった。父とピアノ、私の中では切り離せないものである。 |