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『父性の復権』を読む。

 

1 はじめに

通して読んで思ったこと: この本に乗せられて「そうだ、そうだ」と頷いてたオトナの皆さんは、以下の読書メモを読んでちょっと反省してほしいです。本当に。

そのくらいに論理の飛躍や論証不足が多く、敢えて意図的にしたと思われる誤用や誤認すら含まれているものだったので、...整理するのにとても骨が折れました。ポキポキ。

でも、こういうことはきちっとしておきましょう。話が長くなりそうなので、ちょっと乱暴ですが、チャート式にまとめてみました。インデックスがわりにご活用下さい。

(以下、文中でページ数を添えた箇所は本書よりの引用)

論点

林氏の主張

実際に読みとれるもの

評者コメント

父性の進化論的根拠

・父性はゴリラやチンパンジーの父性行動を遺伝的に受け継いでいる

・父親は家族の成立当初から存在した

霊長類学の我田引水的な解釈により、類人猿の父性行動のうち、自身の考える父性に都合のいいところだけを切り貼り

・父性行動と父親の存在とを(意図的に?)混同しています

・進化論的根拠は全く非科学的、むしろ社会ダーウィニズム的で危険

父性の条件

・父性は構成力を育む

・父性は良いリーダーシップにつながる

構成力の必要性については説得力あり、だがそれと父性との関連づけは疑問

構成力とかリーダーシップとか言えばいいので、何も父性などと名づける必要はないのでは?

「健全な権威」と権威主義

・健全な権威の回復が必要

・権威への盲信を生み出す権威主義とは違う

・父親は等身大の権威に満足することが重要

・「健全な」権威にも権威主義への萌芽がある懸念

・一方で、父親は無理をしても理想を追求すべきだと主張

結局、権威という考え方は権威主義につながります

規範と規範意識

・規範を守らせること自体ではなく、何らかの規範が社会にはあり、守る必要があるということの教育が重要

・母性原理では個別のルールを教えるが、それでは規範意識は育たない

・挙げられた事例を見る限り、一方的にルールを押しつけたいとしか思えない

・ルールをとにかく守らせることで規範意識が出来ると考えているらしい

・そういうやり方では規範意識なんて育たないのでは?

・言われたとおりルールを守ることより、論理的に思考し、言葉で表現・解決する技術の教育こそが重要では?

父性と父親

父性は父親が担うべきとは限らない、父性役割を果たす存在が必要

父親のなかに父性を復権させるとの主張が満載、男女役割分担について固定的な考え方を露呈

・アリバイ的な主張は感心しません

・性差についての根拠も個人的な偏見でしかなく、説得力なし

 

2 父性の根拠と、その危ない論法

まず林氏は、父性は類人猿からの進化の過程で獲得された、生物学的な基盤に立った性質だという主張を展開しますが、そもそも類人猿は独自の複雑な社会を持っている上、人間と枝分かれしたのも数百万年の昔に遡ります。そんな昔に、類人猿が今と同様の父親役割を持っていたかどうかなんて、神のみぞ知るです。

確かに、ここで紹介されているゴリラやチンパンジーの父性行動は大変に興味深いのですが、それがどう人間につながるか、という部分の林氏の論法がちょっと問題です。

まず、この部分の論証に彼が引用している文献は、たったの1点、霊長類学者・山極寿一氏による類人猿の父性行動の研究書のみ。それだけでもすでに頼りない感じですが、しかもその引用内容から判断すると、山極氏自身がこれを人間の父性行動の祖型として論じたものではなさそうなのです。以下はゴリラの父性行動を概観したあとの一節です。

山極氏は「オスが身体の接触をつうじて幼児と親密な行動を持つこと」、すなわち「(中略)授乳以外の母親が行うすべての行為が含まれている」としている。(中略)しかしそれは母親の代わりの行動、ないしは母親を助ける父親の行動と言うべきであって・・・(中略)「父性行動」と呼ぶよりは、「父親による母性行動」と呼ぶほうが適当であろう。(P.17)

