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林道義をめぐる言説を考える
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『主婦の復権』関連リンクを見る。

 

1 その主張

手軽な解説としてまずここを(ページ消滅)、それから更に詳しい書評をお読み頂ければ、大体の全貌はつかめると思います。私としては、別に専業主婦と働く夫が、互いの仕事に敬意を払いつつ協力するのは自由なんですが、それを人間の原理原則みたいに言うのはどうかって気がします。それこそファシズムじゃないですか。

そこまで言わなくても、「美しい主婦」だの「醜い主婦」だのと言う60がらみのオジサマというのは、もうそれだけで十分に男尊女卑主義者だと思いますがねえ...。だって、女の美醜の基準を男が云々するなんて、まさに女性は美の対象であって主体ではないと言ってるようなものではありませんか。口先だけで「夫婦は(男女は)対等であるべきだと考えている」なんて、書くだけ白々しく見えますって。

 

2 反響/反論

一口書評が何点か見当たりましたが、その主張に基本的に賛同の人(ページ消滅)も、熱意が空回りしていると揶揄する人(ページ消滅)も、口を揃えて「フェミニズム批判は鋭い/面白かった」としています。先に挙げた書評も基本的には同じスタンスです。これは妙というか、いかにフェミニズムに対する世間一般の認識が70年代の「ウーマンリブ」か、良くて80年代半ばの第1次均等法施行あたりで止まったままかを示しているようでもあります。(これは、それ以降のフェミニズムが、その成果について社会への効果的なフィードバックを行えなかった、ということも意味するのでしょうか?)

また、面白かったのは、ある主婦がこの本を読んで「主婦が世間からこんな風に思われているなんて知らなかった」とショックを受けた、と書いていることです。つまり彼女は、林氏が挙げているような「フェミニストたちによる主婦への攻撃」を全く知らないのです。現実の主婦の生活/働く女性の生活においては、両者の間に顕著な対立は生じていないのではないか、と思われます。こうした現状認識を踏まえてでしょう、林氏の議論が「内輪もめを起こそうとしているようです」という批判(ページ消滅)が出るのも、至極当然のことと思われます。

[2000.2.1追加]
実際、『主婦の復権』を読んでフェミニズムへの反感を新たにしちゃってる主婦の方の読書メモ(ページ消滅)もありますね。でも、フェミニズムって実際「そんなすごいこと」にはなっていないと思いますよ。とはいえ、他にこういう話を読んだことが全くない人が読んだら、こうなるのでしょう。困ったものです。(2000.2.1)

『父性の復権』にコロッと行ってしまった若い男性に対して、『主婦の復権』にコメントする若い女性はずっとクールな視点を持っているように思えるのも面白いです。小谷野敦のコメントを引っ張ってきて一緒に料理しちゃう(ページ消滅)ところなんて、なかなかです。そう言えば、学生の時分は「女のほうが男より精神的成熟が早い」などと言われましたが、何故なんでしょう。私自身振り返ってみるに、それは多分に社会的要因ではないかと思うのですが...。

それにしても、父性だの主婦だのと、面白いくらい核家族にとらわれた物言いを、林氏は繰り返します。しかし、核家族が定着したのなんて日本ではほんの戦後のことです。その道のりは、労働資源の流動化(平たく言うと主に転勤とかですね)へのニーズに応えるべく進展し、その物理的困難を「三種の神器」に代表されるホーム・オートメーション革命で補うことにより(それはまた家電産業の成長を助けた訳ですが)、最終的に地域と大家族からの完全な切り離しに成功した、というものだったと思います。そうなる以前、子供の(学校外の)教育は何も両親や兄弟だけでなく、祖父祖母やおじおばまで含む広義の大家族と、近所の頑固オジサンやこわいオバサンなんかを含む地域がともに担っていたはずです。ですからむしろ、そこから切り離されるた核家族という密室のなかで、親たち(特に主婦たち)は育児との孤独な戦いを一身に背負わされる羽目になった、その歪みが今日の家庭教育の問題点に大きな影を落としていると見るべきだと、私は考えます。今さらその大問題を、父親の威厳と主婦の誇りだけで乗り切ろうとしたところで、スーパーマン(/ウーマン)以外にできる訳もありません。

核家族の子育ては孤独です。なかでも主婦の方々は特にそうでしょう。林氏自身は子育てに積極的に関わったようなこと書いていますが、本当は美味しいところだけ取ってたんじゃないでしょうねー、と穿ってみたくもなるってもんです。はい。

(1999.10.24)

3 反響/反論(2) 〜「フェミニズム=働けイデオロギー」という決めつけの背景 [2000.2.1追加]

「フェミニズムによる主婦攻撃」を理由に、フェミニズムそのものの害悪を指弾する林氏の態度は、誤解を含んでいると既に指摘しました(詳しくはこちらを参照)。確かに、「フェミニズムとは『働けイデオロギー』である」というのは決めつけが過ぎるのですが、以前から私自身、そう誤解されるような要因が、フェミニズムの世間への浸透の仕方自体にもあるのではないか、との疑問を持っていました。(本頁上の方のここ参照)

この点に関連する情報を少しずつあたっていたところ、ようやくおぼろげながらそのストーリーが見えてきたように思います。そこで以下、リンクを含めてざっとご紹介します。

まず、『主婦の復権』に関してここで交わされた論議(掲示板、ログのみ残して既に停止)。この投稿の前後では、「TVタックル」などに出演する田嶋陽子氏を例に挙げて、彼女に代表される性別役割否定論的な意見が、フェミニズム・バッシングを誘引しているのではないか、いやいやそれはバッシングする方の程度が低すぎる、などの意見が交わされています。濃いです。

