聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2002.03

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★は借りた新着、☆は新規購入。

今回論評したディスクなど:
Enya: A Day Without Rain / Ivan Lins: Jobiniando /
森山良子「さとうきび畑」について(補足) / モーツァルト劇場 スプリングコンサート /
ソナチネアルバム1 / Everything But The Girl: Idlewild

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Enya: "A Day Without Rain" (WEA, 2000)★

"The Memory Of Trees"(Reprise, 1995)以降、ポストEnya的に多数出て来た「癒し系」シンセサウンドと変わらなくなってしまった感があって聴いていなかった。確かにこの盤も音作り的にはその線(Carl Jenkinsとかと通じる)なんだが、Enyaのボーカルがソロで歌う部分が、そのテクスチャに対して微妙な差異を波立たせる。多重コーラスでは抑制されて決して表面化しない、彼女の歌の「コブシ感」が、彼女の音楽に辛うじて残された存在証明となっている。

それにしても、確かに"Shepherd Moon"(WEA, 1991)の頃までは維持されていた、バックトラックでの「コブシ感」---それは声のコブシに対するコール&レスポンス、のようでもあり---は、何故その後影を潜めてしまったのか。マーケティング? マーケティングが差異化であるとすれば逆行してると思うが、どうか。

Ivan Lins: "Jobiniando" (Abril, 2001)☆

半分ほどはJobim作品を採り上げ、残りは自作他作含めてそのテイストの延長上にある作品を、コンテンポラリーなボサノヴァアレンジでまとめた佳品。どうにも、しっとりしすぎてて「Ivanも枯れた?」なんて不安も一瞬よぎったりするのだが、4/30のライブの歌声を聴く限り、これは振れ幅の中の一つの場所に過ぎないのだと思えたので一安心。'Samba Do Aviao'など実にぐっと来る出来だし、'Vivo Sonhando - Triste'のメドレーのエンディングには意外な引用があったりして、遊び心もなかなか。上質の一枚。

森山良子「さとうきび畑」について(補足)

これを聴いてから、ニュース等でいくつかの「反戦歌」を耳にする機会があったのだが、それらはどれも「反戦歌としてあらかじめ意図された歌には素直に感情移入できない」という私自身の感じ方を再確認させるばかりだった。

しかし、それらと「さとうきび畑」は、何がどう違うんだろう。

実は、近年新たに作られた多くの反戦歌は、どこか「さとうきび畑」を一つのモデルとしているような気がしてならないのだ。それでいて、何か違う。

曲としての出来不出来はもちろんある。だがそれにプラスして、歌詞のありようが大きく影響を与えていることは間違いないと思う。

正直、私も「内容より表現のスタイルにとらわれる」悪しき現代人なので、大仰に悲痛な叫びを聞かされると「勘弁して」という気持ちになりがちだ。新旧多くの反戦歌の歌詞が私を引かせてしまう理由が、こうした表現方法にあることは否めない。ああ、本当にヤな奴だなあ私。

ところが、「さとうきび畑」の歌詞にも実はそうした「あられもない」剥き出しの叫びが出てくるのだ。終盤、見ることのかなわぬ父を呼ぶ部分。なのになのに、私はそこで我を失って歌の世界にズブズブにはまり込んでしまったのである。なんで?

で今、冷静になって考えるに、この歌の10分超という長大さに、その秘密があるように思うのだ。前半、延々と、淡々とした、むしろ抽象的とも言える表現(「あの日 鉄の雨にうたれ...」など)で、沖縄戦の惨劇の輪郭を描き出していく間に、聴く側の心の準備が出来ていく。但しそれは、具体性によって感情の根拠を説明しようというアプローチではない。むしろ、それは終盤で噴出する感情が、さらっと表出できるようなものではないことを、ただひたすら示しているように思える。だからこそ、直接的な表現を避けた歌詞が連なるのだ。吐露するに躊躇うような感情を、敢えて口に出すまでの、抑制の時間。