つまり林氏は、山極氏の記述したゴリラの父性行動から恣意的にある一部分を切り取って、それを「父性行動」と呼んでいるのですが、さて、なぜそう呼ぶほうが「適当」であるのか。それは林氏の独断以上のものではない訳ですが、彼はこれを前提に論を先へ進めてしまいます。つまり、ここで彼のいう「父性」というのは、結局のところ彼自身が個人的に考える父性の条件に過ぎない、ということです。

また、「父性」に関する進化論的な根拠についての林氏の主張も、科学的な根拠は薄弱、悪く言えば「電波系」のお話です。

おそらく初期人類は、このチンパンジーやボノボの、オス同士の敵対関係を和らげ協力を可能にするという性質を遺伝子の中に取り込み、それとゴリラなどの父性とを結合することに成功したのであろう。(P.21)

遺伝子の中に取り込み...って、どうやって? 思わず目が点になりましたね。大体、獲得形質(生まれながらに持ってはいなかったが、成長し生活する中でその個体のものとなった性質)は遺伝しない、というのは、生物学の常識でしょう。他の動物を見て学んだことなんて、なおさらです。もしここで述べられているような、異なる類人猿の「父性」の結合が仮になされていたとしても、それはあくまでも遺伝とは関係なく、社会的に成立したことでしかありえないし、その成立過程を立証することは不可能でしょう。

ついでに言ってしまうと、進化論をこのような社会行動(動物行動学も含め)に適用することが、骨相学〜犯罪人類学などと結びつき、のちにナチズムを支える優生学思想を生んだとうことは覚えておいていいと思います。ここで展開されているのは、社会ダーウィニズムの焼き直しであり、その先に連なっているのは選別・差別の思想です。ここから、「父性/母性の欠如した男性/女性は、遺伝的に劣った存在である」などという民族浄化まがいの言説までは、あと一歩です。

スタートからしてこのような論法なので先行き不安ですが、何はともあれ「父性とは何か」についての林氏の説をたどってみましょう。

 

3 父性の条件って...

ともあれ、林氏の考える父性の条件から始めてみましょう。まず彼は、専門の心理学的知見を活かして、子供の社会化(母子結合からの分離と自立)のためには、他者たる父の存在が必要であり、それが「構成力」、つまり世界を秩序立てて把握・理解する能力を育てると主張します。

この部分については、専門だけあってその論証にも説得力があります。但し、ここで出て来る「父」という存在はあくまでもメタファであって、実体としての父親そのものを指すわけではないことは、読む側として注意しておく必要があります。ここで言っていることの本質は「母からの分離と社会化」のためには「他者」が必要だ、というだけのことなのです。もちろん、それを「父」で表象するのは、それが子供にとっての初めての「他者」として立ち現れるケースが多いからですが、それは「父でなければならない」という意味ではありません。

にもかかわらず、林氏はあくまでも「父の重要性」に力点を置くのですが、自説の中ですでにその矛盾を露呈してしまっています。

(「風景構成法」による実験結果に基づいて)...これは平均して小学校の真ん中くらいで構成力が出てくることを示していると思われる。じつは人間は十歳くらいで大脳皮質が急に発達するので、そのことと構成力の発達とが密接に関係しているものと思われる。(P. 57)

構成力のあるなしに父親のあり方が決定的だと言ったが、しかし母親の構成力もまた大きく影響する。...(中略)前項で出した例(引用者註:定職がなく家でだらだらしている父親の影響で、子どもの構成力が育たないケース)では、母親は父親と離婚し、その後母親の構成力が健全に働くようになって、子どもはしだいに普通の子どもなみに生活秩序を身につけることができるようになった。(P. 57)

ここにはいくつかの問題があります。まず、構成力は生理学的な発達に関連しているらしいということ。そして、子どもに構成力をつけるのは別に「父親でなくても構わない」こと。もっと踏み込んで言えば、この「構成力」の問題を、父性という概念と結びつける必然性は何もないということです。

「父性の条件」を林氏は挙げています。何だかもはやむなしい気もしますが、目次によれば次のようになっています。

1 まとめあげる力 / 2 理念、文化の継承 / 3 全体的、客観的視点 / 4 指導力 / 5 愛

「愛」とは(笑)。こういう水戸黄門の印籠のような項目は特に意味を持たないので、まあ置いておくとしても、他の項目も別に「父性」を持ち出さなくても十分伝えることのできる要素ではないでしょうか。特に、指導力のところで「八甲田山 死の彷徨」の例を持ち出して父性の有無で結論づけるくだりなど、牽強付会の最たるものでしょう。

ともかくこれらの徳目を伝えるため、父には権威がないといけないのだそうです。彼の言う、権威主義でない「健全な権威」とは、ではいかなるものか。検証してみましょう。

 

4 健全な権威、って何?