また、『「主婦の復権」はありえるか。』を出版して林氏に疑義を呈した田中喜美子氏については、私自身よく知らないのであまり無責任なことは言えませんが、こんな記述を見つけました。(コメントNo. [1393] 、すでにログ消失)。 どうやら、田中氏の林批判には、「母親も働きに出て、保育園に子供を預ければ、子供の教育だって上手く行く」という過度の保育園賛美が含まれているらしく、それに対する反論を中心として『フェミニズムの害毒』は書かれたようです。

気になるのは、「フェミニズム=働けイデオロギー」には良し悪しは別としてインパクトがあるため、メディアがこれを歓迎して「選択的に」採り上げているフシがあることです。例えば、主婦攻撃の罵詈雑言を散りばめた『くたばれ専業主婦』を出版して一部マスコミに登場しているという、この人(石原里紗氏のサイトですが、何故か中身が丸ごと消えてます。2000.6.26)なんかもそうです。ですが、結局のところそれは、討論でも議論でもない「見世物のケンカ」というショーを盛り上げるためになされている選択であり、そういう場に出て行ったが最後、「だからフェミニズムってのは」と宣うタカ派言論人との血みどろバトルになるのは目に見えています。その結果、別に「主婦は遅れた怠惰な存在」だなんて思ってもいない男女共同参画論者たちまでもが「あいつらは家庭崩壊の手先だ」みたいな非難を浴びて、立場を悪くしてしまっていると考えられるのです。

確かに、彼らのような、制度的・慣習的な状況が悪い時代から「男の世界」だった職業の場に乗り込んで行った人たちがいてくれたからこそ、制度的な問題はここまで改善されたのだと思いますし、私自身そうした彼らの業績を尊敬し、感謝もしています。また、周囲のほとんどが「敵」であるような状況を突破しながら生きていくため、自らの考えや行動を強く肯定しなければならなかった事情も、想像はできます。でもそれは、一世代上の女性たちに、家事育児を一身に背負うほか選択肢がない中ほとんど独力で子供を育て上げた自負から、若い世代の働く母親に対して猛烈に批判的になる人がしばしば見られるのと、丁度裏返しの心理だと思うのです。個人の思いとしては十分理由があることでも、それが社会化された発言となったとき、違う生き方を選んだ(あるいは選ばざるを得なかった)人たちの立場を悪くしたり、反発を招いたりするという点で、これら両者の態度の功罪にはかなり共通のものがあると思います。

また、本人たちには「フェミニスト」として出て行っている自覚はないかもしれません(田嶋氏に限ってはこの弁解は許されないでしょうが)。しかし制作側は明らかにそういう構図を狙っている。それに気づかぬまま、ただ過激さだけが売り物の自説を振りまいて偏見と嫌悪感を煽ったところで、個人的な自尊心が補強されるという以外何のメリットがあるのでしょうか。いい加減にしてほしいと思います。(それ以前の問題としてマスコミの呆れるばかりの程度の低さというのはありますが、ここで議論してどうなる問題でもないので割愛します。)

しかし、もう一つ気になる点があります。それは、こうした現状に対して、積極的にメディアに仕掛けていくフェミニズム/ジェンダー研究者、男女共同参画論者が、彼ら以外ほとんど見られないように思えることです。「フェミニズム/ジェンダー論は、その成果を十分に社会に対して還元できていないのではないか」という私の懸念は、どうやら当たっていたという気がしてきています。これが、上に挙げたようなメディアを巻き込んでの騒ぎを単に「くだらない」と見下して切って捨てて超越的な立場を気取るだけの、悪い意味での「スノビズム」の結果でないことを私は祈ります。

では、どうすればいいのか。私には今、具体的な提言をできるほどの力はありませんが、その代わり、問題の所在を明らかにするべく一つの試論を展開したいと思います(筆者多忙のため、掲載までは当分掛かりそうです。ご了承のほど 2000.4.24)。ここでは要点だけかいつまんで述べてみます。

実は、「働けイデオロギー」も80年代中葉の均等法施行前後までは非常に有効な政策手段だったと、私自身も思うのです。しかしそれは、受け皿としての機会の均等を実現するための、ある種「方便的な政策」であったと割り切る必要があったのではないでしょうか。「働けイデオロギー」は表向きの制度がある程度充実したことにより、その役割を終えており、今は新たな政策手段や運動を模索、推進すべき時期である思います。しかし残念ながら、一部の論者や公的機関の考え方に、このスタイルの残像が根強く残っており(たとえば、林氏も槍玉に挙げている東京ウィメンズプラザの、ジェンダーチェックのページでの得点に対するコメントの硬直さ加減のように)、それが男権論者のみならず、男女分業に基づいた夫婦関係・家族関係に誇りと愛着を持つ人々の強い反感を買う要因になっていると、私は考えます。

本当に望まれているのは、男女ともすべからく働くことそのものではなく、各人が様々なあり方を選択でき、そういった様々なライフスタイルで働きまた家庭を持つ者同士が(そして持たない者とも)、いがみ合わずに隣り合って暮らせるような社会的枠組みを作ることであるはずです。これ自体は非常にユートピアンな考え方に見えるかも知れませんが、そうした遠い目標を常に視野に入れた上で、これと現実的な政策手段とを混同せず、しかも両者を関連させながら考えて行くことが、今フェミニズムを巡って起こっている論戦の不毛を越えていく唯一の方法ではないかと思います。

(2000.2.1) 

 

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