こんなことを作者が考えて作った訳ではないかも知れないが、聴く者にとってこの歌を特別な曲とさせているモノがあるとすれば、奇しくも実現されたこの「感情的リアリティ」なのだろうと思う。

モーツァルト劇場 スプリングコンサート (2002.3.17、日本橋公会堂)

2部構成。前半はピアニスト久元祐子氏によるレクチャーコンサート、モーツァルトの楽譜の余白(当時は本人が即興演奏で埋めたと思われる)をどう弾くかをテーマに。当時の演奏慣習や楽譜出版上の慣行を紹介し、またモーツァルト自身がどう弾いたかを他の譜例などから類推して、さまざまな演奏例を紹介。久元説では、モーツァルト自身は華美な即興を好まず、ワンポイント的に華麗なパッセージをあしらったフレージングを行ったであろうと推測。テクニックはピカイチだけれどそれに溺れずストイックな美学を貫く「自作自演屋」、今日生きていればミュージカルから自身のコンボまで幅広くこなすジャズ系ピアニスト/コンポーザーといったあたりか...と、生き生きとしたモーツァルト像が浮かび上がる。

後半はアリア集、モンテヴェルディ、ヘンデルそしてモーツァルト。こうして聴くと如何にモーツァルトのオペラの書き方が独特の位置にあるかが窺い知れる。いわば「人間の歌」、ひたすらおしゃべりの楽しみがそのまま旋律になったようなアーティキュレーション。それに対し、モンテヴェルディの流れの行き着く先とでも言うような、ヘンデルのグランディオーゾな天上の歌もまた、別の意味で歌の悦びを伝えてくれるのだが。総監督の高橋英郎氏はモーツァルトの歌への愛着を語るが、私としては二通りの全く異なる歌の楽しみをいずれも堪能させてもらえたことがこの日の収穫だった。
なお、アリア集の途中で、ヘンデルの有名なラルゴ(オンブラ・マイ・フ)が、別の作曲家のアリアのパロディであることの解説とともに、元歌と比較実演してくれたのは得難い機会だった。バリトンの牧野正人氏が一節歌ったあと「(こっちも)結構いい曲ですね」と茶目っ気たっぷりに付け加えたが、同感!

ソナチネアルバム1 (全音版)

モーツァルト劇場のコンサート(上述)に行ってきた影響で、久々にひもといてみたら、まあ指の回らないことにショック。というか、分散和音とかスケールとか、一応弾けるのだがムラがあってとても他人様にお聴かせできたものではない状態。逆に言うと、そうした基本技術をきっちり身につけることができる上に、かわいらしい(時にビックリするほどドラマティックな)佳品に満ちたこの曲集は、非常に優れた教則本だということになる。

これを練習してたのは小学生当時だが、並行してやらされていたツェルニーの100番というのが、苦痛で苦痛でしょうがなかった。これのために何度もやめようと思ったくらいだ。何故苦痛かというと、面倒くさいばかりで曲としての面白みがないから、ちゃんと弾けたところで達成感がまるでないのだ。一方、ただ指のエクササイズというのであれば、音楽であることを完全に捨てて機能強化に徹した「ハノン」というスグレモノがある。今になって個人的に思うのは、エクササイズ1点、実技1点あれば教材は十分ではないかということだ。丁度、アスレチックジムのメニューがマシンエクササイズと実技(水泳とかエアロビとか)の組み合わせから成っているように。

Everything But The Girl: "Idlewild" (Blanco y Negro, 1988)

彼らのキャリアの中では地味な印象で捉えられがちなこの盤だが、時々しみじみと聴いてみたくなるのはこの抑えに抑えた「たたずまい」なのかも知れない。ボサノヴァの「感触」だけを取り出して、打ち込みと声とで再構成した感じとでも言うか。'Goodbye Sunday'には当時流行ってたGo-Goのリズムを採り入れているというのも解説に書いてなきゃ気付かないくらいに、微細なゆれ。



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