健全な権威でない「権威主義」とは、林氏によれば「相手が立派でもないのに立派だと勘違いして尊敬したり、あるいは自分が立派でもないのに権威を持っているかのように振舞ったりする」(P. 128)ことだそうです。では健全な権威とは何かというと、

権威とは、その持ち主が能力や人格の上で他人より優れているがゆえに、他人を自発的に心服させ、また従わせる力のことである。(P. 122)

なるほど...と思う前によく読んでみて下さい。これ、要は「権威ある人」の言うことについては、その内容如何ではなく、その人への信頼ゆえに従う、という意味ではありませんか。権威に盲従する「悪しき権威主義的態度」への萌芽は、既にして「権威」についてのこうした定義づけに内在していると思いますが、どうでしょう。

そもそも、「父性」として挙げられた徳目(って旧い言葉ですが、これ以上にふさわしいのを思いつかないのでこれを使います)を実行するのに、権威を伴う必要があるんでしょうか。要は説得力があればいいのであって、それは論理的な構築力とか、明晰な言語とかのほうがずっと重要だと思うのですが。大体、「この人が言うことだから」などと権威に従ってしまう人とはお友達になりたくないです(笑)。それは決して「社会化」されたオトナではない。

話を戻して、林氏はどのような形で権威をもって子どもに接するべきとしているのか、少し見てみたいと思います。

子どもの反抗に出会ったときに、親が自らの権威にこだわって、権威を無理に維持しようとして権威をふりかざしたり、逆に卑屈になって権威を全面的に放棄したりすると、子どもは権威に対して過度に反抗的になったり、逆に権威というものを一切信用しなくなったり、あるいは誤った権威に盲従したりして、健全な自我同一性を獲得できなくなってしまう。(P. 127)

なので親は「自己の実力に見合った等身大の権威に満足する」べきだと言うのですが、ならば「健全な権威」を声高に称揚することは却って逆効果でしょう。これは、彼が前書きで「父性の理想を語らなければならない」(P.9)と言っているのについても言えます。こうしたことを真に受けた親たちが背伸びをしてしまうことは、容易に想像できます。本当に「等身大の権威」が望ましいなら、彼の示す方法論は間違っていると思われます。

いえ、林氏自身、本当に「等身大の権威」とやらを望ましいと思っているのか、それ自体疑問なのですが、この件については後述します(「6 父性≠父親? あるいは男女役割固定論のアリバイ作り」)。

 

5 規範と「規範意識」のあいだに

父性が権威を持ち、次の世代に文化を伝える(って、他人の見解の写し書きなのに、書いててイヤになってきました)ための重要な仕事の一つとして、林氏は規範意識の教育を説きます。では「規範意識」とは何か。彼はこのように書いています。

文化の具体的なあり方や規範の適切さは時代によって変化するものであるから...(中略)父自身が主体的に規範と関わりを持って、新しい事態に柔軟に対応すべきである。しかし(中略)時代によって変化しない基本的なルールはきちんと守らせるという原則はあくまでも貫かなければならない。
個々のルールを守ることよりももっと大切なのは、社会には一定の規範...(中略)言うなれば何らかのルールが必要なのだという感覚、秩序感覚を子どもに教えることである。(P. 63-34)

規範意識が必要、という部分には、私も個人的には同意しますが...何だか胸騒ぎがしますね。果たして時代によって変化しない基本ルールとは何なのか。そんなもの本当にあるのか、ということも含めて、彼の書いていることを追っていくと、

原理のなかでいちばん大切なのが「善悪」の原理である。母性による「しつけ」は個々の行為について「よい」「悪い」を注意するが、そもそも世の中にはして「よい」ことと「悪い」ことの違いがあるのだという原理を教えない。(中略)また万一「よい」「悪い」の区別を教えたとしても、その基準がただ「他人に迷惑をかけない」「他人を傷つけない」というだけなので、礼儀やマナー、あるいは「美しい」とか「他人に不快感を与えない」という基準は考えられなくなってしまう。(P. 4)

などとあります。はてさて、他人に迷惑をかけないとか、他人を傷つけないという考え方は、無原理無原則なんでしょうか。それは公共性の最も基本の部分ではないかと思うのですが。少なくとも、個人を前提とした社会においては、各人が各自の最大の幸福を追求する以上、利害の衝突は必至なわけで、それを調整する最も基本的なポリシーがこれらの考えには含まれているはずです。それに、「美しい」って何? 誰が決めるの? それこそ時代によって変わるでしょう。「他人に不快感を与えない」というのは、迷惑をかけないという発想の延長上にあるもので、これだって時代の影響は免れ得ないと思います。そういう要素を「原理」だと言い切るのは、単に自分の嗜好を押しつけたいだけですね。

しかし林氏のこの点に関する議論はこれにとどまらず、校則を題材にこれでもかと押しまくります。

(神戸の女子高校生校門圧死事件について)問題の本質は、良い校則か悪い校則かということではなくて、校則というものそれ自体が必要なのか不必要なのかということである。その問題を押し広げれば、世の中にら秩序やルールというものが必要なのか不必要なのかという問題になる。(P. 144)

校則が必要なら、どんな校則も守なければいけないってことになるんでしょうか。それではまるで軍政ですね。

(髪の毛の長さとかスカートの長さを)規制をしなければならないと思う先生の側の言い分にも一理ある。というのは、先生方としては、服装の乱れは不良の始まりであることが多く、その乱れを許しておくと、規律の乱れがだんだんとひどくなって、学校全体の秩序感覚が乱れてくるものだからである。(P.162)

「不良」よばわり自体、はなから生徒のポテンシャルを信じていない証拠で、そういう不信の眼差しが却って反発を大きくするということに気付いていないんでしょうか。事ここに至る迄には、こういう教師と生徒のイタチごっこ的な、複雑ないきさつがあったはずなのに、それを全部すっ飛ばして「だって生徒が悪いんだもん」と大のオトナが言うなんて、情けない。だいたい、若い世代の異装なんて今に始まった話ではありません。同じ理屈で是非蛮カラを説明してほしいものだと思います。

(校則を守らない生徒の)親のほうは個々のルールを問題にするが、学校側はルール一般を守ることを教えようとする。(中略)親が規則やルールやマナーが大切だということを子どもに教えておけば、個々のルールに問題があっても、子どもがそれほど不適応を起こすことはないのである。(P. 163)

それこそ、林氏自身の批判するところの「権威への盲従」ではありませんか。何だかなあ。

彼の議論は結局のところ「規範意識を身につけさせるには、まず規範を守らせる」という考えなのですが、未就学児じゃあるまいし、納得行かないものを守る訳がありません。むしろ、私個人の見解としては、徹底的に言葉によって規範を考えるような訓練が必要なのではないかと思います。それは、「キレる若者」の問題にも関連します。「キレる」という現象は裏を返せば、その前段階に言葉によって解決するプロセスが全く抜け落ちている状況だと理解できます。これは、言葉による解決をよしとしない日本社会の特質も問題でしょうし、またそのような訓練を成人までに受けていないことも問題だと考えられます。本当に「権威への盲従」が問題なのであれば、彼の唱える方法論は全く目的に合致していないと言えるでしょう。

 

6 父性≠父親? あるいは男女役割固定論のアリバイ作り

この点については、ここに最高によく書けた書評があるんですが、ここでも簡単に触れておきます。まずは「父性、必ずしも父親ならず」という林氏の主張を。

...父性については、基本的には父も母も両方が持たなければならないと考えている。(中略)だから私は父親の役割とか性質と言わないで、父性という抽象的な言葉を使っているのである。もし読者の中に、父性は父親だけが持つべきものだと理解した人がいるとしたら、それは大きな誤解だということを、ここでとくに断っておきたい。(P. 206)

本文も間もなく終わりになって、こんなこと言うのもどうかと思いますが、まあ仮にそうだとしましょう。ふむ...ではどうして、この本の主張を支持する人に、父親の存在感を取り戻すべきだと躍起になる人がこんなに出てしまうのだろうか。

「父が父でなくなっている」という、もはや有名な書き出し(P.1)。しかし、この一文がすでに「父の中に父性を復権させることを目指している」ということを高らかに宣言してしまっているじゃないですか。で、それは林氏がうっかり誤解させるように書いてしまったのかというと、そうでもなさそうなんですね。先の引用の直後に、彼はちゃっかりこんなことも書いています。

もちろんその性質を父性と名づけているということは、父性を体現する者は父親がなるのが適切だという考えがあることは確かである。(P. 207)

「そう考える根拠はすでに述べた」とのことなので探してみると、

父が中心にふさわしいのは、ひとつには生物学的に見て、男性が体力を持っているからである。それに加えて男性が女性よりも精神的な力を持っているかどうかは、微妙な問題であり(中略)しかし偏見と独断と言われることを承知で言えば、私の見聞によれば女性より男性のほうが平均して抽象的能力はすぐれていると思う。(P. 26)

などと書いている。後半は言うまでもなく偏見(笑)であって、後天的な諸要因を全く度外視している噴飯ものの推論ですが、前半も果たして科学的にどうなのか極めて疑わしいものです。瞬発力では男性が優れているが、持久力は逆という見解もありましたっけ。何をもって体力と言うのか。殴る力が強いから家族の中心たりうるなど、「父性の権威」どころか単なる恐怖政治です。

また、その少し先の「価値のシンボルとしての父」という節では、

シンボルには重みが必要であるが、母のように身近で日常的な世話をやく存在はシンボルにはなりにくい。少し遠い存在であり、子供から見て大きく見え、権威のある存在でなければならない。(P. 27)

と述べていますが、要は、家事育児のこまごまとしたことは母親に押しつけたいので、適当に言い逃れしてるだけです。もしそうだとしたら、林氏が人間の父性の源流の一つとして見ているゴリラの父性行動に含まれる「日常の世話」はどうなってしまうんでしょうか。ちゃんと考えて物言ってますか、林先生? ここまで言っておきながら、

一つだけ誤解のないように断っておかなければならないことがある。一家の中で父と母である夫婦はもちろん完全に平等でなければならない。(P. 28)

などと断られても、「誤解」するしかないじゃないですか。

この一連のスレッドで明らかになるのは、結局のところ林氏はかつての父親の権威を回復したいだけであって、ただそれを「父性」はじめさまざまな概念を用いて巧妙にカムフラージュして言ってのけている、ということです。最後にこの偏見に満ちた差別的な(もちろん科学的な根拠なんてないに等しい)彼の性差観を見て、締めくくることにしましょう。

...精子を与える側の男性は積極的、能動的なのに対して、精子を受け入れ子を宿して産み育てる女性は消極的、受動的である。この性行動の差が男女の心理的な性質の差にも影響を与えているものと思われる。
さらに...(中略)家族が成立したときの関係は、母が子どもの世話をし、父が母子を保護し食糧を確保するというものだったことを反映して、心理的に男性のほうが攻撃的で積極的なのに対して、女性のほうが平和的な優しい性質を持つようになったのは当然である。(P. 42、太字は引用者による強調)

この間、一切論証も引用もありません。中でも特に、太字で強調した部分は全く生物学的・歴史学的根拠がありません(「育てる」ことは女性の生物学的な特性ではない。また、家族が成立したころの人類は大家族で、狩猟が困難だったため全員総出で狩りを行っていたという報告もある)。心理学者の肩書きで、個人的な見解をこんな科学的な装いで語ってしまうこと自体、「誤った権威に盲従」する人を前提にしてると思うんですが。どうか皆さんもだまされませんよう。

 

(1999.11.26)

 

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